愚直を歌う子ども
研究所に再び訪れたのは、浮島を東方大帝国が奪取したというニュースが飛び交ってから数日後のことだった。研究所内は所長の機嫌ひとつでだいぶ変わるという噂通り、陰鬱な空気が漂っている。その中をセシリオ・バレッタ=バレリエーレは険しい顔のままかつかつと靴音を響かせて歩いていた。貴族の少年にふさわしい服装と年齢にはそぐわない表情は相も変わらぬままだ。
研究所の中は本来職員と共に移動するのが原則だ。しかしセシリオはその制約を厳しく守る必要はない。彼が研究所に多大な出資をしている資産家であるということが主な要因ではあるが、それ以外にもうひとつ、研究所がセシリオを邪険に扱えない理由があった。それが今これからこの少年が会おうとしている男性のことである。
やがて目的の場所に辿り着いたのかセシリオは鋭い目つきのままノックすらせずに扉を押し開けた。目の前の惨状に一瞬口元をぴくりと引きつらせ、しかしきっと引き結ぶと書類の海と化した部屋に土足でずかずかと上り込む。いつもならきちんと父の出不精を叱る程度で済むのだが、どうやら怒りでお小言すら出てこないらしい。そして書類の中に半ば埋もれるようにして机と向き合っている男の姿を見つけると、十四歳の少年が出せる最低音で男を呼んだ。
「父さん」
声に男――セブリアン・バレッタ=バレリエーレ――はのんびりとセシリオを振り返った。息子そっくりな緑がかった黒髪は少しずつ灰色のものが混ざりはじめており、セシリオを見やる新緑の瞳には疲労がにじんでいる。しかし根底にあるのは飽くなき探求心だ。それを理解しているからこそまた少し痩せた父の様子にセシリオはため息を吐かざるおえなくなるのだ。
「セシー」
「チェスカに、あなたはチェスカに何を吹き込んだんですか」
「吹き込んだとは? チェスカに会ったのは一週間ほど前だが」
ゆったりとくつろいだ態度そのものに椅子に深く沈みこむ父の姿に、セシリオはふうと息を吐いた。怒りを抑えようとしている様子の息子を物珍しげに見やる父をぎろりと剣呑な目つきで睨み、手に持っていたステッキでドンと床を叩く。
「この一週間チェスカから毎日連絡が来るんだ! 成果を出せない鳥を研究員が焼き殺しそうになっただの役に立たない鳥は焼き鳥にされるだの……、そんな話を食事中に娘にする親があなた以外にいますか!」
「確実にフェデリカではないだろうな」
「当たり前だ!」
語気も荒く言い放つセシリオを父はやはり平坦な目で見やるだけだ。この目が憎いとどれほど思ったことだろう。ぎり、と革の手袋に包まれた不甲斐ない手を強く握りしめながら、父の目を射抜く。
「父さん、チェスカに研究所の話はしないと約束したはずだ。出資を打ちとめても僕は構わないといったはずです」
「今の現状でお前にそれはできないだろう。セシー、まだ打ち切るには早すぎる」
きっぱりとした口調にセシリオは口をつぐんだ。こういうときに何度でも思い知らされる。たとえバレリエーレ家の全権をすべて掌握したとしても、父はかつての当主だったということを。セシリオという少年よりもよほど優秀であったということを。
けれどセシリオの感情にはとんと疎い父親は、長い脚を組み替えて現当主の少年を見つめた。遮光カーテンのせいで無機質な電灯の下、父の新緑の眼はさながら毒のように息子を見つめている。きっと研究対象である鳥たちを見るよりも冷たい目をしているのだろうことを、セシリオは承知していた。
「……僕が当主になって、もう半年が過ぎました。それでもですか」
「ああ、それでもだ。バレリエーレ家は盟約を秘めなければいけない」
「重々承知しています」
「理解しているのなら話は早い。まだここに媚を売っているべきだろう、セシー?」
毒のにじむ簡潔な問いかけにセシリオは唇の端を少しだけ吊り上げた。父と息子の視線が強く絡み合うのは、常に政治色の濃い会話をしているときだ。セシリオは父を嫌ってはいない。ただ娘でありセシリオからすれば義妹にあたるフランチェスカや、後妻であるフェデリカを蔑ろにする態度が気に入らないだけだ。父が選んだ存在だというのに、どうして顧みないのかがわからない。
