Dear my father.
委員会の女に連れてかれた部屋は、無機質な灰色の空間だった。コンクリートで塗り固められた息苦しい圧迫感。それじゃあがんばりなさいな、そう笑って閉じられた背後の扉が憎らしい。
夜よりも暗くなった部屋の中、自身の息遣いが犬のように聞こえていた。知らずけつに伸びた指は、触りごこちのいい自分の尻尾に触れて顔が歪む。ついたため息は、女のそれとは思えないくらい獣臭かった。
ぼう、と青白い光が部屋の隅に灯って、そちらに足を向ければ、いつのまに通路が現れたのだろうか、細長い通路ができていた。その向こう側を、青白い光がゆらゆらと揺れながら先導する。それに従って靴音を高く響かせた。
身体の限界を聞かされて、すでに二月は経った。夕夏には伝えてない。このことを知ってるのは立花と俺だけだ。
ガタがきてるのには気付いていた。自分が毎日使う身体だ、気付かないほうがおかしい。いのうの暴走が激しくなった。必要な薬が三つから五つに増えた。それでもつい最近、薬を飲んだのにしばらく意識が戻らなかった。訓練中に血を吐いて倒れた。いのうを使わないときでも、薬を飲むようにいわれた。持ち歩く薬は、七つになった。
ザッ、ザッ、と、ブーツが灰色の床を蹴り付ける。青白い光は俺をどこに連れてくんだろう。光が床に反射して、その通路は深い青に包まれていた。この色は、あいつに似てる。
そう思った次の瞬間、光が消えた。かつん、と音を立てたのは、さっきの場所とは明らかに違う、場所。もっと広い。聞き慣れた喧騒が聞こえるのに、視界は暗いままだ。
ぞわり、と背に悪寒が走った俺の前を、どちゃりと何かが落ちていく。鼻をふさぎたくなるほどの悪臭が、脳をぐちゃぐちゃと掻き混ぜた。
ブーツを履いているのにわかる、どろりとしたそれ。
靴の裏に浸食する、赤。
「にしき」
伸びてくる知っていたはずの赤い異物を、無感動に見つめていた。指が小さな『あたし』を探してびくりと痙攣する。『俺』はそれを無表情に踏みつけて、うっせえよ、と吐き捨てた。
俺にとって今踏み潰した赤い異物はあくまで過去の存在であって、家族ではなかった。
家族という言葉が似合うのは、このぐちゃぐちゃと歪む気味の悪い下手物ではなくて。
鼻をかすめるにおいがふと色を変えたことに気づきながら、俺は黙って目を瞑る。 ぶわり、と、どこからくるのだろうか、強い風が身体を撫でていく。尻尾の毛の一本一本までが鋭敏に研ぎ澄まされて、ぞわぞわと嫌な予感が忍び寄る。瞼の裏が明るい光に包まれていることに気がつきながら、できることなら目を開けたくなくて、でも負けず嫌いがむくりと身を起こす。
は、と小さく鼻で笑って、ぼやくように漏らした。
「負けらんねえよなァ……」
知り合いの数人はすでに最終戦を終えていた。勝って帰ってきたやつも、負けて帰ってきたやつも、顔色は悪く、悪夢を見たかのように微笑んでいた。それをぼんやりと思い出しながら、ゆっくりと目を開く。
そこには、いつか見た景色が広がっていた。
座ったつもりがなかったのに、俺はあのときのように座っていた。ししるいるい、というのだろうか、たくさん噛み切られた人間が転がって、たくさんの銃弾を受けてしんでいた。どろり、と赤いにおいが鼻をかすめて、もうずいぶんと痛んでいなかった左耳が熱を持つ。ああ、このあとのことを、俺は知ってる。 左耳に手を伸ばす。
それが黒い毛むくじゃらだということに気がついていながら、あのときのように、俺は左耳だったところをがりがりと引っ掻いた。どぷりと赤が跳ねて、気持ち悪さが腹ん中を駆け巡る。気持ち悪い。きもちわるい、きもちわるい。
