痛みを知らぬ子ども
フランチェスカ・バレッタ=バレリエーレに、世界で一番大切なものを何かと聞いてみたとしよう。チェスカはしばらく黙考し、やがて兄とは違う青に緑を一滴零したような瞳を瞬かせ、質問した相手の目を射抜きながらはっきりと口にする。
「それは、お兄様ですわ」
バレリエーレ家のうら若い当主として社交界に出入りする義理の兄のことを、チェスカは何よりも大切に思っていた。それは母とは違う愛情であり、父に向ける愛情とも父から兄へと向ける愛情とも違うことを知っている。七歳という年齢であろうとも、それくらいのことならチェスカにもわかる。ただどうしたって父から兄へと送られる信頼混じりの突き放しが許せなくもある。
信頼しているのなら蔑ろにしてもいいのかと、いつもひとりで生きている兄の背中を見るたびに、その決して大きいとは言い難い背中を見るたびに、複雑な思いに囚われるのだ。
どうしてお兄様はお父様に愛情を求めないのですか、どうしてお父様はお兄様を突き放すのですか。尋ねたい疑問が胸の中でどろりと溶けて、それでもチェスカはその疑問を口にはできない。口にしたところで、ふたりの不粋な男性は質問の本質を決して捉えてくれないからだ。きっと兄は苦笑しながら「もうその時期は終わったんだよ、チェスカ」というだろう。きっと父はやんわりと困ったように笑いながら「突き放しているわけではないさ。彼にはもう自分ひとりでできるだけの力がついただけだ」というだろう。
ふたりとも、わかってはいないのだ。
だからチェスカはいつもこっそりと兄が出かけているときを狙い、彼ひとりが住まう邸宅へ訪れる。料理長の女と話しながら兄の食事についていろいろと質問し、ときには彼女に教わって兄の食卓に出す彼の好物を作ったりもした。あとから女に聞いた話によると、いつもと味が違うなと呟いたのだというのだから、我が兄ながら可愛らしい。
チェスカは、父が与えない愛情の代わりに、義妹としての愛情をあげたかったのだ。返して欲しいなどとは思わない。ただ受け取ってくれればいい。代わりにはなり得ないのかもしれないが、それでも義兄を兄として慕うこの気持ちに偽りはないのだ。
そうして今日もチェスカはお供をひとり――兄によってつけられたお供数人のうちのひとり――引き連れて、こっそりと兄の家に訪れた。
最近父から聞いて愛鳥に関心を寄せており、兄に闘鳥崩れの愛鳥を飼うよう勧めたのはチェスカだ。そして彼はおそらく渋々ながら父に説得され、愛鳥を飼ったのだという。まだ挨拶は交わしていないが、関心を持ったチェスカを止める者は本家にはいやしない。
いつも通り裏口から厨房へと向かうと、料理女がチェスカの姿に気がついて少し焦った顔をした。入ろうとするチェスカを何故か血のついた手で押しとどめ、今日はダメなんですお嬢様といった。声はどうしてか震えている気がした。
「どうして?」
「今アイドルのヴァローナ様がお怪我をしたご友人を連れ帰ったところですの。今日はいけませんわ。ヴァローナ様も少し気が立っていられますし、お嬢様もまだお会いすることは許されていないでしょう? お帰りください」
徐々に声がはっきりとして震えも治まっていくようだった。女のきっぱりとした目を前にして、チェスカは一瞬言葉に惑う。と、後ろから伸びてきた手によって彼女は裏口から外へと出ることになった。
「どうしてあなたがわたしを引っ張るんですの!」
「当主様がそろそろお帰りになるらしい。見つかったらますます会えなくなるぞ」
平静な声にむっとして彼女を抱え上げる男を睨むと、彼は片方の眉をきゅっと釣り上げて見せた。
「敬語の方がよかったか、お嬢様?」
「結構ですわ!」
下ろしなさいという命令を素直に聞き入れたお供の男は、チェスカの腕を引いて歩く。裏門にひっそりと横付けにされた馬車に乗り込んで、チェスカは暗い空の下、煌々と明かりを放つ小さな部屋の窓をじっと見つめていた。あそこに傷ついた鳥がいるのだろうか。
バタンと扉を閉じて隣に乗り込んできた男をもう一睨みしてから、チェスカは暗くなりそうな感情を必死で押し殺す。握りしめた指はぎちりと嫌な音を立てて、少女の華奢な白い指を赤くした。
再び兄の邸宅に訪れたのは門前払いを食らった日から丁度一週間が過ぎたときだった。いつものように裏口から入ると料理女はチェスカを見やり、少しだけ口をすぼめる。なんといっていいのかわからないといいたげな顔で、それからやれやれと首を横に振った。
「二階の西棟にはいってはいけませんよ、お嬢様。ヴァローナ様のご友人が休んでいられますから。彼女は絶対安静にしていなければいけませんからね、わかりました?」
「二階の西棟ですね、わかりましたわ。近づきません」
「あんたもきちんと見張ってないとだめよ」
「わかってるよばーさん」
男の言葉に料理女はきっと眉を吊り上げたが、チェスカが見ていることを思い出したのかなにも言わずに唇を引き結んだだけだった。
厨房を抜けてお供の男の前に仁王立ちをする。じっと睨むと彼ははいはいとため息をついてチェスカにひらひらと手を振って、どこかへ向かって歩き始めた。
「二時になりましたら帰りますわ。裏門で待っていてください」
「わーったよ、お嬢様」
チェスカを守る上でお供をつけるために、兄が応募してきた人間全てと面接したという話は小耳に挟んだことがある。その中でただひとり兄によって太鼓判を押されたのがこの男だということを、しかしチェスカはどうしたって信じられなかった。こんなにもやる気のない人間が役に立つときなど来るのだろうか、そう常々思いながらそれでも自身のいうことを聞いてくれることに感謝する。兄が丸め込まれているとは思えないが、それでもいないよりはきっとマシだろう。
とりあえず兄の執務室代わりとなっている書斎に向かう。東棟二階にある兄の書斎は、本人がいないにも関わらずチェスカがいたいと願う場所だった。どうしてなのだろうと、よく不思議に思う。
兄には会えない。彼が自主的にチェスカや母の住む本邸に訪れない限り、彼はチェスカを彼の邸宅に呼ぶことすら厭う。嫌われているわけではないということくらいわかっていた。ただチェスカを彼の領域に入れることを極端に嫌うのだ。
チェスカではバレリエーレ家を継ぐことはできない。バレリエーレ家の当主なのは兄であるセシリオだけであり、彼が例え子どもを遺さず死んだとしたら、チェスカではなく傍系の子どもが継ぐのだろう。チェスカにはまだ継ぐだけの知識も権力も備わってはいなかった。もしもチェスカがバレリエーレ家を継ごうとするのなら、それは相当に長い時間をかけることになる。
兄は私にどうして欲しいのだろうと、何度も悩んだことをまた憂う。まだ七歳の少女には自分のなすべきことすらわからなかった。そして七歳だからといって目をつぶっていられるわけではないということだけは、わかっていた。
扉を開けて部屋に入ると真っ先に目につくのは、父同様本と資料が山積みにされたマホガニー製の大きな机だった。どさりと今にも落ちそうな紙束がいくつもいくつも積まれていて、チェスカの身長では彼がいつも座るだろう場所を覗き見ることはできない。ヒールのない小さな靴を履いた足を動かして回り込むと、頑丈そうでいてところどころ繊細な彫刻が施されている椅子が目に入った。深い緑色の布が張られていて、兄とおそらく父が座っただろう足跡を残している。兄が彼自身の邸宅をかまえると聞いたとき、父は迷わずこの椅子を贈ることを選んだ。彼が長い間使っていたこの椅子を。
けれどチェスカは座らない。いや正しくは座れない。チェスカのように幸せを甘受するだけの立場の人間は、座ってはいけないということくらいわかる。この椅子は、父セブリアンと兄セシリオが、家族を守るために戦ってきたことを見守り続けそして支えてきたものだ。チェスカに座る権利はない。
ぺたりとカーペットの敷かれた床に座り込む。深い緑色の布をそっと撫でながら、机の引き出しをぼんやりと見た。鍵のついたひとつを除いてすべてあいており、手紙が零れ落ちんばかりに入っていた。数枚は風で落ちてしまったのだろう、机の下に忘れ去られたことを嘆くように鎮座している。
ぺたりと椅子に額を押し付けて、チェスカは瞼を閉じた。
かちゃり、とドアノブが回る音がした。
はっと目を開けて顔を上げる。誰かが兄の書斎に訪れたのだろうか、それとも兄がすでに帰ってきてしまったのだろうか。目をこすってそうっと机から扉を見やると、誰かが去って行くところが目に入った。鮮やかな白が視界の隅から扉の向こうへと消えていく。素足が廊下を軽々と駆けていく音が響いた。この邸宅で素足の人間などいるのだろうか。
そのとき不意に胸倉を掴まれたかのように身体が動くことを求めた。思わぬ衝撃にチェスカは足をもつれさせて机の書類をどさどさと落としてしまう。しかしそれすらも気にならずチェスカの頭には今去って行く誰かを追うことしか残ってはいなかった。微かに開いた薄い桃色の唇が意図せぬままぽろりと言葉を放り出す。
「おにいさま」
セピア色の静寂に保たれた部屋の中チェスカの声だけが一色浮かんでいるようだった。転びそうになった足を必死に動かして書斎を飛び出る。右手に曲がった白を追いかけ、今度は左へ、階段を下り、上り、また右へ。
