足を踏み出す子ども
五年に一度、聖縁祭が行われる最初の日は、必ず十二月二十五日であることはバレリエーレ家でも例外ではなかった。聖縁祭が行われない年でも、人々は十二月二十五日になるとどことなく浮足立って、さまざまな催し物が行われる。大抵は貴族中心のパーティーがメインだが、それには少し大人としての意味が必要とされ、成人していないセシリオにとっては未だ無縁なものであった。だからこそ家族と過ごすことが許されるのだが、本邸には行き辛い。
あの日義母であるフェデリカに手紙を渡してから、まだ一度も彼女と会ってはいない。一度だけ手紙を受け取ったが、本邸に来てほしいという懇願の内容で、けれどセシリオは行くことができないままだった。このまま行かずに済まし、聖縁祭の舞台となる南へチェスカとウルラを拾っていってしまえばいいだけだと考えていた。考えていたのだが、手紙をぼんやりと見つめるセシリオにヴァローナがあの深淵のような赤い瞳を向けて、こういった。
「行かないのか」
シンプルな問いかけだ。そして意外とそれを実行するのは簡単なことだとセシリオもわかっていた。わかっていたからこそ、そうだなとつぶやいた。
聖縁祭の始まる一週間前に本邸に訪れた。使用人が驚いて父を呼びに行き、珍しく家にいたのかと思うセシリオの前に現れた父は、セシリオの顔を見るとはっと息を飲んだ。それから何度憎いと思ったことだろう緑の目は、初めて心の底から温和に弧を描き、彼はおかえりと微笑んだ。
定期的に本邸に訪れるようになったのは、鳥籠の女の騒ぎがひと段落し、きな臭い匂いがあちらこちらで立ち込めるようになったからだった。本邸そのものに直接的危害を加える人間などそうはいないはずだが、危ないだろうことには変わりはない。チェスカのために雇った用心棒も、本人たっての希望で辞職したため、警備はそこまで手厚いものではない。だからといってセシリオがいったところでなんになるというわけでもないのだが、対策を練りたくとももうすぐばら撒いた火種が燃え上がる頃だとわかっていた。自分自身の気休めだと承知しているが、それでもセシリオは足を運ぶ。
婚約者であるマージェリーと連絡を取り合いながら、互いの家に行き来して話し込むことも増えた。三年前からマージェリーの家に居座る愛鳥は、セシリオが来るたびに不服そうに鼻を鳴らしていたが、決まってマージェリーに言われると渋々ながらふたりきりにさせてくれた。もちろんふたりきりになったところでセシリオがマージェリーに無礼を働くなど信じていないのだろうが、それ以前にセシリオの幼さが気に食わないのかもしれない。なんにせよマージェリーやセシリオがこの先飛び込むだろう事態に、彼女もまた巻き込まれるのだろう。
「最近は随分と足しげくウォスカーダ男爵の元へ通っているらしいな」
ほかほかと湯気の立ち上るマグカップを持ち上げて、唇をマグにつけながらマージェリー・シェリア・ブロックマイアーはそう口にした。モカグリーンのドレスに包まれた足を丁寧に揃え、ふうふうとマグカップをさます姿は身長を抜いたとしてもたいそうかわいらしい。婚約者であるマージェリーは女性にしてはかなりの長身のため、セシリオはいつも羨望の眼差しを向けているが秘密だ。自分が彼女と同じ年になったとき並ぶか、むしろ越せたらいいとさえ考えているのだが、ホットカフェオレが出てくるあたりすでにバレているのかもしれない。
緑色のマグカップ――何度もいくうちにいつのまにやらセシリオ専用のマグカップになっていた。マージェリーのモカグリーンのものの色違いだ――に唇をつけ、熱いカフェオレを口に含みながらこくりと頷く。マージェリーの仕事部屋は本や資料がそろっているため、父の研究室を思い出して居心地がいい。主が女性だからだということ以外に、研究所ではないからというのもセシリオの心を安らがせる。若干のうしろめたさもあるのだが。
「ああ」
「なぜ彼のもとに? 彼は明確なる研究所派だろう、我々に手を貸すとは思えないが」