「……ぃ、……っい! お、い……っ! って、るのか!!」
懐かしい声がした、そう思った瞬間、ばふりと青い軍服が視界を遮る。それをあのときのように跳ね除けながら、それでもそれ以上あのときのことを繰り返せるはずがなかった。
もうただの獣の姿になっていることを知りながら、俺はためらいもなく隣に立つ男に抱きつく。 2mを超える巨体になった俺に押し倒されながら、青い髪の男は優しい目をして俺を見返していた。
「ヴォル、タァ」
なんでこの身体なのに言葉が出るんだとか、確かにここはただのコンクリートの部屋だったのにだとか、そんなことが頭の片隅にありながら、それでも目の前にいるひとに触れられる奇跡だけを感じていたかった。
あのときとは違うのに、大して動じたふうもなく、ただ俺を見つめ返す、ひと。
じゅくり、と胸に何かがにじむ。それは痛みとともに身体中を駆け抜けて、指先まですべてを熱くした。そう思った瞬間、ヴォルターの顔の横に伸ばしていた腕から、手から、指から、するすると黒い毛が抜けていく。赤ん坊の弱く脆い肌とは違う、薬でわずかに色を失った素肌をさらしていることすらどうでもよくて、ただひたすらに顔を歪めていた。
「なァ……。なんで、俺に泣き方、教えてくんなかったんだよォ、ヴォルター」
どんなに顔を歪めたって、どんな痛みに身体が貫かれたって、涙は一滴もこぼれない。目の中にある何かが邪魔をして、涙を流すことを許さない。
泣きたいわけじゃなかった。ただ、涙を流すことさえできない自分は、ヴォルターや立花の娘にも、夕夏の恋人にだってさえ、到底なれるとは思えなかった。
ふと脳裏をかすめるのは軍で殉職していった奴ら。白い花に囲まれていた彼女、写真だけが唯一笑顔をとどめたあいつ。それらを見つめながら、唇を引き結ぶ軍の奴ら。それは涙をこらえている姿で。
俺にはできない、この上なく貴く、神聖なことのように思っていた。
俺がもし、このあとも生き延びられたとして、何度も知り合いのしを見送るのだろう。そうなったとしてそれでも俺はきっと一度も涙を流すことはない。そんな神聖なことを俺ができるはずがない。
だって、お前がしんだとき、俺の目からは、何もこぼれていかなかった。 こぼれ落ちたのは言葉だけで、水のひとつもこぼれていかなかった。
ヴォルターはこの先のことを知っているのだろうか、今ここにいるお前は。まだしんでいないお前は。これからしぬことを、俺にも立花にも何も残さないまましんでいくことを、知っているのだろうか。
「なァ、答えろよ」
ぼやくような言葉をこの幻は聞いているのだろうか、それとも聞こえないのだろうか。それすらも見通せない深い青の瞳を見つめれば、そこに映る俺の顔は、ガキのように歪んでいた。
もう一度名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、また強い風が身体を撫でる。いつのまに獣化が解けたのだろう、尻尾もなくなって、どくどくと流れていた赤い血も止まって、俺はベッドの上にうつぶせになっていた。明るい光が室内を照らし、そこがあの研究室だと気がつく。自分の子どものように丸い指を見つけて、ああ、これから背中にあれをいれるのかと思い出した。ゆっくりと顔を上げれば、少し先に立つ、二人。
刺青をいれる度に、いのうの力は増した。けれど二人はそれを誇らしいと考えることはなかったようで、ただ淡々と、実験が終わってふらふらと倒れこみそうな俺の頭を撫でた。そこにこめられていたのはなんだったんだろう。
それでも、あいつらに触れられることは、嫌じゃなかった。
