あっけない結末
座り込んだ地面は、冷たい。鼻をかすめるにおいは、墓前に供えられた数々の花束のにおいだろうか。持ってくることを忘れたから、俺が座る墓の前にはなにもない。
冷たい墓石が、横たわるだけだ。
「……三回忌、っていうらしいぜェ、どっかの国だとよォ」
ぽつりとつぶやいた声に応える言葉はない。唯一持ってきていた二本の缶ビールの片方を、墓前に置く。結局一緒に飲んだのは、一度きりだった。
プシュ――。
誰もいない静かな墓場で、気の抜けた音が響く。
風だけが強かった。ごくごくと喉が鳴る。生きているのだと、柄にもなく思った。
そのときふいに背後で砂利を踏む音がした。振り返る必要もなくよォと声をかける。相手はよく知るやつだった。
「……やはり、来ていたんですか」
「まァなあ」
隣で膝を折った男の、左目は傷痕が痛ましい。いつだか俺が傷つけた、一生治らねえあとだった。 ぱさりと置かれたものからふわりと花の香りが漂う。ちら、と見やれば静かに花々がうなだれていた。
「花忘れたんだよォ、助かった」
「馬鹿ですか君は」
呆れたような声を上げる立花は、花を供えて墓石を見つめた。静かな言葉がいやが上に墓場に響く。静かだからこそ、この静寂を奪う彼の存在が、はっきりと感じられた。
「三年、……ってよォ」
ぽつりとつぶやく。
応えるように向けられた視線を無視して、ビールで喉を潤す。いつもはうまいそれが、苦く感じられた。
「短いんだなァ。――……あいつと飲んだのが、昨日のことみてェなんだよ」
笑う声。快活な、言葉。「狗」、そう呼んだ、あいつ。
それはもういない。鋭い声の叱責も、吐いた俺に軍服をかけたあの手も、もうどこにもいない。
それが、しぬことだった。
「立花ァ」
「なんですか」
「俺、しにたくねェんだよ」
ひねり出した言葉は、当たり前のそれだった。俺にもあったのかっていうほど、当たり前の感情。本当に、ひねり出したかったのは涙なのに。
父親代わりだと、誰かがいった。ならなんで俺に泣き方教えてくれなかった。理不尽な怒りに苛まれながら、またビールを飲む。冷たく苦い味が、口の中に広がった。
ヴォルター・リッケルト。
墓石に刻まれた名前は、あの野郎の本名だった。ろくに名前すらも知らなかったことを、ここに座るたびに思い出す。いや知ってはいたのだろう、それでも呼ぶことなんかあるはずがなかった。軍人としての階級が圧倒的に上だったあの野郎を呼び捨てにしようものなら、怒りの鉄拳が落ちてくる。
今でも、痛むんだよォ、てめえに殴られた頭が。
「ばァか」
落ちた言葉ははねることもなく、静かに墓地に溶け込んでいった。
×
「よう修司。あれの調子はどうだ?」
見慣れた黒い髪の男を見つけて声をかける。振り返った彼は一瞬目を細めてヴォルターを認知すると、ああと鷹揚に頷いた。そのまま歩いていこうとする同僚のあとを追う。相変わらずマイペースな男だ。
「特に変わりありません。実戦に使うのにはもう少し時間が必要かと」
「へえ。他には」
「……貴方がなにを聞きたいのか判別しかねます。どうせ見に行くのですから今聞かなくとも構わないでしょう」
静かな声を聞きながら、脳裏に思い浮かべるのは黒い髪の小柄なガキの姿だった。おととい研究の一環で、異能抑制装置が適応されている密室に隔離されたそのガキは、全身を獣に変える異能の持ち主だった。それは別段珍しいわけでもないのだが、しかし今軍の暗部で行われている研究内容からすれば、ちょうどいい被験者である。