すっと向けられた視線に応えるべく瞳をとらえて微笑む。
「もちろんそれは周知の事実だ。そうそう、マージ、知っているか? 彼には一人息子しかいなかったんだが、一度絶縁したんだ。そのあとしばらくして息子は身重の妻を連れて男爵の元へと帰ってきた。妻と子どもだけは助けてくれと懇願し、答えない男爵に妻子を預けどこかへと消えた。しばらくしてから息子の妻は子どもを産み落とすと息を引き取り、残った子どもが家督を継ぐことになったんだ」
「セシー、何が言いたい」
つらつらと昔話を語るような口調で喋りはじめると、案の定マージェリーはぴしゃりと話を遮った。顰められた眉の下にある三白眼といわれがちな紫の瞳は、セシリオの暗い緑をとらえて放さない。
「マージだって生徒にはいうだろう、話は最後まで聞けと?」
肩を竦めた彼女は足を組みながら話を促した。
「それで、残された子どもは一生懸命父親がどこに消えたか、なぜ母と自分を祖父の元に残して消えたのか探ったらしい。そして調べ出した結果、実は父親はイルーシェンの軍に所属しており、女王の護衛兵だったこともあったとわかったんだ。年齢を逆算すると四十過ぎだから随分と優秀だったことは一目瞭然だが、その父親は現イルーシェン女王の現状を知っていた。つまり愚鈍な貴族たちに踊らされる少女の正体に気づいてしまった。
彼がそのあと起こした行動は単純だ、貴族たちを説き伏せようとしたんだ。女王がいるおかげで国が成り立っているのに、お前たちが女王の良心を踏みにじってなんになると。彼女は玩具ではないんだと愚直なまでにな。その結果、父親は軍から追放され、余計な異分子は廃人にしてしまえと研究所に連れていかれそうになって、彼は妻子を抱えて祖父であるウォスカーダ男爵の元へ行き、妻子を生かすために自身は研究所へ向かった」
少しさめたカフェオレを口に含む。マージェリーの座るソファの右手にある窓から、うっすらと夕陽の光が差し込んで床を橙色に染め上げていた。
「研究所派のウォスカーダ男爵の手にかかれば一人息子が研究所でどう扱われているかなんて、調べるまでもない。子どもに迫られ探し出したカルテでは、一人息子は闘鳥にするための投薬の段階で精神崩壊をきたし、遺棄されたとあった。今でも研究所に多大な投資を行っている一方、彼と彼のかわいい孫の中には、共通して反イルーシェン派に対する憎悪が積み重なっているというわけさ。わかりやすくグロテスクな構造だろう?」
「十四歳のお前にその憎悪の中に割って入るだけの力があるのか?」
マージェリーの言葉ににじむ心配には気づかぬふりをして、セシリオはもちろんだと笑った。
「僕は社交界に出入りはしているけれど、明確な立場を提示していない。研究員として働く父親がいて、かつ研究所に父が投資していたころと変わらない大金を投資している。研究所派にしか見えない行動ばかりしているが、わりといろんなところにヒントは落としているんだ。少し頭の働く人間ならわかるようなヒントを。馬鹿でないならわかるさ」
「……セシーお前性格悪くなったな……」
眉間の皺に手を伸ばすマージェリーを見ながらセシリオはははっと笑い声を上げた。今更だなと悠々と口にする表情は、けれど今までマージェリーが見た彼の表情の中では、最も穏やかなものだった。あちらこちらから戦禍の匂いが漂う西の国で、巨大なものを背負った少年は、笑っていた。
ふとマージェリーが手を伸ばし、きょとんとするセシリオの頭に辿り着く。細くてするりと通る黒髪をくしゃりと撫でられ、セシリオは戸惑ったように身を引いた。
「突然なんだよマージ」
「いや、なんとなく、な。根を詰め過ぎるなよ」
「もちろんわかってるさ。ウォスカーダ男爵を陥落できたらまた連絡する。マージも十分気を付けて」
「それこそ当然だ」
立ち上がり軽く握手を交わすと、セシリオはマージェリーの家を後にした。
