帰れない子ども
ああ、燃えてしまう。
ぱちぱちと身体が焼ける音がした。わたしの伸ばした腕が、指先が、爪先すらも、ぱちぱちとぱちぱちと、ただ音を立てて燃える音がする。人間にとっては気持ちのいいからりと枯れた葉の匂いは、わたしの身体の削れる匂いだ。わたしの身体が人間の言うところの声となり、悲鳴をあげている音だ。人間はどうしてこうも無慈悲なのだろう、草木の声を聞こうとはしないのだろう、ただ人間だけを愛しているのだろう。
わたしはとても悲しい。
涙は人間や猫、犬それから鳥などといった動物しか流せないのだと、わたしたちの住む屋敷の少年主人はいっていた。いとしそうにわたしが生んだ最も美しい子どもの頭を撫でながら、少年はいっていた。
ああ、彼は違った。あの少年は、わたしたちを見てくれた。だからわたしも彼を愛していた、人間だけれど愛してあげる気になれた。
その少年は、今、わたしの身体を燃やす火によって、彼の暮らす屋敷を喰らい尽くされる様を見つめながら、ただ黙ってわたしに背を向けていた。ああ彼もわたしを愛してくれた庭師がそうだったように、わたしを不器用に抱き上げたカラスの青年のように、わたしに背を向けて逃げるのだろう。なんとひどい裏切りだろう、わたしたちを守ってくれると信じていたのに。なかなか浴びることのできない太陽のような笑みを放つ少女のように、わたしたちを守ってくれると信じていたのに。
ぱちぱちと火は音を立てる。わたしは痛みに身体を捻じ曲げて、苦痛の声を上げる。
ああそれでもあなたを許してあげよう。少年よ、少年よ、あなたは選んだのね。それが間違っていないと信じているのね。これほどの火があなたの肉体を苛んだとしても、あなたはそれを信じるのね。
信じているのなら泣いてはいけないわ。ねえ、幼い当主さま、誰もいなくなってしまった屋敷を前に泣き崩れるあなたは、ただの幼い子どものようよ。
眼前で少年は泣き崩れる。こぼれた声を聞き取ることはできない。火がわたしの耳を舐めたから、もうわたしは声を聞くことも音を聞くこともできなくなった。それはある意味幸運だったのかもしれない、だってわたしの子どもたちの泣く声もわたしの悲鳴も、そしてわたしの愛した少年の絶叫も、聞かずに済むのだから。
ねえ、泣いてはいけないわ。あなたは選択した。選択したのよ。選んでしまった。この戦火に巻き込まれることを選んでしまった。ならば、あなたはもう泣いてはいけない。この燃え盛る火を沈静化させるまで、あなたは涙を流すことすら許されない。
忘れないで少年よ、あなたが選んだその結末を。あなたの両親が火に焼かれ、あなたの妹が遠い彼方へと去っていたその事実を。あなたに残されたのはただひとり、カラスの青年だけだということを。
あなたは、選んでしまったのよ、この結果を。
ぱちりと一際大きな音が爆ぜる。わたしの身体は大きく跳ねて真っ赤な花を咲かせた。ああなんて美しい空なのでしょう、青いあおい空がわたしを呼んでいる。もう実らない身体を労わるように抱き上げられる。
少年よ、忘れないで。
バレリエーレ家という研究所派の大きな一家が革命前夜に滅んだという話は、瞬く間に城下に広がっていた。スラム街と揶揄されることの多い貧民街にはまだ火の手は上がっておらず、いつも通りだがどことなく不穏な空気を漂わせたまま、ひとびとは常と変わらない日々を送っていた。革命が起こったといわれても、貧民である彼らには特別大きな害はなく、消費者の激減した職人だけが革命という惨事を嘆く。それから富裕者層のもとで働いていた女たちが慌てて帰ってくる姿か。
革命が巻き起こった数日後のある昼のこと、男は、またひとり焼け焦げた髪をくくり、巨大な荷物を抱えて転がり込むように駆けてきた女の腕を掴んだ。ぱっと顔を上げた女の目は縋るような切望が映り込み、煤まみれの顔は昔年はさぞ美しかったことをうかがわせる。
「あんた、あんた、ねえここはルクシエル街四区で間違ってないよね? ねえ、ねえ!」
女の声は震えていた。また新しい見ものができたのかとわらわらと人だかりができる中、男は座り込んだ女と顔を合わせるために膝を折り、ああとしっかり頷いた。その動作に力を得たのか女は安堵したようにほろほろと涙を流す。
「よかった……帰って来れた……」
「どこの家からの逃亡者だ?」
「まさか連れ戻す気じゃないよね? 嫌だよわたしは!!」
瞳は怯えか恐怖かで揺れ、女の手は男の腕を放す。身を守るように荷物を抱きしめて嫌だと女は叫んだ。
「安心しろ、ただ確認するために聞いているだけだ。お前を連れ戻すなんて無駄なことをするはずがない」
「何を確認してるのさ」
「親殺しのバレリエーレ坊ちゃんのところで働いていた使用人どもだよ。共犯かもしれねえ危ないやつを野放しにゃあできねえだろ」
「親殺し?」
女は何をいっているのかわからないといわんばかりに眉を顰める。彼女の反応とは裏腹に女と男を取り囲む人だかりはみな納得したように頷いた。
「ちょっと待ってよ、親殺し? あの坊ちゃんが?」
女の高い声に場は一瞬にして静まり返る。男は女の濁ったグレーの瞳を見つめながら問う。
「知ってるのか?」
「ええ、そりゃもちろん。バレリエーレの坊ちゃんっていったら弱冠十四歳で当主の座を得たあの坊ちゃんだろう? 世渡り上手で社交界からは疎まれてもいたし恐れられてもいて、それから研究所派の父親が研究所に多額の出資をしていたとかなんとかいう」
「随分詳しいじゃねえか」
男の声に女はぶんぶんと千切れそうなほど首を振った。せっかく舞い戻ったのだろう出身地から放逐されることを避けたいと願うのは、人間なら当然だ。
「こんなの詳しい方じゃないよ!! ただわたしのご主人がバレリエーレの坊ちゃんを大層お気に召していたから……」
「簡単なことだ、お前のご主人の名前はなんだ?」
「モントリーネ子爵だよ」
人だかりはもちろんのこと、男も言葉を閉ざした。女は不安そうに目の前にいるオレンジ色の混ざった茶髪の男を見つめている。男は自分の脳に叩き込んだはずのリストからその名前を探し出そうと必死になっていた。やっぱり俺みてえなチンピラには覚えるなんて難しいぜ。
やっと引きずり出したデータを脳内でパラパラとめくりながら、男は女の顔を見た。不安そうなグレーの瞳といい元から煤けていたのだろう金髪といい、モントリーネ子爵の元で働いていたという使用人に違いない。男はふっと口の端を緩めた。
「モントリーネ子爵なら知っている。確か反イルーシェン派じゃなかったか?」
女は今現在革命の発端となっている派閥の名前を聞くと、嫌そうに思いっきり顔をしかめた。ここに来た使用人といえばみな一様にこの顔になるのだからおかしなものだ。
「らしいね。ああご主人様がバレリエーレの坊ちゃんを気に入っていたのは役に立つだろう駒としてだよ。見事にご主人様の期待を裏切ったみたいだけど、あの坊ちゃん」
「モントリーネ子爵は今どうなったんだ? お前だけ逃げて来たのか?」
「屋敷に火がつけられたんだよ、革命軍の仕業さ。ご主人様はどうなったのか知らない、革命に巻き込まれるのはごめんだっていうメイド仲間と飛び出して来たんだ」
「その仲間は?」
「はぐれたよ。あの子はルクシエル出身じゃないから途中で方向を変えたのかもしれない。城下町は今ひどいことになっててどこに何があるのか誰がどこに住んでるのかハチャメチャだよ。でもルクシエルが無事でよかった」
心から安堵したように女はそう告げた。観衆もそろそろ次の幕が見たいのだろう、ざわざわと生きた人間としての気配が立ち上る。政治に関わる話に詳しいのは現状ここにいる男だけだから、誰も余計な口出しをしないのだ。もう聞くべきことは終わっただろうといいたげな空気に、男は肩をすくめて応える。
「家には帰れるか?」
「大丈夫、覚えてる」
「いい子だ」
女の頭をくしゃりと撫で、片手で器用に立ち上がらせて男は群衆を振り返った。
「こいつはルクシエルの人間だそうだ。よくしてやってくれ」
おうとかああとかさり気ないが力のある声があちらこちらからぽろぽろと上がる。人だかりの中から数人が動きだし、モントリーネ子爵の使用人だった女は人波に飲まれて行った。それをぼんやりと見守りながら、男はやれやれとため息をつく。ふと顔を上げると空は例のごとく曇天だった。
「こりゃ一雨くるな」
呟いた声は群衆の声に掻き消された。
男が自宅のある小さなアパートに向かう途中、泥ついた路地裏から六七歳と見られる子どもたちが数人飛び出して来た。きゃっきゃと笑い声は甲高く、何か目新しいものを見つけたのだろうかその目はきらきらと好奇心に輝いている。何かが頭をかすめて男はすれ違おうとする子どもたちのうち、同じアパートに住む赤毛の少年の名を呼んだ。
「フィリップ!」
「あれ、ジョーじゃん! どこにいたんだよ?」
「まーた仕事だよ。なんだお前ら随分楽しそうじゃねえの」
少年と同じ目線になるべくよいしょといいながらしゃがみ込むと、少年の仲間たちもわらわらと集まって来た。ここら一帯ではそこそこ名の知れた男であるジョーを、物珍しそうにじろじろと無遠慮に見つめている。
フィリップはにひひと前歯の抜けた間抜けな笑みを浮かべて、ジョーの目の前に一本指を突き立てた。
「ジョーは約束守れるよな! 男の約束だ!」
「そりゃあ守れなきゃ男じゃねえなぁ」
ジョーが分厚い手を出して小指をフィリップの小指に絡ませると、少年は約束だ!と笑顔でいいながらジョーの耳元に口を寄せた。
「あのなあのな、向こうの路地裏でカラスがばれりえーれのにいちゃんを守ってんだ!」
「――――は?」
口から飛び出た言葉はそんなつまらない単語ひとつっきりだった。使用人ではなくバレリエーレの兄ちゃん? 少年当主の親父は兄ちゃんといえるほど若くはないしフィリップのような子どもからすればおっさんだ、なら考えるまでもなくおそらくそこにいるのは少年当主そのもの。使用人ではなくて、当人が、なぜ?
