抱く涙
黒地のさらりとしたドレスに腕を通し、放り出したばかりの黒のタイツを手にとって足を入れる。机の上に置いたままにしていたガーターベルトを、右足の太ももの上のほうにかちりと巻き、鋼を湛えたナイフをとってそこに差した。そして最後に黒のショートグローブをつかんで指を押し込めば、今日の準備は終了だ。それでも気分は優れない。
「めんどくせェなァ」
放り出したままの荷物の中から埋もれた腕章を救い出し、同時につい先日送られてきた手紙を拾い上げる。ぽつりとつぶやいた言葉は部屋の中に静かに落ちた。
ホテルの前まで手ぶらでぶらりと歩いて向かい、その巨大な姿に軽くうんざりする。高いホテルもなんだなァ、などと考えながらホールに入りエレベーターに乗り込んでから、まわりの奴らのものものしい態度に気が付いた。何人か運営のスタッフでもいんのかねェ。
四十七階に着いてするりと下りれば数人がついてきた。みな一様にドレスやら一張羅を身に纏っている。こいつらみんなカジノ参加者かァ暇だなとか考えながらホールに向かえば、そこは賑わいを見せているようだった。
入る前の扉で腕章のチェックを受け、銀星を十渡されてそのまま全部をポケットに押し込む。じゃらじゃらいう音が小銭みたいで、少しだけ低かった気分が上がる。
その中で特に広く人がまわりを囲んでいる場所を目指す。案の定スーツを身に纏った男共の姿が目立った。いや、今回は運営もスーツだっけかァ?
と思ったら見知った顔をひとつ見つけて、そいつの背中を軽く叩く。男レナートはくるりと振り向いて俺を確認すると笑った。
「やあ、ようこそ藤堂さん。今日の調子はどうかな? 対戦相手の坊っちゃんは来てるようだよ」
「そこそこだァな。なあ、別にいのう使わなきゃいけねえとかっていうルールなんてねえよなァ?」
「異能なしで勝てると?」
ふっと目を見開いた彼は、俺の後ろのほうを見てからくすりと笑った。じりと睨む視線を感じて振り返ると、あの緑髪のガキが苛立った様子で立っていた。まわりのスーツの男たちが笑いを堪えるようにして視線を逸らしていた。
「よーォ、がきんちょ。指名したからにゃァ、理由があんだろうなァ? 俺を呼び出したんだ、答えろよ」
にやにやと唇に笑みを刻んで答えを促せば、奴は目を怒らせたままずかずかと歩み寄ってきた。たいして変わらない少しだけ低い視線がぎっと睨み上げる。きれいな琥珀の目だった。
こんなガキが、マフィアかよォ。いまさらながらそう思う。
「調子乗ってんじゃねえよ、お前。軍人がなんでマフィアの本拠地の目の前に来る? 馬鹿にすんのも大概にしろよ」
低く落ちた言葉に思わず鼻で笑ってしまった。ぎろりと睨み上げるガキにはん、と鼻を鳴らして笑った。
「馬鹿にするう? おいおい冗談止せよォ、俺は自分より一回りもちっちぇ奴に喧嘩なんざ売らねえし」
「そういう意味じゃねーよ!! 第一異能使わないってどういう意味だ! これが喧嘩売ってるっていうんだろ!!」
「ちいせえ犬ほどよく吠える」
「んだと!?」
「はいはいストップー。まだ試合も賭け金も決まってないっていうのに、もう終わらせる気? 試合が始まってから戦ってもらえるかい?」
激昂したガキをレナートが押し留め、俺と距離を引き離した。睨み付ける琥珀を眺めながらレナートに問う。
「場所あっちだよなァ?」
「そうだけど、その前に賭ける星の確認をしようか。通常の星と今回の銀星、どちらを幾つ賭ける?」
「んじゃ俺金星ひとつー、よろしく。先入ってんぜェ」
ポケットから銀星を五つ取り出して奴に投げる。それを器用にすべて受け取ったのを確認してから振り返り、開いた扉の奥に向かって足を進めた。