いや、十分顧みているのだろう。事実父は週に一度は必ずフェデリカとフランチェスカの待つ実家へと帰宅し、家族としての時間を過ごしているのだから。けれど、それは父親としての役割ではない。
少しセシリオが落ち着いたのがわかったのだろう、父はゆっくりと口を開いた。
「チェスカにあの話を聞かせた理由がわかるか」
「助けたい鳥でもいらっしゃるんですか」
「違う。バトルフェザー崩れのアイドルならボディーガードにはうってつけだろう。金もさほどかからない」
父の口から落ちた言葉だとは思えずに、セシリオはきょとんと――十四歳の少年にふさわしくあどけない表情を――して、顔を歪めた。父を見る目つきは部屋の中に入ってきたときよりもいっそう鋭いナイフのようになっている。
「……廃棄処分になりかけのバトルフェザーをチェスカたちのボディーガードに、そうおっしゃりたいんですか」
「早合点するな。私がいっているのはお前のことだ」
へ、と間の抜けた声が唇の間を通ってぽろんと零れ落ちた。さながら落ちた字が見えたかのように父はセシリオの口元をぼんやりと見ていたが、ゆっくりと少年の目に視線を戻す。強い光を放つ目をしていた。
「あの執事だけではこれから先やっていけない。バレリエーレ家当主の名は、お前が思うよりも重いものだ。継承した以上、お前を死なせるわけにはいかない」
「突然何をおっしゃってるんです」
「セシリオ」
ぴしりとした声が耳を打つ。父が愛称ではなく本名を呼ぶときは、戯れではない。父と息子が唯一望むことを話すときだけだ。
「何度も言わせるな。私はマリソルの形見を死なせるわけにはいかない」
マリソル。
その名前にセシリオは今度こそ言葉を失った。少年の目をはっきりととらえる父の新緑の瞳はいつも晒さない感情が溢れていた。
セシリオを産み落とすと同時に命を失った実母マリソルは、父セブリアンと大恋愛の末に結ばれた。大恋愛とは果たしてどういうものなのかについては全くわからないのだが、長い間父を見てきた親戚が苦い顔をして言うのだからきっとそれは事実なのだろう。そも、貴族として成り上がろうとしている人間と花屋の娘など到底結ばれるべきではなかったというのが、親族一同の考え方だった。しかし男爵令嬢であるフェデリカを後妻に迎え入れながら、当主になったのはセシリオだ。義妹であるフランチェスカにはまだ早すぎるからでもあり、セシリオという少年の優秀さが結実したからでもあり、そして彼が親族を籠絡したからでもある。
だが親族の中にマリソルの家族は含まれない。親族一同といわれるのは父のために全精力をかけて下地を作った祖父母や叔父たちだけだ。その扱いを、けれど父は咎めはしなかった。いずれ終わることだと承知していたからだろう。しかしマリソルとセシリオを侮辱することだけは誰一人とて許さなかった。
「父さん、しかし僕には必要ないはずだ」
きっぱりと返す言葉に父は首を振る。哀れむような眼差しを向けられて羞恥で頬が染まった。子どもを見るような目で見つめられるのは、十四歳の少年にとってどれほど屈辱的なのかは計り知れない。
「誰がお前を守るんだ、セシリオ」
「僕は守られるだけの子どもじゃない」
「セシリオ」
とんっと父はその長い指先で机を叩いた。いつの間にか落ちていた視線が父の元へと戻り、父の瞳に映る感情が懇願を表していることに気がついた。
「私ではお前を守ることができない。わかってくれ」
「あなたやチェスカたちはどうするつもりなんですか」
「研究所もあの家も安全だ。それなりの対策は取っている。今危険なのは当主であるお前だけだ」
「だからといって僕はアイドルを子飼いにして喜ぶ頭のネジの緩んだクズになんてなりたくない」
「そうならなければいい。お前が彼らを戻せばいい。人間としての尊厳を取り返させればいい」
穏やかな声に激昂していた感情が揺らいだ。父の冷たい新緑はセシリオを捉えて望む。それが愛によるものなのか、それとも義務ゆえなのかなどわかりはしないが、父の本心を理解しないわけにはいかないのだろう。セシリオは渋面のままゆっくりと一度頷いた。父は安堵したようにかすかに口元を動かした。感情表現の苦手な様にこちらが苦笑してしまう。