いや待てそんなことはどうでもいい、思わずジョーはフィリップの肩をつかんで真面目な声で尋ねていた。
「フィリップ、その話は俺以外の誰かにいったのか?」
「なんだよジョー、オレは男だぜ? 男の約束破るわけないだろ」
ふんっと鼻を慣らし胸を逸らすフィリップの頭をくしゃりと撫でて、男はゆっくりとだが立ち上がった。
「さすが男だフィリップ。いってないんだな」
「当たり前だって! オレたちとこいつらしか知らねえぞ!」
「偉いぞ」
ぐしゃぐしゃと癖のある赤毛を撫で回し男はフィリップにバレリエーレの兄ちゃんが横たわっているのだろう路地を尋ねた。少年はまたもジョーをしゃがませてその耳元にこそこそと楽しい秘密を伝えるように声を流す。ジョーが頷くのを見るとふとフィリップは真面目な顔になって、ひとこといった。
「なぁジョー。にいちゃん殺さねーよな」
またしても、男は言葉に詰まる。口を閉ざした男を見つめ、フィリップの友人たちはわずかに不安そうに瞳を揺らした。匂いのように立ち上る不安は、よくない。ぽつぽつと降り出した雨を避けさせるためにジョーは上着を脱いで、子どもたちに押し付けた。
「少なくとも人の生死を決められるほど、俺は偉くねえよ、フィリップ。安心しろ、そいつが反抗さえしなけりゃ誰も危害は加えないさ。さっさと警察にとっ捕まえてもらって終わりだ」
さらりと告げた言葉に子どもたちは一斉にその唇を開いて口々に叫ぶ。さながら雛鳥が親鳥に餌を強請っているように愛らしい図なのに、その声は悲痛だ。
「だめだ!! ジョー、警察は呼んじゃだめだ!!」
「だめだよ!!」
「ジョー、お願いだよ警察は呼ばないで!!」
「なんでだよ、お前ら怖くねえのか?」
男の言葉に少年たちは一瞬口を閉ざし、ぼそぼそとカラスのにいちゃんは怖いけどとつぶやいていたが、フィリップが強い意思のある瞳を上げて男を見た。
「怖いけど怖いのはカラスのほうで、あのにいちゃんは怖くねえよ。それに、それに」
言葉を詰まらせる。自分の目を信じるのか自分の感情を信じていいのかわからずに、少年は惑っていた。けれどやがて彼は自分の服をぎゅっと掴みながら男の顔を見上げる。
「あのにいちゃんが、親を殺すなんて、そんなことできるようにはみえねーんだよ……」
親殺しのバレリエーレ少年当主。貴族たちの間で息子が親を殺すということはわりと日常的に行われている。もちろん自分が殺したということが露見しないように上手に工作するのが常で、また、逆に親が子どもを見殺しにするなんて親殺しよりももっとずっと多い。ただ今回の件に関しては、確かにジョーと呼ばれた男も首を捻らざるおえない。
弱冠十四歳の少年当主が、研究所派である研究員の父親を殺した。
文章にしてみればただそれだけのことだ。今回の革命においては起こりえる事件のひとつ。
いや、おかしい。
弱冠十四歳の少年当主が、研究所派である研究員の父親を殺した。
バレリエーレ家は研究所派だ。大きな額を研究所に出資しており、研究所を支える軍資金のひとつである。だからこそ少年当主の父親は研究員になることができ、そしてそこそこの立場を何の苦もなく手に入れることができたのだ。名ばかりの研究員として。
弱冠十四歳の少年当主が、研究所派である研究員の父親を殺した。
バレリエーレ家としては研究所派であり、父親と少年当主は革命が近づくにつれ、言い争いを繰り広げていたという。それならば導き出される答えは単純だ。セシリオ・バレッタ=バレリエーレという少年は、研究所派ではない。むしろ革命に感化された、イルーシェン派か反イルーシェン派か。
いやそれでもおかしい。
ジョーはフィリップ少年の頭をくしゃりと撫でて、彼らの指す方向を見据えた。汚泥をたたえた路地からは、凄まじい腐敗臭が漏れ出している。ここで長いこと暮らしているジョーやフィリップたちにとっては大した匂いでもないが、貴族の少年にとってはどうだろうか。
「俺にはそのことが判別できない。でもお前たちのその言葉はきちんと聞き取ったよ。ありがとな」
「ジョー、それでも警察を呼ぶの?」
「いや、きちんと聞いてみるさ。勝手に死なれても困るんでな」
さぁもういっていいぞと少年たちの背中を叩くと、彼らは皆一様に戸惑い、親分格のフィリップを振り返る。フィリップは仲間たちの視線に唇を引き結び、絶対に秘密だからな! と叫ぶと先陣を切って駆け出していった。あわててついていく少年たちを見送り、男は路地に視線を向ける。
研究所派の家に、火が放たれた。
研究所派の人間は確かに反イルーシェン派ととることもできるだろう、けれど少年当主が父親を殺す理由がどこにある? 研究所派はどちらともとることができないただの不穏因子に過ぎない。それなのに殺された? 賢いといわれた少年の手によって?
悪臭は雨によって打ち消すことができなかったのだろう、泥ついた匂いが男の口内に忍び込む。けほりと毒づくように咳き込むと、男は路地に足を踏み込んだ。
ただでさえ日の光が入らない貧民街で、それは具現化した本当の闇のように見えた。もちろん男には本当の闇などわからない。ただ、彼を、それを、形容する言葉が思い浮かばなかったから、そうとしかいうことができなかった。ずっと奥の方にいるのに、もっと遠い、さながら死後にたどり着く地獄のように遠いところにいるかのように見えた。黒い翼の下に横たわる幼い少年の姿すらも、まるで闇から蘇った死者のように。
「――っおい大丈夫か!!」
思わず男が声をあげながら駈け寄ろうとすると、闇の姿をした翼の持ち主が、威嚇するようにをぶわりと膨れ上げる。こちらを振り返ったらしい白い顔の中に、どっぷりと浸かった深紅の眼が男を睨んでいた。
「お前……、まさか鳥か……?」
「――ヴァ、ル、大丈夫……だ」
黒い翼の下、死者のように青い顔をした少年が幽かに声を上げた。鳥の視線は男から逃れ、少年に注がれる。男もまた鳥の視線を追うように少年へと向けられ、緑の瞳と合致した。深い緑の瞳に見抜かれたとき、男は彼が噂の少年であるとすぐに悟った。まだ成人していない少年のものとは思えぬほど、深く暗い瞳をしていた。
じりじりと身を起こそうとする少年を、翼をもつ青年はただ見守っているだけだ。そのじれったさに思わず男は手を伸ばそうとするが、こちらを見やる深紅の瞳に伸ばした指はそれ以上動かすことはできなかった。そうこうしている間にも、黒い翼の下、青年にすがりつくようにしながら少年はゆっくりと立ち上がる。
「……ヴァル、翼をしまえ」
「セシー」
「しまってくれ」
少年のか細い声に横に立つ青年は一瞬不服そうな顔をしたが、やがて光沢のある黒い翼は消えた。そこに立つのはもう闇でもなんでもなく、白いワイシャツに泥をつけ、顔中土まみれになった青年と少年の姿だけだ。少年にいたっては白のブラウスに寝間着ともとれる深緑のカーディガンを羽織り、細い脚には黒いズボンをまとい、足はあわてて履いたのだろう革靴が片足を収めていた。もうひとつの靴はなく、寒さのせいで少年の白い顔の中紫の唇が浮き上がって見えた。隣に立つ青年は寒さなど感じないのか静かに深紅の視線を少年へと注いでいる。
「お前、バレリエーレの当主、だな」
少年の緑の瞳が揺れた。わずかに瞳が潤んでいたがそれよりも唇やシャツなどにできた切り傷のほうに目が奪われる。まるで、まるで悪意のある誰かに傷つけられたかのようなその姿に。
「ええ、そうです」
「お前がバレリエーレの前当主を殺したのか」
見えない矢に突き刺されたかのように、虚を衝かれた少年は息を飲んだ。少年の隣の青年の目に色が浮いたような気がした。不可思議な虹彩をこちらに向けた青年の深紅にたじろぎながらも、男は応えろと促す。ここではっきりと少年の立場を把握しておかなければ痛い目を見るのは男だ。
「応えろ、坊主」
「……僕をそう呼ぶのはあなたで二人目だ」
少年はかすかに微笑み、頷いた。紫色の唇が震えながら囁く。大きな緑色の瞳から静かに泥ついた涙が零れ落ちて、汚濁をため込んだ泥水の中に混ざった。
「僕が、殺した。殺したも同然だ」
確かに合致していた視線が突然消えた、そう思った瞬間目の前にいた少年は泥水の中へと突っ伏した。翼を仕舞い込んだ青年は少年が崩れ落ちる瞬間とっさに腕を引いたが、少年の顔は泥水の中に無様にぶち当たる。激しく咳き込む音に青年がしゃがみこみ、糸が切れたように瞼を閉じた少年を抱き上げ、男を見た。
何も映っていないかのような深紅の眼にけれど男は狼狽を見る。それが自分のものなのか青年のものなのかわからぬまま、ちっと舌打ちをして上着を脱ぎ、ふたりのほうへと駆け寄った。じっと見つめてくる視線の意味を無視し、抱き上げられた少年に上着をかぶせる。苦しそうに息を吐く唇は紫を通り越してもはや青く、かすかに触れた手は尋常ではないほどの熱を感じた。ためしに少年の額に手をやると子ども体温では済まされぬほどの熱が、男の厚い皮膚を通して伝わってきた。
「っめんどくせえな、おいお前こいつと何日ここにいた」
「セシー」
「応えろよ、応えなけりゃこいつ放置すんぞ!!」
「わからない、三日か、それくらい」
「は?」
信じられなかった。食事をできるような状況でもなしに悪天候にふたりそろってさらされながら三日間、この貧民街で生き延びたその事実に。男は思わず笑う。嘘だろ、おい。
「クソッ!! なんだってこんなしちめんどくせえ――っおいお前!! いいか、ぜってえてめえのでっけえ羽根出すんじゃねえぞ、出したらそこのガキから引きはがされると思え! わかったな!?」
青年の深紅の眼にむかって指を突き立てそうまくしたてると、彼は目をぱちくりさせて頷いた。子どもめいた仕草はフィリップやその友人たちを思い出させるが、馬鹿な話だこんなサイズのクソガキがいてたまるか。男は、ジョーウェル・エヴリーは、こんなふざけたことに巻き込まれた自分の不運を心底呪うように悪態をつきながら歩き出す。
しかしついてくる音がないことに振り返ると、少年にヴァルと呼ばれていた青年がぼんやりと抱き上げた少年を見つめて立ち尽くしていた。もはや何もいわずにジョーウェルは青年へ近づき、彼の腕を掴むと歩き出す。少年はまだしも青年は何も問わぬままだった。自分をどこに連れて行くのかも、少年が助かるのかも、何も。
どんよりとした鉛色の空が自分たちを嗤っているように見えて、男は舌打ちをした。なんという厄日だろう。
「死ぬなよ、坊主」
お前に死なれたら困るんだ。
セシリオ少年とヴァルという鳥がジョーウェルの日常に転がり込んできた日から、数日が過ぎた。フィリップとも同じアパートの空き部屋に彼らを押し込め、簡易ながら部屋の掃除を行って熱い少年の身体を寝かしつけてから、ともいうことができる。
鳥の青年はぼんやりとジョーウェルが甲斐甲斐しく世話をしているのを見守っているばかりで自分から動きはしない。時折怪訝な目を向けたり険しい目つきになったりする他、ひとつっきりしかない窓とセシリオ少年を見ていた。聞いてるのかよくわからないが、ジョーウェルが看病するときのコツをさながら独り言のように呟いた翌日、自分でたどたどしいながらも看病をしていたのだから、耳は機能しているようだった。
セシリオ少年はうとうとと微睡み時折魘される他、なかなか目を開こうとはしなかった。何度も目覚めそうなほど瞼が震えているのに、決定打に欠けているのか、悪夢がその手を緩めてはくれないのか、目覚めぬままだ。さすがにろくに食事もしていない状態で眠り続けるのはよくないと判断したジョーウェルが無理やり起こして、ようやく意識を取り戻した。
目覚めたときじっと見つめる自身の護衛と、そしてその隣に座るジョーウェルの目に気がつくと、セシリオ少年はすべてを理解したようだった。か細い息を吐いて、苦笑する。なぜこうも、このガキは、大人の仕草が似合うのだろうか。諦めてしまった大人のような仕草が。
「僕は、今後どこに移動することになるんでしょうか」
「まだ警察には知らせてねえ」
「へ?」
彼を見つけて初めて年齢にふさわしいきょとんとした表情を見たと、ジョーウェルは思った。子どもと大人の境目、大人になることを強いられた子どもが、迷い込んだ世界に馴染めずにただ戸惑うだけのように、セシリオ少年の緑の瞳は揺れていた。
「なぜ」
「お前を最初に見つけたガキたちのリクエストにお応えしてやっただけさ」
「あなたは……、一体何者なんですか。どうして僕たちのことを知っていらっしゃるんですか」
ジョーウェルはオレンジの混ざった茶色の髪をがしがしと掻き、肩をすくめながら返す。
「俺はジョーウェル・エヴリー。何者かっていわれたらなんて答えりゃいいのかわかんねえが、この貧民街ルクシエルの自治を任されてるもんだ。あーっともちろん領主にゃ許可なんてもらってねえぜ? 俺たちが勝手に組織作って自治してるだけだ。まぁ貴族の坊ちゃんにはこの街の貧困もわっかんねえんだろうけどよ」
嫌味ったらしく、ねばつく泥のように口の中で唾をこねる。ぺっと吐き捨てた液体の散った汚い床を見下ろし、ゆっくりとセシリオ少年は顔を上げた。何かを図るようで、確証を得ることができないものの目をしていた。けれどその一瞬のち、少年は沈鬱そうな顔をして目を伏せた。自身の傲慢に罪悪を覚えたのか、それとも、それとも一体なんだろう、彼は何を想って目を伏せたのだろう。
「きっと、僕にはわからないのでしょうね……」
「なぁそれより坊主、お前これから先どうするつもりだ。自分が警察に捕まるだろうなんてこたァわかってんだろうが、もし捕まらなかったとして、どうするつもりなんだ。おめえ自分が天涯孤独になったって知ってんだろうよ」
薄い少年の唇が一瞬にしてぎっと白く染まる。伏せられた横顔からは何もわからないが、彼の身体が震えていることには気が付いた。緑めいた黒髪のくせっ毛がふるふると震え、少年の手は白く握り締められる。話題を間違えたわけではないと思いながらもジョーウェルは言葉を紡げなかった。ジョーウェルには必要な言葉がわからない。