ヴォルターの大きくて無骨な、熱い手が。
立花の男らしくない、骨ばった冷たい手が。
嫌いじゃなかった。
ただするすると紐解かれていく記憶を抱きしめながら、それでもそこに終わりは来る。一言も言葉を発さない二人を食堂のテーブルを挟んで見つめていると、もう一度風がぶわりと吹き付けた。ぎゅ、と目を閉じた次の瞬間、瞼の裏が光を訴える。
ゆっくりと目を開ければ、かすかに笑う、ヴォルターがいた。もうどこでもない、この部屋の中に。まるで最初からいたとでもいうかのように。
くゆらせる煙草の先から紫煙が立ち昇り、俺の敏感な鼻を掠める。部屋の中に蔓延したこのにおいのせいで、胸の中のぐじゃぐじゃが増した。泥のように渦巻いて、叫べと喉が蹴飛ばされる。口を開いて、でも声の代わりにもれたのは咆哮だった。あいつのいう狗みたいな、うるさくってうざってェ叫び声だった。
いいたい言葉が出てこない。伝えたい言葉が、届けたい言葉があったはずなのに、声帯はそんなことこれっぽっちも気にせずに、ただ雄叫びを上げ続ける。
違う、違う、違えよ、俺は、こんな無意味な音じゃなくて、言わなきゃいけないことがあるはずなんだ、お前に。
ふと手を見れば、黒い獣めいた指が目に入る。俺が獣化していることすら幻なんだろうか。そうだったらいい。あの薬を七つも飲むなんざ不愉快だ。何も、なにもいっていないのに、負けて終わりになんか。
「……できるわけ、ねえだろォがよオ!!」
喉が、痛い。響いていた咆哮はかき消され、俺の怒声だけが部屋の中にこだました。 ぎっとあいつをにらめば、やっぱりらしくねえ笑みを浮かべて立っていた。優しい笑み、柔らかな目つき。
ああ、なァ、そんな嘘くせえ笑いやめろよ。お前はいつだって俺のことそんな目で見てなかっただろ? いるのが当たり前の、それこそ狗を見る目で見てただろ?
『錦』
ふいに囁くような言葉を思い出す。こいつは、俺のことを名前で呼んだことなんて一度もねえのに、なんで笑ってるんだよ。違えだろォ、そこにいるのは、青じゃなくて黒髪の。
ぎり、と右手の爪が手のひらに食い込む。ぎちりと皮膚を突き刺す音がして、手の中で赤が跳ねた。
「なんでいまさら出てくるんだよてめえはよオ!! いまっさら……、のこのこ出てきてんでそんな面さらせんだ!! 一回も名前呼ばなかったくせに! な、んで、んでその面さらせんだよ、ヴォルタア!!」
言葉が、ぼろぼろと、さっきまでかけらも出てこなかった言葉が、堰を切ったように吐き出される。無意味な音の羅列じゃなくて、はっきりと伝えたい言葉が喉をかち割らんばかりにあふれていく。
2mも離れているのだろうか。その距離がお前が作った境界線ゆえなら、俺は絶対にそこを飛び越えなかった。命令か、と問うたびに、互いの境界線を自覚した。踏み越えたかったはずのそれを、律儀に守って踏み越えないまま、終わった。
終わっちまった。
お前が、逝ったから。
「錦って、俺のこと呼ばなかったくせに! 絶対に俺がお前のところまでたどりつけねえようにしやがって!! なんで、――っなんで錦って呼ばなかったんだよ! 俺が他の野郎に抱かれてるって知ってて、んでとめねえんだよ!! 俺はてめえの狗じゃなかったのかよ、なアおいヴォルター!!」
本当は、とめてほしかったのか。
違う、違えよ。そんなことない。どうでもよかった。とめてくれなくたってよかった。黙って何かいいたげな目で見られるくらいなら、いつものように鋭い声で叱責されたほうがましだった。軍の規律を乱すな! そう、馬鹿みたいにまじめに言い放って欲しかった。