「どうにか手はずを整えます。もし従順かついかれていないアイドルなんてものがいたのなら、教えてください」
「そうしよう。それはそうと、セシー、しばらくは彼女に手紙を送るのは控えろ」
唐突に話が変わったことに驚き眉をひそめて尋ね返す。
「なぜ?」
「会うことも叶わない相手に懸想をするのは終わりにしろ。どうせ我々は出会えない」
かっと頭に血が上った。自身のものにそっくりな眼球を睨みつけて、セシリオは語気も荒く言い放つ。
「あなたには関係ないでしょう!!! 不愉快だ、失礼する!!」
「退場の仕方は立派な貴族だな、セシー?」
「うるさい!」
「セシリオ、鳥を決めたらチェスカにも会わせろ。あれが一等うるさいからな」
最後に聞こえた言葉にぎりっと歯を噛み締め、セシリオはさっさと部屋から飛び出した。靴音さえもセシリオの感情に合わせてどすどすと騒々しい。闇雲に歩いている気分なのに足はしっかりと研究所から出ようと玄関に向かっているのだから、それすらも苛立たしかった。激情に潰れることがないというのは我がことながら腹立たしい限りだ、怒りで全部忘れることができたなら簡単なのに。
少し冷静になってきてはいたものの、今更速度を落とすのもなんだか悔しくて、セシリオはそのままの速さでずかずかと歩いていた。角を曲がろうとして少年とぶつかるまでは。
「わっ!」
「あっ!」
ドサドサドサーッとさながら漫画のように少年の手に持っていた資料が廊下に盛大にぶちまけられた。ふたり同時に腰を抜かしてぽかんと互いの顔を見合う。彼は少年というよりも少女と言ってしまったほうが適切ではないかと疑いたくなるほど、愛らしい顔立ちをしていた。緑の髪は肩より上で切りそろえられており、琥珀に見える瞳はきょとんとしている。どこかで見た覚えがあるはずだった。
「すまない、不注意だった」
「いえ、ぼくのほうこそすみません」
セシリオが彼の散らばった書類を集め始めると、少年は慌てたようにセシリオの手を止めた。
「あの、大丈夫です。ありがとうございます」
「僕がぶつかって落としたんだ、拾うべきだろう。さっさとやってしまおう、ひとが通りがかったら面倒だ」
すみませんとつぶやく少年とふたりでせっせと書類をかき集める。背はそこまで高くもなくセシリオとほぼ同じくらいだ。同い年くらいだろうか、そこまで考えてふとあることが頭の中に浮かび上がった。
「グローバー………?」
いつだろう、そこまで古い記憶ではない。貴族の集いの中に不釣り合いな格好で傲慢と立ち回りし、可愛げのない餓鬼として社交するこの二年間の中で、確実に見たことのある顔だった。特徴的な暗緑色の髪は、忘れるはずはない。
ぽつりと浮かんだ姓をつぶやくと少年はびっくりしたように目を見開いて、書類を拾う手を止めセシリオを見た。
「あ」
何かに気がついたのだろうか、少年は「あ」の形に口を開いたままぽかんと続きを発さない。しかしセシリオは彼を見た場所を思い出していた。どこかの貴族が開いたパーティーで、美しい女性に寄り添うようにして立っていた。そうだ、この顔はあのときの女性にとてもよく似ている。
「ゼーン、だったか?」
確かめるように名前を口にすると少年はゆっくりと頷き、それから慌てたように頭を振った。何か言葉を続けようとしているのだが、どうにも出てこないようでセシリオはいや、と首を振った。
「すまない。早く終えてしまおう」
「あ、はい」
ふたりで書類をまとめていく。全部まとめ終わったところで少年に手渡せば、彼はほっとしたようにありがとうございますといった。一瞬気詰まりな空気が流れ、セシリオが意を決して問おうと口を開いたちょうどその時、先ほど曲がろうとしていた角からひょこりと青い髪に眼鏡をかけた男性が顔を出した。
「セス君、資料のことなんだけど………って、あれ。君は……」
セシリオに気がつくと男はきょとんと目を丸めじっとこちらを見つめている。セシリオは軽く会釈をして返した。
「申し訳ありません、ちょっとしたミスで彼に迷惑をかけてしまいました」