十九歳という年齢には似合わぬあまりに小柄な体格。体を覆う皮膚は注射針のあとなどが痛ましく残る。けれど本人はそれをさほど苦だとは思ってはいないようだった。それも仕方のないことなのかもしれない。軍に入る条件を、飯と寮で決めたあのガキだ、短慮を憎むこともないのだろう。
最初はそのほうが好都合だと思っていた。研究に耐え切れずに逃げられでもしたら、それを捕らえにいくのはヴォルターの仕事だ。監督不行届きでむしろ今の地位から蹴落とされることもありえる。それに今隣を歩くこの同僚は、きっとそのミスを静かに苛烈に責めるだろうことも目に見えていた。それだけは遠慮したい。そういったもろもろを考えれば、あのガキの従順な態度はすばらしい。
だが、馬鹿な話なのだろうが、今はそれがすこし哀れに思える。
行くあてもないストリートチルドレンを研究対象に選んだ時点で、自身の下劣さは自覚していた。しかしそれも軍のため、ひいてはシエル・ロアのためだと考えて、見てみぬふりを続けていた。けれど。
すさまじい轟音に夢想が破られる。考える間もなく立花の白衣を掴んで床に伏せさせ、あたりに神経を尖らせる。
「っごほ、……ヴォルター、あっちです。あれがいる場所のほうだ」
「悪いな修司。歩けるか」
「ええ」
立ち上がるのを手伝ってそのまま駆け出す。立花のいっていたとおり、隔離されているその部屋の前を、研究員たちが青ざめた顔をして右往左往していた。信じられないことにあの血の色が床に飛び散っている。近くにいた研究員をとっ捕まえて怒鳴る。
「おいどういうことだ! 何があったのか説明しろ!」
「わっわかりません……! と、突然あの研究体が、通常通りに寝ていたはずなのに跳ね上がって……!」
「どういうことですか。詳しく話しなさい」
突如割り込んできた声のほうを見やれば、立花が研究員の目を捉えて尋ねていた。それを確認し、任せることにして自身の剣の柄を握りながら、指示を出す。
「研究員はただちにこの場から離れろ。おいっそこのお前! 念のため幹部に連絡を入れてこい。他の実戦部隊には知らせるな!」
「わわかりました!」
駆け出す研究員を見送ってから背後の会話に耳を傾ける。怪我をしたらしい研究員は、すでに他者の手によって安静なところにつれていかれていったようだ。残っているのは多量の血液の水溜りと、その中に浮かぶ黒い……なんだ?
「通常値だった、のに、突然すべての値がいきなり上昇したと?」
「そ、そうです。そう思ったときにはもう部屋の窓が割られて、あ、あいつが……近くの研究員の首に……! っうぐ」
不審に思い近寄ってそれをまじまじと見つめると、しょっちゅうこの近くの研究室で見ていたあのガキの異能の付属品だと気がつく。長い黒い毛は、人間の髪にしてはぼさぼさと痛んでいるようだった。
「吐くのはあとにしなさい。それであれはどこにいるんです」
「ま、まだ部屋の中に……」
「……だそうですよ、ヴォルター。聞こえましたか?」
振り返ってうなずく、そのとき、背後で何か硬いものが床を蹴る音がした。
瞬時に振り返って剣を鋭く横に薙ぐ。しかしそれを軽々と飛び越えた黒い獣は、一度ヴォルターの頭を踏みつけてから飛び込んだ。研究員と、立花のほうへと。
「うわあああああああああっっ!!」
「危ないっ!」
「修司!!」
ザシュァッ――!!