顔が歪む。ぐしゃぐしゃに、今にも涙がこぼれそうなはずなのに、目の中にできた何かが邪魔をして、俺を泣かせてはくれない。
お前が、泣き方を教えてくれなかったから。
「……ずっと、ずっと! ……ずっと、てめえが好きだったんだよ!!」
吐き捨てた瞬間、どうしてだろう、目が閉じていた。
ああ、だめだ、いっちまった、もう、これじゃあ。
夕夏。
短い黒髪が、脳裏でゆっくりと振り返る。赤い優しい瞳が、はっきりと俺を見つめて、笑う。
『錦』
あいつの顔が見れない。視界が歪んでそんな自分が嫌で、胸の中にいる二人を比べて選べられない自分がたまらなく憎くて、いつの間にかうつむいていた。少女とは程遠い、女というわりにはあまりに貧相な身体がそこにはあって、何かがこぼれそうになる。
本当は、軍の誰でもよかったわけじゃない。誰にでも抱かれてもいいなんてそんなのは嘘っぱちで、お前に、女にして欲しかった。それはもう叶わない望みだけど、でもだってそれは、俺がお前を好きだったってことだろう。
ここでもし俺が泣いたら、俺は夕夏に何をあげられる? 汚れた身体としに損ないの狗以外に、何を。
いつの間にか手で自分の顔を覆っていて、だからあいつが目の前に来ていることに気がつかなかった。ぽふんと落ちてきた大きな熱い手が、俺の頭を撫でて、ひゅ、と息を呑む。ばっと顔を上げれば、苦笑するようにあいつは立っていた。
さっきまでの嘘くせえ笑みなんかじゃなくって、いつまでも記憶の中に残る、笑顔が。
俺に叱責を浴びせる声が、乱暴に頭を撫でる指が、拳骨を振り下ろしたり軍服をかぶせてくれた手が、歩幅を考えずにずかずか歩く足が、鼻を掠めるお前の煙草の香りが、ぜんぶ全部好きだった。
緩やかに頭を撫でて、泣くなっつってんのかよ。
んでそんなてめえは勝手なんだよ。廃墟街で野垂れじぬはずだった俺を引きずりだして、そのくせぜってえ名前で呼ばないで。絶対に近寄れないところまで上り詰めて、自分だけひとりでリタイアしやがって。
「……てめえほど、勝手な父親はいねえよ。――父さん」
お前が絶対俺の名前を呼ばねえから、呼べなかった言葉。
ずっと呼んでみたかった言葉。
誰かがいった、『あの人は、錦の父親代わりなんだね』。
その言葉を聞いたときから、ずっとずっと、考えていた。お前の顔を思い出して墓石と向き合うたびに、小さくちいさく漏らした声はきっと立花にも聞こえていなかったんだろう。誰にも、あいつ以外誰にもいったことはなくて。
すっと指が離れていく。それを悲しいとは思わなくて、ただ黙ってヴォルターを見つめる。青い目は、あの頃と変わらないまま、俺を見返して、笑った。
「俺さァ……、恋人、できたんだァ」
ぽつりとつぶやく。ゆっくりと部屋の中が青に染まっていくことに気がつきながら、青の瞳を見つめて、笑う。
「今度、連れてくから、待っててくれよなァ。父さん」
ヴォルターは笑う。あの頃とそっくりで、でも違う、笑顔で。
ああ、なァ、父さん。
もし向こうで会えたら、さ。
青白い光が網膜を焼き尽くして、視界が真っ白に染まる。もう一度だけ指は俺の頭を撫でていって、馬鹿にしたような声が耳元で落ちた。
じゃあな、馬鹿娘。
次目を覚ましたら救護室だった。なんかよくわかんねえあの、透明なマスクを口につけていて、視界が歪んでいる。薬を誰かが飲ませてくれたのだろうか、まだしんじゃいなかった。それをありがたく思いながら、ふとベッドサイドを見やると、腕章にひとつ星が増えていた。
「案外運営もてきとうだなァ」
そう、小さく笑って窓を仰ぎ見る。うざったいほどの晴天は影をひそめ、ゆるやかに秋の色を映した高い空から、柔らかな陽光が頬を撫でた。