おかしい、この家はそこまで大きくはない、追いかけてはいけないと、頭の片隅で警鐘が鳴っているのにも関わらず、チェスカの足は止まらない。胸を引っ張られるように足をもつれさせながら必死に駆ける。少女の靴音が異様に高く響き、泣き出しそうな感情のせいで荒い呼吸音が耳についた。白はチェスカのずっと前をひらひらと踊る。はぁはぁと荒い息が廊下だけではなく自分の胸へと跳ね返る。足は今にも転びそうなのにどうしても止まらず、チェスカの双眸は白を追いかけ続けているくせに、涙が溢れてきた。
「おにいさま、おにいさま!」
嫌だ――、いかないで。
白はやがて立ち止まりチェスカを振り返ると微笑んだ。その姿は、そのシルエットは、こんなにも大切な兄のものだ。それなのにどうして、どうして首から縄が弛んでいるの、どうして両手を前に差し出しているの、どうして手首には枷をしているの。
「おにいさま!!」
扉の向こうへと、白いどこかへシルエットが溶ける。融解し縺れ混濁した。チェスカは甲高い悲鳴を上げながら必死に扉へと駆ける、嫌だお願い助けて。暗い廊下を――いいやここは地下牢だ、どこかの地下牢だとチェスカは知っていた――駆ける少女の足はやがて速度を落とし、ついに両足がもつれて座り込む。ぼろぼろと涙がこぼれてチェスカは泣きじゃくりながら兄を呼んだ。兄の救いを求めて助けを呼んだ。
「いかないで……セシー」
数える程しか呼んだことのない兄の愛称を囁く。涙だけがチェスカに応えて律儀にいつまでもいつまでも頬を伝う。
追いかけてはいけなかったのだ、と少女は絶望の中思う。追いかけるべきではなかった。追いかけてしまったからこそ、兄は、白の中に溶けてしまった。それが何を意味しているのかはわからない、それでも不吉な予感を指しているということくらいは、たった七つの少女にだってわかるのだ。
そのとき、真っ暗だった空間に突如柔らかい光が射し込んだ。扉の向こう側にある部屋から光が漏れて、チェスカの頬を撫でる。微かな声が、漂った。
「だれ……? 誰か、いるの?」
はっと顔を上げる。優しい女の声だった。聞いたこともない夢見る少女のような声だった。それは扉の向こうから聞こえてきた。さっきの白ではない、違う色。漏れる光は、白ではない。
「ヴァル? ヴァルなの? 入ってこないの?」
声は不安そうな色を宿して囁いた。泣き疲れたチェスカはのろのろと身を起こす。誰であれ、不安にさせるのはよくない。ドアノブに手を伸ばしそっと引くと、キィイという蝶番の軋む音と共に扉がゆっくりと開かれた。
少女は赤い靴に包まれた足を静かに踏み出して、部屋の中へ視線を向ける。そこは、チェスカがあまり足を踏み入れない客室と同じ姿をしていた。入って左手には美しい鏡台が置いてあり、鏡台の足元にはプレゼントだろうか開けられた箱といくつかの洋服が重ねられている。それから正面の窓へと目を向けると、上半身を起こしてこちらを驚いたように見つめる女と視線がかち合った。お互い驚きのまま硬直し、数分ほど経ったのだろうか、彼女はへらりと笑った。
「泣いて、たの? 大丈夫?」
言葉にもう一度涙が零れそうになった。必死に首を横に振って、チェスカも微笑む。後ろ手に扉をぱたんと閉めた。
「泣いていましたけど、大丈夫ですわ。あなたはだれ? お兄様のアイドルさんのお友達?」
「ぼくはヴァルの友達だよ。ウルラ。ぼくはウルラ」
ウルラという響きを口の中につぶやいて確かめる。女のくすんだ紫がかった灰色の髪は艶やかでくるくると風に巻かれたように遊んでいた。森林のような緑の瞳がチェスカを映す。柔らかく笑った顔を見て、やはりチェスカは泣きたくなった。これが夢だったのなら、この傷だらけのお姉さんはきっと今泣いている。そんなことを思って悲しくなった。
チェスカが彼女の傷を見ていることに気がついたのか、ウルラは包帯だらけの身体を不器用に動かして毛布の上にぽとりと落ちている白いワイシャツを羽織る。ぼんやりと彼女の動きを見ているとウルラの明るい緑の目がこちらを見て問う。
「あなたは? あなたはだあれ?」
「ごめんなさい、名乗り忘れていましたわ。フランチェスカ・バレッタ=バレリエーレと申します。セシリオの異母妹ですわ。チェスカとお呼びください、ウルラ姉様」
「ねえさま? ぼくがねえさま?」
「だってウルラ姉様のほうがお姉さんでしょう? 違いますの?」
パアアと顔を輝かせてウルラは少女のように微笑んだ。無邪気な笑みのままそうだね、そうだねと嬉しそうに囀る。ウルラとはどういった意味だったっけ、ぼんやりと考えるチェスカに近づこうとしたのか、ウルラは生々しく白い脚を毛布の下から降ろしてこちらへと向き直った。歩き出そうとするのを高い声で止めたのは、彼女の脚が痛ましいほど包帯まみれだったからだ。
「ウルラ姉様!! 絶対安静ですわ、立ってはいけません!! ちゃんと休まないと治らなくなってしまいますわ」
駆け寄って自分よりも大きな彼女をベッドへと寝付かせる。少しだけ不満そうなウルラを無視し、おとなしくベッドに横になった彼女の前で、チェスカは満足気に頷いた。少し目が潤んでいるように見えたのでそっと小さく熱い手を彼女の額に押し付けるが、けれどそれはひんやりと冷たかった。チェスカの手はあったかいね、とほころぶ笑顔を目の前にして、悲しいと思う。チェスカがウルラに同情してはいけないということが、とても悲しかった。
兄は、チェスカが傷つくからそう口にしたのだろう。アイドルたちに同情してはいけないと。帰ってこない感情を前にして、本来ひとはただ無力感に打ちのめされるだけだと兄は知っているのだ。
「チェスカはどうして泣いていたの? 痛いことでもあったの?」
決して血色がいいとはいえないウルラのけれど艶やかな唇からぽろりと落ちた言葉に、チェスカはベッドの前に立ち尽くした。私は、痛かったのだろうか。
ウルラがいて、先ほどまでのセピア色の静寂は消えたはずなのに、またもしっとりと身体を包もうとしていることにチェスカは気がつかない。ウルラの深い森の瞳を見つめながら睫毛を震わせるだけだ。
言葉を返そうと、唇を開いた。
かちゃり、とドアノブが回る音がした。
はっと目を開き顔を上げる。山積みにされた書類はそのままで、確かに滑り落ちてしまったはずなのに当然のような顔をして机の上に居座っていた。そしてその上からお供の男がこちらを見て呆れたように片方の眉を釣り上げて見せる。チェスカはそれをぼんやりと阿呆のように見ていた。
「お嬢様、こんなとこで寝てると身体がばっきばきになるぞ? そろそろ坊ちゃんが帰ってくる時間だ、切り上げよう」
「……もう、そんな時間なんですの?」
「時計も読めないのか?」
鼻で笑う音と共に男はくいっと顎を引いて机の上の置き時計を指した。二時を指す針を見て少女は明らかに視線を泳がせる。安定を欠いた彼女の様子を男はじっと見ていた。やがてゆっくりと頭を振るい、夢だったんですわねと小さく泣きそうな声で呟いてからチェスカはすっくと立ち上がる。兄とは似ていない青い目をまっすぐにお供の男に向けて、チェスカは何をしているんですと眉をひそめた。
「行きましょう、お兄様に見つかったら叱られてしまいますわ」
「はいはい」
夢だったのだ、とチェスカは望む。兄が処刑されるなどそうそうあり得はしまい。彼が処刑されるような失態を晒すとは思ってはいなかった。だからこそ、夢だと願うことにした。
ウルラというアイドルのことも、悪夢と地続きならきっと幸せではない夢だったのだ。チェスカが覚えていてもきっといいようにはならない悪夢の続きだったのだ。 唇を引き結びまっすぐに前を向き、邸宅の主人の異母妹は、小さな貴婦人さながらにしゃなりと背を伸ばして家を出る。セピア色の静寂は遠い彼方へと消えていた。
*
「ウルラは?」
懲りずに続ける愛鳥のお披露目パーティーという茶番を終えて不機嫌さを隠しもせぬまま帰宅したセシリオは、邸宅に着くと使用人の女にそう訪ねた。黒地のフロックコートから袖を抜き女に任せ、帽子を預けながら女の目を見ると、彼女はまだおりますよと笑顔で返す。本来ならこんなに疲れた状態で人を送り出したくはないのだが、これ以上出立を遅れさせるわけにもいかないだろう。小さなホールへと向かうと、ウルラが医者に別れを告げているところが目に入った。他にいるのはウルラの面倒をよく見てくれた料理女だけだ。親しげに会話をしているのが目に入るが、しかし会話は上滑りだ。ヴァローナの姿は見えない。ウルラを送らなくてもいいのだろうか。
「セシリオさま!」
医者を抱きしめて彼の肩から見えたセシリオの姿に、ウルラはぱああっと破顔し、医者から手を放すとこちらへと駆けてきた。上品なワンピースを身につけてはいるものの、その態度ではどうあっても十六、七の成人したての少女そのものだ。ぎゅっと握りしめられた手を見ると、以前見に行ったときあったはずの包帯は姿を消していた。そんな当たり前のことにほっとする。
「ぼく、すごく感謝しています。本当にほんとうにありがとう、セシリオさま。怪我も治ったよ」
「ああ、それならよかった。それはそうとヴァルには会っていかなくていいのか?」
ヴァローナの愛称にウルラはふるふると首を横に振って笑う。彼女に与えた客室にいくたびに向けられる笑顔は、いつも同じものだ。そこにかすかな違和感と勝手な失望を覚え、そしてそれを自覚する度にセシリオは自身を殴りたくなる。
「ヴァルとはもうお別れをいったから。それにヴァルとならいつでも会えるよ」
