罪を犯した子ども

「父上」
「ああ、来たのか。かけなさい」
 父の書斎はセシリオのそれよりも大きいが、雑然とした感じは否めなかった。研究所の彼に与えられた部屋を思えばこの惨状も諦めることしかできないのだろう。部屋への立ち入りを禁止されている使用人たちを憐れみながら、セシリオは父の指す革張りの椅子に腰掛けた。
 大きく開け放たれた窓からは冷たい空気が風とともに流れ、部屋の中に充満した本特有の匂いを蹴散らす。何日留守にしていたのだろうとぼんやり思いながら、机の奥にある椅子に腰掛けた父を見やると、彼は葉巻に火をつけたところだった。父が研究所に行ってから、吸ったところを見たのはこれで二度目だ。ただでさえ不健康な容姿がより一層やつれて見えると皆に忠告され、吸うのは控えていたはずなのにと思う。咎めるような視線を向けてしまっていたのか、父は苦笑した。
「悪いな」
「辞めたのでは?」
「この話の時くらい、吸ったって構わないだろう。嗜好品もだめか?」
「父上のしたいように」
「冷たいな」
 はんと鼻を鳴らす。父は笑った。


 先に気がついたのは、セシリオのほうだった。向こうで友人だろう年若い少女と連れ立って歩くすらりとした青年は、彼からすれば道の先にいるのだろうセシリオが立ち止まったことに気が付き目を上げる。そしてセシリオの顔を見ると、まるで鏡のように形を変えていった。言いようのない不安のにじむ表情へと徐々に変わっていくのは、きっとセシリオも同じ顔をしているからだ。スラン、悪いと呟くとグリファスはこちらへと足を運ぶ。色違いの両目はセシリオをその場に押しとどめさせるのには的確で、口には出さぬとも兄と慕う友人を見上げ、セシリオは唇をきっと引き結んだ。これをこいつに伝えるわけにはいかない。
「よう、バレリエーレの小僧。すげえツラになってるぞ」
「お前はいつも通りだな」
 皮肉ではない声音にグリファスは片方の眉根をきゅっと吊り上げた。そして一歩セシリオとの距離を縮めたかと思うと、がっしりとした大きな手に左腕を掴まれる。二人の影になって誰からも不躾な態度は見つかってはいないが、それもまた時間の問題だった。グリファスの低い声がいった。
「聞きたいことがある」
「僕はお前に言うべきことなど何もない」
 手を払おうと腕を捻るがグリファスの手は剥がれなかった。スランと呼ばれていた少女が遠くからやや心配そうにこちらを見ていることに気がついてはいたが、セシリオにはどうすることもできない。ただ真横に立つグリファスの顔を見上げることしかできることなどない。
 色の違う淡い両目が、漣のように揺れていた。チェスカと見たあの日の海のように。
 もう、戻ることはできない。
「女王のことだ」
「リフ」
「なんだよ」
「僕の家に来い。外出許可はもらってやる。明日だ。忘れるなよ」
「おい!」
 強く握られた手首を見つめ、歯痒く思う。痛いと訴えるには丁度いいはずの強さは、そのままグリファスという男の感情だ。首輪さえ外せばどこまでもどこへでもこの国にいるたったひとりの女王のために馳せ参じるこの男の、真実だ。だからこそ悔しい。セシリオには、彼に手を差し伸べることさえできない。
 自分が望む世界は、自分だけのものだから。
「離せ。闘鳥風情が僕に触れるな」
 吐き捨てた声は氷柱のように冷たく、けれど細い糸のように弱かった。舌打ちが喉の奥で嗚咽と似た音を響かせて、目頭が熱くなる。何もできないのは、本当は自分だ。何も、何もできやしないのは、自分だけだ。
「……なんだと」
 目を射抜く。色違いの意思の篭った両目を突き刺す。緑の氷像は宝石に変わることができない。
「リフ、離せ」
「このクソガキ……」
 答えろと訴える声が耳を掠めた気がした。唇が痛い。噛み締めたそれは、今はきっと白く見えるのだろう。
 また言葉を発しようとしたそのとき、穏やかな声が耳に飛び込んできた。
「あれ、バレリエーレの当主様じゃないか。どうかしたのかい?」
 ぱっとグリファスの手がセシリオの腕を放す。振り返った青年はおそらく何も考えぬままとっさの行動で、セシリオを背に庇うように立った。それが闘鳥だからなのだというのなら、あまりにも悲しい話だ。
「シュライク」
「スランちゃんが慌てて呼びに来るから何事かと思ったよ。リフくん、大丈夫かい?」
「シュライク、俺は」
「リフ!!」
 何かを口走りそうになるグリファスの腕を今度はセシリオが掴んだ。ぱしりと手を掴む音が思いのほか大きく無機質な廊下に響く。グリファスの奥にいる相手がシュライク=ホロンだということは声を聞いてすぐにわかった。そしてその近くに彼を呼びに行ったスランという少女がいるだろうこともわかっていた。
 グリファスはセシリオの手を簡単に振り払う。大きな手は当たり前の様に少年の手を振り払う。それはセシリオが子どもだからなのだろうか。何者にもなり得ない子どもだから。