軍の訓練場よりは小さかったが、十分やりあうだけの余裕があった。ぱっと見にはわからないが、壁の四方にカメラが設置されているのだろう。運営も凝るなァとうそぶきながら、ショートグローブをきちんとはめ直し、ナイフを取り出す。くるりと回して跳ねとばし、いじっていると、ようやく賭け金が決まったのかパンテラが不愉快そうに現れた。
「ぶすくれた顔すんなよお、パンテラ。てめえが申し込んだんだろォ? 観客沸かせるくらいしてみろよォ」
「おっまっえが怪しいからだろ! なんで軍人が門の前なんかうろついてんだよ!!」
「遊びに?」
「俺に聞くな!! ぜってー勝ってちゃんと理由吐いてもらうかんな!」
いいながらその一張羅の裏から拳銃を取り出すのを確認する。厄介だなァおいおい。
「俺が答えると思ってんのかァ?」
「答えさす!」
その一言が吐き出されると同時に、レナートの落ち着いた声が放送から聞こえる。同時に扉が閉め切られて、鋭いライトが目を焼いた。
「さあ、準備も整ったようだし、始めようか。紅龍会所属パンテラくん、準備はできたかな?」
「おう」
「OK。ヴェラドニア軍所属藤堂さん、君は?」
「できてんよォ」
「わかった。それじゃあ、――試合開始!!」
言葉が耳を突き刺したと思った次の瞬間、撃音が足元を跳ねた。とっさに地面を蹴って後方へと身を翻していなかったら、脛から血でも出ていたのだろう。銃はやっぱ嫌いだなァおい。そのままの勢いで銃撃から逃れるために走り出す。
「ちっ逃げんな!」
「的になりたがるほどマゾじゃねえよォ、当ててみなァ!!」
苛立たしげな声に笑いながら答え、地面を蹴って向きを変える。ナイフ投げちまってもいいが一本しかねえからなァと余裕をぶっこきながら考え、ナイフを握りなおす。
そして足元ばかり狙うパンテラを嘲笑うかのように、奴の目の前に飛び込んだ。
「――っ!!」
案の定こうくると思っていなかったらしいガキは目を見開き、わずかに銃口が逸らされる。そのすきを躊躇いなく突いてナイフを放ちながら、ガキの横を擦り抜けようと身を屈めた。
パンッ――!
左耳があったその近くを切り裂く空気の音に、冷や汗が滲む。足がふらつきそうになるなんて、そんな絶好の機会を逃がすはずもなく、もうひとつ鋭い撃音が耳を貫く。
舌打ちしながらまるで踊るようにステップを踏んで反転し、転がったナイフを掴んで背後へと跳んだ。ナイフの刃には少しだけ赤い液体がついていて、また身を翻しながらパンテラのほうを見やれば、脇腹あたりの服が一線のように破れ、少しだけ赤が滲んでいた。殺さねえ、だったっけなァこれのルール。
「うっまいじゃねえのォ!」
「はっ舐めんな!!」
鋭い応酬をしながらもそこには素直に喜びが混じる。一回戦のあれだけじゃあ足りねえよなァ。
的を絞られないように逃げ惑い続けるのも体力を食う。さぞや今の場面展開もギャラリー側からすりゃあ一瞬だろうが、実際はかなり体力を食っていた。遊んでる暇もねえかな。
一瞬足を止め、パンテラが狙いを定め直す寸前にぐっと体を屈め、撃鉄を打ち出した弾道に沿うように駆ける。そのとき俺は奴の左手が背後に回ったことに気付いていなかった。
「ちっ――!」
わざとらしい舌打ちに嵌められたと気付いたときには、俺はもうパンテラを突き飛ばしてそのまま奴の上体に跨っていた。同時に額に触れる、冷たい鋼。ナイフを掴んだ指はガキの緑の髪に埋もれ、あと数ミリずれていたら確実に頭を切っているところだった。最悪だァ。
「ふん、ざまあみろ!!」
パンテラはにっと唇に勝者の笑みを浮かべ、その引き金を引こうと指を動かす――。
パァンッ――!!