皮膚を裂く鋭い音が耳に響く。振り返った先には、左目から首へと深い傷を受けた立花がうずくまっていた。カランッと眼鏡が床に転がって、それは銀色をたたえながら硬質な音を響かせる。怯えたまま腰が抜けている研究員の姿など目にも入らなかった。
血走った、獣の目。
「藤堂ォオ!!」
空気が震えるような、怒声が喉を裂いて破裂する。それに呼応するかのように、研究によって巨大な獣へと姿を変えた彼女は、咆哮しようと血の染み出る口を開けて。
はらはらと体表を覆っていた黒い毛が抜け落ち、そして気絶でもしたのか倒れこんだのは、びくびくと体中を痙攣させている全裸のガキだった。そのどうしようもないほど哀れな姿に、理不尽な怒りが湧き起こる。
「おいっいつまでもびびってんじゃねえ! 早く修司の手当てしろ!」
「ひっ――う、はっ、はい!」
誰のせいでこいつが怪我をしたと思ってる。役に立たない研究員を罵倒しそうになるのを必死に堪え、そして横たわるガキを担ぎ上げる。それは信じられないほど軽かった。
「修司」
「ッ――、ひゅ……っは、い」
「悪い、黙ってろ。俺は今からこいつの薬を取りにいく。そのついでにドクターを呼んでくる。それまでにくたばるなよ」
その言葉が、果たしてどれほど意味があるのかはわからなかった。控えめにいっても、首の裂傷は相当危険だ。血はいつまでもだらだらと流れ続け、とどまることはない。それでも研究員が泣き出しそうになりながら治療を始めているのだ、きっとどうにかなるだろう。そんな期待を信じて、立花の目をのぞく。
彼はこくりとうなずいた。
「そんで、あの傷を受けて生きてるお前はなんだ、化けもんか」
「失礼な。むしろ生きていることを喜ぶべきでしょう」
「そうだぜェ上官。立花がこうして生きてんだから素直に喜べよォ。つうかなんで俺の二十歳祝いでそんな話題されなきゃならねェんだ、あん?」
「おいこら藤堂? 俺はお前にそんな口の利き方教えたか? あ?」
ゴツッ。
頭を抱えて悶絶する彼女の横には、他に同じく二十歳になった軍の若者たちが腰掛けていた。広い食堂の中、いつのまにやら宴会は開始されており、酒を浴びせるようにして飲まされてへべれけになっているものたちの姿も垣間見える。毎年恒例その歳二十歳になったものに酒を飲ませる、くだらない行事の最中だった。そんな中、幼少期より酒を飲んで生きていたらしい藤堂は、まったくの素面に映る。
「ったく二十歳になったんだってんならしっかりやれよ」
「口の利き方がしっかり云々に関係してるとは思えねェけどなァ」
「藤堂?」
また殴ろうと手を伸ばせばあっさりとそれを避けて、チビガキはふふんと鼻で笑う。その顔面を通りがかった誰かの肘が強打した。
「ってェなァおい!」
「あ、悪ィ。ってなんだ藤堂か。お前今年で二十歳だっけー? わっかいなー」
わしゃわしゃと巨大な手が藤堂の頭を撫でる。その手の持ち主を見上げれば、赤髪が真っ先に目に入った。同じく向こうも誰がガキを殴ろうとしていたのかと視線をやったらしく、目が合った。軽い会釈に頷いて応える。確か偵察隊の人間だったなと思いながらまた一口酒を含み、そのまま左に視線をやれば、机に突っ伏して爆睡している立花が目に入る。そういえばこいつは下戸だったな、そう思ってもすでに飲ませたあとだ。もう仕方ないだろう。
「じゃああとでな」
「おう」
軽く手を振って去った男を見送ると、藤堂は目の前で寝こけている立花を見て、そして自分の隣に座り、同じように眠っている白髪の少女(に見えるがこの藤堂と同い年)を見て、はあとため息をついた。
「おいなんで酒に弱いやつらばっかなんだよここはよォ。ろくに飲めねェじゃねえか。つうか立花弱すぎだろォ」
「お前が強すぎるのが悪いだろう。すこし自重しろ」
「冗談だろォ上官。せめて飲みなおそうぜ」
「ダメだ。明日もがっつり仕事があるんだ、いい加減にしろ」
「ちょ待てよォ、なんで俺だけダメなんだよ」
「飲みすぎだ」
「飲んでねえ!」
かっと鮫歯を見せながら軽く怒鳴る藤堂の面をはたいて、あーあと鼻をつまむ真似をする。そういう仕草をこいつがことのほか嫌っていることを知ってだ、無論。
