「あい」

 I、愛、哀。
 哀しいくらいに愛してる、そんな言葉はありきたりだけど。
 仕方ねえよな。


「にしても、珍しいな、お前が軍服のまま俺誘うのって」
 ざくざくと砂を踏む音を立てながら、俺は少しあとについてくる夕夏を振り返った。黒いワイシャツに赤いネクタイ。ジャケットをざっくばらんに身に着けた、見るからにマフィア。
 今から会いに行く俺の親父を殺したのも、マフィアだった。
 ぶわりとわずかに冷たい風が吹く。最終戦が終わって、顔を見せにいくのもだいぶ遅れてしまった。それは俺の体調が悪かったのと、夕夏とタイミングが合わなかったことが大きい。墓地までの道のりは、以前茂っていた草が消えて、砂のような色をした枯葉がさらさらと音を立てていた。その中に俺の軍靴と夕夏の靴音が寂しく響く。
「大事な用事だかんなァ」
 にひっと笑って手の中の花束を持ち上げる。勿論もう片方の手からぶら下がるビニール袋の中には、ビールが一缶。ほんとだったら俺と夕夏の分も買っておくべきだったんだろうが、いまさらどうでもいい。どうせこれで終わりだから。
 終わり。
「そういやさァ」
 いっておかなければいけないことを思い出して、ぼんやりという。こんなに平然ということじゃねえのはわかってたけど、許してくれんだろ。
「俺、今日で軍辞める。から、一緒に暮らそうぜェ」
 かつ、と靴音が止んでちらと振り返れば夕夏がぽかんと目を見開いていた。それからあきれたようにひとつ、大きくため息をついて、笑う。
「勝手な奴だな、お前は」
 夕夏の赤い瞳を見つめてにやにやと笑い、それからふっと前を向く。ちんたら歩いてきて、いつのまにか、もうあいつの墓が見えてきていた。誰かが、立花がすでに訪れていたのだろうか、花束とビールがそっけなく墓石の前に置かれている。思わず小さく笑みを漏らし、夕夏についてくるよう促した。
 立花は、アマリネを連れてきたのだろうか。
 ふとそんなことを思う。親父、と、今は呼べるようになった死者と、親しかった立花。彼もまた錦のように、大切な恋人を紹介したのだろうか。
「ヴォルター、リッケルト……? って読むのか」
 墓石に刻まれた名前を自信無さげに読み上げた恋人に、こくりとうなずいて花束とビールを置いた。ふたつの花束に二缶のビール。何も知らない人間が見たら、さぞや酒好きの男だったのだろうと思われるのかと思うと、なんだか笑えた。
 ゆっくりと立ち上がり、踵を揃えて直立する。ああとなんだったけなァ、敬礼だっけかァ、おい?
『背伸ばしてしゃきっとしろ! 指先まで意識しろっていってんだろ』
 ああうるせえ鬼教官。
 す、と息を吸い込んで、言葉が喉を滑り落ちた。
「敬礼」
 その一言。けれど殉職した人間に向けられるにしてはあまりにそっけない一言。
 何もわかっていなかった、しぬことを理解していなかったあの頃とは違って、吐き出した喉が痛い。熱を持って叫びだそうとしているようだった。涙が流れない代わりに、咆哮を。
 父さん。
 俺は、あんたがしんだことを理解できるようになったよ。