銃弾が発砲される音と同時に、パンテラの両腕にうまく肘鉄を食らわせ、弾道を逸らす。
「つっ!!」
そうしながらナイフを引いて代わりにパンテラの左腕を掴み上げた。そのまま手首を捻り拳銃を落とさせて片方だけでも遠くへ蹴り飛ばす。
ガキは顔を歪めつつもいまだ自由な右腕を、器用にひねらせて俺の太もものすぐ間近で発砲しようとする。さすがにそこでやられたら骨折しちまう、そう思った次の瞬間体を反転させてパンテラの上から転がり落ちた。鋭い撃音が置いた手の横で跳ねてさすがにひやりとする。ったくガキのくせに危ねえもん持ちやがって。
「つ――っっぶねえなァ!」
「うまくいくと思うなよ、馬鹿!!」
「てめえより馬鹿じゃあねえよ!!」
軽い罵り合いをしながら左腕を地面に叩きつけ、そのままばっと逃れるように立ち上がる。うまく立て直されるより早く、ガキの右手首を踏みつけた。
「つうっ、ってえよ!!」
「はっ、だろうなァ。俺の足も痛えよ」
ぼやきつつ右手首でも粉砕しようかと、踏む足からわずかに力を抜いたその瞬間、右膝の裏にたたき込まれた衝撃につんのめる。ナイフを持った手がこのままだとこのガキの脳天を貫くことに気付いて、思わず顔を歪めながらナイフを弾き飛ばし、どうにか膝をついたときには、やはり少年らしい右手が銃口を脇腹に押しあてていた。
にっと笑う口を殴り付けたくなったからためらいなくそうすることにした。同時に発砲されないことを祈りつつ思いっきり顔面を強打する。
「がばっ……――が、顔面はねえだろ!?」
「顔って実は一番弱いんだよなァ、弱点丸出しだしよォ?」
とっさに拳銃を握る手を弱めていたのか発砲音は響かない。それに感謝しつつもう一発殴りつけようと手を振り上げ、またも拳銃がこちらを狙っていることに気がついて舌打ちを吐き出す。うっぜえ。ばっと体を転がしてどうにか弾道から逃れようとすれば、鋭い撃鉄が甲高い音を響かせた。けれどそこで逃れきったわけではなく、銃弾が跳ねたのか腹部に熱い痛みが駆け抜ける。まじかよォ、あたりやがった。
腹部に手をやりながらさっと身を起こし、捕らえられるより先にナイフを回収して、さっき蹴り上げた拳銃に向けて投擲し破壊する。ああっとか悲痛そうな声を聞きながらナイフを拾い上げて振り返った、と同時に響く発砲音と、肩に走る凄まじい熱。よろけそうになるのを足でどうにか踏ん張ったときには、目の前にパンテラの鮮やかな緑が翻っていた。
「っ―――!!!」
腹のドレス越しに感じる冷たい鋼に戦慄し、そのくせ躊躇いなくナイフを一線に閃かす。嫌いな血のにおいが濃厚に鼻をかすめ、ぐっと体をしゃがみこませる。狙いがそれたのか腹部ではなく、さっきあたったはずの場所にもう一度銃弾がかすめ、皮膚が引きつれたように血を吐き出した。あーうっぜ。
「ぐっ、つ、ざっけんな!」
何に逆上したのか知らねえが、パンテラは拳銃を持たないほうの手で迷いなく俺の左耳を叩く。とたん視界が歪んで足がもつれる、やべっ――。
思ったときにはすでに遅く、俺の体は強い衝撃とともに床にたたきつけられていた。脳がぐわんと揺れるような気持ち悪さにかはっと息を吐き出す。今度こそといわんばかりに額に突きつけられた拳銃を見て、ナイフを跳ね上げさせようと手を動かせば、一瞬にしてその手を蹴飛ばされた。鈍い痛みが指の先から広がって、ナイフがとんでもない方向に飛んでいく。視線をそちらに飛ばしたときに、俺の頭の上のほうでかしゃんと弾を入れ替える音が聞こえた。ちっ、初戦で負けかよォ、なっさけねえなァ。
そう思って、はあ、とため息をついても、どうしてかパンテラはその引き金を引かないままだった。迷いのある顔のまま、指はどうしても動かない。実弾に変えたのに、動かないってかァ?