それはよかったと口にして、ウルラを見送るために玄関へと向かう。料理女が何度も何度もきちんと言い含めているのは「バレリエーレ家の当主様にお世話になったんです、というのよ」という馬鹿げた言葉だった。ウルラはうんうんと幸せそうに笑って頷いている。なんという茶番だろう、そう思いながらセシリオは玄関の扉を前にして立つ彼女を見やった。アイドルには見えないその姿のまま、ウルラはにっこりと笑って扉の向こうへと消えていく。彼女の元いた屋敷へ送り返すまでを、使用人の青年に任せているから、あとはもう見送るだけだ。
たったの二、三週間過ごしただけでセシリオの邸宅は変わらない。いつものように少しだけ沈滞した空気を淀ませて日々が過ぎるだけだ。医者を送るという料理女に礼を言って中へ入ると、使用人が寒かったでしょうと口にした。申し訳なさそうな顔をしているのがなんとなくおかしい。
「ヴァルは?」
「ヴァローナ様でしたら今は書斎にいらっしゃるみたいですよ」
「わかった、ありがとう」
律儀に礼を口にして勧められる食事を断り一杯のコーヒーを頼むと、うら若い少年当主は寝室へと足を運び、長らく座っていなかった椅子に深く腰掛けた。明らかに疲労がにじんでいた少年の様子を使用人たちは遠巻きに見ていたのだから、しばらくは彼の寝室を訪れる者はいないだろう。うとうとと微睡みそうになっては目を開き、ぼんやりと思考を巡らせているとノックの音が聞こえた。入れという言葉に従って扉を開けた秘書の男は、暖炉に火すらともしていないことに呆れ、コーヒーカップをセシリオに手渡しながら労わるようにいう。
「お疲れ様でした、セーリョ様」
「ああ、そちらこそご苦労様。お前にコーヒーを持って行かせるなんて随分と舐められているな」
いつもより数段きつい口調に男は苦笑する。
「この部屋は寒いでしょう、書斎に行かれては。おやすみになられる時間までに火を入れておきます」
「いや、構わない。明日からはまた投資先の視察と博士の講義だそうだ。ふざけた話だ、そこまで僕を殺したいのなら其れ相応の刺客を送りつけてくればいいものを」
「セーリョ様!!」
秘書の鋭い声にセシリオは肩を竦めコーヒーカップに口をつける。子どもらしさとは無縁のブラックをそのままにして、少年はふうと小さく息を吹きかけながら飲み込む。ちらと緑の眼は秘書を見やり、それからどうでもよさそうな温度で呟いた。
「冗談だ。そういきり立つな」
「セーリョ様、チェスカお嬢様との約束をお忘れですか? きちんと休まれないとこんなご時世であろうがなかろうがお嬢様はいらっしゃいますよ。それから視察はせめてこの騒動が終わってからにしていただきましょう、ただいま手配をしてまいります」
「余計なことをするな、僕は以前からお前にそう言い聞かせてあるはずだが?」
ぴしゃりと吐き出された言葉に部屋を出ようとしていた男は立ち止まる。振り返らなくともわかる、十四歳の少年が緑のまなざしに怒りを込めてこちらを見ていることなど。烈火のごとく強い怒りのせいで、四十二になろうというのに男は止めた足を動かすことができなかった。それでもどうにか振り返ると、案の定緑の目は怒りで吊り上がって男をとらえる。
「お前に僕の予定を決める権利などない。同じことをしつこく繰り返させるな、僕はそこまで気が長いほうではない。それから僕が何をしようともチェスカを引き合いに出すのはやめろ。こんなご時世だからこそ、チェスカを出歩かせるわけにはいかないんだ」
コーヒー美味しかったよ、そうぽそりと疲れたように呟いて、セシリオはカップを机の隅に置くと書斎へと通じる扉を開けた。書斎に足を踏み入れ後ろ手に扉を閉める。じっと訴えかけるように向けられた視線が遮断されて、ほう、とため息が漏れた。ずるずるとそのまま扉に背中を預けて床へと座り込み、両手で目元を覆いながら、苛立つ。億劫だ。守りたいだけなのに、守るためには自身に活力が必要だなんて、そんな当たり前のことすら億劫だ。
「セーリョ?」
聞こえた声にはっと顔を上げると、近くの書棚の間から赤い瞳が現れた。菫色めいた銀髪を垂らしながら、セシリオからしたら高い身長をかがめてこちらを覗きこんでいる。その子どもめいた態度に苛立ちが霧散してセシリオは苦笑した。このアイドルも随分とセシリオの邸宅に馴染んだようだった。セシリオがいない間何をしているのかよく知らないが、ときたま使用人に手伝いを申し出るなど自発的に行動しているらしい。他はふらりと出かけるかこの書斎で何をするでもなく絵本を広げているのだとか。すべてセシリオの認知していない彼の姿だ。
「何してる」
「少し休んでいただけだ。お前は?」
「絵本、読んでた」
指さす先には床の上に大きく広げられた絵本が数冊置いてあった。本家から越すとき持ってきておいたのは悪くない判断だったようだ。そうかとつぶやいて、両手を投げだしぼんやりと床に座り込んでいると、黒い大きな翼を引きずって青年はセシリオの隣へと腰かけた。上から覆いかぶさるように片方の翼を預けられ、その温かさにこれすらも生き物なのだと思う。生身の部分は人間の姿をしたところだけではないのだ。
「ウルラを送らなくてよかったのか?」
すぐ真横でじっとこちらを見つめてくる視線に気だるげに返し、そう問いかけると彼は唇を開いた。
「ウルラとなら、いつでも会える」
そうか。
会話が止んだ。セシリオは視線をヴァローナから引き離しぼんやりと少年自身の手を見やる。ここ最近は剣術の練習も時間が取れないため、せっかくできた剣だこは小さくしぼんで消えてしまった。少しだけかさついた少年らしい決して大きいとはいえない手を、ぎゅっと握りしめる。指の先が赤くなったことを知りながらそれでも黙って指だけを見つめていると、ヴァローナがふと真横で口を滑らせた。
「セーリョは、お母さん、好き?」
ヴァローナの言葉にセシリオは一瞬誰のことを、何のことを言われているのかわからずに聞き流しそうになった。改めて彼の赤く暗い眼を見つめると、青年はもう一度問う。
「セーリョは、お母さん、好き?」
「随分と唐突だな。もちろん好きだ。チェスカと同じように。ああチェスカは以前連れてきた青い目の女の子のことだ、僕の異母妹の」
自然と唇はいらぬ言葉を吐いていた。恐らくヴァローナが求めているものではないだろう備考事案は、けれど彼の中ではまるっと無視されて、青年は鼻先すら頬に触れ総な距離で問う。
「どうして?」
「どうしてって何が?」
「どうして、好きなの」
唇から苦笑がこぼれる。喋る口と考える脳の半分が分断されているような違和感を覚えた。口に出す言葉すべてが上滑りして垂れ流されるような不快感。これは違う、いうべきことではない。
「どうしてって……。子どもは親を愛するものだからだ」
「それは、セーリョが子どもで、お母さんが親だから」
たどたどしさすら感じられる口調にああと頷き、肩を竦めて見せた。
「そうだ。僕はまだ生憎十四歳の子どもだからな。体面上は」
「……それで、セーリョは好きなのか」
眉をひそめる。赤い瞳は暗さを増してセシリオの眼を覆い尽くすようにそこにある。それは不愉快ではないがぞっとしないというわけではない。今は、この目を見たくはなかった。だから目を逸らし逃げるように立ち上がる。じわりと胸の内ににじんだ泥のような感情を新たなもので押しつぶすかのように瞼を閉じる。息が、わずかに荒くなった。
「親だからな。何が言いたい」
「子どもは、セーリョと違う。……セーリョが子どもでも、違う」
振り返りヴァローナの顔を窺った。ぽっかりとセシリオの分だけ開いた場所は黒い翼の下、消えてしまった子どものような影を残す。
「僕が子どもじゃないっていうのか? いっておくが僕はお前より年下だぞ」
ふざけるような声音に、けれどヴァローナはじっと視線を向けるだけでしばらく口を利かなかった。やがて開いた唇は、聞きたくもない話をセシリオに押し付ける。
「セーリョは子ども、でも子どもはセーリョとは違う。セーリョの話は、子どもの話とは違う」
「………お前が話しているのは何の話だ」
「……セーリョの話が、聞きたい。好きなの」
素直な声だった。だからこそセシリオの唇はぎっと引き結ばれて、歪んだ声が漏れた。今自身がどんな顔をしているかなんて、少年にはわからない。
「僕が、誰を好きかって話か」
「お母さんは、違うの」
はあ、と深いため息と苛立ちが混ざった音が漏れた。昼からアイドルのくだらないお披露目会を見せつけられて、ウルラをあの腐れ貴族の元へ帰さなければならず、そして最後はこれか。頭に手を当ててセシリオはいらいらと髪を掻く。首元のリボンを外していなかったことに指が気が付き外しながら、応える。
「しつこいぞ、ヴァル。さっきもいっただろう、母のことはもちろん好きだと」
視線が背中に貼りつく。それを無視して机の上へリボンを放り出した。いらいらとしながら靴の先はみっともなく床を叩く。絞り出すように声が落ちた。分断されていたはずの感情が、声が、喉が、ひとつのものになったことを認めたくなんかない。
「お前は僕に何の答えを聞きたいんだ」
鋭くきつい声を、きっとこの場にいないチェスカなら、あの少女なら泣き出しそうな声だというのだろう。どうして泣かないのと詰るのだろう、あの少女なら。
ヴァローナは呟いた。
「……セーリョのこと」
「――いい加減にしろ!! 僕があのひとのことを好きだとそういえばいいのか!! そうすればお前は満足か!!!」