「シュライク、俺、明日こいつの家に行ってくる」
 わずかな失望に言葉を詰まらせたそのとき、グリファスという名前を与えられた友人はそういった。いつの間にか無機質な灰色の床に落ちていた視線をのろのろと引きずりあげると、薄い青の眼差しがちらとこちらを振り返っていた。瞬く間もなくそれはシュライクのほうへと向けられる。
「大事な話があるんだとよ」
「僕はもちろん構わないが……、担当職員から外出許可はもらったのかな?」
「まだなんだとさ。こいついつもはぱっぱか仕事やるくせにときどきどんくせえから」
「リフくん、言葉には気をつけないとダメだろう?」
 嗜める言葉にグリファスはんべっと舌を突き出す。子どもじみた仕草にシュライクは苦笑した。
「でも、僕は構わなくてもちょっと今は厳しいかもしれないよ」
 一歩足を進めると童話の中の猫のように男は笑う。困ったように下げられた眉よりもその目の方が彼は印象的だ。琥珀とも金色とも取れる色素の薄い虹彩が、きゅっと細くなりグリファスを捉えた。
 セシリオの位置ではグリファスがどういう表情をしているかなんてわかりはしない。けれど、ざわりと張り詰めていた空気がよろめき、グリファスに動揺が走ったことは目に見えた。
「リフ」
 鋭く言葉を投げる。青年は振り返らずにわかっているとばかりに軽く頷いた。シュライクは笑みを絶やさぬまま口を開いた。


「革命が始まる」
 ええ、と淡白な相槌を打った。深く紫煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出しながら穏やかに父は目を細める。冷たい空気と混ざり合ってどこか硝煙の匂いと似ている気がした。気のせいなのかもしれない。それとも、ここのところ銃を練習していたから鼻が麻痺してしまったのだろうか。射撃場でわずかに鼻面を顰めた鳥の青年のことをぼんやりと思い出しながら、父の緑の目を見つめた。
「狼煙は上がった。お前が助けたいと願う女王は城の中に監禁されている」
「知っています」
「おそらく城に襲撃をしかけるのは厳しいだろう。エドゥアルト青年は実に直情型だな、もっといい方法があるだろうに」
 くつりと笑う男の顔は、セシリオが今まで見た中で最も冷酷な顔をしていた。さながら政治家のように皺のよった目を細め、うんざりするほど静かな緑がセシリオを見つめ返す。尊敬し、嫌悪し、越えられないと実感させられる男。もし彼が研究所に入らなかったなら、城に仕えていたのなら、現状のようなことにはならなかったのだろう。
 彼が城にいたのなら、今頃この国は女王の盲信者で溢れかえる国になっていたことだろう。
「マルカーニャ子爵はどうだ」
「すでにこちらに寝返りました。研究所に関する采配は、手出しができぬと」
「その方がいい。小物が相手をするには少し化け物じみているからな」
「どうするつもりですか」
 切り返した言葉にセブリアンという男は目をぱちくりと瞬かせ、肩を竦めて笑う。今日の父はよく笑う。毒のような芳香を放ちながら、笑う。
「どうもしない。私には手が付けられないさ。もう少し小さい相手だったなら私にも対処ができたが、こうなってしまった以上は避けられない」
「どうしても、ですか」
 声が、絞り出された布のように萎んでいた。目が自身の手元に落ちていることに気がついて、顔を上げる。呼吸をすることが少し、苦しかった。
 男は笑う。父親の顔をした男は、笑う。
「自分の望む世界を手に入れるんだろう、セシー。惑うな。迷うな。躊躇うな」
 鬼のようなひとだとかつての父を知っていた誰かがいった。目を見張るほど確かな商談をし、圧倒的な社交術で外交を嘲笑い、極端なまでに政治的技能を隠し持つ男だと。神国に昔から伝わる化け物である鬼を指しながら、誰かは父をそう喩えた。
 人の姿をした、悪い鬼のようだと。
 父はセシリオとは違うその眼差しを息子に向けて、口を開いた。


「それで、ここか」
「いやここなら大丈夫だ。父が教えてくれた」
「お前の親父殿は暇人か?」
「かもな。ただの一介の下級研究員なんてそんなものだろう」
 小さな箱。そんな印象の無機質な部屋だった。誰の荷物も置いていない殺風景な部屋。ひとつとってつけられたような窓以外に外光を取り込むものはなく、地べたに座るふたりの少年をぼんやりと浮かび上がらせる。
 革命の狼煙が上がったら、君は家にもいられないでしょう、バレリエーレくん?
 シュライクの言葉にグリファスよりも先に行動したのがセシリオだった。青年の前に立ち、しっかりと琥珀めいた眼差しを見据えながらきっぱりと言い放つ。
 なんのことかわからないですね。世話係は余計なことを口出しすべきではないと、僕はそう思いますが?