「ああそうだ、確かセブリアンさんの息子さんだろう」
父の名前に今度はセシリオが上げたばかりの口角をぴくりと震わせることになった。小さく首を傾げつつ問う。
「父をご存知で?」
「君のお父上はこの箱の中では色々と有名人だからね。僕の助手がバレリエーレ家の現当主さまに迷惑をかけはしなかった?」
「僕が彼に迷惑をかけてしまったんです。すまない」
セスと呼ばれた少年にさっぱりと謝罪をすると、彼は未だに驚いた表情のまま首を振った。
「あ、いえ全然」
「それでは僕はこれで」
「また研究所に寄る機会があったら今度は僕の部屋に寄って行くといいよ、当主さま」
口元に浮かんだ笑みが嘲笑なのか本心からなのかを一瞬測りかね、セシリオは唇を皮肉気に歪めて微笑んだ。
「考えておきます、シュライク先生」
振り返らぬまますたすたと足を進めるセシリオの背後で、父とは違った意味で有名な男、シュライク=ホロンはのんびりとした声を上げた。
「今僕名乗ったかなぁ」
鳥を引き取る諸々の作業に追われ、最終的に彼がセシリオ個人の邸宅に訪れたのは、街中が空を飛ぶ攻撃的な謎の女の大量発生に怯えている真っ最中のことだった。無論セシリオ自身も義妹や義母の住む実家の警戒態勢を強め、確実に安全だと確認した矢先のことだ。正直手一杯で、彼がやってくるということすら忘れていた。
だからこそ、連日の寝不足がたたって書斎の椅子に腰掛けうとうとと微睡んでいるとき、ふと頭に乗った手を義母だと勘違いしてしまったのだ。彼女はこの家に来てはいけないと取り決めたのは自分自身だというのに。
「フェデリカ……さま……?」
ゆるゆると撫でられる頭の大きさと心地よさにセシリオは目を覚まそうともがく。暖かい大きな手だ。撫でる手つきは柔らかい。不思議な安堵に身を包まれながら、それでもセシリオは必死に瞼を開けた。今自身がつぶやいた名前に驚愕したからだ。
「――っ!!」
「あ……」
菫色めいた銀髪がするりと頬を撫でた。編み込まれた癖っ毛がセシリオの頬を撫でたのだ。幻想的とさえいえそうなほど長い睫毛のすぐ下に、ぼんやりとした赤い眼が秘められている。驚くほど近いところにあるその顔にセシリオはぎょっと身を引いた。それから彼の背中に大きくおおきく垂れ落ちる黒い翼に、これ以上ないほど目を見開いた。いつぞや見た、青年だ。
「お前……」
青年は乗せていた手の下からセシリオの頭が引かれたことに気がつくと、少しだけ首を傾げセシリオの目をまっすぐに見つめた。相変わらず距離は近い。少し離れてくれという声に青年は身を引いて、セシリオが居心地悪そうに座り直すのをまじまじと見つめていた。
「みっともないところを見せたな。僕が言った名前は忘れろ。僕はセシリオ・バレッタ=バレリエーレ。呼ぶときはセーリョでいい」
「セーリョ」
「そうだ。お前の名前は?」
「ヴァローナ」
「ヴァルと呼んでも構わないか?」
こくりと頷く青年にセシリオはわずかに微笑んだ。
「ヴァル、お前はここにいる間は何をしても構わない。好きなように過ごしてくれ。一応お前の部屋は作ったが気に入らなかったら移動してくれても構わない。そうだな、夕飯くらいは一緒に食べようか。何かしたいことがあるなら僕にいってくれ、できる限り揃えよう」
ヴァローナはセシリオの言葉にひとつひとつ頷いた。口数が多い方ではないという報告書通りの様子になんだかセシリオは苦笑する。彼が焼き鳥にされかけたのだというのだから、よほど研究員は短気だったのだろう。従順な様は研究対象としては最高じゃないか、そう馬鹿にしたように心の内でつぶやいて、セシリオはヴァローナの手を取った。
「もしかしたら誰かがこの家を案内したかもしれないが、一応家主として案内しておこう。書斎というかここは僕の執務室だから、入るときはできればノックをしてくれ。あー……あと、そうだな」
ヴァローナの全身を見渡してセシリオは肩をすくめた。寒いわけではないがこの家に彼の服装はどうにもそぐわない。彼を迎え入れた相手が誰であれ真っ先に着替えさせればいいものを、気が利かない。