「……はっ、舐めんなガキ」
「何がっ、―――がっ!!」
滑らかな動きのまま片手一本で銃をはじき飛ばし、完璧に不意をつかれた顔をしてとっさに反応できずにいる、緑髪を起き上がりざまに全体重をかけて蹴っ飛ばす。片手を突いて器用に立ち上がり、勢いよくパンテラの腹部を蹴りつけた。いったそうだなァ、おい。
「がはっ!!」
そうしてうずくまるガキの緑髪をつかんで引きずり上げる。苦痛か屈辱かにゆがんだ顔は、見ていてかわいそうに思えるほど幼かった。こんなガキが、ねえ。
「っうく、ってえ……!!」
「諦めろォ。今お前が実弾に入れ替えたのに撃てなかったってのがァ、事実だあな。お前、マフィアなんざ向いてねえよォ、辞めちまえ」
「お前に、――何がわかんだよ!! っく」
「今のこの状態が。なあ、おい、パンテラァ。こうなってまでまだわかんねえのかァ? 今俺の手にナイフがあったら、首掻っ切られて終わりだぜェ。ガキはガキらしくお家帰って寝てなァ」
いいながら強くその髪を離し、同時に今度は肩を強く蹴り付ける。それでもまだ倒れようとしないパンテラに、わずかに苛立ちながらもう一度腹部を蹴り上げた。鈍い音と不快な咳の音がする。
「――っがはっ! ごはっ、っつうう……!!」
「降参しとけ、似合わねえ意地張るもんじゃねえぜェ?」
「うるっさっ、あがぁっ――!!」
しつこく蹴り上げようとした瞬間、がっと肩をつかまれた。億劫なままに振り返ればディーラーの姿をしたままの、険しいレナートの顔がそこにはあった。そうなって初めて自分がいつになく苛ついていたことに気がつく。振り返れば顔を歪ませて腹を抱えたままうずくまるパンテラがいた。
「終わりだよ、藤堂さん。君の勝ちだ」
「……随分、あっけねえ終わりだなァ。ガキだからって甘くすんなよォ、レナート」
「そんなことしないよ。俺は公平第一だからね」
穏やかな声はそういってうずくまったままのパンテラの横にしゃがみこむ。そのまま容態を確認しているらしいのを眺めながら、興が冷めたようにそれを見つめていた。琥珀の瞳がちらちらと燃えるようにこちらを見上げていた。
「……また遊ぼうぜェ、パンテラ。お前がもっと非情なマフィアになれたら、なァ」
緩んだドレスを調えてから振り返ってそのまま歩きだそうとすれば、背後から声が響いた。ゆっくりと振り返れば、迎え撃つ、琥珀のまなざし。
「……絶対、やれよ、錦」
にっと唇をゆがめて笑う。そうか、こうやってマフィアのガキ共は強くなんのかァ。
「てめえも俺も、このゲームで生き残れたらなァ。じゃァ」
そして強くなって、躊躇いなく拳銃をぶっ放すようになるのだろう、実弾ごときなんとも思わなくなるのだろう、そして確実に人を殺すのだ。
レナートから金の星をひとつ受け取って、歩き出す。振り返りたくなかった。嫌だった。
「……あいつみたいに、殺すのかよォ、パンテラァ……」
つぶやく言葉は小さくちいさく滑り落ちて、涙のように滴った。
「めんどくせェなァ」
放り出したままの荷物の中から埋もれた腕章を救い出し、同時につい先日送られてきた手紙を拾い上げる。ぽつりとつぶやいた言葉は部屋の中に静かに落ちた。