 シュライクが一瞬虚を突かれたように目を見開きそしてまた上手に笑うのを見守りながら、セシリオはグリファスを指して男に続けていった。
 でもそうですね、少し彼の時間をいただきます。あなたなら黙っていてくださいますよね、僕の心配をしてくれたあなたなら。
 言外に含まれたニュアンスに気付いたのか、シュライクはやや苦笑すると肩を竦めて背後を振り返った。そしてスランという少女を連れて去って行くのを見守った後、セシリオがグリファスを連れてきたのがこの部屋だ。
 誰もが使用する休憩所のそのすぐ横に、百五十センチくらいの人間が通るにはちょうどいい小さな扉があると知っているのは、それほど多くない。研究所の設計図を拝借する限りではそもそもここに部屋などなく、偶然出来てしまったスペースをとってつけたように部屋にした、そんな印象が拭えなかった。だからこそこの部屋に気付くものなどいないし、気付いたとするならそれこそ所長程度のものなのだろう。子どもの秘密基地のようなものだ。
 グリファスは長い足をぼんと床に放り出し、ふーんと間延びした声を上げる。そこに緊張の色はない。いや、ないように聞こえるだけなのだろう。
「何が起きている。お前が知ってること、教えろ」
 促す両目に応えるべく、セシリオは一度唇を舐めた。どこから話せばいい。どこまで話せばこいつは満足する。どうしても避けなければいけないことを忘れるな、こいつは、ここからは出られない。
 瞼を閉じる。二通の手紙が、脳裏にはあった。
 目を開いた。
「革命が起きようとしている」
「それで」
「革命の首謀者はイルーシェン前王妃の家系の、女王の従兄弟だ。エドゥアルト・ルーニー・ルーデンヴィッヒ」
「お前の寄越した雑誌に名前が載ってたやつか」
「ああ」
 唇を舐める。喉が渇いて仕方がない。緊張からなのだろうか。僕は、緊張しているのだろうか。
 この男に悟られまいと、すべてを知られるわけにはいかないと、泣き出すわけにはいかないと、緊張しているのだろうか。
 自分で考え出した言葉に一瞬息が詰まる。僕は泣き出したいのか? 泣いて助けて欲しいと縋りたいのか?
 わからなかった。わからないままだ。
「研究所は革命には関与しない。鳥たちは常に空に注目させられていて、革命に鳥は導入させられない。従って女王に関する話も情報は開示されないことになっている」
「それは知ってる!」
「落ち着け、まだ話は終わってないだろう」
 語気の荒い口調にぴしゃりと返してからグリファスの目を見据えた。間違えるな。僕が今優先すべきことはこいつに、何もできないこいつに同情することじゃない。
「お前が知りたいのは女王の安否だな?」
「それと革命軍の状況だ。いや、そもそもその革命軍の目的はなんだ。女王陛下を救出して、そのあとはどうするつもりなんだそいつは」
 上唇を噛み締め、セシリオはしばし言葉を閉ざした。グリファスの視線が頭に突き刺さっていることには気がついていたが、容易に言葉は紡げない。簡単なことじゃないのかという無言の訴えに答えるには、セシリオでもすべてがわかっているわけではなかった。
「革命軍の目的は、エディの目的は女王陛下に西の国を返すことにある。前イルーシェン国王による王政統治へ体制を整えて戻そうとしている。現在の官僚政治、それも女王の象徴的統治ではなく、女王手ずからの統治にすべきだというのが彼の考えだ」
「それは!」
 荒げられた声を抑えるために素早くセシリオは言葉を遮った。
「そうだ。それではいずれ愚王が現れるだろうし現れた時の対処ができない。僕が考えているのは王政議会制民主主義だ。民衆によって決められた者による議会政治を行い、それをすべて女王が確認した上で指揮を振るう。女王の手間は笑えるほど増えるだろうが、それも致し方ない」
「陛下を過労死させる気か」
「冗談を言うなよリフ。優秀な宰相が数人いれば女王の負担はそこまでひどいものにはならないさ」
 肩を竦めて微笑む。大丈夫だ、これなら今はまだなんの心配もなく話を終えることができる。わずかに気の抜けた微笑になったことにセシリオは気がつかぬまま、穏やかにいった。
「今エディの元へ着々と寝返った貴族たちが兵士を送り込んでいる。兵士を送り込めない貴族たちは資金を。それに何と言っても南の国から来たドン・オレンゴなる偉大な人物が、信用のおける男を貸してくれてな、いい商売をしてくれそうだ。国のためにならない地下帝国を作るつもりなら潰さざるおえないが、それは僕の知るところじゃない。準備はかなり慎重に進んでいるよ。お前が心配することは何もない」
 グリファスは眉をひそめたままだった。口元に指を置き、じっと何か考え込んでいる。
「お前が宰相になるんじゃないのか?」
 ふと放られた言葉にセシリオは苦笑した。グリファスのまわりを覆っていた痛いほどの緊張感は薄れ、どことなく安堵したような雰囲気がセシリオとの間に満ちる。よかった、まだ大丈夫だ。口にさえしなければどうとでもなる。グリファスには隠しておけるはずだ。