ウルラはしばらく本邸に預かってもらうと取決めをしてからは、特にチェスカから連絡を受けて本邸にいくことが多くなった。そのときばかりはヴァローナも連れていく。大抵ふたりで話していることが多いため、セシリオはチェスカに勉強を教えるか話しているだけだ。なんてことのない時間がゆっくりと静かに過ぎていく。
けれどときたまチェスカがヴァローナに話しかけると、ウルラはぼんやりとした顔のまま、いつぞやセシリオが贈った花の植わった植木鉢を抱きしめている。何も見ていない目でぼんやりと。
偶然、ウルラとふたり談話室に残ったことがある。ウルラは植木鉢をぼんやりと見ながら黙っていた。雨の降っている静かな日の夕暮れだった。
「随分と気に入っているんだな」
紅茶を傾けながら読んでいた冊子を放り出し、そう口にすると、ウルラはセシリオの目を見て、うんとはにかむように笑う。
「大切だよ」
そうか、とつぶやく。便利な言葉だ。会話を終えるのにはあまりにも短く、けれど続けるにはどことなく放り出されたような中途半端な響きを持つ。
「その花は、ひとの手によって育てられないと、生きることができないんだ。野草じゃないからというのもあるが、特に弱い品種だから」
どうして自分がそんなことを話したのかは、わからなかった。ウルラが花をどう扱っているのか知らないが、生き物を無にしてはいけないと説教ぶりたかったのか、それともただ本当に唇から零れ落ちたのか。真相なんてわかりはしないが後者だろうと思う。
セシリオのように、この先直接でないにせよ間接的に人を殺すだろう人間が、説教ぶるなんてそんなことはあってはならないからだ。
ウルラはきょとんとした眼差しをセシリオに向け、それから植木鉢へと戻す。もう一度セシリオに戻ってきた視線には、どことなくさみしげな色が宿っているように見えた。
「……弱いの?」
「そうだ、とても弱い。最初にこれを作った人間は、あまりの弱さに愕然として、作ってしまったことをとても後悔したんだという」
「……綺麗なのにね、さみしいね」
ウルラが花びらをそっと撫でる。室内で育つその花は、彼女に贈った頃はまだ小さな幹に数枚の葉を乗せているだけだったのに、今は目の覚めるように美しい純白の花を咲かせていた。花びらはたったの五枚だけで、細い金糸のようにすら見える雌蕊がたおやかに表を伏せていた。
いつごろ読んだものだったのだろうかと思い起こし、使用人にいくつか雑誌の名前を口にして取りに行ってもらうよう頼みながら、淡々と口にする。
「綺麗だからこそ後悔したんだ。育てる人間がいない限りは、子孫を残すことができないからな。日の光の当たり具合や、肥料も野草なんかとは違って面倒で手間がかかる。こんな花を愛してくれるひとがいるのかと。けれど、この花は先代王妃が愛したおかげで、生き延びることができた。それでもネームバリューに惹かれて打ち捨てられることの方が多いようだが」
王妃に愛された花。イルーシェン王家に愛された花。この存在を、あの手紙の主は知っているのだろうか、そんなことを頭の片隅で夢想する。もしも知らないのなら贈って差し上げたいと、子どものように考える。
「……王妃様は、ずっと愛してたのかな……」
ウルラは白い花を見つめながらか細い声で囁いた。薄い紫が滲む灰色の髪に隠れて、彼女の緑の瞳を見やることは適わない。
使用人がテーブルの上にいくつか雑誌を置いて、セシリオは礼をいってから目当ての記事を探すために雑誌をぱらぱらとめくる。そうしながらも声は歪みなく響く。
「さあ、僕は前陛下じゃないからわからない。けれど、どこだったかな……確かこれに、ああ、あった」
ひとつの雑誌を膝の上に置いて、少年はその記事をとうとうと読み上げる。感情のこもり過ぎてはいない静かな声だった。
「『陛下が亡くなられたそのお部屋には、私の作ったあの花が咲いていたのだと、教えてもらった。陛下のおかげで私も、あの花も救われた。陛下がいつまでも御身のそばに置いてくれたことを、私はきっと忘れないだろう。美しい夢を見続けてくださることを切に願う』