帰ったら、夕夏誘って墓参りいくかな。
もう、夏が終わる。
夜よりも暗くなった部屋の中、自身の息遣いが犬のように聞こえていた。知らずけつに伸びた指は、触りごこちのいい自分の尻尾に触れて顔が歪む。ついたため息は、女のそれとは思えないくらい獣臭かった。
ぼう、と青白い光が部屋の隅に灯って、そちらに足を向ければ、いつのまに通路が現れたのだろうか、細長い通路ができていた。その向こう側を、青白い光がゆらゆらと揺れながら先導する。それに従って靴音を高く響かせた。
身体の限界を聞かされて、すでに二月は経った。夕夏には伝えてない。このことを知ってるのは立花と俺だけだ。
ガタがきてるのには気付いていた。自分が毎日使う身体だ、気付かないほうがおかしい。いのうの暴走が激しくなった。必要な薬が三つから五つに増えた。それでもつい最近、薬を飲んだのにしばらく意識が戻らなかった。訓練中に血を吐いて倒れた。いのうを使わないときでも、薬を飲むようにいわれた。持ち歩く薬は、七つになった。
ザッ、ザッ、と、ブーツが灰色の床を蹴り付ける。青白い光は俺をどこに連れてくんだろう。光が床に反射して、その通路は深い青に包まれていた。この色は、あいつに似てる。
そう思った次の瞬間、光が消えた。かつん、と音を立てたのは、さっきの場所とは明らかに違う、場所。もっと広い。聞き慣れた喧騒が聞こえるのに、視界は暗いままだ。
ぞわり、と背に悪寒が走った俺の前を、どちゃりと何かが落ちていく。鼻をふさぎたくなるほどの悪臭が、脳をぐちゃぐちゃと掻き混ぜた。
ブーツを履いているのにわかる、どろりとしたそれ。
靴の裏に浸食する、赤。
「にしき」
伸びてくる知っていたはずの赤い異物を、無感動に見つめていた。指が小さな『あたし』を探してびくりと痙攣する。『俺』はそれを無表情に踏みつけて、うっせえよ、と吐き捨てた。
俺にとって今踏み潰した赤い異物はあくまで過去の存在であって、家族ではなかった。
家族という言葉が似合うのは、このぐちゃぐちゃと歪む気味の悪い下手物ではなくて。
鼻をかすめるにおいがふと色を変えたことに気づきながら、俺は黙って目を瞑る。 ぶわり、と、どこからくるのだろうか、強い風が身体を撫でていく。尻尾の毛の一本一本までが鋭敏に研ぎ澄まされて、ぞわぞわと嫌な予感が忍び寄る。瞼の裏が明るい光に包まれていることに気がつきながら、できることなら目を開けたくなくて、でも負けず嫌いがむくりと身を起こす。
は、と小さく鼻で笑って、ぼやくように漏らした。
「負けらんねえよなァ……」
知り合いの数人はすでに最終戦を終えていた。勝って帰ってきたやつも、負けて帰ってきたやつも、顔色は悪く、悪夢を見たかのように微笑んでいた。それをぼんやりと思い出しながら、ゆっくりと目を開く。
そこには、いつか見た景色が広がっていた。
座ったつもりがなかったのに、俺はあのときのように座っていた。ししるいるい、というのだろうか、たくさん噛み切られた人間が転がって、たくさんの銃弾を受けてしんでいた。どろり、と赤いにおいが鼻をかすめて、もうずいぶんと痛んでいなかった左耳が熱を持つ。ああ、このあとのことを、俺は知ってる。 左耳に手を伸ばす。
それが黒い毛むくじゃらだということに気がついていながら、あのときのように、俺は左耳だったところをがりがりと引っ掻いた。どぷりと赤が跳ねて、気持ち悪さが腹ん中を駆け巡る。気持ち悪い。きもちわるい、きもちわるい。
「……ぃ、……っい! お、い……っ! って、るのか!!」