赤い眼をいっそ愚直なほどまっすぐに見つめて、セシリオは青年の手を引いた。
「まずは着替えようか。その格好は少し寒そうだ」
そうそう、と言葉を次いで、少年は笑う。
「これからよろしく頼む、ヴァル」
研究所の中は本来職員と共に移動するのが原則だ。しかしセシリオはその制約を厳しく守る必要はない。彼が研究所に多大な出資をしている資産家であるということが主な要因ではあるが、それ以外にもうひとつ、研究所がセシリオを邪険に扱えない理由があった。それが今これからこの少年が会おうとしている男性のことである。
やがて目的の場所に辿り着いたのかセシリオは鋭い目つきのままノックすらせずに扉を押し開けた。目の前の惨状に一瞬口元をぴくりと引きつらせ、しかしきっと引き結ぶと書類の海と化した部屋に土足でずかずかと上り込む。いつもならきちんと父の出不精を叱る程度で済むのだが、どうやら怒りでお小言すら出てこないらしい。そして書類の中に半ば埋もれるようにして机と向き合っている男の姿を見つけると、十四歳の少年が出せる最低音で男を呼んだ。
「父さん」
声に男――セブリアン・バレッタ=バレリエーレ――はのんびりとセシリオを振り返った。息子そっくりな緑がかった黒髪は少しずつ灰色のものが混ざりはじめており、セシリオを見やる新緑の瞳には疲労がにじんでいる。しかし根底にあるのは飽くなき探求心だ。それを理解しているからこそまた少し痩せた父の様子にセシリオはため息を吐かざるおえなくなるのだ。
「セシー」
「チェスカに、あなたはチェスカに何を吹き込んだんですか」
「吹き込んだとは? チェスカに会ったのは一週間ほど前だが」
ゆったりとくつろいだ態度そのものに椅子に深く沈みこむ父の姿に、セシリオはふうと息を吐いた。怒りを抑えようとしている様子の息子を物珍しげに見やる父をぎろりと剣呑な目つきで睨み、手に持っていたステッキでドンと床を叩く。
「この一週間チェスカから毎日連絡が来るんだ! 成果を出せない鳥を研究員が焼き殺しそうになっただの役に立たない鳥は焼き鳥にされるだの……、そんな話を食事中に娘にする親があなた以外にいますか!」
「確実にフェデリカではないだろうな」
「当たり前だ!」
語気も荒く言い放つセシリオを父はやはり平坦な目で見やるだけだ。この目が憎いとどれほど思ったことだろう。ぎり、と革の手袋に包まれた不甲斐ない手を強く握りしめながら、父の目を射抜く。
「父さん、チェスカに研究所の話はしないと約束したはずだ。出資を打ちとめても僕は構わないといったはずです」
「今の現状でお前にそれはできないだろう。セシー、まだ打ち切るには早すぎる」
きっぱりとした口調にセシリオは口をつぐんだ。こういうときに何度でも思い知らされる。たとえバレリエーレ家の全権をすべて掌握したとしても、父はかつての当主だったということを。セシリオという少年よりもよほど優秀であったということを。
けれどセシリオの感情にはとんと疎い父親は、長い脚を組み替えて現当主の少年を見つめた。遮光カーテンのせいで無機質な電灯の下、父の新緑の眼はさながら毒のように息子を見つめている。きっと研究対象である鳥たちを見るよりも冷たい目をしているのだろうことを、セシリオは承知していた。
「……僕が当主になって、もう半年が過ぎました。それでもですか」
「ああ、それでもだ。バレリエーレ家は盟約を秘めなければいけない」
「重々承知しています」
「理解しているのなら話は早い。まだここに媚を売っているべきだろう、セシー?」
毒のにじむ簡潔な問いかけにセシリオは唇の端を少しだけ吊り上げた。父と息子の視線が強く絡み合うのは、常に政治色の濃い会話をしているときだ。セシリオは父を嫌ってはいない。ただ娘でありセシリオからすれば義妹にあたるフランチェスカや、後妻であるフェデリカを蔑ろにする態度が気に入らないだけだ。父が選んだ存在だというのに、どうして顧みないのかがわからない。
いや、十分顧みているのだろう。事実父は週に一度は必ずフェデリカとフランチェスカの待つ実家へと帰宅し、家族としての時間を過ごしているのだから。けれど、それは父親としての役割ではない。