この記事を書いた男が、その花を作った研究者だ」
以前研究所の血気盛んな兄貴分であり女王崇拝者のグリファスにこの雑誌を見せたときのことをふと思い出した。そういえばあのときに女王にこの雑誌を見せろと迫られたのか。馬鹿をいうなと鼻で笑ったことが、今や現実のものとなってセシリオのすぐそばに来ている。今のセシリオになら、女王にこの記事を見せることなど簡単だ。もしかしたら、花を贈ることさえも。
そのとき、ウルラの硬質的な声が耳に響いた。
「そっか。きっとそのお花は幸せなんだろうな。ぼくのお花も幸せになれるのかな。救われるのかな」
ちらりと雑誌から顔を上げて彼女を見ると、ウルラは植木鉢をぎゅっと抱きしめていた。決して大きいとは言い難い植木鉢の中で、窮屈そうには見えない白い花は咲いている。五枚の花弁をふるりと揺らし、修道女のようにつつましく表を伏せている。
ウルラに似ている、ふとそんなことを思った。
「お前が救うんだ。その花はお前だけのものであって、お前以外のだれのものでもない。救ってやってくれ」
どうしてそう思ったのかはわからない。けれどウルラに向けて発する言葉がいつも以上に慎重になったのは本当だった。髪の間から伏せられた緑の瞳が目に入った。少女のように純真無垢に、穢れないと明示するかのようにいつもまっすぐに他人の目を見るウルラは、けれどいつもどこか遠かった。少女にしてはありえない神性すら備えているように見えるときもあるのに、ぞっとするほど動物めいた顔をすることもなんとはなしに知っていた。
セシリオにウルラはわからない。それは相手が年上の女性だからだということもあるのだろうが、遠いどこかにいるように感じる瞳のせいなのかもしれないなと思う。そしてときどき見せる不安定な姿も、また。
「……そうだね、愛したら、なら、救わなきゃね」
ウルラの愛の基準はどこなのだろうとふと思う。セシリオがフェデリカに向けていたような純粋とは言い難い愛なのか、最も大切だといって憚らないチェスカへの親愛なのか、それとも触れられないし見ることもかなわない憧憬の向こうに居座る少女への純粋なる愛情なのか。
泣き出しそうに見える彼女からは、セシリオでは何も読み取れない。ただ震えているように、泣いているように見えるだけだ。
「救うことは義務じゃない。放り出すこともできる。お前が救ってやりたいと思ったのなら、救ってやればいい」
そっけなく言葉を言い放てばウルラの瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。
「……放り出すのは、きっと違う。こんなにちっちゃいのに」
ほろほろと涙を流しながら花びらをそうっと撫でるウルラの手つきは、さながら赤ん坊を慰める母親のそれだ。チェスカを抱き上げていた義母の姿を、その手を、ぼんやりと思い出しながら小さく笑う。
「お前は優しいな。なら精一杯愛してやってくれ。救ってやってくれ」
草木に母親はいない。いるとするなら土であり雨だ。
けれどウルラの育てる花は、ウルラの子どもだ。ウルラの手がないと、種を身体に宿すこともかなわず、ただ枯れて朽ちるだけの生き物だ。その考え方は、あながち間違ってはいないように思った。
けれどウルラは首を横に振る。落ち着いた色のソファの上で、植木鉢を抱きながらぽろぽろと泣き、そして首を横に振る。
「優しいのも、違うよ。ぼくが愛して救われた人はいなかったから。自分勝手だけど、それでも救われるなら頑張りたい」
なぜか、こちらまで泣きたくなった。
あまりにもウルラが悲しいのか、それともウルラが可哀想だからなのか、植木鉢の中に眠る白い花があんまりにも愛しいからだろうか、泣きたくなった。泣きたくなったけれど、セシリオの唇に浮かんだのは笑みで、少年は肩を竦めて笑って見せる。
「愛なんて自分勝手なものだと僕は思うけどな。頑張ってくれ」