この少年は、自ら天涯孤独になったのだから。
「なにが」
「ん?」
「何が起きたのか、――っあのとき、僕は、なにがあったのか、何が起きて何が起こらなかったのか、僕にはわからなかった」
震えるほどか細い声だった。ジョーウェルはセシリオ少年の顔を見るでもなく、窓の向こうを見つめていた。外は雨がしとしとと降り注ぎ、革命の火を鎮静化させていく。それでもきっと明日にはまた放火が起きるのだろう、すでにこの一週間日常となった革命のために。やがてジョーウェルは窓の外に、いや、窓のこちら側に映る深紅の眼に気が付いた。血のように恐ろしい赤だと思いながら、鳥の青年を見つめていた。
「……わかっているんです、僕が殺したことくらい。それでも、あの屋敷に火をつけたのは、僕じゃない」
「それで?」
ぽそりと落ちた僕は、という言葉以外、何もかも見つからないのだといいたげに、セシリオ少年は頭を掻きむしる。その手をとめることもなく男がじっと見つめていると、両腕を質素な毛布の上にぽんと放り出した。ぷいっと子どものようにそっぽを向いて、かすれた声が泣き声を上げる。
「僕はまだ、――死にたくないっ!!」
小さいのに不思議なほど通る声だった。涙に濡れた声が室内に反響して、窓に天井に床にベッドにぶつかり、やがてころりとカラスの青年の前に転がった。青年の目にはもちろんそれは映らず、代わりにセシリオ少年の腕を取った。ぷつりと切れた白い指から赤い血が流れて、ジョーウェルは当たり前のことを思う。ああ、こんな少年でさえも、生きているのだと。
「お前さんは捕まったところで死にゃあしねえよ。お前が死ぬとしたら、お前の親父様の家に火をかけたやつに殺されるくらいだろうさ。でもそうさな安心して死んでくれ、お前が死ねば貧民街に舞い込んだ災厄も減るだろ」
ばっと振り返った少年の頭をがしりとわしづかみにする。感慨深かった。たかだか成人前のガキが、生きるためにあがくなど。誰もがまるで命をごみのように捨てる貴族たちの世界で、生きるために必死に抗うなんて。
怒りで少年の目が赤くなって、顔も全体的に血が上り赤らんでいく。伸びてきた青年の腕を避けるべくジョーウェルはセシリオ少年の頭を乱暴に放してやった。両手で頭を抱える幼い子どもをどこかしらの敬意を込めた目で見つめながら、男は尋ねた。
「なぁ、なんで生きたいんだよ、坊主?」
心の底から湧き出た疑問だった。ジョーウェルが得た知識ではセシリオ少年の人となりや考え方などわかるはずもない。ただ彼が反イルーシェン派でもなくまたイルーシェン派の婚約者がいるのにもかかわらず研究所派であるという事実だけだ。それに婚約者との年の差は七つで、行き遅れと揶揄されることの多い二十歳を超えた女性であり、この少年が婚約者を愛せるほど器用だったようにも見えない。そして何もかも失ったこの賢い貴族の少年が、貧民街で生きていけると楽観的に考えるとは到底思えなかった。
ジョーウェルにはわからない。この少年がどうして生きることを望むのか、心底わからないのだ。
「――許せないから」
空気を裂くほど、鋭利な声がした。成人前の少年の口から出た声とは思えず、ジョーウェルは眉をひそめ、突き刺さる視線に絡み取られて動けなくなる。緑の瞳は、まるで魔法使いのように、忍び込み、突き刺し、揺るがし、籠絡し熱を見せる。
「僕は、許さない。僕は僕を許せない。僕たちを守ることができなかった僕を許せない。守る手段もわかっていたのに、僕は、殺されそうになって生き延びることだけを考えた。僕は死ぬわけにはいかなかった、僕たちが、僕を殺そうとした父さんを許すために僕は死ぬわけにはいかなかった。僕が死んだら、父さんが僕を殺そうとしてまで守ろうとしたものが守れなくなる、そんなの、そんなんじゃ何も意味がない」
熱にうかされたような瞳をしていた。爆ぜる様な激情を見せるわけでもなく、ただめらめらと火が立ち上る。緑の中に目を焼きそうなほどの火が燃えていた。暗くはないはずの火だというのに、それは決して美しいということはできない色をしていた。
ジョーウェルはセシリオ少年の言葉の意味をただひとつ除いて理解することができなかった。だからこそ唯一理解できた言葉を繰り返す。雨の音がやたらと耳に響いた。
「僕を殺そうとした」
セシリオ少年の目が震える。ジョーウェルの目に怯えたように唇が戦慄いた。一言も言葉を発さないヴァル青年は捨てられた花のように首を落とし、セシリオ少年の腕を掴んでいるだけだ。
「と、いったな。お前は、お前の意思で元から計画していた通りに父親を殺したんじゃないのか」
「違う!! 違います違うんだ、僕に父を殺すメリットなんて何もない!!」
ぶわりと炎を含んだ緑の瞳から水が零れ落ちた。垂れ流される涙にまるで気づきもせず、少年は青年に掴まれていない方の腕を自身の膝に叩きつける。ばしりと、痛い音がした。
「父さん……」
静まり返った部屋の中に少年の高い声が響く。肩を震わせる彼を鳥の青年と同じようにただ見つめながら、男は考える。この少年の言葉が指す意味を。
「生きてどうするつもりなんだ? 生き延びてどうするつもりだ。お前の見た曖昧な記憶を真実だと認めさせるために生きるのか?」
言葉は嘲笑と共に唇から伝い落ちた。セシリオ少年は強引に目を拭いながらきつい視線をこちらへと寄越す。どれほど賢い少年なのかジョーウェルにはわからないが、そんな姿はただの生意気なガキだ。男の口元に浮かぶ笑みを睨むのは、子どもくさい。
「不確かな記憶を信じてもらう? まさかそんなふざけた話じゃねえよなぁ、え、セシリオ少年?」
「そんなふざけた話で何が悪い!!」
「どうやって。生き延びて何をしたい。その返答次第によっちゃ生かしてやるよ」
はた、と少年は狼狽えた。今更のように自分の命が男の気分によっては潰えるものだと気がついたのか。けれどその事実に狼狽えたようには見えなかった。なんだ、なんだろうかこの違和感は。
「生き延びることができるのなら、僕は革命軍に参加する」
きょとんと、思わず男は少年を見た。幼いガキのいっている言葉の意味がわからなかったからだ。少年は笑うでもなく嘆くでもなくただ真っ正直な目をこちらに向けて、言い放つ。
「僕の屋敷に火を放ってまで望んだ女王を、見極めるために」
「おい待て、火を放ったっていったって革命軍かどうかなんてわかんねえだろ。もしかしたら」
「そう、もしかしたら違うかもしれない、革命軍ではなく反イルーシェン派のやつなのかも、もしかしたら研究所派の人間なのかも。でもそれは生き延びて調べない限り僕にはたどり着けない情報だ、違いますか? 他の誰が僕の望みを叶えてくれるんですか?」
「どうあっても生きるつもりか」
肝が据わっているとジョーウェルは思う。そうだ、セシリオ少年の言う通り誰も彼の望みなど叶えやしない。貴族が没落し消えていくことなど日常茶飯事だし、むしろそうして落ちて行った貴族に関わろうとする人間はいない。それならば、生き延びて納得するほうが万倍もマシだろう。納得するか否かは、本人にもわからないのだろうが。
少年は強い眼差しをジョーウェルに向けて、こくりと頷いた。緑の瞳は今度こそ何も感じさせず純粋な色をしていた。不信を抱かせないためには十分なほど、澄んだ色を。
「僕は、僕が結果として殺してしまった父のために、生き延びることを望みます。父の死の真相を知るために。陛下を見極めて、僕が、納得するために」
納得しなかったとしたら、彼はどうするのだろうか。女王を殺すのか、それとも自決するのか。
肩をすくめた。ジョーウェルには難しいことはわからない。常として考えることを放棄することはしないのだが、今回ばかりはどうしようもなかった。この少年の精神が安らぐまでは何があったのかを伝えることなどできないのだろう。
ならやることは簡単だ。部屋を出て自宅に戻り作っておいたスープを温め直し、少年の元へと戻る。数分席を空けていたのならヴァル青年も動くだろうと思っていたのだが、ジョーウェルの予想とは裏腹に、彼はセシリオ少年の腕を握ったままだった。ただ立っているだけだ。
テーブルの上にスープと木製のスプーンをふたつずつ置き、勝手に食えと吐き捨てて部屋を出た。
煩わしい問題に巻き込まれてしまったことを毒づきながら、これから先何が起きるかを考える。特に、ジョーウェル・エヴリーという人間に与えられた役割に沿った正しい行動を。
廊下の向こう側、残された少年がほっとした顔で鳥の青年に抱きついていることなど、気がつきもしなかった。
セシリオ少年が貧民街ルクシエルに馴染むまで、それほど長い時間を必要とはしなかった。身体が癒えるとすぐに少年は街に出ることを望んだ。もちろんベッドからずり落ちたところをジョーウェルが見つけて引きずり戻したというなんとも情けない話なのだが。
「まだろくに立てもしないくせにどこにいくつもりだ、クソガキ?」
腕を掴んで持ちあげると、不恰好に落ちていた少年は気まずそうに目をそらした。賢いと言われるだけあって自分がそもそもジョーウェルの意図によって、ここに据え置かれていることにも気がついているのだろう。貧民街としては相当優遇されていることも。
セシリオ少年の両足は栄養失調と体温の極端な低下によって歩くことが難しくなった。リハビリをすれば以前のように走ったりすることも可能だと、ジョーウェルが連れてきた貧民街一の医者はいう。貧民街のヤブ医者など歯牙にも掛けぬ貴族そのものの反応をするかと思っていたが、セシリオ少年は真摯に話を聞いて落胆したようにそうですかとつぶやいた。リハビリをする時間がないことなど彼自身よくわかっていたのだろう。
しかし彼は諦めなかった。こそこそとジョーウェルが与えた部屋の中で、鳥の青年の腕に捕まりながら歩く練習をしている様子は何度か見かけた。だから少年が部屋から出て男を見つめたとき、ため息をつきながら男は少年のために扉を開けてやった。
「どこに行くんですか?」
少年の手を掴んで雑多な貧民街を歩く。物が溢れて雑多なわけではなく、疲れきったひとびとが荷物とともにうんざりしたような顔で座り込んでいるから雑多なのだ。革命は徐々に貧民街を貪り始めていた。研究所や王家がどうといったところで貧民街に住む彼らには直接的には関わりがない。ただ混乱した経済の打撃を受けて生活は苦しくなり、貴族たちの住まう首都から大量のひとや物が流れ込み、街としての機能がろくに動かないことすらままあった。
地下組織として街を援助してくれる人物はいるが、そうはいっても革命の規模が大きい。このままでは確実に街としての機能すべてが破綻してしまう。それだけは避けなければならない。かつて放逐された自身を救ってくれた街に、恩返しもできないのでは昔気質なところのあるジョーウェルにとっては屈辱だ。
だからこそ伸ばされた手を掴んだ。そして今、確実に有力になるだろう少年の手を取って街を歩く。鳥の青年は置いてきた。彼の容姿はどことなく異質に見えてしまう。
セシリオ少年にはジョーウェルが過去に着ていた服を着せていた。おかげで丈のあっていないぼろぼろのズボンの裾を巻いて、歩くたびにかぽかぽと音を立てる靴を履き、目深にまでかぶったキャスケットのおかげで、そこらへんにいる少年へと姿を変えていた。女の平均身長よりわずかに高いくらいだが、年齢とはやや釣り合わずに小さい。ジョーウェルの手を握り返す指も小さいのだが、しかしそれ以上に気になったのは剣ダコと、銃を扱う人間がときどきなる手のひらの一部分の厚さだった。暴発することの多い西の銃は利用方法を知らない限り撃つたびに手が焼ける。少年の手のひらは、火傷したあとの肌のようにのっぺりとしていた。
ちらちらと視線がこちらに向かっていることには気がついていた。セシリオ少年くらいのガキどもはあまり数が多くはない。だからこそジョーウェルの連れている謎の少年に誰もが視線をやるのだろう。このまま気付かれずに済めばいいのだが。
「黙ってろ。お前のお綺麗な口調じゃ身元がバレるぞ」
そうジョーウェルがいい終わった途端に、突然くいっと後ろを引かれてぱっと振り返る。セシリオ少年は無様に顔面から泥だらけの地面に向かってダイブしており、せっかくかぶったキャスケットもぽんと転がってしまっていた。このバカと思わず毒づきながら少年の腕を引いて立たせ、キャスケットをひっつかんで彼の頭に被せたその瞬間、ジョーウェルの肩に誰かが手を置いた。
「よぉジョーウェル。なんだてめえもついにガキに手を出すほど腐ったか?」
振り返った瞬間伸びてきた手を咄嗟にジョーウェルは受け止めていた。がしりと掴んだ手の先にいた相手は、ジョーウェルが昔つるんでいた友人だ。他の共に悪さをしていたチンピラたちが、まるでジョーウェルと少年を囲むように円を描く。二人を見やるその他大勢の視線は無慈悲だ。何が起こるのかと楽しみにしている傍ら、その大半が少年へと視線を向けている。
バレたのか。だが何故。
「笑わせんな、イゴールと一緒にすんじゃねえよ。それより何の用だ」
「お前の連れてるそのガキ、何もんだ。見たことねえぞ。まさかとは思うが、バレリエーレの殺人犯じゃねえだろうな」
疑り深い小さな目がじろじろとジョーウェルの後ろに立つ華奢な少年を見やる。今更言い逃れもくそもできねえだろうなとジョーウェルは浅いため息をついた。面倒だ。
そもそも革命という過激な戦いよりも親殺しの少年のほうに脅威を感じるというのもおかしな話だ。どう考えても今後を左右するのはこんなちっぽけな存在ではなく、革命とかいう大層なものに違いないのだから。
しかし今彼らに必要なのは現状への苛立ちをぶつける相手だ。革命に手を出そうものならどちらに転んだところできっと死ぬ。ならば親殺しの少年を「事故で」殺してしまったなら、どうだろうか?