「馬鹿言え。宰相になんざなれるわけないさ、政治的手腕なんてもの持ち合わせていないからな。僕はもっぱら商談だ。ドン・オレンゴともきっとうまくやれるだろう」
 軽い言葉を口にするようにセシリオはからりと笑う。それからしばらくは誰が宰相になるに相応しいかといく人かの貴族の名を挙げていつものごとく討論を繰り広げていた。そうだ、グリファスとの会話はこのほうがいい。政治色は濃いが、本質には触れない話の方が心地いい。そしてそうでないと、グリファスは。
「さぁそろそろ出ようぜ」
 兄貴分の顔を見上げながらセシリオは差し出された手を取った。尋ねるなと何度思ったか知れないことをひたすら念じながら、ああ、と、返した。


 手紙に押された刻印をぼんやりと見つめ、セシリオはペーパーナイフを手に取った。かさりとした手触りは柔らかく、慎重な手付きで手紙の封を切ると、しなりと生き物のようにセシリオの手にもたれかかった。中から白い紙を取り出してぱらりと開く。そっと差し出したときの秘書の男の顔を、セシリオはどうしても思い出せない。
 怯えていたのか、不安がっていたのか。
 初老ともいうべき歳の男をセシリオが把握するなど不可能なことであり、だからこそああと頷くことしかできなかった。
 セシリオの執務室は、暖炉に火が灯されぱちぱちと音を立てている。じっと火の音に耳を傾けながら、セシリオは流麗な文字に目を走らせた。
 手紙は三枚もの長さで成り立っていた。長い間目を落とし続け、さらに何度も読み返したせいでこの数分間で手紙は手脂で汚れが付いてしまった。そのことに気付かぬまま、セシリオはぽすりと手紙を机の上に放り出して、小さな背中を椅子の背もたれに押し付ける。閉じられた瞼の下で、少年の運命は決まる。
「あなたには、この国を導く責務がある」
 セシリオの声が彼以外誰もいない部屋に響いた。悲しいくらい小さな声だった。笑ってしまいたくなるほど少女めいた高い声だった。
「陛下」
 剣だこと火傷痕の増えた指が、セシリオの顔面を覆った。その手は力なく震える。
 あなたを救うために、あなたを信じるために、僕は。
「生きてください」
 何人、この革命で、死ぬのだろう。


「なぁそういえば陛下の今のご様子はどうなんだ?」
 グリファスに父の部屋まで送ってもらう途中のことだった。ひそめられた声に一瞬セシリオは聞き逃し――いや、触れたくない話題だったから聞かなかったことにしようとしたのかもしれない――、端整な顔立ちをした男を振り返った。グリファスは、セシリオの顔を見ると、見る間に様々な懸念を浮かべては消していく。次から次へと変わる色の名前を、今のセシリオならすべて言い当てることができるだろう。そしてその色の最終的な着地点も。
「おい、坊主」
「――なんでもない。陛下は今もつつがなく離宮にいらっしゃる。革命の話に心を痛めておいでだ」
「嘘だ」
「なぜそういう?」
「俺の目を見て話せよ」
 目を見ていなかった。そんなシンプルなことにセシリオは気づかなかった。そうだ僕は彼の目を見ることもできない。がしりと肩を掴まれて揺さぶられながら、セシリオは抵抗することも顔を向けることもできなかった。
「こちらを向けセシリオ・バレッタ=バレリエーレ!!! 俺の質問に答えろ!!!」
 淀みなく、本名をここでは滅多に口にされることのない本名を叫び上げ、グリファスはセシリオの肩を掴んで強く揺さぶる。誰もいない廊下にグリファスの激昂した声は高く響き、耳に痛い。こんな無機質な牢獄に入れられてどうして人間が正常でいられるのだろうか。
 誰かがグリファスの声を聞きつけたのかセシリオの背後の方で足音が甲高く響いた。駆けつけてくる音がますます強くなって行くのに、セシリオの唇は動かない。
「おいこのクソガキ!! 答えろよ!! なんで答えられねえんだよ、なぁ!!!」
「陛下は離宮に監禁されている。彼女はあそこから一歩も出ることはできない。外部の誰とも連絡を取ることはできない!! そうはっきりいえば満足か?」
「じゃあなんでお前は知って」
「全部市井での噂だ。貴族どもは見て見ぬ振りを決め込んでいる!! エディ以外誰も彼女を救おうとはしない!!! この意味がわかるか!!」
 掴まれた肩からバシッと両腕を無理やり引き剥がし、身長ゆえに縋り付いている様にしかみえないことを自覚しながら、セシリオはグリファスの襟首を掴んだ。ぐいと顔を自身の近くまで引き摺り下ろし、驚愕し目を見開く青年の耳に噛み付くように囁く。
「革命軍は今圧倒的に不利だ。革命が始まるのは明日。ここから出られないお前が陛下を救えるだなんて思い上がるなよ」
「――っ」