喉が痛い。振り返って叫んだその先で、赤い瞳は微動だにせずセシリオを射抜く。その平静な表情すら苛立たしくて、少年の悩みなどこの上もなくくだらないものに思えて、気が付いたときにはセシリオはヴァローナの胸倉をつかみあげていた。力があるとはいえないからこそ無抵抗な青年の身体は少年の手には重く、痛みを訴えそうな顔のままセシリオは青年の身体をぶつけた。対して痛くもないのだろうが黒い翼はわずかに驚いたように上へと動き、けれどセシリオにそれを見るだけの余裕はない。セシリオが与えたワイシャツのボタンは外れて転げ落ち、少年はヴァローナをもう一度強く手で打った。くだらない、こんなことをしても何も意味はない。
わかっているのに知られたくなかったという絶望めいた痛みだけが蔓延していた。頭から腐った匂いが今にも零れていきそうだ。怒りですべてが溶けて、喉から口から鼻から眼から耳から腐臭があふれる。気持ちの悪い、モンスターそのものだ。
「ああそうさ好きだった!! 初めて彼女がこの家に来たときからずっとずっと好きだった!! だけど――っ、だけどあのひとは、あのひとは!!」
力加減もなく殴られて、どうしてヴァローナは反撃しないのだろうと頭の片隅が考える。この茶番を鼻で笑う僕がいる。そいつはヴァローナの赤い瞳を指さして嘲笑った。お前の声なんて聞こえちゃいないさ。
ドンッと、一際強い音がした。それはセシリオがつかむヴァローナの襟首、ではなく、青年の頭が扉に打ち付けられた音だった。微かに痛みでだろう歪んだ顔を見て、ああ、と思う。ああ、こんなんじゃ、全然だめだ。
零れた。
「僕の、父さんの妻になるひと、だったんだ」
ごめん、と声がしつこくしつこく喉から落ちる。頬を伝い滑り落ちる熱い水滴すらも許せなくて、縋りつくように呻く。ごめん、ごめん、ごめん、まるで怨嗟のような顔をして泣いて許しを請う自分が許せない。何でもできなければいけないと気負っているくせに、何もできないただのクソガキなのだということくらい自覚していた。何もできないくせに、何でもできるような顔をしている自分を、いつだって嘲笑っていたのは自分自身だ。
それなのになんにも関係ないヴァローナを巻き込んで、今度は被害者のような面をして号泣か。とんだアマちゃんだなと頭の中のもう一人が高い声で笑った。
「セーリョは痛いのか。泣いているから」
ぽつりと落ちてきた言葉と共に頭を撫でられる。わしゃわしゃと豪快に撫でまわすのでもなく、ただゆっくりと落ち着いた温度で彼は撫でる。馬鹿にしているのかといつもなら鼻で笑い飛ばす態度だというのに、けれどセシリオは動けなかった。歯ぎしりしたいほどの痛みやもどかしさが胸を覆うのに、何も言葉は出なかった。痛みだけが腐臭を漂わせる頭蓋や胸を覆い尽くす。それでも、ヴァローナがなだめるように撫でる手は、セシリオを許してくれている気がした。おぞましい近親への愛情も、セシリオ自身の傲慢さも、何もかも。
「僕は、痛いのか、な」
ぽつりと呟いた声を聞きつけたのかヴァローナは髪と同じ色をした長い睫毛を瞬かせ、セシリオをまっすぐに見つめる。前頭部に突き刺さる視線にセシリオは少し疲れたような声で笑った。
「痛いのかもしれないな」
「……痛いのはよくない」
「知ってるさ」
ぎゅむ、と子どものようにヴァローナに抱きつく。七歳のチェスカがやったのならきっとかわいらしいその仕草を、十四歳のクソガキがやるのでは意味合いも何もかも違ってきそうだというのに、そんなことも気にしないまま黒い翼に手を伸ばす。指先を掠めるそれは柔らかく温かかった。
「セーリョ?」
「今は、痛くないんだ」
「泣くのか、痛くないのに」
そうだよ悪いかと子どもめいた声を漏らしてあとはひたすらに泣いていた。叶いもしない切望を抱きしめて生きるのは、少しばかりセシリオには荷が重い。わかっていても、わかっていたからこそ、わかっていたから、だろうか。
愛していたんだ。
そうかと返す言葉を聞きながら目を閉じる。
このまま泣き続けていれば、あのひとは手に入るのだろうか。
いいや答えはNOだ。彼女は決して手に入らない。セシリオには手に入れることができない。たとえセシリオがこの年齢でなかったとしても、この立場でなかったとしても、セシリオには手に入れられない存在だったのだ。
それでいい。それでよかった。守るために必要なのは守る人間への愛だけだ。
翌朝いつまでたっても食事をとる席へと降りてこないセシリオを心配した秘書が見たのは、書斎の床でヴァローナの翼に抱かれて二人して眠りこける間抜けな主従の姿だったという。
*
「……それで、これは一体全体どういうことなのか説明してもらおうか、チェスカ?」
まなじりを吊り上げるセシリオの鋭い声を前にして、ウルラと二人並んで床に座らされているチェスカは、ちらと兄を窺う。しかしどう見たって彼の表情は怒りというより呆れのほうが多分に含まれていて、だからこそ申し訳なさが胸の中に沸き起こる。わしっと隣に座るウルラの両手を掴んでチェスカは兄に必死に訴えかけた。
「違うんです、お兄様! ああいえあの入ってはいけないといわれていたのにもかかわらずウルラ姉様に会いにいったのは私ですわ、私がいけません、それはもちろん重々承知しております。ですがだからといってこんな姿をした姉様を放っておけるわけなどないでしょう? ね、だから……」
「ウルラ、お前は僕の屋敷から出てどこで何をしていたんだ」
チェスカの言葉尻が弱まっていくのを冷徹な目で見据えてから、今度はセシリオの緑のレーザービームはウルラへと向けられる。射すくめられたようにウルラはびくりと肩を震わせてから、それでもにひゃりと緩んだ笑みを浮かべていった。
「ぼく、ぼくは、えっと街の中にいたよ?」
「何を食べていた」
「ね、ネズミ……」
「ウルラ姉様なんておいたわしい……お兄様、やっぱり「黙れお前には聞いていないはずだぞチェスカ? お前は人の話も聞けない馬鹿だったのか?」」
一瞬にしてチェスカの戦闘力を0に追い込んだセシリオの後ろで、そわそわと所在無げにしていたヴァローナであったが、やがてチェスカに侃侃諤諤と説教を垂れるセシリオを横目にウルラの隣に座り込む。そしてセシリオがチェスカを撃沈させたあとウルラへと向き直って、呆れ返ったといわんばかりに深いため息を吐いた。
「ウルラ、何でもっと早く僕に言いに来なかった。お前ひとり養うくらいなんにも問題はないことくらい生活していた二週間ちょっとでわかるだろう」
「……食べ物には困らないし新聞紙があれば生きていける……」
「ウルラ、次その女の姿でそんなふざけた言葉を口にしたら許さないからな」
ぴしゃりと言い放たれた言葉に、以前確かにセシリオが贈った上品なワンピースだった襤褸布を身にまとったアイドルは、しょんぼりと眉をひそめてごめんなさいとつぶやいた。その手は泥か何かで汚れ髪にも土やそれ以外のものが付着している。梟という名前の通り猛禽類そのもの、ネズミやら何やらを口にして生きてきたのかもしれない。女というには猛烈な腐臭が漂っていた、今度は本物の。
おかげで今本家のホールにいるのは、チェスカ、ウルラだけで、急遽呼び出されたセシリオがヴァローナを連れてやってきたときには、使用人数人が泣きべそをかいているという事態になっていた。いつも部屋の掃除はやるくせにウルラの匂いくらいなんでもないだろうといいたい。いいたいが、さすがにそんなことを口にはしない。
はあ、ともう一度ため息を吐いて、眉間の皺を指で伸ばした。
「それでヴァル、なんでお前はそこにいるんだ。お前も説教されるようなことをしたのか」
「……なにもしてない」
「ならそこに座る必要はないだろう……。もういい説教は終わりだ。ウルラ、いつまでもそこにいないで風呂に入って来い。それからチェスカ、勉強量は倍にするからな」
「あんまりですわお兄様……」
嘆くチェスカの声をすべて無視し、ウルラを促しチェスカの額を軽くはたく。馬鹿になってしまったらお兄様のせいですわと吠える少女を自室に追い払おうとすると、この屋敷の小さなお嬢様は異母兄を振り返ってぎゅうと抱きしめてきた。いつになく幼い様子は、ちょっと前にヴァローナに抱きついた自分の情けない姿を彷彿とさせて、なんとなしにセシリオは苦笑してしまう。彼女と唯一の共通点でもある黒い髪を撫でながらどうした、と尋ねると、チェスカはセシリオの愛しいひとと同じ目をして少年を見上げた。
泣きそうなほど震える瞳を見ても、今はもう、何も思わない。フランチェスカはフランチェスカで、フェデリカはフェデリカで、そして彼女たちはセシリオの家族だ。それだけだ。
「どこにもいかないでくださいね、お兄様」
「お前らしくないな、チェスカ。嫌な夢でも見たのか」
「ええ。ええ、とても」
すんと鼻を鳴らして義妹は兄の洋服にぐりぐりと頭を押し付けた。ぎゅう、と抱きしめる手は震えている。
「白い光の中に、まるで断頭されることを待つ囚人のような姿をした、お兄様が、歩いていくんです。お兄様、私、私は」
「心配するな、チェスカ。夢だよ」
チェスカの黒髪をそっと掻きあげて額に唇を押し付ける。安堵してほしいと願う声を聞き入れてくれたのだろうか、幼い妹は泣き出しそうな顔のままはいと微笑んだ。気丈な笑みだった。
彼女の頬を両手で包んでもう一度祈るように口づける。恥ずかしそうにもう、とつぶやくチェスカが、癒されますように。そんな悪夢をこれ以上見ないように。
「大丈夫だよ、チェスカ。今度からはウルラもいてくれる」
「ウルラ姉様を引き取るんですか!?」
にこりと笑って答えない。チェスカは幸せそうに大きく微笑んで、お兄様ありがとうと兄の頬にキスをした。
前妻の残した息子がやってきたと聞いても、後妻のフェデリカは姿を現さない。その理由を知っている人間は、きっとセシリオとフェデリカ本人と、父セブリアンだけなのだろう。だからこそセシリオは一通の手紙を彼女の休んでいるという寝室の扉の下に挟んで、小さな声で囁いた。