少しセシリオが落ち着いたのがわかったのだろう、父はゆっくりと口を開いた。
「チェスカにあの話を聞かせた理由がわかるか」
「助けたい鳥でもいらっしゃるんですか」
「違う。バトルフェザー崩れのアイドルならボディーガードにはうってつけだろう。金もさほどかからない」
父の口から落ちた言葉だとは思えずに、セシリオはきょとんと――十四歳の少年にふさわしくあどけない表情を――して、顔を歪めた。父を見る目つきは部屋の中に入ってきたときよりもいっそう鋭いナイフのようになっている。
「……廃棄処分になりかけのバトルフェザーをチェスカたちのボディーガードに、そうおっしゃりたいんですか」
「早合点するな。私がいっているのはお前のことだ」
へ、と間の抜けた声が唇の間を通ってぽろんと零れ落ちた。さながら落ちた字が見えたかのように父はセシリオの口元をぼんやりと見ていたが、ゆっくりと少年の目に視線を戻す。強い光を放つ目をしていた。
「あの執事だけではこれから先やっていけない。バレリエーレ家当主の名は、お前が思うよりも重いものだ。継承した以上、お前を死なせるわけにはいかない」
「突然何をおっしゃってるんです」
「セシリオ」
ぴしりとした声が耳を打つ。父が愛称ではなく本名を呼ぶときは、戯れではない。父と息子が唯一望むことを話すときだけだ。
「何度も言わせるな。私はマリソルの形見を死なせるわけにはいかない」
マリソル。
その名前にセシリオは今度こそ言葉を失った。少年の目をはっきりととらえる父の新緑の瞳はいつも晒さない感情が溢れていた。
セシリオを産み落とすと同時に命を失った実母マリソルは、父セブリアンと大恋愛の末に結ばれた。大恋愛とは果たしてどういうものなのかについては全くわからないのだが、長い間父を見てきた親戚が苦い顔をして言うのだからきっとそれは事実なのだろう。そも、貴族として成り上がろうとしている人間と花屋の娘など到底結ばれるべきではなかったというのが、親族一同の考え方だった。しかし男爵令嬢であるフェデリカを後妻に迎え入れながら、当主になったのはセシリオだ。義妹であるフランチェスカにはまだ早すぎるからでもあり、セシリオという少年の優秀さが結実したからでもあり、そして彼が親族を籠絡したからでもある。
だが親族の中にマリソルの家族は含まれない。親族一同といわれるのは父のために全精力をかけて下地を作った祖父母や叔父たちだけだ。その扱いを、けれど父は咎めはしなかった。いずれ終わることだと承知していたからだろう。しかしマリソルとセシリオを侮辱することだけは誰一人とて許さなかった。
「父さん、しかし僕には必要ないはずだ」
きっぱりと返す言葉に父は首を振る。哀れむような眼差しを向けられて羞恥で頬が染まった。子どもを見るような目で見つめられるのは、十四歳の少年にとってどれほど屈辱的なのかは計り知れない。
「誰がお前を守るんだ、セシリオ」
「僕は守られるだけの子どもじゃない」
「セシリオ」
とんっと父はその長い指先で机を叩いた。いつの間にか落ちていた視線が父の元へと戻り、父の瞳に映る感情が懇願を表していることに気がついた。
「私ではお前を守ることができない。わかってくれ」
「あなたやチェスカたちはどうするつもりなんですか」
「研究所もあの家も安全だ。それなりの対策は取っている。今危険なのは当主であるお前だけだ」
「だからといって僕はアイドルを子飼いにして喜ぶ頭のネジの緩んだクズになんてなりたくない」
「そうならなければいい。お前が彼らを戻せばいい。人間としての尊厳を取り返させればいい」
穏やかな声に激昂していた感情が揺らいだ。父の冷たい新緑はセシリオを捉えて望む。それが愛によるものなのか、それとも義務ゆえなのかなどわかりはしないが、父の本心を理解しないわけにはいかないのだろう。セシリオは渋面のままゆっくりと一度頷いた。父は安堵したようにかすかに口元を動かした。感情表現の苦手な様にこちらが苦笑してしまう。
「どうにか手はずを整えます。もし従順かついかれていないアイドルなんてものがいたのなら、教えてください」