懐かしい声がした、そう思った瞬間、ばふりと青い軍服が視界を遮る。それをあのときのように跳ね除けながら、それでもそれ以上あのときのことを繰り返せるはずがなかった。
もうただの獣の姿になっていることを知りながら、俺はためらいもなく隣に立つ男に抱きつく。 2mを超える巨体になった俺に押し倒されながら、青い髪の男は優しい目をして俺を見返していた。
「ヴォル、タァ」
なんでこの身体なのに言葉が出るんだとか、確かにここはただのコンクリートの部屋だったのにだとか、そんなことが頭の片隅にありながら、それでも目の前にいるひとに触れられる奇跡だけを感じていたかった。
あのときとは違うのに、大して動じたふうもなく、ただ俺を見つめ返す、ひと。
じゅくり、と胸に何かがにじむ。それは痛みとともに身体中を駆け抜けて、指先まですべてを熱くした。そう思った瞬間、ヴォルターの顔の横に伸ばしていた腕から、手から、指から、するすると黒い毛が抜けていく。赤ん坊の弱く脆い肌とは違う、薬でわずかに色を失った素肌をさらしていることすらどうでもよくて、ただひたすらに顔を歪めていた。
「なァ……。なんで、俺に泣き方、教えてくんなかったんだよォ、ヴォルター」
どんなに顔を歪めたって、どんな痛みに身体が貫かれたって、涙は一滴もこぼれない。目の中にある何かが邪魔をして、涙を流すことを許さない。
泣きたいわけじゃなかった。ただ、涙を流すことさえできない自分は、ヴォルターや立花の娘にも、夕夏の恋人にだってさえ、到底なれるとは思えなかった。
ふと脳裏をかすめるのは軍で殉職していった奴ら。白い花に囲まれていた彼女、写真だけが唯一笑顔をとどめたあいつ。それらを見つめながら、唇を引き結ぶ軍の奴ら。それは涙をこらえている姿で。
俺にはできない、この上なく貴く、神聖なことのように思っていた。
俺がもし、このあとも生き延びられたとして、何度も知り合いのしを見送るのだろう。そうなったとしてそれでも俺はきっと一度も涙を流すことはない。そんな神聖なことを俺ができるはずがない。
だって、お前がしんだとき、俺の目からは、何もこぼれていかなかった。 こぼれ落ちたのは言葉だけで、水のひとつもこぼれていかなかった。
ヴォルターはこの先のことを知っているのだろうか、今ここにいるお前は。まだしんでいないお前は。これからしぬことを、俺にも立花にも何も残さないまましんでいくことを、知っているのだろうか。
「なァ、答えろよ」
ぼやくような言葉をこの幻は聞いているのだろうか、それとも聞こえないのだろうか。それすらも見通せない深い青の瞳を見つめれば、そこに映る俺の顔は、ガキのように歪んでいた。
もう一度名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、また強い風が身体を撫でる。いつのまに獣化が解けたのだろう、尻尾もなくなって、どくどくと流れていた赤い血も止まって、俺はベッドの上にうつぶせになっていた。明るい光が室内を照らし、そこがあの研究室だと気がつく。自分の子どものように丸い指を見つけて、ああ、これから背中にあれをいれるのかと思い出した。ゆっくりと顔を上げれば、少し先に立つ、二人。
刺青をいれる度に、いのうの力は増した。けれど二人はそれを誇らしいと考えることはなかったようで、ただ淡々と、実験が終わってふらふらと倒れこみそうな俺の頭を撫でた。そこにこめられていたのはなんだったんだろう。
それでも、あいつらに触れられることは、嫌じゃなかった。
ヴォルターの大きくて無骨な、熱い手が。
立花の男らしくない、骨ばった冷たい手が。