「愛していました、フェデリカ」
「それは、お兄様ですわ」
バレリエーレ家のうら若い当主として社交界に出入りする義理の兄のことを、チェスカは何よりも大切に思っていた。それは母とは違う愛情であり、父に向ける愛情とも父から兄へと向ける愛情とも違うことを知っている。七歳という年齢であろうとも、それくらいのことならチェスカにもわかる。ただどうしたって父から兄へと送られる信頼混じりの突き放しが許せなくもある。
信頼しているのなら蔑ろにしてもいいのかと、いつもひとりで生きている兄の背中を見るたびに、その決して大きいとは言い難い背中を見るたびに、複雑な思いに囚われるのだ。
どうしてお兄様はお父様に愛情を求めないのですか、どうしてお父様はお兄様を突き放すのですか。尋ねたい疑問が胸の中でどろりと溶けて、それでもチェスカはその疑問を口にはできない。口にしたところで、ふたりの不粋な男性は質問の本質を決して捉えてくれないからだ。きっと兄は苦笑しながら「もうその時期は終わったんだよ、チェスカ」というだろう。きっと父はやんわりと困ったように笑いながら「突き放しているわけではないさ。彼にはもう自分ひとりでできるだけの力がついただけだ」というだろう。
ふたりとも、わかってはいないのだ。
だからチェスカはいつもこっそりと兄が出かけているときを狙い、彼ひとりが住まう邸宅へ訪れる。料理長の女と話しながら兄の食事についていろいろと質問し、ときには彼女に教わって兄の食卓に出す彼の好物を作ったりもした。あとから女に聞いた話によると、いつもと味が違うなと呟いたのだというのだから、我が兄ながら可愛らしい。
チェスカは、父が与えない愛情の代わりに、義妹としての愛情をあげたかったのだ。返して欲しいなどとは思わない。ただ受け取ってくれればいい。代わりにはなり得ないのかもしれないが、それでも義兄を兄として慕うこの気持ちに偽りはないのだ。
そうして今日もチェスカはお供をひとり――兄によってつけられたお供数人のうちのひとり――引き連れて、こっそりと兄の家に訪れた。
最近父から聞いて愛鳥に関心を寄せており、兄に闘鳥崩れの愛鳥を飼うよう勧めたのはチェスカだ。そして彼はおそらく渋々ながら父に説得され、愛鳥を飼ったのだという。まだ挨拶は交わしていないが、関心を持ったチェスカを止める者は本家にはいやしない。
いつも通り裏口から厨房へと向かうと、料理女がチェスカの姿に気がついて少し焦った顔をした。入ろうとするチェスカを何故か血のついた手で押しとどめ、今日はダメなんですお嬢様といった。声はどうしてか震えている気がした。
「どうして?」
「今アイドルのヴァローナ様がお怪我をしたご友人を連れ帰ったところですの。今日はいけませんわ。ヴァローナ様も少し気が立っていられますし、お嬢様もまだお会いすることは許されていないでしょう? お帰りください」
徐々に声がはっきりとして震えも治まっていくようだった。女のきっぱりとした目を前にして、チェスカは一瞬言葉に惑う。と、後ろから伸びてきた手によって彼女は裏口から外へと出ることになった。
「どうしてあなたがわたしを引っ張るんですの!」
「当主様がそろそろお帰りになるらしい。見つかったらますます会えなくなるぞ」
平静な声にむっとして彼女を抱え上げる男を睨むと、彼は片方の眉をきゅっと釣り上げて見せた。
「敬語の方がよかったか、お嬢様?」
「結構ですわ!」
下ろしなさいという命令を素直に聞き入れたお供の男は、チェスカの腕を引いて歩く。裏門にひっそりと横付けにされた馬車に乗り込んで、チェスカは暗い空の下、煌々と明かりを放つ小さな部屋の窓をじっと見つめていた。あそこに傷ついた鳥がいるのだろうか。
バタンと扉を閉じて隣に乗り込んできた男をもう一睨みしてから、チェスカは暗くなりそうな感情を必死で押し殺す。握りしめた指はぎちりと嫌な音を立てて、少女の華奢な白い指を赤くした。
再び兄の邸宅に訪れたのは門前払いを食らった日から丁度一週間が過ぎたときだった。いつものように裏口から入ると料理女はチェスカを見やり、少しだけ口をすぼめる。なんといっていいのかわからないといいたげな顔で、それからやれやれと首を横に振った。
「二階の西棟にはいってはいけませんよ、お嬢様。ヴァローナ様のご友人が休んでいられますから。彼女は絶対安静にしていなければいけませんからね、わかりました?」
「二階の西棟ですね、わかりましたわ。近づきません」
「あんたもきちんと見張ってないとだめよ」
「わかってるよばーさん」
男の言葉に料理女はきっと眉を吊り上げたが、チェスカが見ていることを思い出したのかなにも言わずに唇を引き結んだだけだった。
厨房を抜けてお供の男の前に仁王立ちをする。じっと睨むと彼ははいはいとため息をついてチェスカにひらひらと手を振って、どこかへ向かって歩き始めた。
「二時になりましたら帰りますわ。裏門で待っていてください」
「わーったよ、お嬢様」
チェスカを守る上でお供をつけるために、兄が応募してきた人間全てと面接したという話は小耳に挟んだことがある。その中でただひとり兄によって太鼓判を押されたのがこの男だということを、しかしチェスカはどうしたって信じられなかった。こんなにもやる気のない人間が役に立つときなど来るのだろうか、そう常々思いながらそれでも自身のいうことを聞いてくれることに感謝する。兄が丸め込まれているとは思えないが、それでもいないよりはきっとマシだろう。
とりあえず兄の執務室代わりとなっている書斎に向かう。東棟二階にある兄の書斎は、本人がいないにも関わらずチェスカがいたいと願う場所だった。どうしてなのだろうと、よく不思議に思う。
兄には会えない。彼が自主的にチェスカや母の住む本邸に訪れない限り、彼はチェスカを彼の邸宅に呼ぶことすら厭う。嫌われているわけではないということくらいわかっていた。ただチェスカを彼の領域に入れることを極端に嫌うのだ。
チェスカではバレリエーレ家を継ぐことはできない。バレリエーレ家の当主なのは兄であるセシリオだけであり、彼が例え子どもを遺さず死んだとしたら、チェスカではなく傍系の子どもが継ぐのだろう。チェスカにはまだ継ぐだけの知識も権力も備わってはいなかった。もしもチェスカがバレリエーレ家を継ごうとするのなら、それは相当に長い時間をかけることになる。
兄は私にどうして欲しいのだろうと、何度も悩んだことをまた憂う。まだ七歳の少女には自分のなすべきことすらわからなかった。そして七歳だからといって目をつぶっていられるわけではないということだけは、わかっていた。
扉を開けて部屋に入ると真っ先に目につくのは、父同様本と資料が山積みにされたマホガニー製の大きな机だった。どさりと今にも落ちそうな紙束がいくつもいくつも積まれていて、チェスカの身長では彼がいつも座るだろう場所を覗き見ることはできない。ヒールのない小さな靴を履いた足を動かして回り込むと、頑丈そうでいてところどころ繊細な彫刻が施されている椅子が目に入った。深い緑色の布が張られていて、兄とおそらく父が座っただろう足跡を残している。兄が彼自身の邸宅をかまえると聞いたとき、父は迷わずこの椅子を贈ることを選んだ。彼が長い間使っていたこの椅子を。
けれどチェスカは座らない。いや正しくは座れない。チェスカのように幸せを甘受するだけの立場の人間は、座ってはいけないということくらいわかる。この椅子は、父セブリアンと兄セシリオが、家族を守るために戦ってきたことを見守り続けそして支えてきたものだ。チェスカに座る権利はない。
ぺたりとカーペットの敷かれた床に座り込む。深い緑色の布をそっと撫でながら、机の引き出しをぼんやりと見た。鍵のついたひとつを除いてすべてあいており、手紙が零れ落ちんばかりに入っていた。数枚は風で落ちてしまったのだろう、机の下に忘れ去られたことを嘆くように鎮座している。
ぺたりと椅子に額を押し付けて、チェスカは瞼を閉じた。
かちゃり、とドアノブが回る音がした。
はっと目を開けて顔を上げる。誰かが兄の書斎に訪れたのだろうか、それとも兄がすでに帰ってきてしまったのだろうか。目をこすってそうっと机から扉を見やると、誰かが去って行くところが目に入った。鮮やかな白が視界の隅から扉の向こうへと消えていく。素足が廊下を軽々と駆けていく音が響いた。この邸宅で素足の人間などいるのだろうか。
そのとき不意に胸倉を掴まれたかのように身体が動くことを求めた。思わぬ衝撃にチェスカは足をもつれさせて机の書類をどさどさと落としてしまう。しかしそれすらも気にならずチェスカの頭には今去って行く誰かを追うことしか残ってはいなかった。微かに開いた薄い桃色の唇が意図せぬままぽろりと言葉を放り出す。
「おにいさま」
セピア色の静寂に保たれた部屋の中チェスカの声だけが一色浮かんでいるようだった。転びそうになった足を必死に動かして書斎を飛び出る。右手に曲がった白を追いかけ、今度は左へ、階段を下り、上り、また右へ。
おかしい、この家はそこまで大きくはない、追いかけてはいけないと、頭の片隅で警鐘が鳴っているのにも関わらず、チェスカの足は止まらない。胸を引っ張られるように足をもつれさせながら必死に駆ける。少女の靴音が異様に高く響き、泣き出しそうな感情のせいで荒い呼吸音が耳についた。白はチェスカのずっと前をひらひらと踊る。はぁはぁと荒い息が廊下だけではなく自分の胸へと跳ね返る。足は今にも転びそうなのにどうしても止まらず、チェスカの双眸は白を追いかけ続けているくせに、涙が溢れてきた。