ようやくウルラは顔を上げた。頬を涙で濡らし、へらりと微笑みながら涙をぬぐい、そうだねと笑った。白い花のように、微笑んだ。
「そうだね、ずっと知ってた。そういうものなんだね。ありがとう、ありがとうセーリョ」
あの日義母であるフェデリカに手紙を渡してから、まだ一度も彼女と会ってはいない。一度だけ手紙を受け取ったが、本邸に来てほしいという懇願の内容で、けれどセシリオは行くことができないままだった。このまま行かずに済まし、聖縁祭の舞台となる南へチェスカとウルラを拾っていってしまえばいいだけだと考えていた。考えていたのだが、手紙をぼんやりと見つめるセシリオにヴァローナがあの深淵のような赤い瞳を向けて、こういった。
「行かないのか」
シンプルな問いかけだ。そして意外とそれを実行するのは簡単なことだとセシリオもわかっていた。わかっていたからこそ、そうだなとつぶやいた。
聖縁祭の始まる一週間前に本邸に訪れた。使用人が驚いて父を呼びに行き、珍しく家にいたのかと思うセシリオの前に現れた父は、セシリオの顔を見るとはっと息を飲んだ。それから何度憎いと思ったことだろう緑の目は、初めて心の底から温和に弧を描き、彼はおかえりと微笑んだ。
定期的に本邸に訪れるようになったのは、鳥籠の女の騒ぎがひと段落し、きな臭い匂いがあちらこちらで立ち込めるようになったからだった。本邸そのものに直接的危害を加える人間などそうはいないはずだが、危ないだろうことには変わりはない。チェスカのために雇った用心棒も、本人たっての希望で辞職したため、警備はそこまで手厚いものではない。だからといってセシリオがいったところでなんになるというわけでもないのだが、対策を練りたくとももうすぐばら撒いた火種が燃え上がる頃だとわかっていた。自分自身の気休めだと承知しているが、それでもセシリオは足を運ぶ。
婚約者であるマージェリーと連絡を取り合いながら、互いの家に行き来して話し込むことも増えた。三年前からマージェリーの家に居座る愛鳥は、セシリオが来るたびに不服そうに鼻を鳴らしていたが、決まってマージェリーに言われると渋々ながらふたりきりにさせてくれた。もちろんふたりきりになったところでセシリオがマージェリーに無礼を働くなど信じていないのだろうが、それ以前にセシリオの幼さが気に食わないのかもしれない。なんにせよマージェリーやセシリオがこの先飛び込むだろう事態に、彼女もまた巻き込まれるのだろう。
「最近は随分と足しげくウォスカーダ男爵の元へ通っているらしいな」
ほかほかと湯気の立ち上るマグカップを持ち上げて、唇をマグにつけながらマージェリー・シェリア・ブロックマイアーはそう口にした。モカグリーンのドレスに包まれた足を丁寧に揃え、ふうふうとマグカップをさます姿は身長を抜いたとしてもたいそうかわいらしい。婚約者であるマージェリーは女性にしてはかなりの長身のため、セシリオはいつも羨望の眼差しを向けているが秘密だ。自分が彼女と同じ年になったとき並ぶか、むしろ越せたらいいとさえ考えているのだが、ホットカフェオレが出てくるあたりすでにバレているのかもしれない。
緑色のマグカップ――何度もいくうちにいつのまにやらセシリオ専用のマグカップになっていた。マージェリーのモカグリーンのものの色違いだ――に唇をつけ、熱いカフェオレを口に含みながらこくりと頷く。マージェリーの仕事部屋は本や資料がそろっているため、父の研究室を思い出して居心地がいい。主が女性だからだということ以外に、研究所ではないからというのもセシリオの心を安らがせる。若干のうしろめたさもあるのだが。
「ああ」
「なぜ彼のもとに? 彼は明確なる研究所派だろう、我々に手を貸すとは思えないが」
すっと向けられた視線に応えるべく瞳をとらえて微笑む。