「そうしよう。それはそうと、セシー、しばらくは彼女に手紙を送るのは控えろ」
唐突に話が変わったことに驚き眉をひそめて尋ね返す。
「なぜ?」
「会うことも叶わない相手に懸想をするのは終わりにしろ。どうせ我々は出会えない」
かっと頭に血が上った。自身のものにそっくりな眼球を睨みつけて、セシリオは語気も荒く言い放つ。
「あなたには関係ないでしょう!!! 不愉快だ、失礼する!!」
「退場の仕方は立派な貴族だな、セシー?」
「うるさい!」
「セシリオ、鳥を決めたらチェスカにも会わせろ。あれが一等うるさいからな」
最後に聞こえた言葉にぎりっと歯を噛み締め、セシリオはさっさと部屋から飛び出した。靴音さえもセシリオの感情に合わせてどすどすと騒々しい。闇雲に歩いている気分なのに足はしっかりと研究所から出ようと玄関に向かっているのだから、それすらも苛立たしかった。激情に潰れることがないというのは我がことながら腹立たしい限りだ、怒りで全部忘れることができたなら簡単なのに。
少し冷静になってきてはいたものの、今更速度を落とすのもなんだか悔しくて、セシリオはそのままの速さでずかずかと歩いていた。角を曲がろうとして少年とぶつかるまでは。
「わっ!」
「あっ!」
ドサドサドサーッとさながら漫画のように少年の手に持っていた資料が廊下に盛大にぶちまけられた。ふたり同時に腰を抜かしてぽかんと互いの顔を見合う。彼は少年というよりも少女と言ってしまったほうが適切ではないかと疑いたくなるほど、愛らしい顔立ちをしていた。緑の髪は肩より上で切りそろえられており、琥珀に見える瞳はきょとんとしている。どこかで見た覚えがあるはずだった。
「すまない、不注意だった」
「いえ、ぼくのほうこそすみません」
セシリオが彼の散らばった書類を集め始めると、少年は慌てたようにセシリオの手を止めた。
「あの、大丈夫です。ありがとうございます」
「僕がぶつかって落としたんだ、拾うべきだろう。さっさとやってしまおう、ひとが通りがかったら面倒だ」
すみませんとつぶやく少年とふたりでせっせと書類をかき集める。背はそこまで高くもなくセシリオとほぼ同じくらいだ。同い年くらいだろうか、そこまで考えてふとあることが頭の中に浮かび上がった。
「グローバー………?」
いつだろう、そこまで古い記憶ではない。貴族の集いの中に不釣り合いな格好で傲慢と立ち回りし、可愛げのない餓鬼として社交するこの二年間の中で、確実に見たことのある顔だった。特徴的な暗緑色の髪は、忘れるはずはない。
ぽつりと浮かんだ姓をつぶやくと少年はびっくりしたように目を見開いて、書類を拾う手を止めセシリオを見た。
「あ」
何かに気がついたのだろうか、少年は「あ」の形に口を開いたままぽかんと続きを発さない。しかしセシリオは彼を見た場所を思い出していた。どこかの貴族が開いたパーティーで、美しい女性に寄り添うようにして立っていた。そうだ、この顔はあのときの女性にとてもよく似ている。
「ゼーン、だったか?」
確かめるように名前を口にすると少年はゆっくりと頷き、それから慌てたように頭を振った。何か言葉を続けようとしているのだが、どうにも出てこないようでセシリオはいや、と首を振った。
「すまない。早く終えてしまおう」
「あ、はい」
ふたりで書類をまとめていく。全部まとめ終わったところで少年に手渡せば、彼はほっとしたようにありがとうございますといった。一瞬気詰まりな空気が流れ、セシリオが意を決して問おうと口を開いたちょうどその時、先ほど曲がろうとしていた角からひょこりと青い髪に眼鏡をかけた男性が顔を出した。
「セス君、資料のことなんだけど………って、あれ。君は……」
セシリオに気がつくと男はきょとんと目を丸めじっとこちらを見つめている。セシリオは軽く会釈をして返した。
「申し訳ありません、ちょっとしたミスで彼に迷惑をかけてしまいました」
「ああそうだ、確かセブリアンさんの息子さんだろう」
父の名前に今度はセシリオが上げたばかりの口角をぴくりと震わせることになった。小さく首を傾げつつ問う。