「おにいさま、おにいさま!」
嫌だ――、いかないで。
白はやがて立ち止まりチェスカを振り返ると微笑んだ。その姿は、そのシルエットは、こんなにも大切な兄のものだ。それなのにどうして、どうして首から縄が弛んでいるの、どうして両手を前に差し出しているの、どうして手首には枷をしているの。
「おにいさま!!」
扉の向こうへと、白いどこかへシルエットが溶ける。融解し縺れ混濁した。チェスカは甲高い悲鳴を上げながら必死に扉へと駆ける、嫌だお願い助けて。暗い廊下を――いいやここは地下牢だ、どこかの地下牢だとチェスカは知っていた――駆ける少女の足はやがて速度を落とし、ついに両足がもつれて座り込む。ぼろぼろと涙がこぼれてチェスカは泣きじゃくりながら兄を呼んだ。兄の救いを求めて助けを呼んだ。
「いかないで……セシー」
数える程しか呼んだことのない兄の愛称を囁く。涙だけがチェスカに応えて律儀にいつまでもいつまでも頬を伝う。
追いかけてはいけなかったのだ、と少女は絶望の中思う。追いかけるべきではなかった。追いかけてしまったからこそ、兄は、白の中に溶けてしまった。それが何を意味しているのかはわからない、それでも不吉な予感を指しているということくらいは、たった七つの少女にだってわかるのだ。
そのとき、真っ暗だった空間に突如柔らかい光が射し込んだ。扉の向こう側にある部屋から光が漏れて、チェスカの頬を撫でる。微かな声が、漂った。
「だれ……? 誰か、いるの?」
はっと顔を上げる。優しい女の声だった。聞いたこともない夢見る少女のような声だった。それは扉の向こうから聞こえてきた。さっきの白ではない、違う色。漏れる光は、白ではない。
「ヴァル? ヴァルなの? 入ってこないの?」
声は不安そうな色を宿して囁いた。泣き疲れたチェスカはのろのろと身を起こす。誰であれ、不安にさせるのはよくない。ドアノブに手を伸ばしそっと引くと、キィイという蝶番の軋む音と共に扉がゆっくりと開かれた。
少女は赤い靴に包まれた足を静かに踏み出して、部屋の中へ視線を向ける。そこは、チェスカがあまり足を踏み入れない客室と同じ姿をしていた。入って左手には美しい鏡台が置いてあり、鏡台の足元にはプレゼントだろうか開けられた箱といくつかの洋服が重ねられている。それから正面の窓へと目を向けると、上半身を起こしてこちらを驚いたように見つめる女と視線がかち合った。お互い驚きのまま硬直し、数分ほど経ったのだろうか、彼女はへらりと笑った。
「泣いて、たの? 大丈夫?」
言葉にもう一度涙が零れそうになった。必死に首を横に振って、チェスカも微笑む。後ろ手に扉をぱたんと閉めた。
「泣いていましたけど、大丈夫ですわ。あなたはだれ? お兄様のアイドルさんのお友達?」
「ぼくはヴァルの友達だよ。ウルラ。ぼくはウルラ」
ウルラという響きを口の中につぶやいて確かめる。女のくすんだ紫がかった灰色の髪は艶やかでくるくると風に巻かれたように遊んでいた。森林のような緑の瞳がチェスカを映す。柔らかく笑った顔を見て、やはりチェスカは泣きたくなった。これが夢だったのなら、この傷だらけのお姉さんはきっと今泣いている。そんなことを思って悲しくなった。
チェスカが彼女の傷を見ていることに気がついたのか、ウルラは包帯だらけの身体を不器用に動かして毛布の上にぽとりと落ちている白いワイシャツを羽織る。ぼんやりと彼女の動きを見ているとウルラの明るい緑の目がこちらを見て問う。
「あなたは? あなたはだあれ?」
「ごめんなさい、名乗り忘れていましたわ。フランチェスカ・バレッタ=バレリエーレと申します。セシリオの異母妹ですわ。チェスカとお呼びください、ウルラ姉様」
「ねえさま? ぼくがねえさま?」
「だってウルラ姉様のほうがお姉さんでしょう? 違いますの?」
パアアと顔を輝かせてウルラは少女のように微笑んだ。無邪気な笑みのままそうだね、そうだねと嬉しそうに囀る。ウルラとはどういった意味だったっけ、ぼんやりと考えるチェスカに近づこうとしたのか、ウルラは生々しく白い脚を毛布の下から降ろしてこちらへと向き直った。歩き出そうとするのを高い声で止めたのは、彼女の脚が痛ましいほど包帯まみれだったからだ。
「ウルラ姉様!! 絶対安静ですわ、立ってはいけません!! ちゃんと休まないと治らなくなってしまいますわ」
駆け寄って自分よりも大きな彼女をベッドへと寝付かせる。少しだけ不満そうなウルラを無視し、おとなしくベッドに横になった彼女の前で、チェスカは満足気に頷いた。少し目が潤んでいるように見えたのでそっと小さく熱い手を彼女の額に押し付けるが、けれどそれはひんやりと冷たかった。チェスカの手はあったかいね、とほころぶ笑顔を目の前にして、悲しいと思う。チェスカがウルラに同情してはいけないということが、とても悲しかった。
兄は、チェスカが傷つくからそう口にしたのだろう。アイドルたちに同情してはいけないと。帰ってこない感情を前にして、本来ひとはただ無力感に打ちのめされるだけだと兄は知っているのだ。
「チェスカはどうして泣いていたの? 痛いことでもあったの?」
決して血色がいいとはいえないウルラのけれど艶やかな唇からぽろりと落ちた言葉に、チェスカはベッドの前に立ち尽くした。私は、痛かったのだろうか。
ウルラがいて、先ほどまでのセピア色の静寂は消えたはずなのに、またもしっとりと身体を包もうとしていることにチェスカは気がつかない。ウルラの深い森の瞳を見つめながら睫毛を震わせるだけだ。
言葉を返そうと、唇を開いた。
かちゃり、とドアノブが回る音がした。
はっと目を開き顔を上げる。山積みにされた書類はそのままで、確かに滑り落ちてしまったはずなのに当然のような顔をして机の上に居座っていた。そしてその上からお供の男がこちらを見て呆れたように片方の眉を釣り上げて見せる。チェスカはそれをぼんやりと阿呆のように見ていた。
「お嬢様、こんなとこで寝てると身体がばっきばきになるぞ? そろそろ坊ちゃんが帰ってくる時間だ、切り上げよう」
「……もう、そんな時間なんですの?」
「時計も読めないのか?」
鼻で笑う音と共に男はくいっと顎を引いて机の上の置き時計を指した。二時を指す針を見て少女は明らかに視線を泳がせる。安定を欠いた彼女の様子を男はじっと見ていた。やがてゆっくりと頭を振るい、夢だったんですわねと小さく泣きそうな声で呟いてからチェスカはすっくと立ち上がる。兄とは似ていない青い目をまっすぐにお供の男に向けて、チェスカは何をしているんですと眉をひそめた。
「行きましょう、お兄様に見つかったら叱られてしまいますわ」
「はいはい」
夢だったのだ、とチェスカは望む。兄が処刑されるなどそうそうあり得はしまい。彼が処刑されるような失態を晒すとは思ってはいなかった。だからこそ、夢だと願うことにした。
ウルラというアイドルのことも、悪夢と地続きならきっと幸せではない夢だったのだ。チェスカが覚えていてもきっといいようにはならない悪夢の続きだったのだ。 唇を引き結びまっすぐに前を向き、邸宅の主人の異母妹は、小さな貴婦人さながらにしゃなりと背を伸ばして家を出る。セピア色の静寂は遠い彼方へと消えていた。
*
「ウルラは?」
懲りずに続ける愛鳥のお披露目パーティーという茶番を終えて不機嫌さを隠しもせぬまま帰宅したセシリオは、邸宅に着くと使用人の女にそう訪ねた。黒地のフロックコートから袖を抜き女に任せ、帽子を預けながら女の目を見ると、彼女はまだおりますよと笑顔で返す。本来ならこんなに疲れた状態で人を送り出したくはないのだが、これ以上出立を遅れさせるわけにもいかないだろう。小さなホールへと向かうと、ウルラが医者に別れを告げているところが目に入った。他にいるのはウルラの面倒をよく見てくれた料理女だけだ。親しげに会話をしているのが目に入るが、しかし会話は上滑りだ。ヴァローナの姿は見えない。ウルラを送らなくてもいいのだろうか。
「セシリオさま!」
医者を抱きしめて彼の肩から見えたセシリオの姿に、ウルラはぱああっと破顔し、医者から手を放すとこちらへと駆けてきた。上品なワンピースを身につけてはいるものの、その態度ではどうあっても十六、七の成人したての少女そのものだ。ぎゅっと握りしめられた手を見ると、以前見に行ったときあったはずの包帯は姿を消していた。そんな当たり前のことにほっとする。
「ぼく、すごく感謝しています。本当にほんとうにありがとう、セシリオさま。怪我も治ったよ」
「ああ、それならよかった。それはそうとヴァルには会っていかなくていいのか?」
ヴァローナの愛称にウルラはふるふると首を横に振って笑う。彼女に与えた客室にいくたびに向けられる笑顔は、いつも同じものだ。そこにかすかな違和感と勝手な失望を覚え、そしてそれを自覚する度にセシリオは自身を殴りたくなる。
「ヴァルとはもうお別れをいったから。それにヴァルとならいつでも会えるよ」
それはよかったと口にして、ウルラを見送るために玄関へと向かう。料理女が何度も何度もきちんと言い含めているのは「バレリエーレ家の当主様にお世話になったんです、というのよ」という馬鹿げた言葉だった。ウルラはうんうんと幸せそうに笑って頷いている。なんという茶番だろう、そう思いながらセシリオは玄関の扉を前にして立つ彼女を見やった。アイドルには見えないその姿のまま、ウルラはにっこりと笑って扉の向こうへと消えていく。彼女の元いた屋敷へ送り返すまでを、使用人の青年に任せているから、あとはもう見送るだけだ。