「どの口がいう、そんな酒くっせえ匂い漂わせて。あーくっせくっせ。っと、悪いな」
ふいに背後に椅子を引けば、誰かに当たる。そう思って振り返れば青い髪の男が、ああとうなずく。隣にいる軍人どもに巻き込まれたのか、顔色は悪く生気がない。
「おい大丈夫かお前?」
「ああ、ええ、大丈夫、ですとももちろん」
「大丈夫じゃねェだろ。おいこら上官ああいうのを飲み過ぎっていうんだァ俺はまだ飲める!」
後ろでほざく藤堂を一喝してから酒を没収しておく。その状態で振り返ると青い髪に蒼い顔の男の隣にいる二人の軍人は、はーあとため息をつきながら苦笑していた。
「こいつなんか飲みすぎちゃったみたいなんで寮まで送ってきます」
「二十歳超えてるっつうから飲ませたのに弱いし……」
「年齢云々じゃねえからな、仕方ないだろ。しっかりしろよ、青年!」
明るく声をかけて歩き出す彼の背をたたけば、ふらりとよろけていた。大丈夫かあんなんで。
「にしてもあいつ見ない面だなァ上官」
ふと隣を見ればいつのまにやら藤堂は隣に座ってくぴっと酒をあおっていた。それに拳骨を振り下ろしながら肩をすくめる。
「余計な詮索はするなよ、藤堂。軍には知らなくていいことがある」
「命令なら聞くぜェ」
「命令だ」
「了解。んで、どうせなら立花の部屋で飲みなおそうぜェ。足りねェ」
「お前が足りないのは飯だろう」
「そっちはなんとかする。俺シウ部屋に送ってから行くから先いって待っててくれよォ。ひとりで飲むなよ」
いいながら藤堂はさっき自身の隣に座っていた小さな少女を抱き上げて、さっさと食堂をあとにした。仕方なくうなずいてから寝ぼけている立花を起こして、二人で彼の部屋に向かう。
そうか、やっと三人で飲みなおせる歳になったのか。
ふと、あの小さな体を思い起こして、そう思った。
しぬのが怖い。
そうつぶやいたあいつの声を思い出した。
狗だなんだと馬鹿にしていたあいつの声を。
そして死にそうな目にあいながら、まっすぐに俺の目を見返した、友人の目を。
最期に思い浮かぶのが女じゃないところに笑えてくるが、そんなもんだろう。せめてもう一度あいつらの顔を見たかった。それはかなわないとわかっているから思う願望だと知っている。
あいつが、泣くのを見たことがないな、とふと思い出した。
それはどうしてなんだろうと考えたことはなかったけど、でももしかしたら。
「……はっ」
もし、そうだったら、悪いことしたなあ。
乾いた笑い声が、落ちる。
「 」
それを聞き届ける者はいないまま、軍人ヴォルター・リッケルトは逝った。
あっけない、結末。
ごめんな、錦
冷たい墓石が、横たわるだけだ。
「……三回忌、っていうらしいぜェ、どっかの国だとよォ」
ぽつりとつぶやいた声に応える言葉はない。唯一持ってきていた二本の缶ビールの片方を、墓前に置く。結局一緒に飲んだのは、一度きりだった。
プシュ――。
誰もいない静かな墓場で、気の抜けた音が響く。
風だけが強かった。ごくごくと喉が鳴る。生きているのだと、柄にもなく思った。
そのときふいに背後で砂利を踏む音がした。振り返る必要もなくよォと声をかける。相手はよく知るやつだった。
「……やはり、来ていたんですか」
「まァなあ」
隣で膝を折った男の、左目は傷痕が痛ましい。いつだか俺が傷つけた、一生治らねえあとだった。 ぱさりと置かれたものからふわりと花の香りが漂う。ちら、と見やれば静かに花々がうなだれていた。
「花忘れたんだよォ、助かった」
「馬鹿ですか君は」
呆れたような声を上げる立花は、花を供えて墓石を見つめた。静かな言葉がいやが上に墓場に響く。静かだからこそ、この静寂を奪う彼の存在が、はっきりと感じられた。
「三年、……ってよォ」
ぽつりとつぶやく。
応えるように向けられた視線を無視して、ビールで喉を潤す。いつもはうまいそれが、苦く感じられた。
「短いんだなァ。――……あいつと飲んだのが、昨日のことみてェなんだよ」
笑う声。快活な、言葉。「狗」、そう呼んだ、あいつ。