 怒りでグリファスの頭の中は真っ白になった。乱暴に振り払う長い腕がセシリオの身体を突き飛ばし、いっそ大仰なくらい少年は廊下に音を立てて転がる。グリファスがその一連の流れにいいようのない怒りと動揺を顔に浮かべたとき、セシリオはわずかに顔を上げた。グリファスの腕を誰かが後ろから羽交い締めにして、やめろお前何やってるんだと叫ぶ。白衣の裾がグリファスの視界の隅で揺れた。
 セシリオはグリファスの色違いの瞳を捉えて怨嗟のようにつぶやく。さながらそれは本当の怨みのような音なのに、表情はあまりにも安堵していた。お前を連れて行くことなんかしないと、その緑の目は雄弁に告げていた。
「ふざけるな……っ!!! ふざけんなよてめえ!! このクソガキ!! なんで俺を連れて行かない!! 連れて行け!! ふざけんなお前だけお前だけなんで!!」
 女性研究員がセシリオを立ち上がらせてまるでグリファスから少年を守るように遠ざける。ちらりとこちらを振り向いた成人前の少年は、かすかに笑った。笑っていた。


「チェスカ、僕と約束してくれるか?」
 異母妹は青みがかった長い黒髪をふわりと翻し、少年を振り返った。繋いだ手を満足そうに見つめてからにっこりと笑う。ある晴れた冬の日のことだった。
 異母妹の手は小さく紅葉のように赤い。寒さのせいで鼻先や頬まで赤く染まり、息は白く立ち上る。
「お兄様、それはずるい質問ですわ。どんな約束か何もわからないのに、わたしが確約できるはずがないでしょう?」
「そうだな、失礼」
 くすりと少年は微笑む。まったくもうと笑った異母妹につん、と袖を引かれ、七歳の少女は少年に両手を差し出した。自分より二十センチほども小さな異母妹を抱き上げるのは、昔ほど容易ではない。けれど少年は彼女を軽々と抱き上げてどうしたと顔のそばで囁いた。くすぐったそうに異母妹はクスクスと笑い声をあげて甘えるように鼻先を少年の首筋に擦り付ける。
「それで、お兄様はわたしに何を約束して欲しいのですか?」
「フランチェスカ・バレッタ=バレリエーレ」
 ぽつりと異母妹の本名を少年がつぶやくと、少女は手を止めて真面目な顔でぴたりと少年の目を見つめた。義母に似た青緑色の美しい瞳を少年に向けて、敬虔な顔をする。それはとても義母に似ていた。かつて愛した人にとても似ていた。
「フランチェスカ」
「はい、お兄様」
「もうすぐ革命が始まる」
「ええ、存じております」
「何があっても、僕の言うことに従うと、約束してくれ」
 異母妹の瞳が揺らめいた。じわりと滲んだ水の膜を瞬せて、少女は唇を震わせた。
「お兄様は、チェスカをどこかに追いやるおつもりですか」
 泣くだろうとは思っていた。けれど少年は答えなければいけない。だから少年は彼女の目を捉えながら、はっきりと答えた。
「そうだ」
「どちらへ?」
「それはまだ言えない。向こうに着いたらきちんとした生活を送れるようには手配してある。わがままを言わずに、待っていてくれるか?」
 異母妹が答えるまで、少年には永遠のように感じられた。
 少女はゆっくりと深呼吸し、長い睫毛をそっと横たえらせて瞼を閉じた。
「それが、バレリエーレのためになるのなら」
 涙はこぼれなかった。代わりにぎゅうと抱きついてくる幼い子ども特有の温度を、少年は抱きしめ返す。
 永遠の一瞬だった。矛盾した時間を感じながら、願う。


 そして、革命前夜。
 使用人たちはここ一週間ほどずっと続いている少年当主とその父親との間の怒鳴り声の飛び交う問答を、はらはらしながら聞いていた。今日は特に一段と酷い。
 使用人たちの不安がチェスカには痛いほどわかった。チェスカだってあれほど大声を上げて言い合う兄と父など見たことがないからだ。生まれてこのかた彼らがあんなに険しい顔で言い合いをしているところなんて見たことがない。それでも話の内容を考えれば仕方のないことなのかもしれない。
 チェスカは隣に鎮座してはいるものの落ち着かなげにそわそわしているウルラを見上げ、小さなため息をこぼした。ここにいる誰もふたりの喧嘩を止めることはできない。できるとしたら誰だろう、異母兄の実母マリソルだけだろうか。それともチェスカにも止めることはできるのだろうか。
 いやだめだ、とチェスカは首を振る。だってチェスカが止めようとして、追い出された数はもう片手では数えることができないほどなのだ。
 ふたりはチェスカにこの話を聞かれたくないらしく、しかし速急に結論づけなければならないようで、チェスカが来ると一度言葉の応酬をやめ、取り繕ったような笑みを浮かべる。そのときの表情がそっくりだと、きっとマリソル義母様は仰いたかったことだろう。それでもマリソルではないチェスカは、彼らにそんな怖い顔をするのはやめたらどうなんですということしかできない。一時休戦の体を保っていても、それはすぐに破られる。数分もしないうちに、どちらかが口を開くのだ。
 チェスカ、勉強は済んだのか? ウルラと遊んでおいで。ヴァルに構ってもらえ。
 そしてふたりは口を揃えていう。
「チェスカはまだ知らなくていいことだ」