「もちろんそれは周知の事実だ。そうそう、マージ、知っているか? 彼には一人息子しかいなかったんだが、一度絶縁したんだ。そのあとしばらくして息子は身重の妻を連れて男爵の元へと帰ってきた。妻と子どもだけは助けてくれと懇願し、答えない男爵に妻子を預けどこかへと消えた。しばらくしてから息子の妻は子どもを産み落とすと息を引き取り、残った子どもが家督を継ぐことになったんだ」
「セシー、何が言いたい」
つらつらと昔話を語るような口調で喋りはじめると、案の定マージェリーはぴしゃりと話を遮った。顰められた眉の下にある三白眼といわれがちな紫の瞳は、セシリオの暗い緑をとらえて放さない。
「マージだって生徒にはいうだろう、話は最後まで聞けと?」
肩を竦めた彼女は足を組みながら話を促した。
「それで、残された子どもは一生懸命父親がどこに消えたか、なぜ母と自分を祖父の元に残して消えたのか探ったらしい。そして調べ出した結果、実は父親はイルーシェンの軍に所属しており、女王の護衛兵だったこともあったとわかったんだ。年齢を逆算すると四十過ぎだから随分と優秀だったことは一目瞭然だが、その父親は現イルーシェン女王の現状を知っていた。つまり愚鈍な貴族たちに踊らされる少女の正体に気づいてしまった。
彼がそのあと起こした行動は単純だ、貴族たちを説き伏せようとしたんだ。女王がいるおかげで国が成り立っているのに、お前たちが女王の良心を踏みにじってなんになると。彼女は玩具ではないんだと愚直なまでにな。その結果、父親は軍から追放され、余計な異分子は廃人にしてしまえと研究所に連れていかれそうになって、彼は妻子を抱えて祖父であるウォスカーダ男爵の元へ行き、妻子を生かすために自身は研究所へ向かった」
少しさめたカフェオレを口に含む。マージェリーの座るソファの右手にある窓から、うっすらと夕陽の光が差し込んで床を橙色に染め上げていた。
「研究所派のウォスカーダ男爵の手にかかれば一人息子が研究所でどう扱われているかなんて、調べるまでもない。子どもに迫られ探し出したカルテでは、一人息子は闘鳥にするための投薬の段階で精神崩壊をきたし、遺棄されたとあった。今でも研究所に多大な投資を行っている一方、彼と彼のかわいい孫の中には、共通して反イルーシェン派に対する憎悪が積み重なっているというわけさ。わかりやすくグロテスクな構造だろう?」
「十四歳のお前にその憎悪の中に割って入るだけの力があるのか?」
マージェリーの言葉ににじむ心配には気づかぬふりをして、セシリオはもちろんだと笑った。
「僕は社交界に出入りはしているけれど、明確な立場を提示していない。研究員として働く父親がいて、かつ研究所に父が投資していたころと変わらない大金を投資している。研究所派にしか見えない行動ばかりしているが、わりといろんなところにヒントは落としているんだ。少し頭の働く人間ならわかるようなヒントを。馬鹿でないならわかるさ」
「……セシーお前性格悪くなったな……」
眉間の皺に手を伸ばすマージェリーを見ながらセシリオはははっと笑い声を上げた。今更だなと悠々と口にする表情は、けれど今までマージェリーが見た彼の表情の中では、最も穏やかなものだった。あちらこちらから戦禍の匂いが漂う西の国で、巨大なものを背負った少年は、笑っていた。
ふとマージェリーが手を伸ばし、きょとんとするセシリオの頭に辿り着く。細くてするりと通る黒髪をくしゃりと撫でられ、セシリオは戸惑ったように身を引いた。
「突然なんだよマージ」
「いや、なんとなく、な。根を詰め過ぎるなよ」
「もちろんわかってるさ。ウォスカーダ男爵を陥落できたらまた連絡する。マージも十分気を付けて」
「それこそ当然だ」
立ち上がり軽く握手を交わすと、セシリオはマージェリーの家を後にした。
ウルラはしばらく本邸に預かってもらうと取決めをしてからは、特にチェスカから連絡を受けて本邸にいくことが多くなった。そのときばかりはヴァローナも連れていく。大抵ふたりで話していることが多いため、セシリオはチェスカに勉強を教えるか話しているだけだ。なんてことのない時間がゆっくりと静かに過ぎていく。