ジョーウェルは肩をすくめ、背後にただじっと息を詰めて立つ少年を振り返った。
不安そうな瞳をしているかと思いきや、その目は毅然とジョーウェルを出迎える。暗い緑の眼がすべてを知っているかのように瞬いた。この先何が起こるのかも、わかっているのだろう。
少年の肩を掴んで自身の前に押し出しながら、先ほど会話した男の前に突き出した。少年は転びそうにもならず、不安そうな瞳にもならず、ただ男の前に立つ。
「ご明察だぜ、ミハイル。そいつはバレリエーレの坊ちゃんだ。体調が元に戻るまで面倒を見てやった」
「おい……、お前今の言葉の意味わかってんのかよ」
ドスの効いた声をジョーウェルは鼻で笑い飛ばす。聴衆がざわめいていることには気がついていたが、だからといって今何を言うべきかなど決まっていた。聴衆の目は少年をさながら悪魔を見るかのように畏怖を多分に含んで見つめている。彼の一挙一動を、見逃さないとでもいいたげな視線は、やり場のない怒りを秘めてそこにある。
悪く思うなよ、と胸の内でつぶやいた。
「ああ」
「なんでそんなやつ救ってんだ天下のジョーウェル・エヴリーがよお!! お前が救うべき人間はもっと他にいるんじゃねえのかよ!?」
激昂した声とともにがっと襟首を掴まれる。自身よりも体格のいい男を相手にしているというのに、ジョーウェルはただにやりと笑っただけだ。
「そうだな。だがこいつを抱き込めれば貧民街は安定だ」
「なにいってやがる」
「聞けよミハイル。このガキはあのバレリエーレのガキだ。それになんとな、このガキは女王陛下をお助けしたいんだとよ。わかるか? 陛下をもしもこいつが助けることができたなら、こいつの地位は鰻登りだ。革命のせいで一家が滅亡したガキを放り出すなんて、あの革命軍のリーダーがするように見えるか? いいや違うね。このガキの才覚に賭けて利用する。なら俺たちだって利用してやればいい。革命の被害を一番受けてんのはこっちだってんだ、こいつの立場を利用すればいい」
矢継ぎ早に告げた言葉にミハイルは一瞬戸惑い、ジョーウェルは男の手を振り払った。もはや氷の仮面のような目をしている少年を男の前に押し出せば、男は一歩後ずさった。男の目には怒り以上に怯えがにじむ。
「なにすっとぼけたこといってんだ、親殺しを擁護する人間がいるはずが」
「貴族の世界では親殺しも子殺しも雀の数ほどよくある話だよ、ミハイル。それに、こいつは親殺しじゃない。親に殺されそうになったんだ」
「はぁ? ならなんで両親だけ死んでんだよ、妹がいるんじゃなかったのか? そいつは殺されなかったのか?」
冷静さを滲ませる小さな肩が、ぴくんと跳ねた。そういえば、とジョーウェルも疑問に思う。どうしてこの少年は妹の安否を口にしなかったのだろうかと今さらのように不思議に思った。この半分だけ血の繋がった兄妹がどういう関係性なのか知らない以上、ジョーウェルが口出しなどできるはずがないのだが、しかし質問すらしないのもおかしい。
少年の肩に手を置けば、それは怒りを嘆きを込めて強く震えていた。
「必死で、逃がしたんだ。チェスカだけは、チェスカだけは守りたかった。僕が守れる唯一の存在だけは絶対に殺したくなかった。逃がしてやりたかった」
「どこに? どこに寄越したんだそのガキを」
「もうこの国にはいません。遠い盟約のために他国へ向かわせました」
「そいつは生きてるんだな」
「殺させはしません」
ここに来て、ジョーウェルは初めてこの少年の本当の声を聞いた気がした。どことなく影を帯びて完璧な微笑みを保っていた表面が、パリパリと音を立てて崩れていく。その中から覗くのは、子供じみた無邪気な哀望だ。救いを求める幼い少年の姿だ。
「チェスカは何が何でも守ります。たとえ僕が死ぬことになったとしても、あの子を救うためなら造作もないことだ」
強気な言動とは裏腹な掠れ声が叫んだ。遠巻きに見守る貧民街の住人たちはその声にはっと息を飲む。
単純明快な動機なのだ、この少年が動く理由は。それこそ貴族でもなんでもない貧民でも、むしろ親殺しや子殺しが平然と起こす貴族よりも、きっと理解できるのだろう。
「僕は遠い国にいった妹を守るために革命軍に入ることを望みます。この国がよくなれば、きっと遠い国にいったチェスカも、いつか帰って来れるから……だから」
きっと唇を引き結ぶ。白い肌は変わらない。この汚れ切った街の中で、同じような泥を啜ったというのに貴族めいた白は変わらない。その手に剣や銃を握ったとは微塵も思わせぬほどの、白。
緑の瞳がひとびとの目を射抜いた。
「ジョーウェルさんや今まで僕のことを黙っていてくれたひとたちに感謝しています。それでも僕の不注意でこうなってしまったのなら、僕はおとなしくここから出て行きます。あなたがたには迷惑をかけません。ただ僕は、単純に、妹を守りたいだけなんです。巻き込んでしまったのなら、ごめんなさい」
やけに最後の謝罪が子どもじみて聞こえた。ミハイルだけでなくまわりにいたギャラリーは、まるで口にべたりとテープでも貼られてしまったかのように言葉を失っていた。ただ少年をじっと凝視するあまたの目があるだけだ。そこに意味はない。何の意味も。
「さ、もういいだろ。俺はこいつをドンの元に連れて行く。どうする? この坊ちゃんは殴られることももちろん承知済みだ。そうでなきゃ俺の元でいつまでもぐだぐだなんてしてねえだろうしな」 ぼすっと少年の頭に手を置いてぐいっと左右に揺らせば、少年の頭は子どもの頭のように軽々と振り回された。きっと苦い顔をしているのだろうと思いながらジョーウェルはにやにやと笑う。やめてくださいと渋い声の文句を聞きながら、男は少年の肩を抱いて振り返った。
「じゃあいいんだな」
「おいクソガキ!」
声が飛んでくるがジョーウェルは足の速度を緩めはしなかった。立ち止まろうとするセシリオ少年の肩をしっかりとつかんで群衆の分け目に向かってひたすら足を運ばせる。少年の小さな背中に向かって投げ込まれた声と、視線は。
「てめえが何をしたのか知らねえしわかりたくもねえが、責任はとれよ。せめてここに来た影響分くらいはよ」
どこにも向けられない怒りと嘆きの色だった。
少年の来訪を告げたのは、粗野な声の若者だった。ドン・オレンゴに余計な負担がかからぬようハイマンが手配した見た目とは裏腹に真面目な青年だった。もしくは家族のためにしっかりと稼げるこの職のために真面目になっているのかもしれないが。 なんにせよヴィッラ・オレンゴとハイマン、そしてグド・ルーブが書類を持ち合わせて某かについて激論を交わし合っている中、部屋の扉が振動した。その当たり前の音がひとつ響いた瞬間三人は一瞬にして口をつぐむ。その後ふたつほど叩かれた音を聞くと、グドが扉を開けた。相変わらず血の匂いをさせる大男を見た瞬間青年は一瞬身を震わせるが、わずかに口をへの字に曲げた後、室内に足を踏み入れた。
「ジョーウェルが来ました。当主も連れてきてくれたようです」
「結局彼が来たのはルクシエルか……、ふむ。構わん、いれてくれ」
「はい」
青年がジョーウェル・エヴリーという男と少年を呼びにいく間、ヴィッラ・オレンゴはその身体をソファにどっかりと沈み込ませた。ハイマンが容易させた冷たい水の入ったグラスをあおり、手元にある書類とそして初めて顔を合わせることになる少年のことを考える。成人も済ませていない十四歳の少年のことを。
ハイマンもグドも余計な口を効くこともなく、ただ黙って扉が開かれるのを待っていた。扉の向こう側から足音が響き、独特なノックの音にやはりグドが扉を開く。足を踏み入れようとして少年は一瞬足をとめ、グドの顔をじっと見つめると軽く会釈をして歩を進めた。ヴィッラがハイマンと今まさに中に入ろうとしていたジョーウェルに合図をし、グドを残して立ち去らせ、室内は少年が身にまとってきた冷気とともにすっと冷える。
ソファに深く腰掛けたヴィッラを見下ろし、少年は緑の瞳を冷徹なまでに光らせて唇に笑みを載せた。十四歳という年齢が載せるべきではない笑みを。
「お会いできて光栄です、ドン・オレンゴ」
「この国への投資に、きっとお応えできるでしょう」
ぱちぱちと身体が焼ける音がした。わたしの伸ばした腕が、指先が、爪先すらも、ぱちぱちとぱちぱちと、ただ音を立てて燃える音がする。人間にとっては気持ちのいいからりと枯れた葉の匂いは、わたしの身体の削れる匂いだ。わたしの身体が人間の言うところの声となり、悲鳴をあげている音だ。人間はどうしてこうも無慈悲なのだろう、草木の声を聞こうとはしないのだろう、ただ人間だけを愛しているのだろう。
わたしはとても悲しい。
涙は人間や猫、犬それから鳥などといった動物しか流せないのだと、わたしたちの住む屋敷の少年主人はいっていた。いとしそうにわたしが生んだ最も美しい子どもの頭を撫でながら、少年はいっていた。
ああ、彼は違った。あの少年は、わたしたちを見てくれた。だからわたしも彼を愛していた、人間だけれど愛してあげる気になれた。