たったの二、三週間過ごしただけでセシリオの邸宅は変わらない。いつものように少しだけ沈滞した空気を淀ませて日々が過ぎるだけだ。医者を送るという料理女に礼を言って中へ入ると、使用人が寒かったでしょうと口にした。申し訳なさそうな顔をしているのがなんとなくおかしい。
「ヴァルは?」
「ヴァローナ様でしたら今は書斎にいらっしゃるみたいですよ」
「わかった、ありがとう」
律儀に礼を口にして勧められる食事を断り一杯のコーヒーを頼むと、うら若い少年当主は寝室へと足を運び、長らく座っていなかった椅子に深く腰掛けた。明らかに疲労がにじんでいた少年の様子を使用人たちは遠巻きに見ていたのだから、しばらくは彼の寝室を訪れる者はいないだろう。うとうとと微睡みそうになっては目を開き、ぼんやりと思考を巡らせているとノックの音が聞こえた。入れという言葉に従って扉を開けた秘書の男は、暖炉に火すらともしていないことに呆れ、コーヒーカップをセシリオに手渡しながら労わるようにいう。
「お疲れ様でした、セーリョ様」
「ああ、そちらこそご苦労様。お前にコーヒーを持って行かせるなんて随分と舐められているな」
いつもより数段きつい口調に男は苦笑する。
「この部屋は寒いでしょう、書斎に行かれては。おやすみになられる時間までに火を入れておきます」
「いや、構わない。明日からはまた投資先の視察と博士の講義だそうだ。ふざけた話だ、そこまで僕を殺したいのなら其れ相応の刺客を送りつけてくればいいものを」
「セーリョ様!!」
秘書の鋭い声にセシリオは肩を竦めコーヒーカップに口をつける。子どもらしさとは無縁のブラックをそのままにして、少年はふうと小さく息を吹きかけながら飲み込む。ちらと緑の眼は秘書を見やり、それからどうでもよさそうな温度で呟いた。
「冗談だ。そういきり立つな」
「セーリョ様、チェスカお嬢様との約束をお忘れですか? きちんと休まれないとこんなご時世であろうがなかろうがお嬢様はいらっしゃいますよ。それから視察はせめてこの騒動が終わってからにしていただきましょう、ただいま手配をしてまいります」
「余計なことをするな、僕は以前からお前にそう言い聞かせてあるはずだが?」
ぴしゃりと吐き出された言葉に部屋を出ようとしていた男は立ち止まる。振り返らなくともわかる、十四歳の少年が緑のまなざしに怒りを込めてこちらを見ていることなど。烈火のごとく強い怒りのせいで、四十二になろうというのに男は止めた足を動かすことができなかった。それでもどうにか振り返ると、案の定緑の目は怒りで吊り上がって男をとらえる。
「お前に僕の予定を決める権利などない。同じことをしつこく繰り返させるな、僕はそこまで気が長いほうではない。それから僕が何をしようともチェスカを引き合いに出すのはやめろ。こんなご時世だからこそ、チェスカを出歩かせるわけにはいかないんだ」
コーヒー美味しかったよ、そうぽそりと疲れたように呟いて、セシリオはカップを机の隅に置くと書斎へと通じる扉を開けた。書斎に足を踏み入れ後ろ手に扉を閉める。じっと訴えかけるように向けられた視線が遮断されて、ほう、とため息が漏れた。ずるずるとそのまま扉に背中を預けて床へと座り込み、両手で目元を覆いながら、苛立つ。億劫だ。守りたいだけなのに、守るためには自身に活力が必要だなんて、そんな当たり前のことすら億劫だ。
「セーリョ?」
聞こえた声にはっと顔を上げると、近くの書棚の間から赤い瞳が現れた。菫色めいた銀髪を垂らしながら、セシリオからしたら高い身長をかがめてこちらを覗きこんでいる。その子どもめいた態度に苛立ちが霧散してセシリオは苦笑した。このアイドルも随分とセシリオの邸宅に馴染んだようだった。セシリオがいない間何をしているのかよく知らないが、ときたま使用人に手伝いを申し出るなど自発的に行動しているらしい。他はふらりと出かけるかこの書斎で何をするでもなく絵本を広げているのだとか。すべてセシリオの認知していない彼の姿だ。
「何してる」
「少し休んでいただけだ。お前は?」
「絵本、読んでた」
指さす先には床の上に大きく広げられた絵本が数冊置いてあった。本家から越すとき持ってきておいたのは悪くない判断だったようだ。そうかとつぶやいて、両手を投げだしぼんやりと床に座り込んでいると、黒い大きな翼を引きずって青年はセシリオの隣へと腰かけた。上から覆いかぶさるように片方の翼を預けられ、その温かさにこれすらも生き物なのだと思う。生身の部分は人間の姿をしたところだけではないのだ。
「ウルラを送らなくてよかったのか?」
すぐ真横でじっとこちらを見つめてくる視線に気だるげに返し、そう問いかけると彼は唇を開いた。
「ウルラとなら、いつでも会える」
そうか。
会話が止んだ。セシリオは視線をヴァローナから引き離しぼんやりと少年自身の手を見やる。ここ最近は剣術の練習も時間が取れないため、せっかくできた剣だこは小さくしぼんで消えてしまった。少しだけかさついた少年らしい決して大きいとはいえない手を、ぎゅっと握りしめる。指の先が赤くなったことを知りながらそれでも黙って指だけを見つめていると、ヴァローナがふと真横で口を滑らせた。
「セーリョは、お母さん、好き?」
ヴァローナの言葉にセシリオは一瞬誰のことを、何のことを言われているのかわからずに聞き流しそうになった。改めて彼の赤く暗い眼を見つめると、青年はもう一度問う。
「セーリョは、お母さん、好き?」
「随分と唐突だな。もちろん好きだ。チェスカと同じように。ああチェスカは以前連れてきた青い目の女の子のことだ、僕の異母妹の」
自然と唇はいらぬ言葉を吐いていた。恐らくヴァローナが求めているものではないだろう備考事案は、けれど彼の中ではまるっと無視されて、青年は鼻先すら頬に触れ総な距離で問う。
「どうして?」
「どうしてって何が?」
「どうして、好きなの」
唇から苦笑がこぼれる。喋る口と考える脳の半分が分断されているような違和感を覚えた。口に出す言葉すべてが上滑りして垂れ流されるような不快感。これは違う、いうべきことではない。
「どうしてって……。子どもは親を愛するものだからだ」
「それは、セーリョが子どもで、お母さんが親だから」
たどたどしさすら感じられる口調にああと頷き、肩を竦めて見せた。
「そうだ。僕はまだ生憎十四歳の子どもだからな。体面上は」
「……それで、セーリョは好きなのか」
眉をひそめる。赤い瞳は暗さを増してセシリオの眼を覆い尽くすようにそこにある。それは不愉快ではないがぞっとしないというわけではない。今は、この目を見たくはなかった。だから目を逸らし逃げるように立ち上がる。じわりと胸の内ににじんだ泥のような感情を新たなもので押しつぶすかのように瞼を閉じる。息が、わずかに荒くなった。
「親だからな。何が言いたい」
「子どもは、セーリョと違う。……セーリョが子どもでも、違う」
振り返りヴァローナの顔を窺った。ぽっかりとセシリオの分だけ開いた場所は黒い翼の下、消えてしまった子どものような影を残す。
「僕が子どもじゃないっていうのか? いっておくが僕はお前より年下だぞ」
ふざけるような声音に、けれどヴァローナはじっと視線を向けるだけでしばらく口を利かなかった。やがて開いた唇は、聞きたくもない話をセシリオに押し付ける。
「セーリョは子ども、でも子どもはセーリョとは違う。セーリョの話は、子どもの話とは違う」
「………お前が話しているのは何の話だ」
「……セーリョの話が、聞きたい。好きなの」
素直な声だった。だからこそセシリオの唇はぎっと引き結ばれて、歪んだ声が漏れた。今自身がどんな顔をしているかなんて、少年にはわからない。
「僕が、誰を好きかって話か」
「お母さんは、違うの」
はあ、と深いため息と苛立ちが混ざった音が漏れた。昼からアイドルのくだらないお披露目会を見せつけられて、ウルラをあの腐れ貴族の元へ帰さなければならず、そして最後はこれか。頭に手を当ててセシリオはいらいらと髪を掻く。首元のリボンを外していなかったことに指が気が付き外しながら、応える。
「しつこいぞ、ヴァル。さっきもいっただろう、母のことはもちろん好きだと」
視線が背中に貼りつく。それを無視して机の上へリボンを放り出した。いらいらとしながら靴の先はみっともなく床を叩く。絞り出すように声が落ちた。分断されていたはずの感情が、声が、喉が、ひとつのものになったことを認めたくなんかない。
「お前は僕に何の答えを聞きたいんだ」
鋭くきつい声を、きっとこの場にいないチェスカなら、あの少女なら泣き出しそうな声だというのだろう。どうして泣かないのと詰るのだろう、あの少女なら。
ヴァローナは呟いた。
「……セーリョのこと」
「――いい加減にしろ!! 僕があのひとのことを好きだとそういえばいいのか!! そうすればお前は満足か!!!」
喉が痛い。振り返って叫んだその先で、赤い瞳は微動だにせずセシリオを射抜く。その平静な表情すら苛立たしくて、少年の悩みなどこの上もなくくだらないものに思えて、気が付いたときにはセシリオはヴァローナの胸倉をつかみあげていた。力があるとはいえないからこそ無抵抗な青年の身体は少年の手には重く、痛みを訴えそうな顔のままセシリオは青年の身体をぶつけた。対して痛くもないのだろうが黒い翼はわずかに驚いたように上へと動き、けれどセシリオにそれを見るだけの余裕はない。セシリオが与えたワイシャツのボタンは外れて転げ落ち、少年はヴァローナをもう一度強く手で打った。くだらない、こんなことをしても何も意味はない。