けれどときたまチェスカがヴァローナに話しかけると、ウルラはぼんやりとした顔のまま、いつぞやセシリオが贈った花の植わった植木鉢を抱きしめている。何も見ていない目でぼんやりと。
偶然、ウルラとふたり談話室に残ったことがある。ウルラは植木鉢をぼんやりと見ながら黙っていた。雨の降っている静かな日の夕暮れだった。
「随分と気に入っているんだな」
紅茶を傾けながら読んでいた冊子を放り出し、そう口にすると、ウルラはセシリオの目を見て、うんとはにかむように笑う。
「大切だよ」
そうか、とつぶやく。便利な言葉だ。会話を終えるのにはあまりにも短く、けれど続けるにはどことなく放り出されたような中途半端な響きを持つ。
「その花は、ひとの手によって育てられないと、生きることができないんだ。野草じゃないからというのもあるが、特に弱い品種だから」
どうして自分がそんなことを話したのかは、わからなかった。ウルラが花をどう扱っているのか知らないが、生き物を無にしてはいけないと説教ぶりたかったのか、それともただ本当に唇から零れ落ちたのか。真相なんてわかりはしないが後者だろうと思う。
セシリオのように、この先直接でないにせよ間接的に人を殺すだろう人間が、説教ぶるなんてそんなことはあってはならないからだ。
ウルラはきょとんとした眼差しをセシリオに向け、それから植木鉢へと戻す。もう一度セシリオに戻ってきた視線には、どことなくさみしげな色が宿っているように見えた。
「……弱いの?」
「そうだ、とても弱い。最初にこれを作った人間は、あまりの弱さに愕然として、作ってしまったことをとても後悔したんだという」
「……綺麗なのにね、さみしいね」
ウルラが花びらをそっと撫でる。室内で育つその花は、彼女に贈った頃はまだ小さな幹に数枚の葉を乗せているだけだったのに、今は目の覚めるように美しい純白の花を咲かせていた。花びらはたったの五枚だけで、細い金糸のようにすら見える雌蕊がたおやかに表を伏せていた。
いつごろ読んだものだったのだろうかと思い起こし、使用人にいくつか雑誌の名前を口にして取りに行ってもらうよう頼みながら、淡々と口にする。
「綺麗だからこそ後悔したんだ。育てる人間がいない限りは、子孫を残すことができないからな。日の光の当たり具合や、肥料も野草なんかとは違って面倒で手間がかかる。こんな花を愛してくれるひとがいるのかと。けれど、この花は先代王妃が愛したおかげで、生き延びることができた。それでもネームバリューに惹かれて打ち捨てられることの方が多いようだが」
王妃に愛された花。イルーシェン王家に愛された花。この存在を、あの手紙の主は知っているのだろうか、そんなことを頭の片隅で夢想する。もしも知らないのなら贈って差し上げたいと、子どものように考える。
「……王妃様は、ずっと愛してたのかな……」
ウルラは白い花を見つめながらか細い声で囁いた。薄い紫が滲む灰色の髪に隠れて、彼女の緑の瞳を見やることは適わない。
使用人がテーブルの上にいくつか雑誌を置いて、セシリオは礼をいってから目当ての記事を探すために雑誌をぱらぱらとめくる。そうしながらも声は歪みなく響く。
「さあ、僕は前陛下じゃないからわからない。けれど、どこだったかな……確かこれに、ああ、あった」
ひとつの雑誌を膝の上に置いて、少年はその記事をとうとうと読み上げる。感情のこもり過ぎてはいない静かな声だった。
「『陛下が亡くなられたそのお部屋には、私の作ったあの花が咲いていたのだと、教えてもらった。陛下のおかげで私も、あの花も救われた。陛下がいつまでも御身のそばに置いてくれたことを、私はきっと忘れないだろう。美しい夢を見続けてくださることを切に願う』
この記事を書いた男が、その花を作った研究者だ」