「父をご存知で?」
「君のお父上はこの箱の中では色々と有名人だからね。僕の助手がバレリエーレ家の現当主さまに迷惑をかけはしなかった?」
「僕が彼に迷惑をかけてしまったんです。すまない」
セスと呼ばれた少年にさっぱりと謝罪をすると、彼は未だに驚いた表情のまま首を振った。
「あ、いえ全然」
「それでは僕はこれで」
「また研究所に寄る機会があったら今度は僕の部屋に寄って行くといいよ、当主さま」
口元に浮かんだ笑みが嘲笑なのか本心からなのかを一瞬測りかね、セシリオは唇を皮肉気に歪めて微笑んだ。
「考えておきます、シュライク先生」
振り返らぬまますたすたと足を進めるセシリオの背後で、父とは違った意味で有名な男、シュライク=ホロンはのんびりとした声を上げた。
「今僕名乗ったかなぁ」
鳥を引き取る諸々の作業に追われ、最終的に彼がセシリオ個人の邸宅に訪れたのは、街中が空を飛ぶ攻撃的な謎の女の大量発生に怯えている真っ最中のことだった。無論セシリオ自身も義妹や義母の住む実家の警戒態勢を強め、確実に安全だと確認した矢先のことだ。正直手一杯で、彼がやってくるということすら忘れていた。
だからこそ、連日の寝不足がたたって書斎の椅子に腰掛けうとうとと微睡んでいるとき、ふと頭に乗った手を義母だと勘違いしてしまったのだ。彼女はこの家に来てはいけないと取り決めたのは自分自身だというのに。
「フェデリカ……さま……?」
ゆるゆると撫でられる頭の大きさと心地よさにセシリオは目を覚まそうともがく。暖かい大きな手だ。撫でる手つきは柔らかい。不思議な安堵に身を包まれながら、それでもセシリオは必死に瞼を開けた。今自身がつぶやいた名前に驚愕したからだ。
「――っ!!」
「あ……」
菫色めいた銀髪がするりと頬を撫でた。編み込まれた癖っ毛がセシリオの頬を撫でたのだ。幻想的とさえいえそうなほど長い睫毛のすぐ下に、ぼんやりとした赤い眼が秘められている。驚くほど近いところにあるその顔にセシリオはぎょっと身を引いた。それから彼の背中に大きくおおきく垂れ落ちる黒い翼に、これ以上ないほど目を見開いた。いつぞや見た、青年だ。
「お前……」
青年は乗せていた手の下からセシリオの頭が引かれたことに気がつくと、少しだけ首を傾げセシリオの目をまっすぐに見つめた。相変わらず距離は近い。少し離れてくれという声に青年は身を引いて、セシリオが居心地悪そうに座り直すのをまじまじと見つめていた。
「みっともないところを見せたな。僕が言った名前は忘れろ。僕はセシリオ・バレッタ=バレリエーレ。呼ぶときはセーリョでいい」
「セーリョ」
「そうだ。お前の名前は?」
「ヴァローナ」
「ヴァルと呼んでも構わないか?」
こくりと頷く青年にセシリオはわずかに微笑んだ。
「ヴァル、お前はここにいる間は何をしても構わない。好きなように過ごしてくれ。一応お前の部屋は作ったが気に入らなかったら移動してくれても構わない。そうだな、夕飯くらいは一緒に食べようか。何かしたいことがあるなら僕にいってくれ、できる限り揃えよう」
ヴァローナはセシリオの言葉にひとつひとつ頷いた。口数が多い方ではないという報告書通りの様子になんだかセシリオは苦笑する。彼が焼き鳥にされかけたのだというのだから、よほど研究員は短気だったのだろう。従順な様は研究対象としては最高じゃないか、そう馬鹿にしたように心の内でつぶやいて、セシリオはヴァローナの手を取った。
「もしかしたら誰かがこの家を案内したかもしれないが、一応家主として案内しておこう。書斎というかここは僕の執務室だから、入るときはできればノックをしてくれ。あー……あと、そうだな」
ヴァローナの全身を見渡してセシリオは肩をすくめた。寒いわけではないがこの家に彼の服装はどうにもそぐわない。彼を迎え入れた相手が誰であれ真っ先に着替えさせればいいものを、気が利かない。
赤い眼をいっそ愚直なほどまっすぐに見つめて、セシリオは青年の手を引いた。
「まずは着替えようか。その格好は少し寒そうだ」
そうそう、と言葉を次いで、少年は笑う。
「これからよろしく頼む、ヴァル」