その少年は、今、わたしの身体を燃やす火によって、彼の暮らす屋敷を喰らい尽くされる様を見つめながら、ただ黙ってわたしに背を向けていた。ああ彼もわたしを愛してくれた庭師がそうだったように、わたしを不器用に抱き上げたカラスの青年のように、わたしに背を向けて逃げるのだろう。なんとひどい裏切りだろう、わたしたちを守ってくれると信じていたのに。なかなか浴びることのできない太陽のような笑みを放つ少女のように、わたしたちを守ってくれると信じていたのに。
ぱちぱちと火は音を立てる。わたしは痛みに身体を捻じ曲げて、苦痛の声を上げる。
ああそれでもあなたを許してあげよう。少年よ、少年よ、あなたは選んだのね。それが間違っていないと信じているのね。これほどの火があなたの肉体を苛んだとしても、あなたはそれを信じるのね。
信じているのなら泣いてはいけないわ。ねえ、幼い当主さま、誰もいなくなってしまった屋敷を前に泣き崩れるあなたは、ただの幼い子どものようよ。
眼前で少年は泣き崩れる。こぼれた声を聞き取ることはできない。火がわたしの耳を舐めたから、もうわたしは声を聞くことも音を聞くこともできなくなった。それはある意味幸運だったのかもしれない、だってわたしの子どもたちの泣く声もわたしの悲鳴も、そしてわたしの愛した少年の絶叫も、聞かずに済むのだから。
ねえ、泣いてはいけないわ。あなたは選択した。選択したのよ。選んでしまった。この戦火に巻き込まれることを選んでしまった。ならば、あなたはもう泣いてはいけない。この燃え盛る火を沈静化させるまで、あなたは涙を流すことすら許されない。
忘れないで少年よ、あなたが選んだその結末を。あなたの両親が火に焼かれ、あなたの妹が遠い彼方へと去っていたその事実を。あなたに残されたのはただひとり、カラスの青年だけだということを。
あなたは、選んでしまったのよ、この結果を。
ぱちりと一際大きな音が爆ぜる。わたしの身体は大きく跳ねて真っ赤な花を咲かせた。ああなんて美しい空なのでしょう、青いあおい空がわたしを呼んでいる。もう実らない身体を労わるように抱き上げられる。
少年よ、忘れないで。
バレリエーレ家という研究所派の大きな一家が革命前夜に滅んだという話は、瞬く間に城下に広がっていた。スラム街と揶揄されることの多い貧民街にはまだ火の手は上がっておらず、いつも通りだがどことなく不穏な空気を漂わせたまま、ひとびとは常と変わらない日々を送っていた。革命が起こったといわれても、貧民である彼らには特別大きな害はなく、消費者の激減した職人だけが革命という惨事を嘆く。それから富裕者層のもとで働いていた女たちが慌てて帰ってくる姿か。
革命が巻き起こった数日後のある昼のこと、男は、またひとり焼け焦げた髪をくくり、巨大な荷物を抱えて転がり込むように駆けてきた女の腕を掴んだ。ぱっと顔を上げた女の目は縋るような切望が映り込み、煤まみれの顔は昔年はさぞ美しかったことをうかがわせる。
「あんた、あんた、ねえここはルクシエル街四区で間違ってないよね? ねえ、ねえ!」
女の声は震えていた。また新しい見ものができたのかとわらわらと人だかりができる中、男は座り込んだ女と顔を合わせるために膝を折り、ああとしっかり頷いた。その動作に力を得たのか女は安堵したようにほろほろと涙を流す。
「よかった……帰って来れた……」
「どこの家からの逃亡者だ?」
「まさか連れ戻す気じゃないよね? 嫌だよわたしは!!」
瞳は怯えか恐怖かで揺れ、女の手は男の腕を放す。身を守るように荷物を抱きしめて嫌だと女は叫んだ。
「安心しろ、ただ確認するために聞いているだけだ。お前を連れ戻すなんて無駄なことをするはずがない」
「何を確認してるのさ」
「親殺しのバレリエーレ坊ちゃんのところで働いていた使用人どもだよ。共犯かもしれねえ危ないやつを野放しにゃあできねえだろ」
「親殺し?」
女は何をいっているのかわからないといわんばかりに眉を顰める。彼女の反応とは裏腹に女と男を取り囲む人だかりはみな納得したように頷いた。
「ちょっと待ってよ、親殺し? あの坊ちゃんが?」
女の高い声に場は一瞬にして静まり返る。男は女の濁ったグレーの瞳を見つめながら問う。
「知ってるのか?」
「ええ、そりゃもちろん。バレリエーレの坊ちゃんっていったら弱冠十四歳で当主の座を得たあの坊ちゃんだろう? 世渡り上手で社交界からは疎まれてもいたし恐れられてもいて、それから研究所派の父親が研究所に多額の出資をしていたとかなんとかいう」
「随分詳しいじゃねえか」
男の声に女はぶんぶんと千切れそうなほど首を振った。せっかく舞い戻ったのだろう出身地から放逐されることを避けたいと願うのは、人間なら当然だ。
「こんなの詳しい方じゃないよ!! ただわたしのご主人がバレリエーレの坊ちゃんを大層お気に召していたから……」
「簡単なことだ、お前のご主人の名前はなんだ?」
「モントリーネ子爵だよ」
人だかりはもちろんのこと、男も言葉を閉ざした。女は不安そうに目の前にいるオレンジ色の混ざった茶髪の男を見つめている。男は自分の脳に叩き込んだはずのリストからその名前を探し出そうと必死になっていた。やっぱり俺みてえなチンピラには覚えるなんて難しいぜ。
やっと引きずり出したデータを脳内でパラパラとめくりながら、男は女の顔を見た。不安そうなグレーの瞳といい元から煤けていたのだろう金髪といい、モントリーネ子爵の元で働いていたという使用人に違いない。男はふっと口の端を緩めた。
「モントリーネ子爵なら知っている。確か反イルーシェン派じゃなかったか?」
女は今現在革命の発端となっている派閥の名前を聞くと、嫌そうに思いっきり顔をしかめた。ここに来た使用人といえばみな一様にこの顔になるのだからおかしなものだ。
「らしいね。ああご主人様がバレリエーレの坊ちゃんを気に入っていたのは役に立つだろう駒としてだよ。見事にご主人様の期待を裏切ったみたいだけど、あの坊ちゃん」
「モントリーネ子爵は今どうなったんだ? お前だけ逃げて来たのか?」
「屋敷に火がつけられたんだよ、革命軍の仕業さ。ご主人様はどうなったのか知らない、革命に巻き込まれるのはごめんだっていうメイド仲間と飛び出して来たんだ」
「その仲間は?」
「はぐれたよ。あの子はルクシエル出身じゃないから途中で方向を変えたのかもしれない。城下町は今ひどいことになっててどこに何があるのか誰がどこに住んでるのかハチャメチャだよ。でもルクシエルが無事でよかった」
心から安堵したように女はそう告げた。観衆もそろそろ次の幕が見たいのだろう、ざわざわと生きた人間としての気配が立ち上る。政治に関わる話に詳しいのは現状ここにいる男だけだから、誰も余計な口出しをしないのだ。もう聞くべきことは終わっただろうといいたげな空気に、男は肩をすくめて応える。
「家には帰れるか?」
「大丈夫、覚えてる」
「いい子だ」
女の頭をくしゃりと撫で、片手で器用に立ち上がらせて男は群衆を振り返った。
「こいつはルクシエルの人間だそうだ。よくしてやってくれ」
おうとかああとかさり気ないが力のある声があちらこちらからぽろぽろと上がる。人だかりの中から数人が動きだし、モントリーネ子爵の使用人だった女は人波に飲まれて行った。それをぼんやりと見守りながら、男はやれやれとため息をつく。ふと顔を上げると空は例のごとく曇天だった。
「こりゃ一雨くるな」
呟いた声は群衆の声に掻き消された。
男が自宅のある小さなアパートに向かう途中、泥ついた路地裏から六七歳と見られる子どもたちが数人飛び出して来た。きゃっきゃと笑い声は甲高く、何か目新しいものを見つけたのだろうかその目はきらきらと好奇心に輝いている。何かが頭をかすめて男はすれ違おうとする子どもたちのうち、同じアパートに住む赤毛の少年の名を呼んだ。
「フィリップ!」
「あれ、ジョーじゃん! どこにいたんだよ?」
「まーた仕事だよ。なんだお前ら随分楽しそうじゃねえの」
少年と同じ目線になるべくよいしょといいながらしゃがみ込むと、少年の仲間たちもわらわらと集まって来た。ここら一帯ではそこそこ名の知れた男であるジョーを、物珍しそうにじろじろと無遠慮に見つめている。
フィリップはにひひと前歯の抜けた間抜けな笑みを浮かべて、ジョーの目の前に一本指を突き立てた。
「ジョーは約束守れるよな! 男の約束だ!」
「そりゃあ守れなきゃ男じゃねえなぁ」
ジョーが分厚い手を出して小指をフィリップの小指に絡ませると、少年は約束だ!と笑顔でいいながらジョーの耳元に口を寄せた。
「あのなあのな、向こうの路地裏でカラスがばれりえーれのにいちゃんを守ってんだ!」
「――――は?」
口から飛び出た言葉はそんなつまらない単語ひとつっきりだった。使用人ではなくバレリエーレの兄ちゃん? 少年当主の親父は兄ちゃんといえるほど若くはないしフィリップのような子どもからすればおっさんだ、なら考えるまでもなくおそらくそこにいるのは少年当主そのもの。使用人ではなくて、当人が、なぜ?