 チェスカはたった七歳だ。だからこそ知り得なくても仕方ない構わないことがあるということも知っている。バレリエーレのためには、チェスカは持ち前の好奇心を一度休ませなければならない。そんなことわかっている。わかっているから、ふたりの喧嘩を止めることができないのだ。
 はぁ、とチェスカが小さなため息をついたとき、ばさりという音を立てて巨大な黒い翼を持つ青年が居間へと入ってきた。深淵を思わせる深紅の瞳には手に抱えた鮮やかな色とりどりの花を映し、泥のついた紺色の作業着を気にも止めず、そのまま親子喧嘩をする部屋へと当たり前のように向かおうとする。階段に足をかけた時点でぎょっとした使用人が止めなければ、彼はそのまま部屋へ入っていたのではないだろうか。
「ヴァローナ様、だめよ、今セシリオ様はセブリアン様とお話ししているの」
「いけないのか」
「そう、入るのは禁止」
「でも、花が咲いた」
 まるで子どものようにヴァローナが腕の中の花を使用人に見せると、隣にいたウルラが顔を輝かせて立ち上がり、彼の元へと近寄った。きれいだねと笑顔で微笑むウルラにヴァローナも笑いこそしないがこくりと頷く。かちゃりと、扉の開く音がした。
「チェスカ」
 使用人に伴われて姿を現したのは、チェスカの母であるフェデリカだ。兄がよく本邸に訪れるようになってから、彼女もまたぎこちないながらも血の繋がらない息子に愛情を傾けているようにも見えた。柔らかい黒髪はくるくると巻かれて蔦のように身体に舞い落ちる。室内用の身体を締め付けないシンプルなドレスの裾を靡かせて、母は居間へと現れた。
「お母様!」
 今度はチェスカが立ち上がり幼い子どもの通りに母へと飛び付く。抱きついた身体がまた痩せたことには、気がつかないことにした。ただふわりと香る優しい花の匂いに幸せを思う。ふたりが喧嘩をやめてここにいるなら、父が子どもたちごと母を抱きしめてくれたなら、ウルラとヴァローナがわらっていてくれたなら、よかったのに。
 骨のように細い指がチェスカの髪をするすると梳く。か細い声が囁いた。
「またあの似た者親子は喧嘩?」
「ええ、そうですの。今日は特に酷いですわ。だってわたし六分もあの部屋にいられなかったんですもの」
 それは大変だわと母はつぶやいた。階段に立つふたりの仲睦まじい鳥を見上げ、にこりと微笑み母は彼らに声を投げかける。
「つがいの鳥さん、わたしを通してくれるかしら?」
 チェスカが目を見開いたことに気がついていないのだろうか、母はチェスカを放して階段へと向かった。使用人たちは皆一様に困惑を顔に浮かべており、誰もとめようとはしない。彼女なら止めることができるのではないか、そんな期待が匂い立っていることにチェスカはようやく気がついた。
「あ、お母さまだ」
 ウルラはまたも顔を輝かせ母のために階段を降りる。母はありがとうと返しながら階段を上り、ヴァローナの隣に立つと彼の腕の中の花を覗き込んで微笑んだ。
「綺麗な花ね。冬にも花は咲くことができるのね」
 ヴァローナはこくりと頷く。このふたりの鳥を受け入れることは母にとってはとても容易いことなのだと、数週間前にであったばかりであることを思い出しながらチェスカは知った。それならどうして兄を簡単に受け入れてはくれなかったのだろう。
 母は当然のような顔をして親子が争論を繰り広げる部屋へと入って行った。病気がちな母が向かうことにも驚きだが、入った瞬間先まで聞こえていた怒鳴り声がぴたりと止んだことにもぎょっとした。いやきっとぎょっとしているのは当の親子だろう、滅多に口を挟まない母が現れたのだから。
 使用人たちの間に安堵のため息が漏れる。チェスカもほっとして、使用人がいれてくれた紅茶を黙って飲んでいた。きっともうすぐ三人揃って部屋を出てくるのだろう。
 チェスカの予想通り、しばらくして扉は開かれどことなく憮然とした顔のまま兄が出てきた。そのすぐあとに父が現れ、父に付き添うように母が歩いていく。兄は階段に立ったままのヴァローナに気がつくと、虚を突かれたように目を見開いて笑った。
「咲いたのか」
「ああ」
「綺麗だな」
「セーリョ!! ぼくの花も咲きそうなんだよ!」
 ウルラが階段を駆け上り張り合うように兄に笑いかけた。今日はいつも持ち歩いている兄からのプレゼントであれ鉢植えは持っておらず、それを悔しそうにしているが笑顔は変わらない。兄からすれば大きいふたりに囲まれて、それでも兄は妹にするようにふたりの頭を撫でた。なんとなくチェスカは面白くない。
「咲いたら僕に見せてくれるか、ウルラ」
「もちろん!」
 階段を降りるようふたりの鳥を促して兄は居間へと降り立った。チェスカはぷいっとそっぽを向く。子どもじみた仕草だとわかっていても、あまり簡単に顔を合わせたくなかった。なぜか、なぜか、脳裏にいつか見た白昼夢が過ったからだ。
