鳴り響く警鐘

 しぬ、と、そのときはそう思った。
 落ちてくる大きな荷物。それは俺を挟んでいがみ合いをしていた両親と俺の三人を足してなお、足りないくらいに大きくて、どん、と突き飛ばされた衝撃と、母とは思ったことのない女の俺を呼ぶ声だけが、頭にこびりついて離れなかった。
「錦!」
 ブシャッ――。
 そんな他愛ない音が背後で響き、突き飛ばされた勢いを殺しきれずに転んだ俺の背中に、何か生ぬるいものがかかった。それはひどく臭く陰惨なにおいがして、振り返るよりもまず先に鼻をつまんでいた。くさい、そう思った。
 そして振り返ったその先で、両親は荷物に押しつぶされて赤く染まっていた。あふれ出す赤色からいやなにおいがして、やっぱり俺は鼻をつまんでいた。
 これがしぬことなのだと、そのとき知った。
 自分が獣になって何かを捻り殺すよりもよほど、それはリアルだった。

 両親以外に家族を知らず、汚い廃墟で暮らしていた俺たちみたいな一家は、そこでそのままのたれじぬものだと思う。俺もまさか生きていられるはずがないと思っていた。
 ホームレスのおっちゃんたちは優しくても、俺みたいな浮浪児はうようよいる。俺一人に飯を分け与えられるはずもない。だから自然と死ぬのだと思っていた。
 けれどそういうときこそ運は向く。俺がぼんやりと夕飯代わりになるような雑草でも探していると、不意に目の前がかげった。
 顔を上げてみれば、そこにはあまり見たくなかった軍服を着た男が立っていた。俺は一度ヴェラドニア軍の敷地に入り込んで残飯を漁ろうとしたことがあり、そ のときすでにこいつに一度ぼっこぼこにされていたのだ。軍のやつらは偉そうで乱暴だから好きじゃねえ。じろりとにらんでいれば、男は唐突に俺の頭をわしづかみにした。
「なにすんだよっ、離せよォ!」
「ああ、悪かった。が、お前は一度法を破ったんだ。それは許されるべきことではない」
「あのとき散々殴られたじゃねェか!」
「ガキ。お前は法を破った。違うか?」
 強くはっきりとした声が耳を打つ。本能的に逆らってはいけないと悟ったが、それでも口から言葉は滑り落ちる。
 この男の後ろにいる、白衣のような服を軍服の上から着ているやつらが気になった。何をこそこそしているんだろう。
「……腹が減ってたんだよ、別に盗もうとしたわけじゃねえ」
「腹が減っていたなら、法を破っても許されるのか?」
「知らねえよ。でも昔の偉人さんてやつは言ってたんだろォ、腹が減っては戦はできぬって」
 下品な笑い声を上げながら男の腕を強く握る。そうこうするうちに、すでに俺の身体はじわりじわりと黒の体毛に覆われ始めていた。どこにでもいる野良犬並みの体型に身体が作り変えられていく。
「お前は戦をするような人間ではない。……なあ、お前腹が減っているといったな」
「言ったさ、それがなんだァ? 俺に飯でも食わしてくれんのかよ?」
「……お前の返答次第では、飯をいくらでも食わしてやるし、寝やすいベッドで寝かせてやろう」
 へんとうしだい、の意味がわからずに、とりあえず首をかしげながらもう片方の手で男の腕を掴んだ。グギャリ、と歪な音がして軍人は顔を歪ませる。わしづかみにしていた手がなくなって、俺はぼきんと首を曲げながら目を細めた。痛くなかったら嘘だろうなァ。
「……俺は何をすりゃいいんだァ? 今みてえに今度はあんたの首を折ればいいのか?」
「違う。実験に協力してくれればいい」
「じっけん?」
「そうだ。お前の異能を利用したい」
 いのう、が何を示しているのかわからなかったけど、とりあえずどうでもよかった。じっけんで利用されてしんだとしても気にはならなかった。
 だから適当に笑って答える。
「いいぜェ。軍人さまに尻尾でも振ってりゃいいんだろォ? やってやるよ」
 ただし。
「あとはどうなっても知らねえが、飯の約束だきゃァ守れよ」
 そういって咬みつく真似をしたら、男ははん、と鼻で笑ってこう答えた。
「当たり前だ」