いや待てそんなことはどうでもいい、思わずジョーはフィリップの肩をつかんで真面目な声で尋ねていた。
「フィリップ、その話は俺以外の誰かにいったのか?」
「なんだよジョー、オレは男だぜ? 男の約束破るわけないだろ」
ふんっと鼻を慣らし胸を逸らすフィリップの頭をくしゃりと撫でて、男はゆっくりとだが立ち上がった。
「さすが男だフィリップ。いってないんだな」
「当たり前だって! オレたちとこいつらしか知らねえぞ!」
「偉いぞ」
ぐしゃぐしゃと癖のある赤毛を撫で回し男はフィリップにバレリエーレの兄ちゃんが横たわっているのだろう路地を尋ねた。少年はまたもジョーをしゃがませてその耳元にこそこそと楽しい秘密を伝えるように声を流す。ジョーが頷くのを見るとふとフィリップは真面目な顔になって、ひとこといった。
「なぁジョー。にいちゃん殺さねーよな」
またしても、男は言葉に詰まる。口を閉ざした男を見つめ、フィリップの友人たちはわずかに不安そうに瞳を揺らした。匂いのように立ち上る不安は、よくない。ぽつぽつと降り出した雨を避けさせるためにジョーは上着を脱いで、子どもたちに押し付けた。
「少なくとも人の生死を決められるほど、俺は偉くねえよ、フィリップ。安心しろ、そいつが反抗さえしなけりゃ誰も危害は加えないさ。さっさと警察にとっ捕まえてもらって終わりだ」
さらりと告げた言葉に子どもたちは一斉にその唇を開いて口々に叫ぶ。さながら雛鳥が親鳥に餌を強請っているように愛らしい図なのに、その声は悲痛だ。
「だめだ!! ジョー、警察は呼んじゃだめだ!!」
「だめだよ!!」
「ジョー、お願いだよ警察は呼ばないで!!」
「なんでだよ、お前ら怖くねえのか?」
男の言葉に少年たちは一瞬口を閉ざし、ぼそぼそとカラスのにいちゃんは怖いけどとつぶやいていたが、フィリップが強い意思のある瞳を上げて男を見た。
「怖いけど怖いのはカラスのほうで、あのにいちゃんは怖くねえよ。それに、それに」
言葉を詰まらせる。自分の目を信じるのか自分の感情を信じていいのかわからずに、少年は惑っていた。けれどやがて彼は自分の服をぎゅっと掴みながら男の顔を見上げる。
「あのにいちゃんが、親を殺すなんて、そんなことできるようにはみえねーんだよ……」
親殺しのバレリエーレ少年当主。貴族たちの間で息子が親を殺すということはわりと日常的に行われている。もちろん自分が殺したということが露見しないように上手に工作するのが常で、また、逆に親が子どもを見殺しにするなんて親殺しよりももっとずっと多い。ただ今回の件に関しては、確かにジョーと呼ばれた男も首を捻らざるおえない。
弱冠十四歳の少年当主が、研究所派である研究員の父親を殺した。
文章にしてみればただそれだけのことだ。今回の革命においては起こりえる事件のひとつ。
いや、おかしい。
弱冠十四歳の少年当主が、研究所派である研究員の父親を殺した。
バレリエーレ家は研究所派だ。大きな額を研究所に出資しており、研究所を支える軍資金のひとつである。だからこそ少年当主の父親は研究員になることができ、そしてそこそこの立場を何の苦もなく手に入れることができたのだ。名ばかりの研究員として。
弱冠十四歳の少年当主が、研究所派である研究員の父親を殺した。
バレリエーレ家としては研究所派であり、父親と少年当主は革命が近づくにつれ、言い争いを繰り広げていたという。それならば導き出される答えは単純だ。セシリオ・バレッタ=バレリエーレという少年は、研究所派ではない。むしろ革命に感化された、イルーシェン派か反イルーシェン派か。
いやそれでもおかしい。
ジョーはフィリップ少年の頭をくしゃりと撫でて、彼らの指す方向を見据えた。汚泥をたたえた路地からは、凄まじい腐敗臭が漏れ出している。ここで長いこと暮らしているジョーやフィリップたちにとっては大した匂いでもないが、貴族の少年にとってはどうだろうか。
「俺にはそのことが判別できない。でもお前たちのその言葉はきちんと聞き取ったよ。ありがとな」
「ジョー、それでも警察を呼ぶの?」
「いや、きちんと聞いてみるさ。勝手に死なれても困るんでな」
さぁもういっていいぞと少年たちの背中を叩くと、彼らは皆一様に戸惑い、親分格のフィリップを振り返る。フィリップは仲間たちの視線に唇を引き結び、絶対に秘密だからな! と叫ぶと先陣を切って駆け出していった。あわててついていく少年たちを見送り、男は路地に視線を向ける。
研究所派の家に、火が放たれた。
研究所派の人間は確かに反イルーシェン派ととることもできるだろう、けれど少年当主が父親を殺す理由がどこにある? 研究所派はどちらともとることができないただの不穏因子に過ぎない。それなのに殺された? 賢いといわれた少年の手によって?
悪臭は雨によって打ち消すことができなかったのだろう、泥ついた匂いが男の口内に忍び込む。けほりと毒づくように咳き込むと、男は路地に足を踏み込んだ。
ただでさえ日の光が入らない貧民街で、それは具現化した本当の闇のように見えた。もちろん男には本当の闇などわからない。ただ、彼を、それを、形容する言葉が思い浮かばなかったから、そうとしかいうことができなかった。ずっと奥の方にいるのに、もっと遠い、さながら死後にたどり着く地獄のように遠いところにいるかのように見えた。黒い翼の下に横たわる幼い少年の姿すらも、まるで闇から蘇った死者のように。
「――っおい大丈夫か!!」
思わず男が声をあげながら駈け寄ろうとすると、闇の姿をした翼の持ち主が、威嚇するようにをぶわりと膨れ上げる。こちらを振り返ったらしい白い顔の中に、どっぷりと浸かった深紅の眼が男を睨んでいた。
「お前……、まさか鳥か……?」
「――ヴァ、ル、大丈夫……だ」
黒い翼の下、死者のように青い顔をした少年が幽かに声を上げた。鳥の視線は男から逃れ、少年に注がれる。男もまた鳥の視線を追うように少年へと向けられ、緑の瞳と合致した。深い緑の瞳に見抜かれたとき、男は彼が噂の少年であるとすぐに悟った。まだ成人していない少年のものとは思えぬほど、深く暗い瞳をしていた。
じりじりと身を起こそうとする少年を、翼をもつ青年はただ見守っているだけだ。そのじれったさに思わず男は手を伸ばそうとするが、こちらを見やる深紅の瞳に伸ばした指はそれ以上動かすことはできなかった。そうこうしている間にも、黒い翼の下、青年にすがりつくようにしながら少年はゆっくりと立ち上がる。
「……ヴァル、翼をしまえ」
「セシー」
「しまってくれ」
少年のか細い声に横に立つ青年は一瞬不服そうな顔をしたが、やがて光沢のある黒い翼は消えた。そこに立つのはもう闇でもなんでもなく、白いワイシャツに泥をつけ、顔中土まみれになった青年と少年の姿だけだ。少年にいたっては白のブラウスに寝間着ともとれる深緑のカーディガンを羽織り、細い脚には黒いズボンをまとい、足はあわてて履いたのだろう革靴が片足を収めていた。もうひとつの靴はなく、寒さのせいで少年の白い顔の中紫の唇が浮き上がって見えた。隣に立つ青年は寒さなど感じないのか静かに深紅の視線を少年へと注いでいる。
「お前、バレリエーレの当主、だな」
少年の緑の瞳が揺れた。わずかに瞳が潤んでいたがそれよりも唇やシャツなどにできた切り傷のほうに目が奪われる。まるで、まるで悪意のある誰かに傷つけられたかのようなその姿に。
「ええ、そうです」
「お前がバレリエーレの前当主を殺したのか」
見えない矢に突き刺されたかのように、虚を衝かれた少年は息を飲んだ。少年の隣の青年の目に色が浮いたような気がした。不可思議な虹彩をこちらに向けた青年の深紅にたじろぎながらも、男は応えろと促す。ここではっきりと少年の立場を把握しておかなければ痛い目を見るのは男だ。
「応えろ、坊主」
「……僕をそう呼ぶのはあなたで二人目だ」
少年はかすかに微笑み、頷いた。紫色の唇が震えながら囁く。大きな緑色の瞳から静かに泥ついた涙が零れ落ちて、汚濁をため込んだ泥水の中に混ざった。
「僕が、殺した。殺したも同然だ」
確かに合致していた視線が突然消えた、そう思った瞬間目の前にいた少年は泥水の中へと突っ伏した。翼を仕舞い込んだ青年は少年が崩れ落ちる瞬間とっさに腕を引いたが、少年の顔は泥水の中に無様にぶち当たる。激しく咳き込む音に青年がしゃがみこみ、糸が切れたように瞼を閉じた少年を抱き上げ、男を見た。
何も映っていないかのような深紅の眼にけれど男は狼狽を見る。それが自分のものなのか青年のものなのかわからぬまま、ちっと舌打ちをして上着を脱ぎ、ふたりのほうへと駆け寄った。じっと見つめてくる視線の意味を無視し、抱き上げられた少年に上着をかぶせる。苦しそうに息を吐く唇は紫を通り越してもはや青く、かすかに触れた手は尋常ではないほどの熱を感じた。ためしに少年の額に手をやると子ども体温では済まされぬほどの熱が、男の厚い皮膚を通して伝わってきた。
「っめんどくせえな、おいお前こいつと何日ここにいた」
「セシー」
「応えろよ、応えなけりゃこいつ放置すんぞ!!」
「わからない、三日か、それくらい」
「は?」
信じられなかった。食事をできるような状況でもなしに悪天候にふたりそろってさらされながら三日間、この貧民街で生き延びたその事実に。男は思わず笑う。嘘だろ、おい。
「クソッ!! なんだってこんなしちめんどくせえ――っおいお前!! いいか、ぜってえてめえのでっけえ羽根出すんじゃねえぞ、出したらそこのガキから引きはがされると思え! わかったな!?」
青年の深紅の眼にむかって指を突き立てそうまくしたてると、彼は目をぱちくりさせて頷いた。子どもめいた仕草はフィリップやその友人たちを思い出させるが、馬鹿な話だこんなサイズのクソガキがいてたまるか。男は、ジョーウェル・エヴリーは、こんなふざけたことに巻き込まれた自分の不運を心底呪うように悪態をつきながら歩き出す。
しかしついてくる音がないことに振り返ると、少年にヴァルと呼ばれていた青年がぼんやりと抱き上げた少年を見つめて立ち尽くしていた。もはや何もいわずにジョーウェルは青年へ近づき、彼の腕を掴むと歩き出す。少年はまだしも青年は何も問わぬままだった。自分をどこに連れて行くのかも、少年が助かるのかも、何も。
どんよりとした鉛色の空が自分たちを嗤っているように見えて、男は舌打ちをした。なんという厄日だろう。
「死ぬなよ、坊主」
お前に死なれたら困るんだ。
セシリオ少年とヴァルという鳥がジョーウェルの日常に転がり込んできた日から、数日が過ぎた。フィリップとも同じアパートの空き部屋に彼らを押し込め、簡易ながら部屋の掃除を行って熱い少年の身体を寝かしつけてから、ともいうことができる。
鳥の青年はぼんやりとジョーウェルが甲斐甲斐しく世話をしているのを見守っているばかりで自分から動きはしない。時折怪訝な目を向けたり険しい目つきになったりする他、ひとつっきりしかない窓とセシリオ少年を見ていた。聞いてるのかよくわからないが、ジョーウェルが看病するときのコツをさながら独り言のように呟いた翌日、自分でたどたどしいながらも看病をしていたのだから、耳は機能しているようだった。
セシリオ少年はうとうとと微睡み時折魘される他、なかなか目を開こうとはしなかった。何度も目覚めそうなほど瞼が震えているのに、決定打に欠けているのか、悪夢がその手を緩めてはくれないのか、目覚めぬままだ。さすがにろくに食事もしていない状態で眠り続けるのはよくないと判断したジョーウェルが無理やり起こして、ようやく意識を取り戻した。
目覚めたときじっと見つめる自身の護衛と、そしてその隣に座るジョーウェルの目に気がつくと、セシリオ少年はすべてを理解したようだった。か細い息を吐いて、苦笑する。なぜこうも、このガキは、大人の仕草が似合うのだろうか。諦めてしまった大人のような仕草が。
「僕は、今後どこに移動することになるんでしょうか」
「まだ警察には知らせてねえ」
「へ?」
彼を見つけて初めて年齢にふさわしいきょとんとした表情を見たと、ジョーウェルは思った。子どもと大人の境目、大人になることを強いられた子どもが、迷い込んだ世界に馴染めずにただ戸惑うだけのように、セシリオ少年の緑の瞳は揺れていた。
「なぜ」
「お前を最初に見つけたガキたちのリクエストにお応えしてやっただけさ」
「あなたは……、一体何者なんですか。どうして僕たちのことを知っていらっしゃるんですか」
ジョーウェルはオレンジの混ざった茶色の髪をがしがしと掻き、肩をすくめながら返す。
「俺はジョーウェル・エヴリー。何者かっていわれたらなんて答えりゃいいのかわかんねえが、この貧民街ルクシエルの自治を任されてるもんだ。あーっともちろん領主にゃ許可なんてもらってねえぜ? 俺たちが勝手に組織作って自治してるだけだ。まぁ貴族の坊ちゃんにはこの街の貧困もわっかんねえんだろうけどよ」
嫌味ったらしく、ねばつく泥のように口の中で唾をこねる。ぺっと吐き捨てた液体の散った汚い床を見下ろし、ゆっくりとセシリオ少年は顔を上げた。何かを図るようで、確証を得ることができないものの目をしていた。けれどその一瞬のち、少年は沈鬱そうな顔をして目を伏せた。自身の傲慢に罪悪を覚えたのか、それとも、それとも一体なんだろう、彼は何を想って目を伏せたのだろう。
「きっと、僕にはわからないのでしょうね……」
「なぁそれより坊主、お前これから先どうするつもりだ。自分が警察に捕まるだろうなんてこたァわかってんだろうが、もし捕まらなかったとして、どうするつもりなんだ。おめえ自分が天涯孤独になったって知ってんだろうよ」
薄い少年の唇が一瞬にしてぎっと白く染まる。伏せられた横顔からは何もわからないが、彼の身体が震えていることには気が付いた。緑めいた黒髪のくせっ毛がふるふると震え、少年の手は白く握り締められる。話題を間違えたわけではないと思いながらもジョーウェルは言葉を紡げなかった。ジョーウェルには必要な言葉がわからない。