ホテルの前まで手ぶらでぶらりと歩いて向かい、その巨大な姿に軽くうんざりする。高いホテルもなんだなァ、などと考えながらホールに入りエレベーターに乗り込んでから、まわりの奴らのものものしい態度に気が付いた。何人か運営のスタッフでもいんのかねェ。
四十七階に着いてするりと下りれば数人がついてきた。みな一様にドレスやら一張羅を身に纏っている。こいつらみんなカジノ参加者かァ暇だなとか考えながらホールに向かえば、そこは賑わいを見せているようだった。
入る前の扉で腕章のチェックを受け、銀星を十渡されてそのまま全部をポケットに押し込む。じゃらじゃらいう音が小銭みたいで、少しだけ低かった気分が上がる。
その中で特に広く人がまわりを囲んでいる場所を目指す。案の定スーツを身に纏った男共の姿が目立った。いや、今回は運営もスーツだっけかァ?
と思ったら見知った顔をひとつ見つけて、そいつの背中を軽く叩く。男レナートはくるりと振り向いて俺を確認すると笑った。
「やあ、ようこそ藤堂さん。今日の調子はどうかな? 対戦相手の坊っちゃんは来てるようだよ」
「そこそこだァな。なあ、別にいのう使わなきゃいけねえとかっていうルールなんてねえよなァ?」
「異能なしで勝てると?」
ふっと目を見開いた彼は、俺の後ろのほうを見てからくすりと笑った。じりと睨む視線を感じて振り返ると、あの緑髪のガキが苛立った様子で立っていた。まわりのスーツの男たちが笑いを堪えるようにして視線を逸らしていた。
「よーォ、がきんちょ。指名したからにゃァ、理由があんだろうなァ? 俺を呼び出したんだ、答えろよ」
にやにやと唇に笑みを刻んで答えを促せば、奴は目を怒らせたままずかずかと歩み寄ってきた。たいして変わらない少しだけ低い視線がぎっと睨み上げる。きれいな琥珀の目だった。
こんなガキが、マフィアかよォ。いまさらながらそう思う。
「調子乗ってんじゃねえよ、お前。軍人がなんでマフィアの本拠地の目の前に来る? 馬鹿にすんのも大概にしろよ」
低く落ちた言葉に思わず鼻で笑ってしまった。ぎろりと睨み上げるガキにはん、と鼻を鳴らして笑った。
「馬鹿にするう? おいおい冗談止せよォ、俺は自分より一回りもちっちぇ奴に喧嘩なんざ売らねえし」
「そういう意味じゃねーよ!! 第一異能使わないってどういう意味だ! これが喧嘩売ってるっていうんだろ!!」
「ちいせえ犬ほどよく吠える」
「んだと!?」
「はいはいストップー。まだ試合も賭け金も決まってないっていうのに、もう終わらせる気? 試合が始まってから戦ってもらえるかい?」
激昂したガキをレナートが押し留め、俺と距離を引き離した。睨み付ける琥珀を眺めながらレナートに問う。
「場所あっちだよなァ?」
「そうだけど、その前に賭ける星の確認をしようか。通常の星と今回の銀星、どちらを幾つ賭ける?」
「んじゃ俺金星ひとつー、よろしく。先入ってんぜェ」
ポケットから銀星を五つ取り出して奴に投げる。それを器用にすべて受け取ったのを確認してから振り返り、開いた扉の奥に向かって足を進めた。
軍の訓練場よりは小さかったが、十分やりあうだけの余裕があった。ぱっと見にはわからないが、壁の四方にカメラが設置されているのだろう。運営も凝るなァとうそぶきながら、ショートグローブをきちんとはめ直し、ナイフを取り出す。くるりと回して跳ねとばし、いじっていると、ようやく賭け金が決まったのかパンテラが不愉快そうに現れた。