嫌いじゃなかった。
ただするすると紐解かれていく記憶を抱きしめながら、それでもそこに終わりは来る。一言も言葉を発さない二人を食堂のテーブルを挟んで見つめていると、もう一度風がぶわりと吹き付けた。ぎゅ、と目を閉じた次の瞬間、瞼の裏が光を訴える。
ゆっくりと目を開ければ、かすかに笑う、ヴォルターがいた。もうどこでもない、この部屋の中に。まるで最初からいたとでもいうかのように。
くゆらせる煙草の先から紫煙が立ち昇り、俺の敏感な鼻を掠める。部屋の中に蔓延したこのにおいのせいで、胸の中のぐじゃぐじゃが増した。泥のように渦巻いて、叫べと喉が蹴飛ばされる。口を開いて、でも声の代わりにもれたのは咆哮だった。あいつのいう狗みたいな、うるさくってうざってェ叫び声だった。
いいたい言葉が出てこない。伝えたい言葉が、届けたい言葉があったはずなのに、声帯はそんなことこれっぽっちも気にせずに、ただ雄叫びを上げ続ける。
違う、違う、違えよ、俺は、こんな無意味な音じゃなくて、言わなきゃいけないことがあるはずなんだ、お前に。
ふと手を見れば、黒い獣めいた指が目に入る。俺が獣化していることすら幻なんだろうか。そうだったらいい。あの薬を七つも飲むなんざ不愉快だ。何も、なにもいっていないのに、負けて終わりになんか。
「……できるわけ、ねえだろォがよオ!!」
喉が、痛い。響いていた咆哮はかき消され、俺の怒声だけが部屋の中にこだました。 ぎっとあいつをにらめば、やっぱりらしくねえ笑みを浮かべて立っていた。優しい笑み、柔らかな目つき。
ああ、なァ、そんな嘘くせえ笑いやめろよ。お前はいつだって俺のことそんな目で見てなかっただろ? いるのが当たり前の、それこそ狗を見る目で見てただろ?
『錦』
ふいに囁くような言葉を思い出す。こいつは、俺のことを名前で呼んだことなんて一度もねえのに、なんで笑ってるんだよ。違えだろォ、そこにいるのは、青じゃなくて黒髪の。
ぎり、と右手の爪が手のひらに食い込む。ぎちりと皮膚を突き刺す音がして、手の中で赤が跳ねた。
「なんでいまさら出てくるんだよてめえはよオ!! いまっさら……、のこのこ出てきてんでそんな面さらせんだ!! 一回も名前呼ばなかったくせに! な、んで、んでその面さらせんだよ、ヴォルタア!!」
言葉が、ぼろぼろと、さっきまでかけらも出てこなかった言葉が、堰を切ったように吐き出される。無意味な音の羅列じゃなくて、はっきりと伝えたい言葉が喉をかち割らんばかりにあふれていく。
2mも離れているのだろうか。その距離がお前が作った境界線ゆえなら、俺は絶対にそこを飛び越えなかった。命令か、と問うたびに、互いの境界線を自覚した。踏み越えたかったはずのそれを、律儀に守って踏み越えないまま、終わった。
終わっちまった。
お前が、逝ったから。
「錦って、俺のこと呼ばなかったくせに! 絶対に俺がお前のところまでたどりつけねえようにしやがって!! なんで、――っなんで錦って呼ばなかったんだよ! 俺が他の野郎に抱かれてるって知ってて、んでとめねえんだよ!! 俺はてめえの狗じゃなかったのかよ、なアおいヴォルター!!」
本当は、とめてほしかったのか。
違う、違えよ。そんなことない。どうでもよかった。とめてくれなくたってよかった。黙って何かいいたげな目で見られるくらいなら、いつものように鋭い声で叱責されたほうがましだった。軍の規律を乱すな! そう、馬鹿みたいにまじめに言い放って欲しかった。
顔が歪む。ぐしゃぐしゃに、今にも涙がこぼれそうなはずなのに、目の中にできた何かが邪魔をして、俺を泣かせてはくれない。