この少年は、自ら天涯孤独になったのだから。
「なにが」
「ん?」
「何が起きたのか、――っあのとき、僕は、なにがあったのか、何が起きて何が起こらなかったのか、僕にはわからなかった」
震えるほどか細い声だった。ジョーウェルはセシリオ少年の顔を見るでもなく、窓の向こうを見つめていた。外は雨がしとしとと降り注ぎ、革命の火を鎮静化させていく。それでもきっと明日にはまた放火が起きるのだろう、すでにこの一週間日常となった革命のために。やがてジョーウェルは窓の外に、いや、窓のこちら側に映る深紅の眼に気が付いた。血のように恐ろしい赤だと思いながら、鳥の青年を見つめていた。
「……わかっているんです、僕が殺したことくらい。それでも、あの屋敷に火をつけたのは、僕じゃない」
「それで?」
ぽそりと落ちた僕は、という言葉以外、何もかも見つからないのだといいたげに、セシリオ少年は頭を掻きむしる。その手をとめることもなく男がじっと見つめていると、両腕を質素な毛布の上にぽんと放り出した。ぷいっと子どものようにそっぽを向いて、かすれた声が泣き声を上げる。
「僕はまだ、――死にたくないっ!!」
小さいのに不思議なほど通る声だった。涙に濡れた声が室内に反響して、窓に天井に床にベッドにぶつかり、やがてころりとカラスの青年の前に転がった。青年の目にはもちろんそれは映らず、代わりにセシリオ少年の腕を取った。ぷつりと切れた白い指から赤い血が流れて、ジョーウェルは当たり前のことを思う。ああ、こんな少年でさえも、生きているのだと。
「お前さんは捕まったところで死にゃあしねえよ。お前が死ぬとしたら、お前の親父様の家に火をかけたやつに殺されるくらいだろうさ。でもそうさな安心して死んでくれ、お前が死ねば貧民街に舞い込んだ災厄も減るだろ」
ばっと振り返った少年の頭をがしりとわしづかみにする。感慨深かった。たかだか成人前のガキが、生きるためにあがくなど。誰もがまるで命をごみのように捨てる貴族たちの世界で、生きるために必死に抗うなんて。
怒りで少年の目が赤くなって、顔も全体的に血が上り赤らんでいく。伸びてきた青年の腕を避けるべくジョーウェルはセシリオ少年の頭を乱暴に放してやった。両手で頭を抱える幼い子どもをどこかしらの敬意を込めた目で見つめながら、男は尋ねた。
「なぁ、なんで生きたいんだよ、坊主?」
心の底から湧き出た疑問だった。ジョーウェルが得た知識ではセシリオ少年の人となりや考え方などわかるはずもない。ただ彼が反イルーシェン派でもなくまたイルーシェン派の婚約者がいるのにもかかわらず研究所派であるという事実だけだ。それに婚約者との年の差は七つで、行き遅れと揶揄されることの多い二十歳を超えた女性であり、この少年が婚約者を愛せるほど器用だったようにも見えない。そして何もかも失ったこの賢い貴族の少年が、貧民街で生きていけると楽観的に考えるとは到底思えなかった。
ジョーウェルにはわからない。この少年がどうして生きることを望むのか、心底わからないのだ。
「――許せないから」
空気を裂くほど、鋭利な声がした。成人前の少年の口から出た声とは思えず、ジョーウェルは眉をひそめ、突き刺さる視線に絡み取られて動けなくなる。緑の瞳は、まるで魔法使いのように、忍び込み、突き刺し、揺るがし、籠絡し熱を見せる。
「僕は、許さない。僕は僕を許せない。僕たちを守ることができなかった僕を許せない。守る手段もわかっていたのに、僕は、殺されそうになって生き延びることだけを考えた。僕は死ぬわけにはいかなかった、僕たちが、僕を殺そうとした父さんを許すために僕は死ぬわけにはいかなかった。僕が死んだら、父さんが僕を殺そうとしてまで守ろうとしたものが守れなくなる、そんなの、そんなんじゃ何も意味がない」
熱にうかされたような瞳をしていた。爆ぜる様な激情を見せるわけでもなく、ただめらめらと火が立ち上る。緑の中に目を焼きそうなほどの火が燃えていた。暗くはないはずの火だというのに、それは決して美しいということはできない色をしていた。
ジョーウェルはセシリオ少年の言葉の意味をただひとつ除いて理解することができなかった。だからこそ唯一理解できた言葉を繰り返す。雨の音がやたらと耳に響いた。
「僕を殺そうとした」
セシリオ少年の目が震える。ジョーウェルの目に怯えたように唇が戦慄いた。一言も言葉を発さないヴァル青年は捨てられた花のように首を落とし、セシリオ少年の腕を掴んでいるだけだ。
「と、いったな。お前は、お前の意思で元から計画していた通りに父親を殺したんじゃないのか」
「違う!! 違います違うんだ、僕に父を殺すメリットなんて何もない!!」
ぶわりと炎を含んだ緑の瞳から水が零れ落ちた。垂れ流される涙にまるで気づきもせず、少年は青年に掴まれていない方の腕を自身の膝に叩きつける。ばしりと、痛い音がした。
「父さん……」
静まり返った部屋の中に少年の高い声が響く。肩を震わせる彼を鳥の青年と同じようにただ見つめながら、男は考える。この少年の言葉が指す意味を。
「生きてどうするつもりなんだ? 生き延びてどうするつもりだ。お前の見た曖昧な記憶を真実だと認めさせるために生きるのか?」
言葉は嘲笑と共に唇から伝い落ちた。セシリオ少年は強引に目を拭いながらきつい視線をこちらへと寄越す。どれほど賢い少年なのかジョーウェルにはわからないが、そんな姿はただの生意気なガキだ。男の口元に浮かぶ笑みを睨むのは、子どもくさい。
「不確かな記憶を信じてもらう? まさかそんなふざけた話じゃねえよなぁ、え、セシリオ少年?」
「そんなふざけた話で何が悪い!!」
「どうやって。生き延びて何をしたい。その返答次第によっちゃ生かしてやるよ」
はた、と少年は狼狽えた。今更のように自分の命が男の気分によっては潰えるものだと気がついたのか。けれどその事実に狼狽えたようには見えなかった。なんだ、なんだろうかこの違和感は。
「生き延びることができるのなら、僕は革命軍に参加する」
きょとんと、思わず男は少年を見た。幼いガキのいっている言葉の意味がわからなかったからだ。少年は笑うでもなく嘆くでもなくただ真っ正直な目をこちらに向けて、言い放つ。
「僕の屋敷に火を放ってまで望んだ女王を、見極めるために」
「おい待て、火を放ったっていったって革命軍かどうかなんてわかんねえだろ。もしかしたら」
「そう、もしかしたら違うかもしれない、革命軍ではなく反イルーシェン派のやつなのかも、もしかしたら研究所派の人間なのかも。でもそれは生き延びて調べない限り僕にはたどり着けない情報だ、違いますか? 他の誰が僕の望みを叶えてくれるんですか?」
「どうあっても生きるつもりか」
肝が据わっているとジョーウェルは思う。そうだ、セシリオ少年の言う通り誰も彼の望みなど叶えやしない。貴族が没落し消えていくことなど日常茶飯事だし、むしろそうして落ちて行った貴族に関わろうとする人間はいない。それならば、生き延びて納得するほうが万倍もマシだろう。納得するか否かは、本人にもわからないのだろうが。
少年は強い眼差しをジョーウェルに向けて、こくりと頷いた。緑の瞳は今度こそ何も感じさせず純粋な色をしていた。不信を抱かせないためには十分なほど、澄んだ色を。
「僕は、僕が結果として殺してしまった父のために、生き延びることを望みます。父の死の真相を知るために。陛下を見極めて、僕が、納得するために」
納得しなかったとしたら、彼はどうするのだろうか。女王を殺すのか、それとも自決するのか。
肩をすくめた。ジョーウェルには難しいことはわからない。常として考えることを放棄することはしないのだが、今回ばかりはどうしようもなかった。この少年の精神が安らぐまでは何があったのかを伝えることなどできないのだろう。
ならやることは簡単だ。部屋を出て自宅に戻り作っておいたスープを温め直し、少年の元へと戻る。数分席を空けていたのならヴァル青年も動くだろうと思っていたのだが、ジョーウェルの予想とは裏腹に、彼はセシリオ少年の腕を握ったままだった。ただ立っているだけだ。
テーブルの上にスープと木製のスプーンをふたつずつ置き、勝手に食えと吐き捨てて部屋を出た。
煩わしい問題に巻き込まれてしまったことを毒づきながら、これから先何が起きるかを考える。特に、ジョーウェル・エヴリーという人間に与えられた役割に沿った正しい行動を。
廊下の向こう側、残された少年がほっとした顔で鳥の青年に抱きついていることなど、気がつきもしなかった。
セシリオ少年が貧民街ルクシエルに馴染むまで、それほど長い時間を必要とはしなかった。身体が癒えるとすぐに少年は街に出ることを望んだ。もちろんベッドからずり落ちたところをジョーウェルが見つけて引きずり戻したというなんとも情けない話なのだが。
「まだろくに立てもしないくせにどこにいくつもりだ、クソガキ?」
腕を掴んで持ちあげると、不恰好に落ちていた少年は気まずそうに目をそらした。賢いと言われるだけあって自分がそもそもジョーウェルの意図によって、ここに据え置かれていることにも気がついているのだろう。貧民街としては相当優遇されていることも。
セシリオ少年の両足は栄養失調と体温の極端な低下によって歩くことが難しくなった。リハビリをすれば以前のように走ったりすることも可能だと、ジョーウェルが連れてきた貧民街一の医者はいう。貧民街のヤブ医者など歯牙にも掛けぬ貴族そのものの反応をするかと思っていたが、セシリオ少年は真摯に話を聞いて落胆したようにそうですかとつぶやいた。リハビリをする時間がないことなど彼自身よくわかっていたのだろう。
しかし彼は諦めなかった。こそこそとジョーウェルが与えた部屋の中で、鳥の青年の腕に捕まりながら歩く練習をしている様子は何度か見かけた。だから少年が部屋から出て男を見つめたとき、ため息をつきながら男は少年のために扉を開けてやった。
「どこに行くんですか?」
少年の手を掴んで雑多な貧民街を歩く。物が溢れて雑多なわけではなく、疲れきったひとびとが荷物とともにうんざりしたような顔で座り込んでいるから雑多なのだ。革命は徐々に貧民街を貪り始めていた。研究所や王家がどうといったところで貧民街に住む彼らには直接的には関わりがない。ただ混乱した経済の打撃を受けて生活は苦しくなり、貴族たちの住まう首都から大量のひとや物が流れ込み、街としての機能がろくに動かないことすらままあった。
地下組織として街を援助してくれる人物はいるが、そうはいっても革命の規模が大きい。このままでは確実に街としての機能すべてが破綻してしまう。それだけは避けなければならない。かつて放逐された自身を救ってくれた街に、恩返しもできないのでは昔気質なところのあるジョーウェルにとっては屈辱だ。
だからこそ伸ばされた手を掴んだ。そして今、確実に有力になるだろう少年の手を取って街を歩く。鳥の青年は置いてきた。彼の容姿はどことなく異質に見えてしまう。
セシリオ少年にはジョーウェルが過去に着ていた服を着せていた。おかげで丈のあっていないぼろぼろのズボンの裾を巻いて、歩くたびにかぽかぽと音を立てる靴を履き、目深にまでかぶったキャスケットのおかげで、そこらへんにいる少年へと姿を変えていた。女の平均身長よりわずかに高いくらいだが、年齢とはやや釣り合わずに小さい。ジョーウェルの手を握り返す指も小さいのだが、しかしそれ以上に気になったのは剣ダコと、銃を扱う人間がときどきなる手のひらの一部分の厚さだった。暴発することの多い西の銃は利用方法を知らない限り撃つたびに手が焼ける。少年の手のひらは、火傷したあとの肌のようにのっぺりとしていた。
ちらちらと視線がこちらに向かっていることには気がついていた。セシリオ少年くらいのガキどもはあまり数が多くはない。だからこそジョーウェルの連れている謎の少年に誰もが視線をやるのだろう。このまま気付かれずに済めばいいのだが。
「黙ってろ。お前のお綺麗な口調じゃ身元がバレるぞ」
そうジョーウェルがいい終わった途端に、突然くいっと後ろを引かれてぱっと振り返る。セシリオ少年は無様に顔面から泥だらけの地面に向かってダイブしており、せっかくかぶったキャスケットもぽんと転がってしまっていた。このバカと思わず毒づきながら少年の腕を引いて立たせ、キャスケットをひっつかんで彼の頭に被せたその瞬間、ジョーウェルの肩に誰かが手を置いた。
「よぉジョーウェル。なんだてめえもついにガキに手を出すほど腐ったか?」
振り返った瞬間伸びてきた手を咄嗟にジョーウェルは受け止めていた。がしりと掴んだ手の先にいた相手は、ジョーウェルが昔つるんでいた友人だ。他の共に悪さをしていたチンピラたちが、まるでジョーウェルと少年を囲むように円を描く。二人を見やるその他大勢の視線は無慈悲だ。何が起こるのかと楽しみにしている傍ら、その大半が少年へと視線を向けている。
バレたのか。だが何故。
「笑わせんな、イゴールと一緒にすんじゃねえよ。それより何の用だ」
「お前の連れてるそのガキ、何もんだ。見たことねえぞ。まさかとは思うが、バレリエーレの殺人犯じゃねえだろうな」
疑り深い小さな目がじろじろとジョーウェルの後ろに立つ華奢な少年を見やる。今更言い逃れもくそもできねえだろうなとジョーウェルは浅いため息をついた。面倒だ。
そもそも革命という過激な戦いよりも親殺しの少年のほうに脅威を感じるというのもおかしな話だ。どう考えても今後を左右するのはこんなちっぽけな存在ではなく、革命とかいう大層なものに違いないのだから。
しかし今彼らに必要なのは現状への苛立ちをぶつける相手だ。革命に手を出そうものならどちらに転んだところできっと死ぬ。ならば親殺しの少年を「事故で」殺してしまったなら、どうだろうか?