「ぶすくれた顔すんなよお、パンテラ。てめえが申し込んだんだろォ? 観客沸かせるくらいしてみろよォ」
「おっまっえが怪しいからだろ! なんで軍人が門の前なんかうろついてんだよ!!」
「遊びに?」
「俺に聞くな!! ぜってー勝ってちゃんと理由吐いてもらうかんな!」
いいながらその一張羅の裏から拳銃を取り出すのを確認する。厄介だなァおいおい。
「俺が答えると思ってんのかァ?」
「答えさす!」
その一言が吐き出されると同時に、レナートの落ち着いた声が放送から聞こえる。同時に扉が閉め切られて、鋭いライトが目を焼いた。
「さあ、準備も整ったようだし、始めようか。紅龍会所属パンテラくん、準備はできたかな?」
「おう」
「OK。ヴェラドニア軍所属藤堂さん、君は?」
「できてんよォ」
「わかった。それじゃあ、――試合開始!!」
言葉が耳を突き刺したと思った次の瞬間、撃音が足元を跳ねた。とっさに地面を蹴って後方へと身を翻していなかったら、脛から血でも出ていたのだろう。銃はやっぱ嫌いだなァおい。そのままの勢いで銃撃から逃れるために走り出す。
「ちっ逃げんな!」
「的になりたがるほどマゾじゃねえよォ、当ててみなァ!!」
苛立たしげな声に笑いながら答え、地面を蹴って向きを変える。ナイフ投げちまってもいいが一本しかねえからなァと余裕をぶっこきながら考え、ナイフを握りなおす。
そして足元ばかり狙うパンテラを嘲笑うかのように、奴の目の前に飛び込んだ。
「――っ!!」
案の定こうくると思っていなかったらしいガキは目を見開き、わずかに銃口が逸らされる。そのすきを躊躇いなく突いてナイフを放ちながら、ガキの横を擦り抜けようと身を屈めた。
パンッ――!
左耳があったその近くを切り裂く空気の音に、冷や汗が滲む。足がふらつきそうになるなんて、そんな絶好の機会を逃がすはずもなく、もうひとつ鋭い撃音が耳を貫く。
舌打ちしながらまるで踊るようにステップを踏んで反転し、転がったナイフを掴んで背後へと跳んだ。ナイフの刃には少しだけ赤い液体がついていて、また身を翻しながらパンテラのほうを見やれば、脇腹あたりの服が一線のように破れ、少しだけ赤が滲んでいた。殺さねえ、だったっけなァこれのルール。
「うっまいじゃねえのォ!」
「はっ舐めんな!!」
鋭い応酬をしながらもそこには素直に喜びが混じる。一回戦のあれだけじゃあ足りねえよなァ。
的を絞られないように逃げ惑い続けるのも体力を食う。さぞや今の場面展開もギャラリー側からすりゃあ一瞬だろうが、実際はかなり体力を食っていた。遊んでる暇もねえかな。
一瞬足を止め、パンテラが狙いを定め直す寸前にぐっと体を屈め、撃鉄を打ち出した弾道に沿うように駆ける。そのとき俺は奴の左手が背後に回ったことに気付いていなかった。
「ちっ――!」
わざとらしい舌打ちに嵌められたと気付いたときには、俺はもうパンテラを突き飛ばしてそのまま奴の上体に跨っていた。同時に額に触れる、冷たい鋼。ナイフを掴んだ指はガキの緑の髪に埋もれ、あと数ミリずれていたら確実に頭を切っているところだった。最悪だァ。
「ふん、ざまあみろ!!」
パンテラはにっと唇に勝者の笑みを浮かべ、その引き金を引こうと指を動かす――。
パァンッ――!!