お前が、泣き方を教えてくれなかったから。
「……ずっと、ずっと! ……ずっと、てめえが好きだったんだよ!!」
吐き捨てた瞬間、どうしてだろう、目が閉じていた。
ああ、だめだ、いっちまった、もう、これじゃあ。
夕夏。
短い黒髪が、脳裏でゆっくりと振り返る。赤い優しい瞳が、はっきりと俺を見つめて、笑う。
『錦』
あいつの顔が見れない。視界が歪んでそんな自分が嫌で、胸の中にいる二人を比べて選べられない自分がたまらなく憎くて、いつの間にかうつむいていた。少女とは程遠い、女というわりにはあまりに貧相な身体がそこにはあって、何かがこぼれそうになる。
本当は、軍の誰でもよかったわけじゃない。誰にでも抱かれてもいいなんてそんなのは嘘っぱちで、お前に、女にして欲しかった。それはもう叶わない望みだけど、でもだってそれは、俺がお前を好きだったってことだろう。
ここでもし俺が泣いたら、俺は夕夏に何をあげられる? 汚れた身体としに損ないの狗以外に、何を。
いつの間にか手で自分の顔を覆っていて、だからあいつが目の前に来ていることに気がつかなかった。ぽふんと落ちてきた大きな熱い手が、俺の頭を撫でて、ひゅ、と息を呑む。ばっと顔を上げれば、苦笑するようにあいつは立っていた。
さっきまでの嘘くせえ笑みなんかじゃなくって、いつまでも記憶の中に残る、笑顔が。
俺に叱責を浴びせる声が、乱暴に頭を撫でる指が、拳骨を振り下ろしたり軍服をかぶせてくれた手が、歩幅を考えずにずかずか歩く足が、鼻を掠めるお前の煙草の香りが、ぜんぶ全部好きだった。
緩やかに頭を撫でて、泣くなっつってんのかよ。
んでそんなてめえは勝手なんだよ。廃墟街で野垂れじぬはずだった俺を引きずりだして、そのくせぜってえ名前で呼ばないで。絶対に近寄れないところまで上り詰めて、自分だけひとりでリタイアしやがって。
「……てめえほど、勝手な父親はいねえよ。――父さん」
お前が絶対俺の名前を呼ばねえから、呼べなかった言葉。
ずっと呼んでみたかった言葉。
誰かがいった、『あの人は、錦の父親代わりなんだね』。
その言葉を聞いたときから、ずっとずっと、考えていた。お前の顔を思い出して墓石と向き合うたびに、小さくちいさく漏らした声はきっと立花にも聞こえていなかったんだろう。誰にも、あいつ以外誰にもいったことはなくて。
すっと指が離れていく。それを悲しいとは思わなくて、ただ黙ってヴォルターを見つめる。青い目は、あの頃と変わらないまま、俺を見返して、笑った。
「俺さァ……、恋人、できたんだァ」
ぽつりとつぶやく。ゆっくりと部屋の中が青に染まっていくことに気がつきながら、青の瞳を見つめて、笑う。
「今度、連れてくから、待っててくれよなァ。父さん」
ヴォルターは笑う。あの頃とそっくりで、でも違う、笑顔で。
ああ、なァ、父さん。
もし向こうで会えたら、さ。
青白い光が網膜を焼き尽くして、視界が真っ白に染まる。もう一度だけ指は俺の頭を撫でていって、馬鹿にしたような声が耳元で落ちた。
じゃあな、馬鹿娘。
次目を覚ましたら救護室だった。なんかよくわかんねえあの、透明なマスクを口につけていて、視界が歪んでいる。薬を誰かが飲ませてくれたのだろうか、まだしんじゃいなかった。それをありがたく思いながら、ふとベッドサイドを見やると、腕章にひとつ星が増えていた。
「案外運営もてきとうだなァ」
そう、小さく笑って窓を仰ぎ見る。うざったいほどの晴天は影をひそめ、ゆるやかに秋の色を映した高い空から、柔らかな陽光が頬を撫でた。
帰ったら、夕夏誘って墓参りいくかな。
もう、夏が終わる。