わかっているのに知られたくなかったという絶望めいた痛みだけが蔓延していた。頭から腐った匂いが今にも零れていきそうだ。怒りですべてが溶けて、喉から口から鼻から眼から耳から腐臭があふれる。気持ちの悪い、モンスターそのものだ。
「ああそうさ好きだった!! 初めて彼女がこの家に来たときからずっとずっと好きだった!! だけど――っ、だけどあのひとは、あのひとは!!」
力加減もなく殴られて、どうしてヴァローナは反撃しないのだろうと頭の片隅が考える。この茶番を鼻で笑う僕がいる。そいつはヴァローナの赤い瞳を指さして嘲笑った。お前の声なんて聞こえちゃいないさ。
ドンッと、一際強い音がした。それはセシリオがつかむヴァローナの襟首、ではなく、青年の頭が扉に打ち付けられた音だった。微かに痛みでだろう歪んだ顔を見て、ああ、と思う。ああ、こんなんじゃ、全然だめだ。
零れた。
「僕の、父さんの妻になるひと、だったんだ」
ごめん、と声がしつこくしつこく喉から落ちる。頬を伝い滑り落ちる熱い水滴すらも許せなくて、縋りつくように呻く。ごめん、ごめん、ごめん、まるで怨嗟のような顔をして泣いて許しを請う自分が許せない。何でもできなければいけないと気負っているくせに、何もできないただのクソガキなのだということくらい自覚していた。何もできないくせに、何でもできるような顔をしている自分を、いつだって嘲笑っていたのは自分自身だ。
それなのになんにも関係ないヴァローナを巻き込んで、今度は被害者のような面をして号泣か。とんだアマちゃんだなと頭の中のもう一人が高い声で笑った。
「セーリョは痛いのか。泣いているから」
ぽつりと落ちてきた言葉と共に頭を撫でられる。わしゃわしゃと豪快に撫でまわすのでもなく、ただゆっくりと落ち着いた温度で彼は撫でる。馬鹿にしているのかといつもなら鼻で笑い飛ばす態度だというのに、けれどセシリオは動けなかった。歯ぎしりしたいほどの痛みやもどかしさが胸を覆うのに、何も言葉は出なかった。痛みだけが腐臭を漂わせる頭蓋や胸を覆い尽くす。それでも、ヴァローナがなだめるように撫でる手は、セシリオを許してくれている気がした。おぞましい近親への愛情も、セシリオ自身の傲慢さも、何もかも。
「僕は、痛いのか、な」
ぽつりと呟いた声を聞きつけたのかヴァローナは髪と同じ色をした長い睫毛を瞬かせ、セシリオをまっすぐに見つめる。前頭部に突き刺さる視線にセシリオは少し疲れたような声で笑った。
「痛いのかもしれないな」
「……痛いのはよくない」
「知ってるさ」
ぎゅむ、と子どものようにヴァローナに抱きつく。七歳のチェスカがやったのならきっとかわいらしいその仕草を、十四歳のクソガキがやるのでは意味合いも何もかも違ってきそうだというのに、そんなことも気にしないまま黒い翼に手を伸ばす。指先を掠めるそれは柔らかく温かかった。
「セーリョ?」
「今は、痛くないんだ」
「泣くのか、痛くないのに」
そうだよ悪いかと子どもめいた声を漏らしてあとはひたすらに泣いていた。叶いもしない切望を抱きしめて生きるのは、少しばかりセシリオには荷が重い。わかっていても、わかっていたからこそ、わかっていたから、だろうか。
愛していたんだ。
そうかと返す言葉を聞きながら目を閉じる。
このまま泣き続けていれば、あのひとは手に入るのだろうか。
いいや答えはNOだ。彼女は決して手に入らない。セシリオには手に入れることができない。たとえセシリオがこの年齢でなかったとしても、この立場でなかったとしても、セシリオには手に入れられない存在だったのだ。
それでいい。それでよかった。守るために必要なのは守る人間への愛だけだ。
翌朝いつまでたっても食事をとる席へと降りてこないセシリオを心配した秘書が見たのは、書斎の床でヴァローナの翼に抱かれて二人して眠りこける間抜けな主従の姿だったという。
*
「……それで、これは一体全体どういうことなのか説明してもらおうか、チェスカ?」
まなじりを吊り上げるセシリオの鋭い声を前にして、ウルラと二人並んで床に座らされているチェスカは、ちらと兄を窺う。しかしどう見たって彼の表情は怒りというより呆れのほうが多分に含まれていて、だからこそ申し訳なさが胸の中に沸き起こる。わしっと隣に座るウルラの両手を掴んでチェスカは兄に必死に訴えかけた。
「違うんです、お兄様! ああいえあの入ってはいけないといわれていたのにもかかわらずウルラ姉様に会いにいったのは私ですわ、私がいけません、それはもちろん重々承知しております。ですがだからといってこんな姿をした姉様を放っておけるわけなどないでしょう? ね、だから……」
「ウルラ、お前は僕の屋敷から出てどこで何をしていたんだ」
チェスカの言葉尻が弱まっていくのを冷徹な目で見据えてから、今度はセシリオの緑のレーザービームはウルラへと向けられる。射すくめられたようにウルラはびくりと肩を震わせてから、それでもにひゃりと緩んだ笑みを浮かべていった。
「ぼく、ぼくは、えっと街の中にいたよ?」
「何を食べていた」
「ね、ネズミ……」
「ウルラ姉様なんておいたわしい……お兄様、やっぱり「黙れお前には聞いていないはずだぞチェスカ? お前は人の話も聞けない馬鹿だったのか?」」
一瞬にしてチェスカの戦闘力を0に追い込んだセシリオの後ろで、そわそわと所在無げにしていたヴァローナであったが、やがてチェスカに侃侃諤諤と説教を垂れるセシリオを横目にウルラの隣に座り込む。そしてセシリオがチェスカを撃沈させたあとウルラへと向き直って、呆れ返ったといわんばかりに深いため息を吐いた。
「ウルラ、何でもっと早く僕に言いに来なかった。お前ひとり養うくらいなんにも問題はないことくらい生活していた二週間ちょっとでわかるだろう」
「……食べ物には困らないし新聞紙があれば生きていける……」
「ウルラ、次その女の姿でそんなふざけた言葉を口にしたら許さないからな」
ぴしゃりと言い放たれた言葉に、以前確かにセシリオが贈った上品なワンピースだった襤褸布を身にまとったアイドルは、しょんぼりと眉をひそめてごめんなさいとつぶやいた。その手は泥か何かで汚れ髪にも土やそれ以外のものが付着している。梟という名前の通り猛禽類そのもの、ネズミやら何やらを口にして生きてきたのかもしれない。女というには猛烈な腐臭が漂っていた、今度は本物の。
おかげで今本家のホールにいるのは、チェスカ、ウルラだけで、急遽呼び出されたセシリオがヴァローナを連れてやってきたときには、使用人数人が泣きべそをかいているという事態になっていた。いつも部屋の掃除はやるくせにウルラの匂いくらいなんでもないだろうといいたい。いいたいが、さすがにそんなことを口にはしない。
はあ、ともう一度ため息を吐いて、眉間の皺を指で伸ばした。
「それでヴァル、なんでお前はそこにいるんだ。お前も説教されるようなことをしたのか」
「……なにもしてない」
「ならそこに座る必要はないだろう……。もういい説教は終わりだ。ウルラ、いつまでもそこにいないで風呂に入って来い。それからチェスカ、勉強量は倍にするからな」
「あんまりですわお兄様……」
嘆くチェスカの声をすべて無視し、ウルラを促しチェスカの額を軽くはたく。馬鹿になってしまったらお兄様のせいですわと吠える少女を自室に追い払おうとすると、この屋敷の小さなお嬢様は異母兄を振り返ってぎゅうと抱きしめてきた。いつになく幼い様子は、ちょっと前にヴァローナに抱きついた自分の情けない姿を彷彿とさせて、なんとなしにセシリオは苦笑してしまう。彼女と唯一の共通点でもある黒い髪を撫でながらどうした、と尋ねると、チェスカはセシリオの愛しいひとと同じ目をして少年を見上げた。
泣きそうなほど震える瞳を見ても、今はもう、何も思わない。フランチェスカはフランチェスカで、フェデリカはフェデリカで、そして彼女たちはセシリオの家族だ。それだけだ。
「どこにもいかないでくださいね、お兄様」
「お前らしくないな、チェスカ。嫌な夢でも見たのか」
「ええ。ええ、とても」
すんと鼻を鳴らして義妹は兄の洋服にぐりぐりと頭を押し付けた。ぎゅう、と抱きしめる手は震えている。
「白い光の中に、まるで断頭されることを待つ囚人のような姿をした、お兄様が、歩いていくんです。お兄様、私、私は」
「心配するな、チェスカ。夢だよ」
チェスカの黒髪をそっと掻きあげて額に唇を押し付ける。安堵してほしいと願う声を聞き入れてくれたのだろうか、幼い妹は泣き出しそうな顔のままはいと微笑んだ。気丈な笑みだった。
彼女の頬を両手で包んでもう一度祈るように口づける。恥ずかしそうにもう、とつぶやくチェスカが、癒されますように。そんな悪夢をこれ以上見ないように。
「大丈夫だよ、チェスカ。今度からはウルラもいてくれる」
「ウルラ姉様を引き取るんですか!?」
にこりと笑って答えない。チェスカは幸せそうに大きく微笑んで、お兄様ありがとうと兄の頬にキスをした。
前妻の残した息子がやってきたと聞いても、後妻のフェデリカは姿を現さない。その理由を知っている人間は、きっとセシリオとフェデリカ本人と、父セブリアンだけなのだろう。だからこそセシリオは一通の手紙を彼女の休んでいるという寝室の扉の下に挟んで、小さな声で囁いた。
「愛していました、フェデリカ」