「お前にどこまで話したっけなァ」
「何を?」
「俺のこと。何話して何話してねえんだか忘れちまったなア」
 くはは、と小さく笑いをこぼす。夕夏は何かに気づいているのだろうか、一歩下がったところで、黙って俺を見つめていた。その赤い虹彩を脳裏に描きながら、言葉をぼんやりと考える。
 突然のまじめな行為に、夕夏は何も言わないで黙ってみていてくれた。それがありがたくて、同時に気恥ずかしくて、軍帽を外して頭を掻く。子どもめいたその仕草に彼は笑ってぐしゃりと俺の頭を撫でてくれた。
「ヴォルターはさ、俺の親父なんだよ。前もいったろ、廃墟で暮らしてたときに拾われたって。立花ともそのときに知り合って、それからずっと一緒にいた。ヴォルターも立花も、それから軍の人間もわりと俺にとっちゃ大事な奴なんだ」
「うん」
「だから、うん」
 何を言えばいいのかわからなくなって、ふと口を閉ざす。ごちゃごちゃ考えるのが嫌いつったって、恥ずかしいもんは恥ずかしい。それすらもわかっているのだろうか、夕夏は俺のそばに近寄ってきて、おもむろに俺の肩を抱いた。いつになくさりげない様子に笑いそうになって、でも声は漏れなかった。
 ただ墓石に刻まれた名前を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「父さん。こいつ、黒澤夕夏。紅龍会の番犬で、俺の恋人。……あんたが生きてたとき付き合ってたら、うるさかったんだろうなァ」
 くす、と笑いがこぼれた。マフィアとは基本的に折り合いが悪かったことをぼんやりと思い出しながら、それでも隣にある体温にじわりと胸が焦がれる。ただひたすらに追いかけていたあのときとは違う、確かな感情。
 俺、まだあんたの狗かなァ。
 それとも。
 ふいに肩ごと引き寄せられて気がつけば夕夏の腕の中に引き寄せられていた。墓が見えない代わりに、夕夏の体温だけが感じられる。いつになく慎重に抱きしめ返しながら、目を閉じて夕夏の胸に耳を押し付けた。聞こえてくる音はいきているいきものの音。ヴォルターにはない、呼吸する音。
 息をするのが苦しくなる。
 今まで誰かを「あい」したことがなかったからわかんねえけど、こういうことが「あい」ってやつなんだろうか。
 こうやって抱きしめられるだけで、苦しくなって、でも同時にひどく安らかになれるような、そんな錯覚が。
「……っと、ヴォルター、さん、でいいか」
 ふと声が耳に直接吹き込まれたようでびくりと肩が跳ねる。顔を上げようとしたらぎゅうと頭を押さえ込まれて、思わず夕夏のシャツをつかんでいた。ざわりと、胸の奥が逆撫でされるような嫌な予感が忍び寄る。
「俺は錦が好きだ。俺じゃ力量不足だってわかってるけど、あんたの分まで、俺が錦を守る」
「夕夏……? おま、」
「だから」
 顔を無理やり上げたとき、夕夏は少し頬を赤らめて、でもはっきりとヴォルターの墓を見つめて口走る。
 優しくて、残酷な、それでいて馬鹿な言葉を。
「錦を、もら」「駄目だ」
 どん、と乱暴に夕夏を突き飛ばす。顔がむちゃくちゃに歪んでいることに気がついていた。駄目だ、駄目、んなの。
 顔を見たくなかった。夕夏が傷つかないなんてことがあるわけねえのはわかってるから、だから、顔を見るのが怖かった。なんでそんな馬鹿なこというんだ、てめえは。
「錦?」
「何馬鹿なこといってんだよ、夕夏ァ。……あァ違えなア、いおうとしてんだよォ。
 俺をもらって、どうすんだよ、お前。なアわかってんのかよ」
 唇が、震えた。
 駄目だ、これ以上言ったら、駄目。
 わかってるのに、恐怖がじわじわと指先から忍び寄って、俺の喉をこじ開ける。滑り出すべき言葉が整えられて、俺は震えながら首を振っていた。
 言いたくない。
「何を?」
 怪訝そうな声が降ってきて思いのほか近くに来ていることに気がついた。でも顔は、上げたくない、嫌だ。
 嫌だ。
 なのに。
 顔を上げて、皮肉気に唇を歪めていた。
 あきれたようになんてことのないように、はん、と鼻で笑って、吐き捨てる、言葉。