銃弾が発砲される音と同時に、パンテラの両腕にうまく肘鉄を食らわせ、弾道を逸らす。
「つっ!!」
そうしながらナイフを引いて代わりにパンテラの左腕を掴み上げた。そのまま手首を捻り拳銃を落とさせて片方だけでも遠くへ蹴り飛ばす。
ガキは顔を歪めつつもいまだ自由な右腕を、器用にひねらせて俺の太もものすぐ間近で発砲しようとする。さすがにそこでやられたら骨折しちまう、そう思った次の瞬間体を反転させてパンテラの上から転がり落ちた。鋭い撃音が置いた手の横で跳ねてさすがにひやりとする。ったくガキのくせに危ねえもん持ちやがって。
「つ――っっぶねえなァ!」
「うまくいくと思うなよ、馬鹿!!」
「てめえより馬鹿じゃあねえよ!!」
軽い罵り合いをしながら左腕を地面に叩きつけ、そのままばっと逃れるように立ち上がる。うまく立て直されるより早く、ガキの右手首を踏みつけた。
「つうっ、ってえよ!!」
「はっ、だろうなァ。俺の足も痛えよ」
ぼやきつつ右手首でも粉砕しようかと、踏む足からわずかに力を抜いたその瞬間、右膝の裏にたたき込まれた衝撃につんのめる。ナイフを持った手がこのままだとこのガキの脳天を貫くことに気付いて、思わず顔を歪めながらナイフを弾き飛ばし、どうにか膝をついたときには、やはり少年らしい右手が銃口を脇腹に押しあてていた。
にっと笑う口を殴り付けたくなったからためらいなくそうすることにした。同時に発砲されないことを祈りつつ思いっきり顔面を強打する。
「がばっ……――が、顔面はねえだろ!?」
「顔って実は一番弱いんだよなァ、弱点丸出しだしよォ?」
とっさに拳銃を握る手を弱めていたのか発砲音は響かない。それに感謝しつつもう一発殴りつけようと手を振り上げ、またも拳銃がこちらを狙っていることに気がついて舌打ちを吐き出す。うっぜえ。ばっと体を転がしてどうにか弾道から逃れようとすれば、鋭い撃鉄が甲高い音を響かせた。けれどそこで逃れきったわけではなく、銃弾が跳ねたのか腹部に熱い痛みが駆け抜ける。まじかよォ、あたりやがった。
腹部に手をやりながらさっと身を起こし、捕らえられるより先にナイフを回収して、さっき蹴り上げた拳銃に向けて投擲し破壊する。ああっとか悲痛そうな声を聞きながらナイフを拾い上げて振り返った、と同時に響く発砲音と、肩に走る凄まじい熱。よろけそうになるのを足でどうにか踏ん張ったときには、目の前にパンテラの鮮やかな緑が翻っていた。
「っ―――!!!」
腹のドレス越しに感じる冷たい鋼に戦慄し、そのくせ躊躇いなくナイフを一線に閃かす。嫌いな血のにおいが濃厚に鼻をかすめ、ぐっと体をしゃがみこませる。狙いがそれたのか腹部ではなく、さっきあたったはずの場所にもう一度銃弾がかすめ、皮膚が引きつれたように血を吐き出した。あーうっぜ。
「ぐっ、つ、ざっけんな!」
何に逆上したのか知らねえが、パンテラは拳銃を持たないほうの手で迷いなく俺の左耳を叩く。とたん視界が歪んで足がもつれる、やべっ――。
思ったときにはすでに遅く、俺の体は強い衝撃とともに床にたたきつけられていた。脳がぐわんと揺れるような気持ち悪さにかはっと息を吐き出す。今度こそといわんばかりに額に突きつけられた拳銃を見て、ナイフを跳ね上げさせようと手を動かせば、一瞬にしてその手を蹴飛ばされた。鈍い痛みが指の先から広がって、ナイフがとんでもない方向に飛んでいく。視線をそちらに飛ばしたときに、俺の頭の上のほうでかしゃんと弾を入れ替える音が聞こえた。ちっ、初戦で負けかよォ、なっさけねえなァ。
そう思って、はあ、とため息をついても、どうしてかパンテラはその引き金を引かないままだった。迷いのある顔のまま、指はどうしても動かない。実弾に変えたのに、動かないってかァ?