 光の中に飲み込まれる兄。手首は罪人のように繋がれて、だらりと首を垂らしながら従順に従う兄。その隣には誰もいなかった。いなくなろうとしているのは兄だけだった。
「チェスカ?」
 声が耳元でしたと思った瞬間、チェスカの身体は浮いていた。上手に抱き上げた兄の緑の瞳を見つめたとき、チェスカの意志とは裏腹に、はらりと涙が零れ落ちた。
「チェスカ? どうした?」
 慰めるように尋ねる声の温度にチェスカはなんでもないですわと笑う。そんなことにはならない。なってはいけない、なってはいけないのだ。
 居間で珍しく家族全員が揃ったというのにも関わらず、兄はチェスカを下ろすとすぐに部屋へと戻ってしまった。思えば時間もなかなかに夜遅い。案の定父にもう寝なさいと促され、チェスカは渋々従った。ウルラの白いシャツの袖を引くと一緒に寝る? と意を察し、にこにことチェスカを抱き締めて手を繋いで部屋へと向かう。ウルラはときどき添い寝をしてくれる。朝にはいなくなってることもあるけど、人と同じ温かい体温にいつも泣きたくなるくらい幸せな気持ちで眠った。
 今日もきっと眠れると、幸せな気持ちで眠れると、信じていたかった。
 先に気が付いたのはウルラだった。目を覚ましたチェスカを抱き締め、水に濡れたタオルを彼女の口に押し付けると、泣きそうな声で彼女は言った。
「チェスカ、チェスカ、おかしいよ。変な匂いがするんだ」
 はっと窓に視線を走らせるとレースのカーテンの向こうでちろちろと影が踊っていた。いやそれよりも鼻に突き刺すのはまるで炭のような、焦げ臭い……。
 チェスカがベッドから飛び降りて窓へと近付きカーテンを一思いに強引に開くと、窓の外では火の手が幾つも上がっていた。様々な家々に燃え広がりぞっとするような闇を明るく強制的に彩らせている。血の気が引いたチェスカが声も出ず動けないままでいると、後ろからぐいっと強く抱き寄せられた。柔らかいものが背中に当たりそれが誰なのかすぐにわかる。振り返るとウルラは窓の外を険しい目で見つめていた。二十二だという年齢にあう表情で、彼女は外を見つめていた。
「チェスカ、窓から離れないとだめだよ。これ口に抑えてて。きっとセーリョが来るからね、我慢してね」
 いつもの夢見る少女めいた声は変わらないままだった。だから一瞬チェスカは夢なのだと思う。これはチェスカの怯える感情が見せた悪夢なのだと。けれど夢なんかではありえない、だってこの部屋は明るい。火を消してしまったらほぼ何も見えないような部屋なのに、ウルラの森林の瞳が見えた。
「ウルラ、ウルラ姉様、わたし」
「チェスカ!!」
 ウルラの胸に顔をうずめた瞬間扉が強い音を立てて開かれた。真っ黒い翼が扉を塞ぎ、その下からまろびでるように兄が駆けてくる。無論背後にいたヴァローナも兄に影のように従っていたが、大きな黒い翼はぶわりと膨らんだ。深淵めいた赤の瞳は鋭い目つきでチェスカを射抜く。
 駆け寄った兄は真っ先にチェスカの両頬を掴んだ。ウルラの瞳よりも父の瞳よりも、一等美しい緑の目には、チェスカ以外に火がちらつく。ぞっとするほど革命は近くの出来事なのだ。
「チェスカ」
「お兄様!!」
「チェスカ、聞いてくれ」
「セーリョ、早く逃げないとだめだ」
「セーリョ!」
「黙れ」
 ふたりの鳥とそして異母妹を黙らせるだけの力が、兄の静かな声には溢れていた。この声は、あのときの声だ。バレリエーレを襲名したときの、あの。
 兄を見つめる。彼は、当主として、そこにいた。
「チェスカ、僕との約束を忘れていないな」
「……はい」
「ウルラ、屋敷の外に馬車を用意した。使用人が手引きをしている馬車だ。お前たちが乗れば目的の場所に辿り着く。そこでお前が戻ってくるか否かは自分で決めろ。戻ってくるのならこの手紙の中を開けるんだ。戻らないでチェスカと共に生きるのなら、手紙は絶対に開けるな。誓えるか」
 兄はチェスカの頬を包んだまま、ウルラへと視線を走らせる。そわそわと落ち着かない様子なのはヴァローナだけで、この仲睦まじい鳥たちはこうなることを予想していたのかとチェスカは思う。そしておそらくウルラの結論は出ていないのだとも。
 ウルラはこくりと頷いた。ずるいよとかすかに漏れた声に兄は微笑んだ。
「そうだな、僕はずるい。チェスカ、お前はウルラが結論を出すのに邪魔をするな。お前はただ待っていればいい。さぁ鞄ひとつに荷物を詰めて逃げるんだ!!」
「お兄様は? お兄様はどうなさるんですか?」
「僕はまだやらなければいけないことがある」
「お兄様が行かれないのならわたしもいけません!! それにお父様とお母様は!?」
「チェスカ」
 ヴァローナがつぶやいた。彼がわたしの名前を呼ぶなんて珍しいなと思ったチェスカの前で、兄の顔から感情がほろほろと削れて行く。最後にはなにも残ってはいなかった。緑の瞳には相変わらず火がちろちろと揺れていたが、彼自身の瞳に生気があるわけではなかった。いや、この部屋に入ってきたときからずっとそうなのかもしれない。