以前研究所の血気盛んな兄貴分であり女王崇拝者のグリファスにこの雑誌を見せたときのことをふと思い出した。そういえばあのときに女王にこの雑誌を見せろと迫られたのか。馬鹿をいうなと鼻で笑ったことが、今や現実のものとなってセシリオのすぐそばに来ている。今のセシリオになら、女王にこの記事を見せることなど簡単だ。もしかしたら、花を贈ることさえも。
そのとき、ウルラの硬質的な声が耳に響いた。
「そっか。きっとそのお花は幸せなんだろうな。ぼくのお花も幸せになれるのかな。救われるのかな」
ちらりと雑誌から顔を上げて彼女を見ると、ウルラは植木鉢をぎゅっと抱きしめていた。決して大きいとは言い難い植木鉢の中で、窮屈そうには見えない白い花は咲いている。五枚の花弁をふるりと揺らし、修道女のようにつつましく表を伏せている。
ウルラに似ている、ふとそんなことを思った。
「お前が救うんだ。その花はお前だけのものであって、お前以外のだれのものでもない。救ってやってくれ」
どうしてそう思ったのかはわからない。けれどウルラに向けて発する言葉がいつも以上に慎重になったのは本当だった。髪の間から伏せられた緑の瞳が目に入った。少女のように純真無垢に、穢れないと明示するかのようにいつもまっすぐに他人の目を見るウルラは、けれどいつもどこか遠かった。少女にしてはありえない神性すら備えているように見えるときもあるのに、ぞっとするほど動物めいた顔をすることもなんとはなしに知っていた。
セシリオにウルラはわからない。それは相手が年上の女性だからだということもあるのだろうが、遠いどこかにいるように感じる瞳のせいなのかもしれないなと思う。そしてときどき見せる不安定な姿も、また。
「……そうだね、愛したら、なら、救わなきゃね」
ウルラの愛の基準はどこなのだろうとふと思う。セシリオがフェデリカに向けていたような純粋とは言い難い愛なのか、最も大切だといって憚らないチェスカへの親愛なのか、それとも触れられないし見ることもかなわない憧憬の向こうに居座る少女への純粋なる愛情なのか。
泣き出しそうに見える彼女からは、セシリオでは何も読み取れない。ただ震えているように、泣いているように見えるだけだ。
「救うことは義務じゃない。放り出すこともできる。お前が救ってやりたいと思ったのなら、救ってやればいい」
そっけなく言葉を言い放てばウルラの瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。
「……放り出すのは、きっと違う。こんなにちっちゃいのに」
ほろほろと涙を流しながら花びらをそうっと撫でるウルラの手つきは、さながら赤ん坊を慰める母親のそれだ。チェスカを抱き上げていた義母の姿を、その手を、ぼんやりと思い出しながら小さく笑う。
「お前は優しいな。なら精一杯愛してやってくれ。救ってやってくれ」
草木に母親はいない。いるとするなら土であり雨だ。
けれどウルラの育てる花は、ウルラの子どもだ。ウルラの手がないと、種を身体に宿すこともかなわず、ただ枯れて朽ちるだけの生き物だ。その考え方は、あながち間違ってはいないように思った。
けれどウルラは首を横に振る。落ち着いた色のソファの上で、植木鉢を抱きながらぽろぽろと泣き、そして首を横に振る。
「優しいのも、違うよ。ぼくが愛して救われた人はいなかったから。自分勝手だけど、それでも救われるなら頑張りたい」
なぜか、こちらまで泣きたくなった。
あまりにもウルラが悲しいのか、それともウルラが可哀想だからなのか、植木鉢の中に眠る白い花があんまりにも愛しいからだろうか、泣きたくなった。泣きたくなったけれど、セシリオの唇に浮かんだのは笑みで、少年は肩を竦めて笑って見せる。
「愛なんて自分勝手なものだと僕は思うけどな。頑張ってくれ」
ようやくウルラは顔を上げた。頬を涙で濡らし、へらりと微笑みながら涙をぬぐい、そうだねと笑った。白い花のように、微笑んだ。
「そうだね、ずっと知ってた。そういうものなんだね。ありがとう、ありがとうセーリョ」