「……はっ、舐めんなガキ」
「何がっ、―――がっ!!」
滑らかな動きのまま片手一本で銃をはじき飛ばし、完璧に不意をつかれた顔をしてとっさに反応できずにいる、緑髪を起き上がりざまに全体重をかけて蹴っ飛ばす。片手を突いて器用に立ち上がり、勢いよくパンテラの腹部を蹴りつけた。いったそうだなァ、おい。
「がはっ!!」
そうしてうずくまるガキの緑髪をつかんで引きずり上げる。苦痛か屈辱かにゆがんだ顔は、見ていてかわいそうに思えるほど幼かった。こんなガキが、ねえ。
「っうく、ってえ……!!」
「諦めろォ。今お前が実弾に入れ替えたのに撃てなかったってのがァ、事実だあな。お前、マフィアなんざ向いてねえよォ、辞めちまえ」
「お前に、――何がわかんだよ!! っく」
「今のこの状態が。なあ、おい、パンテラァ。こうなってまでまだわかんねえのかァ? 今俺の手にナイフがあったら、首掻っ切られて終わりだぜェ。ガキはガキらしくお家帰って寝てなァ」
いいながら強くその髪を離し、同時に今度は肩を強く蹴り付ける。それでもまだ倒れようとしないパンテラに、わずかに苛立ちながらもう一度腹部を蹴り上げた。鈍い音と不快な咳の音がする。
「――っがはっ! ごはっ、っつうう……!!」
「降参しとけ、似合わねえ意地張るもんじゃねえぜェ?」
「うるっさっ、あがぁっ――!!」
しつこく蹴り上げようとした瞬間、がっと肩をつかまれた。億劫なままに振り返ればディーラーの姿をしたままの、険しいレナートの顔がそこにはあった。そうなって初めて自分がいつになく苛ついていたことに気がつく。振り返れば顔を歪ませて腹を抱えたままうずくまるパンテラがいた。
「終わりだよ、藤堂さん。君の勝ちだ」
「……随分、あっけねえ終わりだなァ。ガキだからって甘くすんなよォ、レナート」
「そんなことしないよ。俺は公平第一だからね」
穏やかな声はそういってうずくまったままのパンテラの横にしゃがみこむ。そのまま容態を確認しているらしいのを眺めながら、興が冷めたようにそれを見つめていた。琥珀の瞳がちらちらと燃えるようにこちらを見上げていた。
「……また遊ぼうぜェ、パンテラ。お前がもっと非情なマフィアになれたら、なァ」
緩んだドレスを調えてから振り返ってそのまま歩きだそうとすれば、背後から声が響いた。ゆっくりと振り返れば、迎え撃つ、琥珀のまなざし。
「……絶対、やれよ、錦」
にっと唇をゆがめて笑う。そうか、こうやってマフィアのガキ共は強くなんのかァ。
「てめえも俺も、このゲームで生き残れたらなァ。じゃァ」
そして強くなって、躊躇いなく拳銃をぶっ放すようになるのだろう、実弾ごときなんとも思わなくなるのだろう、そして確実に人を殺すのだ。
レナートから金の星をひとつ受け取って、歩き出す。振り返りたくなかった。嫌だった。
「……あいつみたいに、殺すのかよォ、パンテラァ……」
つぶやく言葉は小さくちいさく滑り落ちて、涙のように滴った。