 チェスカの胸の奥で恐怖が産声を上げた。
「お兄様……?」
「父も母も、死んだ」
「嘘よ」
「嘘じゃない。ふたりは死んでいた。寝室に知らせに行った時にはもう、死んでいたんだ」
「嘘よ!!!!」
「チェスカ!!」
 ウルラの腕の中から飛び出そうとするチェスカを強く抱き留めて、兄は声を荒げた。兄の身体は、震えていた。恐怖に泣き出しそうなほど、震えていた。
「なぜ!? どうして!!! 革命が起きたとしてもお父様もお母様も関係ないじゃない!!! なんでよどうしてお兄様!!」
「ウルラ、チェスカの荷物を詰めてくれ。ヴァル、扉を開けておけ」
「お兄様答えてよ!!!」
 冷静な声でふたりに指示を出す彼の神経が信じられなかった。こんなにも冷徹な人間だなんて、信じたいはずもない。わけがわからなかった。なぜウルラが泣きそうな顔をして立ち上がったのか、なぜヴァルがこくりと頷いて兄の言葉に従ったのか、なぜ兄が答えてくれないのか、何もわからなかった。
 チェスカが取り乱せば取り乱すほど、兄の腕は強くなる。ウルラがチェスカの荷物を詰めて鉢植えを持つまでの間は、叩いても殴っても兄はチェスカを放してはくれなかった。
「お兄様!!!」
 絶叫が喉から駆け落ちる。涙が宝石のように飛び散って、チェスカは初めて自分が泣いているのだと気がついた。
 ウルラが準備を終えて兄とチェスカのほうへと近寄ってくると、兄はやっとチェスカを放した。ウルラのほうへとチェスカを押し出して、ウルラに行けと強い声で命じる。少年とは、思えなかった。
 兄とは、思えなかった。
 ウルラに抱きかかえられ部屋を出るさなかに振り向くと、セシリオは低い声でいった。チェスカには彼の唇が紡いだ文字しか、見えなかった。屋敷の庭の燃え上がる花々も、敷地外の地獄も、安堵したように涙で頬を濡らしながら微笑む使用人たちも、何も見えなかった。そこにいない両親と兄の言葉だけが、チェスカの頭に木霊した。
「僕が、殺した」






「あなた」
 ノックもなく扉が開く。セブリアンが振り向くと、寝間着に着替えたフェデリカが柔らかく笑った。王女のように長い黒髪が腰まで流れ、白いガウンに模様を作る。ひとつしか燭台のない部屋とは思えぬほど、彼女の姿はよく目に入った。空はきっとこんな色だったのだろうと思わせるような青い瞳には、燭台の火が映っていた。
 いつか愛した妻とは、似ても似つかない女だった。それでも愛しいと思ったひとだった。それも、息子が彼女を愛するようになってからだというのだから、男というものは実にくだらない。
「フェデリカ」
 今さっきまで書いていた手紙を撫で、ペンを机に横たえると振り返り、妻に手を伸ばす。この家に迎え入れたときよりもずっと痩せた身体を抱き寄せると、フェデリカはくすくすと子どものように笑った。息子がこの屋敷に来るようになってから、彼女はよく笑う。それがひとりの男としては悔しく、夫としては嬉しい。
 それでも、今ここに彼女が来た意味がわからなかった。
 革の張られた椅子に腰掛け、フェデリカを膝の上に座らせる。妻はおとなしくセブリアンの指示に従って、決して厚いとはいえない胸板に耳を寄せた。
「なぜここにいるんだ、フェデリカ。君はチェスカと共にあの国へ行くはずだろう?」
 細く渦を巻く黒髪に指を通しながら、妻へと問う。フェデリカは瞼を閉じて、疲れたといわんばかりに身体から力を抜いた。
「嫌なのです」
「なにが」
「あのひとの枷になることが」
 あのひと、の指す人間が誰かなど、わからないはずがなかった。セブリアンは目を閉じる。今までずっと口にすることさえもできなかった、フェデリカ・ルデルマ=デリエッダという女の、本心がそこにはある。二十でバレリエーレ家の後妻として迎え入れられておよそ八年の、感情がそこにはあった。
 閉じられた黒い睫毛の影の下、空から涙が伝った。
「私がチェスカと共に向こうに行ったのなら、あのひとは私を忘れられない。それが嫌なのです。あのひとの枷になりたくない。あのひとには、生きなければいけない道がある。そこに、私はいりません」
「夫の目の前で君もなかなか言うな」
「あら、あなただって奥様のことを忘れていらっしゃらないくせに。同罪ですわ」
 つんとそっぽを向くフェデリカの鼻を摘まむと、彼女は笑いながらセブリアンを振り返った。きらきらと光る青い瞳は娘のチェスカにとてもよく似ている。唇を寄せると妻はそっとそれに応えた。
「許してくださいね、不実な妻を」
「それは私もだ。許してくれるか、未練がましい夫を?」
 細い彼女を抱き上げて寝室へと通じる扉を開ける。そちらへ向かう途中、黒い硝子瓶を掴んだセブリアンの手を見て、妻はすべてを許すように笑った。
「ずっと前から、私はすべてを許していますわ」

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