「これからしぬ奴なんかと結婚したら、お前がかわいそうだろォ?」

「は?」
 間の抜けた声に思わず噴出していた。大丈夫、俺は笑えるし、話もできる。平然と話せる。
 少しあとずさって、うーと大きく伸びをした。結局いうことになるんだったら、一緒に暮らそうなんて馬鹿なことを口走るんじゃなかった。改めて後悔する。結局つらい目見るのは俺じゃなくて夕夏なのになァ。
「おい、どういう、こと、だよ」
「……終わりにしようぜェ。親父殿に報告して、その目の前で破局っつうのも縁起悪ィけどよォ」
「おい、錦」
「一緒に暮らそうってのもなしな。悪かった。ごめんなァ」
「錦!」
 がっと肩をつかまれて振り向かされる。怒気をこめた赤い眼が、けど俺の表情を見てわずかに揺らぐのがわかった。今こいつの目に、俺はどう見えてるんだろうか。やっぱりただの売女だったと失望しているのか、それとも、傷ついているのか。
 夕夏ァ、と、にっと唇を吊り上げて笑う。
「楽しかったよ、お前と一緒にいるのはさ。
 ……だけど結婚は駄目だろォ。お前自分の歳わかってんのかァ? まだ二十一じゃねエの。俺とのことはもう忘れちまえよォ。嫌な犬に泥かけられたとでも思ってさァ」
 ぺらぺらとよくこんなに饒舌に口がまわるもんだとわれながらあきれる。いまさらのように、呼吸するのがつらくなってきた。あーァ、こんなになっちまってさ。
 なんだよ、「あい」って。
 こんなになるくらいなら、知らねえほうがよかったんじゃねえか。
「……死ぬって、なんだよ」
 ぼそりと低い声が耳の中をすべり落ちる。見下ろしてくる赤い瞳は、あまりにも影が濃すぎて、よく見えなかった。
 俺が大好きなその目が。
「錦」
 囁くように声が耳を撫でて、ふと指が伸びてくる。それはすぐに俺の頬をつかんで、とめる間もなく唇が重なった。
 目を見開いて、俺をそっと見つめる目に胸の奥がぐじゃぐじゃに引き裂かれる。そんな目で見んなよ、馬鹿。
「……っ、何してんだよォ、お前は」
「――錦。まだ俺に、話してないことがあるんだろ」
 話せ、と、口が、目が、声が、喉が、強請る。
 そのときになってやっぱり俺は馬鹿だったんだなァ、と思い知った。だってよォ、こんなに好きなやつに話して、楽になれるはずがねえのになァ。
 俺って、やっぱ馬鹿なんだなァ、と笑う。墓石の上に忘れられたようにうなだれる花々が、小さく笑ったようにささめいた。