それはもういない。鋭い声の叱責も、吐いた俺に軍服をかけたあの手も、もうどこにもいない。
それが、しぬことだった。
「立花ァ」
「なんですか」
「俺、しにたくねェんだよ」
ひねり出した言葉は、当たり前のそれだった。俺にもあったのかっていうほど、当たり前の感情。本当に、ひねり出したかったのは涙なのに。
父親代わりだと、誰かがいった。ならなんで俺に泣き方教えてくれなかった。理不尽な怒りに苛まれながら、またビールを飲む。冷たく苦い味が、口の中に広がった。
ヴォルター・リッケルト。
墓石に刻まれた名前は、あの野郎の本名だった。ろくに名前すらも知らなかったことを、ここに座るたびに思い出す。いや知ってはいたのだろう、それでも呼ぶことなんかあるはずがなかった。軍人としての階級が圧倒的に上だったあの野郎を呼び捨てにしようものなら、怒りの鉄拳が落ちてくる。
今でも、痛むんだよォ、てめえに殴られた頭が。
「ばァか」
落ちた言葉ははねることもなく、静かに墓地に溶け込んでいった。
×
「よう修司。あれの調子はどうだ?」
見慣れた黒い髪の男を見つけて声をかける。振り返った彼は一瞬目を細めてヴォルターを認知すると、ああと鷹揚に頷いた。そのまま歩いていこうとする同僚のあとを追う。相変わらずマイペースな男だ。
「特に変わりありません。実戦に使うのにはもう少し時間が必要かと」
「へえ。他には」
「……貴方がなにを聞きたいのか判別しかねます。どうせ見に行くのですから今聞かなくとも構わないでしょう」
静かな声を聞きながら、脳裏に思い浮かべるのは黒い髪の小柄なガキの姿だった。おととい研究の一環で、異能抑制装置が適応されている密室に隔離されたそのガキは、全身を獣に変える異能の持ち主だった。それは別段珍しいわけでもないのだが、しかし今軍の暗部で行われている研究内容からすれば、ちょうどいい被験者である。
十九歳という年齢には似合わぬあまりに小柄な体格。体を覆う皮膚は注射針のあとなどが痛ましく残る。けれど本人はそれをさほど苦だとは思ってはいないようだった。それも仕方のないことなのかもしれない。軍に入る条件を、飯と寮で決めたあのガキだ、短慮を憎むこともないのだろう。
最初はそのほうが好都合だと思っていた。研究に耐え切れずに逃げられでもしたら、それを捕らえにいくのはヴォルターの仕事だ。監督不行届きでむしろ今の地位から蹴落とされることもありえる。それに今隣を歩くこの同僚は、きっとそのミスを静かに苛烈に責めるだろうことも目に見えていた。それだけは遠慮したい。そういったもろもろを考えれば、あのガキの従順な態度はすばらしい。
だが、馬鹿な話なのだろうが、今はそれがすこし哀れに思える。
行くあてもないストリートチルドレンを研究対象に選んだ時点で、自身の下劣さは自覚していた。しかしそれも軍のため、ひいてはシエル・ロアのためだと考えて、見てみぬふりを続けていた。けれど。
「っごほ、……ヴォルター、あっちです。あれがいる場所のほうだ」
「悪いな修司。歩けるか」
「ええ」
立ち上がるのを手伝ってそのまま駆け出す。立花のいっていたとおり、隔離されているその部屋の前を、研究員たちが青ざめた顔をして右往左往していた。信じられないことにあの血の色が床に飛び散っている。近くにいた研究員をとっ捕まえて怒鳴る。
「おいどういうことだ! 何があったのか説明しろ!」
「わっわかりません……! と、突然あの研究体が、通常通りに寝ていたはずなのに跳ね上がって……!」
「どういうことですか。詳しく話しなさい」
突如割り込んできた声のほうを見やれば、立花が研究員の目を捉えて尋ねていた。それを確認し、任せることにして自身の剣の柄を握りながら、指示を出す。
「研究員はただちにこの場から離れろ。おいっそこのお前! 念のため幹部に連絡を入れてこい。他の実戦部隊には知らせるな!」
「わわかりました!」
駆け出す研究員を見送ってから背後の会話に耳を傾ける。怪我をしたらしい研究員は、すでに他者の手によって安静なところにつれていかれていったようだ。残っているのは多量の血液の水溜りと、その中に浮かぶ黒い……なんだ?