ジョーウェルは肩をすくめ、背後にただじっと息を詰めて立つ少年を振り返った。
不安そうな瞳をしているかと思いきや、その目は毅然とジョーウェルを出迎える。暗い緑の眼がすべてを知っているかのように瞬いた。この先何が起こるのかも、わかっているのだろう。
少年の肩を掴んで自身の前に押し出しながら、先ほど会話した男の前に突き出した。少年は転びそうにもならず、不安そうな瞳にもならず、ただ男の前に立つ。
「ご明察だぜ、ミハイル。そいつはバレリエーレの坊ちゃんだ。体調が元に戻るまで面倒を見てやった」
「おい……、お前今の言葉の意味わかってんのかよ」
ドスの効いた声をジョーウェルは鼻で笑い飛ばす。聴衆がざわめいていることには気がついていたが、だからといって今何を言うべきかなど決まっていた。聴衆の目は少年をさながら悪魔を見るかのように畏怖を多分に含んで見つめている。彼の一挙一動を、見逃さないとでもいいたげな視線は、やり場のない怒りを秘めてそこにある。
悪く思うなよ、と胸の内でつぶやいた。
「ああ」
「なんでそんなやつ救ってんだ天下のジョーウェル・エヴリーがよお!! お前が救うべき人間はもっと他にいるんじゃねえのかよ!?」
激昂した声とともにがっと襟首を掴まれる。自身よりも体格のいい男を相手にしているというのに、ジョーウェルはただにやりと笑っただけだ。
「そうだな。だがこいつを抱き込めれば貧民街は安定だ」
「なにいってやがる」
「聞けよミハイル。このガキはあのバレリエーレのガキだ。それになんとな、このガキは女王陛下をお助けしたいんだとよ。わかるか? 陛下をもしもこいつが助けることができたなら、こいつの地位は鰻登りだ。革命のせいで一家が滅亡したガキを放り出すなんて、あの革命軍のリーダーがするように見えるか? いいや違うね。このガキの才覚に賭けて利用する。なら俺たちだって利用してやればいい。革命の被害を一番受けてんのはこっちだってんだ、こいつの立場を利用すればいい」
矢継ぎ早に告げた言葉にミハイルは一瞬戸惑い、ジョーウェルは男の手を振り払った。もはや氷の仮面のような目をしている少年を男の前に押し出せば、男は一歩後ずさった。男の目には怒り以上に怯えがにじむ。
「なにすっとぼけたこといってんだ、親殺しを擁護する人間がいるはずが」
「貴族の世界では親殺しも子殺しも雀の数ほどよくある話だよ、ミハイル。それに、こいつは親殺しじゃない。親に殺されそうになったんだ」
「はぁ? ならなんで両親だけ死んでんだよ、妹がいるんじゃなかったのか? そいつは殺されなかったのか?」
冷静さを滲ませる小さな肩が、ぴくんと跳ねた。そういえば、とジョーウェルも疑問に思う。どうしてこの少年は妹の安否を口にしなかったのだろうかと今さらのように不思議に思った。この半分だけ血の繋がった兄妹がどういう関係性なのか知らない以上、ジョーウェルが口出しなどできるはずがないのだが、しかし質問すらしないのもおかしい。
少年の肩に手を置けば、それは怒りを嘆きを込めて強く震えていた。
「必死で、逃がしたんだ。チェスカだけは、チェスカだけは守りたかった。僕が守れる唯一の存在だけは絶対に殺したくなかった。逃がしてやりたかった」
「どこに? どこに寄越したんだそのガキを」
「もうこの国にはいません。遠い盟約のために他国へ向かわせました」
「そいつは生きてるんだな」
「殺させはしません」
ここに来て、ジョーウェルは初めてこの少年の本当の声を聞いた気がした。どことなく影を帯びて完璧な微笑みを保っていた表面が、パリパリと音を立てて崩れていく。その中から覗くのは、子供じみた無邪気な哀望だ。救いを求める幼い少年の姿だ。
「チェスカは何が何でも守ります。たとえ僕が死ぬことになったとしても、あの子を救うためなら造作もないことだ」
強気な言動とは裏腹な掠れ声が叫んだ。遠巻きに見守る貧民街の住人たちはその声にはっと息を飲む。
単純明快な動機なのだ、この少年が動く理由は。それこそ貴族でもなんでもない貧民でも、むしろ親殺しや子殺しが平然と起こす貴族よりも、きっと理解できるのだろう。
「僕は遠い国にいった妹を守るために革命軍に入ることを望みます。この国がよくなれば、きっと遠い国にいったチェスカも、いつか帰って来れるから……だから」
きっと唇を引き結ぶ。白い肌は変わらない。この汚れ切った街の中で、同じような泥を啜ったというのに貴族めいた白は変わらない。その手に剣や銃を握ったとは微塵も思わせぬほどの、白。
緑の瞳がひとびとの目を射抜いた。
「ジョーウェルさんや今まで僕のことを黙っていてくれたひとたちに感謝しています。それでも僕の不注意でこうなってしまったのなら、僕はおとなしくここから出て行きます。あなたがたには迷惑をかけません。ただ僕は、単純に、妹を守りたいだけなんです。巻き込んでしまったのなら、ごめんなさい」
やけに最後の謝罪が子どもじみて聞こえた。ミハイルだけでなくまわりにいたギャラリーは、まるで口にべたりとテープでも貼られてしまったかのように言葉を失っていた。ただ少年をじっと凝視するあまたの目があるだけだ。そこに意味はない。何の意味も。
「さ、もういいだろ。俺はこいつをドンの元に連れて行く。どうする? この坊ちゃんは殴られることももちろん承知済みだ。そうでなきゃ俺の元でいつまでもぐだぐだなんてしてねえだろうしな」 ぼすっと少年の頭に手を置いてぐいっと左右に揺らせば、少年の頭は子どもの頭のように軽々と振り回された。きっと苦い顔をしているのだろうと思いながらジョーウェルはにやにやと笑う。やめてくださいと渋い声の文句を聞きながら、男は少年の肩を抱いて振り返った。
「じゃあいいんだな」
「おいクソガキ!」
声が飛んでくるがジョーウェルは足の速度を緩めはしなかった。立ち止まろうとするセシリオ少年の肩をしっかりとつかんで群衆の分け目に向かってひたすら足を運ばせる。少年の小さな背中に向かって投げ込まれた声と、視線は。
「てめえが何をしたのか知らねえしわかりたくもねえが、責任はとれよ。せめてここに来た影響分くらいはよ」
どこにも向けられない怒りと嘆きの色だった。
少年の来訪を告げたのは、粗野な声の若者だった。ドン・オレンゴに余計な負担がかからぬようハイマンが手配した見た目とは裏腹に真面目な青年だった。もしくは家族のためにしっかりと稼げるこの職のために真面目になっているのかもしれないが。 なんにせよヴィッラ・オレンゴとハイマン、そしてグド・ルーブが書類を持ち合わせて某かについて激論を交わし合っている中、部屋の扉が振動した。その当たり前の音がひとつ響いた瞬間三人は一瞬にして口をつぐむ。その後ふたつほど叩かれた音を聞くと、グドが扉を開けた。相変わらず血の匂いをさせる大男を見た瞬間青年は一瞬身を震わせるが、わずかに口をへの字に曲げた後、室内に足を踏み入れた。
「ジョーウェルが来ました。当主も連れてきてくれたようです」
「結局彼が来たのはルクシエルか……、ふむ。構わん、いれてくれ」
「はい」
青年がジョーウェル・エヴリーという男と少年を呼びにいく間、ヴィッラ・オレンゴはその身体をソファにどっかりと沈み込ませた。ハイマンが容易させた冷たい水の入ったグラスをあおり、手元にある書類とそして初めて顔を合わせることになる少年のことを考える。成人も済ませていない十四歳の少年のことを。
ハイマンもグドも余計な口を効くこともなく、ただ黙って扉が開かれるのを待っていた。扉の向こう側から足音が響き、独特なノックの音にやはりグドが扉を開く。足を踏み入れようとして少年は一瞬足をとめ、グドの顔をじっと見つめると軽く会釈をして歩を進めた。ヴィッラがハイマンと今まさに中に入ろうとしていたジョーウェルに合図をし、グドを残して立ち去らせ、室内は少年が身にまとってきた冷気とともにすっと冷える。
ソファに深く腰掛けたヴィッラを見下ろし、少年は緑の瞳を冷徹なまでに光らせて唇に笑みを載せた。十四歳という年齢が載せるべきではない笑みを。
「お会いできて光栄です、ドン・オレンゴ」
「この国への投資に、きっとお応えできるでしょう」