 もうあと、一年もろくに生きられないことを話した。
 それがいのうの研究によるものだってことも。俺自身が拒否していなかったことも。
 いのうを使う度に、命が削られているということも。
 墓地の中で日は暮れていく。赤い日が紫に侵されていく中で、ぼんやりと思った。夕夏の家でゆうひは今眠っているのだろうか。あの小さな体躯を丸まらせて、すやすやと眠っているといい。あのとき夕夏が飼うことになってよかった。俺がいなくなっても、寂しくないだろうから。
「……なん、で」
「何でも何もねえよ。それが、ずっとお前に隠してたことだ。一緒に暮らそうっていったのも、バレる前までならいっかって思ってたからなァ。
 ……もしバレちまったなら、すぐにお前と別れる気だった」
 嘆息をひとつ。自分の馬鹿さを呪いたくなる。
 何も、今じゃなくてもよかっただろうが、そうぼやいてしまいたくなる。
 物事を自覚する前にしねたなら、きっと俺はこんなにつらくはなかっただろう。それは勿論俺だけじゃなくて、こいつも。ちらりと目を向ければ、顔をゆがめて、今にも泣きそうにして立っている夕夏が目に入る。あァやっぱ失敗だったなァ。
「……よく、恋愛映画とかでいってるみてえだけどさア。
 ――俺たち、会わなきゃよかったなァ。ごめんな」
 お前に残してやれるものがなにもない。そう知ったのは最近だった。最終戦を終えて軍に戻ってすぐ連れて行かれた研究室で、立花は顔色ひとつ変えずにつぶやいた。でも、俺には少し泣いているように見えた。別にあいつが謝ることでもねェのに。
『……以前言われて検査をしましたが、貴女の身体では子どもは産めません』
『まァ、だよなア。わあったよ、ありがとな』
『藤堂錦、貴女は……』
『んだよォ』
 振り返った先で、わずかに眉をひそめていた。それは、すごく悲しそうに見えた。あいつのせいじゃねえのに。
『……なんでもありません。無理はしないように』
 結婚がどうのこうのとか、子どもとか、どうでもいいことのつもりだった。でもしぬことを考えたら、遺せるものは残したかった。いまさらそれに気づいたってどうしようもねエのに、本当にいまさら、気がついた。
「俺さァ、子ども作れないんだってェ。お前に、何も残せねェんだよォ、俺。ゆうひくらいしか、残してやれねえんだ」
 こういうのを哀しいというのだろうか。残せるものが何もないことがこんなに痛いとは思わなかった。
 なァあんたはどうだったんだよ、ヴォルター。そんなこと、考えてたのかよ。
 墓石の下に眠る死者に問いかけながら、でもと小さく首を振る。あんたが何も残せなかったと思っても、俺はあんたからたくさんもらった。ものも、感情も、全部。
 でも、夕夏に残せるものが少ないのが、嫌だった。
「だから、別れようぜ。忘れろ。俺のことは全部。なかったことにしてくれよォ」
 にっと笑っていってやりたかった。でもそこまでできるはずもなく、俺は夕夏を見つめる。赤い眼と向き合うのが怖くて、でも最後でいいからもう一度きちんと見たかった。
 夕夏はゆっくりと顔を上げる。俺の予想に反してそこには哀しい色なんてなかった。ただ、怒気を含めた感情が、目を伝って俺にぶつけられていた。
「――ふざけんなよ、錦。お前の別れたいっていうのは、全部お前の都合だろ。そんなんで納得すると思ってんのか? なあ、錦」
 手が、長い指が、伸びてくる。それを払いのけようとして、でも俺の身体は動かなかった。その異常事態に茫然として、ぎゅう、と力を込めて抱きしめられてもされるがままになるしかなかった。何で、動かねえんだよォ……。
「残す残さないとか、どうでもいい。あと一年ぽっちしか生きられないから、別れたい?ふざけんな。いまさら別れようなんていうなよ。こんだけ俺を振り回しといて自分だけ尻尾巻いて地獄に逃げ帰んのかよ」
「地獄ってェのは決まりかよォ、ひっでえなァ」
 思わず噴出してそう茶化せば、痛いぐらいに腕の力が強まった。痛ェよ馬鹿と罵っても、夕夏の力は緩まない。
「……お前、本当に俺と別れたいのか。もう二度と、面突き合せなくて、本当にいいのか」
 それなら、と、その先が続くよりも早く、俺は乱暴に夕夏の襟首をつかんでその顔を引きずり下ろす。そして勢いのまま何度も奪って奪われた唇を荒々しく感傷的に重ねた。わかるだろ、そんなの。
「……いいわけ、ねえだろォ! お前がいなくなって、俺がっ、生きてけるわけねえだろォ……っ!」
 一年も経たずにしぬに決まってらァ、と、ふざけた口調でいいながら、顔が歪んでいた。
 でも、これじゃァ、かわいそうじゃねえか。こうやって俺に寄生されたら、大して一緒にいられない犬が、夕夏の側にいたら、かわいそうじゃねえか。
 それでも夕夏は笑った。痛みを抑えるような、哀しい笑顔だった。それでも、俺が大好きな、
「俺も、お前と一緒だよ、錦。お前がいなくなったら、耐えられねーよ。
 だから時間なんて関係ない。お前に残された時間全部、ぜんぶ、俺にくれ。
 ……わかるだろ、錦」
 やわらかい、声。くしゃりと撫でたくなる、黒髪。触れると熱を持つ、指。
「――結婚、しようぜ」

 なァ、俺がお前にぜんぶ時間やったらさァ、お前は俺にお前のぜんぶを貸してくれよ。
 一年ちょっとでいいからさァ、お前のぜんぶを。

 つぶやいた声を拾い上げて、夕夏は当たり前だろと笑った。さっきよりも哀しそうな顔じゃなかった。それがうれしくて、あァ俺にもそんな感情あったんだなァって、いまさら、思う。


「あいしてんぜェ、夕夏ァ」
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