「通常値だった、のに、突然すべての値がいきなり上昇したと?」
「そ、そうです。そう思ったときにはもう部屋の窓が割られて、あ、あいつが……近くの研究員の首に……! っうぐ」
不審に思い近寄ってそれをまじまじと見つめると、しょっちゅうこの近くの研究室で見ていたあのガキの異能の付属品だと気がつく。長い黒い毛は、人間の髪にしてはぼさぼさと痛んでいるようだった。
「吐くのはあとにしなさい。それであれはどこにいるんです」
「ま、まだ部屋の中に……」
「……だそうですよ、ヴォルター。聞こえましたか?」
振り返ってうなずく、そのとき、背後で何か硬いものが床を蹴る音がした。
瞬時に振り返って剣を鋭く横に薙ぐ。しかしそれを軽々と飛び越えた黒い獣は、一度ヴォルターの頭を踏みつけてから飛び込んだ。研究員と、立花のほうへと。
「うわあああああああああっっ!!」
「危ないっ!」
「修司!!」
ザシュァッ――!!
皮膚を裂く鋭い音が耳に響く。振り返った先には、左目から首へと深い傷を受けた立花がうずくまっていた。カランッと眼鏡が床に転がって、それは銀色をたたえながら硬質な音を響かせる。怯えたまま腰が抜けている研究員の姿など目にも入らなかった。
血走った、獣の目。
「藤堂ォオ!!」
空気が震えるような、怒声が喉を裂いて破裂する。それに呼応するかのように、研究によって巨大な獣へと姿を変えた彼女は、咆哮しようと血の染み出る口を開けて。
はらはらと体表を覆っていた黒い毛が抜け落ち、そして気絶でもしたのか倒れこんだのは、びくびくと体中を痙攣させている全裸のガキだった。そのどうしようもないほど哀れな姿に、理不尽な怒りが湧き起こる。
「おいっいつまでもびびってんじゃねえ! 早く修司の手当てしろ!」
「ひっ――う、はっ、はい!」
誰のせいでこいつが怪我をしたと思ってる。役に立たない研究員を罵倒しそうになるのを必死に堪え、そして横たわるガキを担ぎ上げる。それは信じられないほど軽かった。
「修司」
「ッ――、ひゅ……っは、い」
「悪い、黙ってろ。俺は今からこいつの薬を取りにいく。そのついでにドクターを呼んでくる。それまでにくたばるなよ」
その言葉が、果たしてどれほど意味があるのかはわからなかった。控えめにいっても、首の裂傷は相当危険だ。血はいつまでもだらだらと流れ続け、とどまることはない。それでも研究員が泣き出しそうになりながら治療を始めているのだ、きっとどうにかなるだろう。そんな期待を信じて、立花の目をのぞく。
彼はこくりとうなずいた。
「そんで、あの傷を受けて生きてるお前はなんだ、化けもんか」
「失礼な。むしろ生きていることを喜ぶべきでしょう」
「そうだぜェ上官。立花がこうして生きてんだから素直に喜べよォ。つうかなんで俺の二十歳祝いでそんな話題されなきゃならねェんだ、あん?」
「おいこら藤堂? 俺はお前にそんな口の利き方教えたか? あ?」
ゴツッ。
頭を抱えて悶絶する彼女の横には、他に同じく二十歳になった軍の若者たちが腰掛けていた。広い食堂の中、いつのまにやら宴会は開始されており、酒を浴びせるようにして飲まされてへべれけになっているものたちの姿も垣間見える。毎年恒例その歳二十歳になったものに酒を飲ませる、くだらない行事の最中だった。そんな中、幼少期より酒を飲んで生きていたらしい藤堂は、まったくの素面に映る。
「ったく二十歳になったんだってんならしっかりやれよ」
「口の利き方がしっかり云々に関係してるとは思えねェけどなァ」
「藤堂?」
また殴ろうと手を伸ばせばあっさりとそれを避けて、チビガキはふふんと鼻で笑う。その顔面を通りがかった誰かの肘が強打した。
「ってェなァおい!」
「あ、悪ィ。ってなんだ藤堂か。お前今年で二十歳だっけー? わっかいなー」
わしゃわしゃと巨大な手が藤堂の頭を撫でる。その手の持ち主を見上げれば、赤髪が真っ先に目に入った。同じく向こうも誰がガキを殴ろうとしていたのかと視線をやったらしく、目が合った。軽い会釈に頷いて応える。確か偵察隊の人間だったなと思いながらまた一口酒を含み、そのまま左に視線をやれば、机に突っ伏して爆睡している立花が目に入る。そういえばこいつは下戸だったな、そう思ってもすでに飲ませたあとだ。もう仕方ないだろう。
「じゃああとでな」
「おう」
軽く手を振って去った男を見送ると、藤堂は目の前で寝こけている立花を見て、そして自分の隣に座り、同じように眠っている白髪の少女(に見えるがこの藤堂と同い年)を見て、はあとため息をついた。
「おいなんで酒に弱いやつらばっかなんだよここはよォ。ろくに飲めねェじゃねえか。つうか立花弱すぎだろォ」
「お前が強すぎるのが悪いだろう。すこし自重しろ」
「冗談だろォ上官。せめて飲みなおそうぜ」
「ダメだ。明日もがっつり仕事があるんだ、いい加減にしろ」
「ちょ待てよォ、なんで俺だけダメなんだよ」
「飲みすぎだ」
「飲んでねえ!」
かっと鮫歯を見せながら軽く怒鳴る藤堂の面をはたいて、あーあと鼻をつまむ真似をする。そういう仕草をこいつがことのほか嫌っていることを知ってだ、無論。
「どの口がいう、そんな酒くっせえ匂い漂わせて。あーくっせくっせ。っと、悪いな」
ふいに背後に椅子を引けば、誰かに当たる。そう思って振り返れば青い髪の男が、ああとうなずく。隣にいる軍人どもに巻き込まれたのか、顔色は悪く生気がない。
「おい大丈夫かお前?」
「ああ、ええ、大丈夫、ですとももちろん」
「大丈夫じゃねェだろ。おいこら上官ああいうのを飲み過ぎっていうんだァ俺はまだ飲める!」
後ろでほざく藤堂を一喝してから酒を没収しておく。その状態で振り返ると青い髪に蒼い顔の男の隣にいる二人の軍人は、はーあとため息をつきながら苦笑していた。
「こいつなんか飲みすぎちゃったみたいなんで寮まで送ってきます」
「二十歳超えてるっつうから飲ませたのに弱いし……」
「年齢云々じゃねえからな、仕方ないだろ。しっかりしろよ、青年!」
明るく声をかけて歩き出す彼の背をたたけば、ふらりとよろけていた。大丈夫かあんなんで。
「にしてもあいつ見ない面だなァ上官」
ふと隣を見ればいつのまにやら藤堂は隣に座ってくぴっと酒をあおっていた。それに拳骨を振り下ろしながら肩をすくめる。
「余計な詮索はするなよ、藤堂。軍には知らなくていいことがある」
「命令なら聞くぜェ」
「命令だ」
「了解。んで、どうせなら立花の部屋で飲みなおそうぜェ。足りねェ」
「お前が足りないのは飯だろう」
「そっちはなんとかする。俺シウ部屋に送ってから行くから先いって待っててくれよォ。ひとりで飲むなよ」
いいながら藤堂はさっき自身の隣に座っていた小さな少女を抱き上げて、さっさと食堂をあとにした。仕方なくうなずいてから寝ぼけている立花を起こして、二人で彼の部屋に向かう。
そうか、やっと三人で飲みなおせる歳になったのか。
ふと、あの小さな体を思い起こして、そう思った。
しぬのが怖い。
そうつぶやいたあいつの声を思い出した。
狗だなんだと馬鹿にしていたあいつの声を。
そして死にそうな目にあいながら、まっすぐに俺の目を見返した、友人の目を。
最期に思い浮かぶのが女じゃないところに笑えてくるが、そんなもんだろう。せめてもう一度あいつらの顔を見たかった。それはかなわないとわかっているから思う願望だと知っている。
あいつが、泣くのを見たことがないな、とふと思い出した。
それはどうしてなんだろうと考えたことはなかったけど、でももしかしたら。
「……はっ」
もし、そうだったら、悪いことしたなあ。
乾いた笑い声が、落ちる。
「 」
それを聞き届ける者はいないまま、軍人ヴォルター・リッケルトは逝った。
あっけない、結末。
ごめんな、錦