 以来それから俺は軍の研究室とかいうところで、『いのうの増幅研究』の対象とされた。研究対象ってやつだ。
 俺のように獣化するヤツは体質系とかいい、他にも特殊系ってのがいるらしい。でもあんまりよく知らねえし興味はなかった。飯さえありゃあなんでもよかった。他人になんざ興味もなかったから、他の浮浪児たちがどうなっていたのかは知らない。少なくとも何人かは俺のことを羨んだか、または憎んだろう。自分だけ安定した暮らしをさせてもらってるんだから。
 軍の暮らしは安定していた。じっけんは面倒だったし毎日体中痛かったが、飯を食える幸せに浸っていられたから毛ほども気にならなかった。俺は飯を食えれば幸せなのだ。
 初めて実戦とやらに参加させられたのは十九のときだった。そのときは弱小マフィアとの銃撃戦で、いのうを利用して戦地に飛び出し、噛み付いてむしゃくしゃにしていたらいきなり左の耳元で、パアンッ! っと音が炸裂し俺はもんどりうって転がった。突然の痛みに頭が真っ白になった。久々の激痛だった。
 顔を上げて俺の左耳を撃った野郎を見上げた。生憎太陽を背中にしょっていたそいつの顔をまじまじと見ることはできなかったが、とりあえず腹が立ったのでやつの首を噛み千切った。
 赤い血が宙を舞った。きれいだった。そしてそれ以上にくさかった。
 やっと戦いが終わったころには、まわりはくさいにおいでいっぱいだった。鼻をつまんでもとの身体に戻れば、ふと左耳のほうの音が聞こえない。近寄ってきた軍人の靴音さえ聞き取れなかった。それは俺を恐怖させるには十分だった。だって獣になったときの俺の感覚は、すべてが聴覚と嗅覚で成り立っているのだ。聞こえないことは、しぬことにより近くなる。
 怖かった。
「……ぃ、……っい! お、い……っ! って、るのか!!」
 うるせえなァ、いてえんだよォ。
 舌打ちしながらかぶせられた軍服をはねのけて、左耳のあったところに触れる。どろりと何かが手についた。むしゃくしゃしながらそこを何度も何度も指先でひっかけば、どろどろと液体が頬を伝っていった。どろどろとしたそれが、きもちわるい。
 思い出したのは、両親が死んだあの日、背中にべちゃりとついたあの色。
 きもちわるかった。吐きそうになる自分を必死にこらえようとして、こらえきれずに吐き出した。全部全部嘔吐して、ふらふらになった俺を誰も咎めはしなかった。変なやつらだ、と幾度思ったかしれないことをまた思う。
 軍のやつらは、変だ。誰も俺を咎めない。俺が食堂で規定以上の飯をくってても、よっぽどえらいやつじゃなけりゃ文句ひとついわなかった。むしろときどき俺に恵んでくれるやつもいた。変なやつらだと、そのたびに思った。
 この隣に立つ軍人も、最初俺をぼっこぼこにしたやつだから嫌いだった。でも今はどうしてか、俺に自分の上着をかけて俺の髪をくしゃくしゃと撫で回しながらいうのだ、哀れむように。
「吐いて、すっきりしちまえ。そんで、明日からまたしっかりやれよ。狗」
「……っうぐぇ、っ……わ、かってんだよ……、ばあか」
 つぶやく言葉は傷だらけのそこに落ちる。こいつに狗と呼ばれるのは嫌いじゃなかった。

 そんなある日、俺を浮浪児から軍人にしたてあげたあの野郎が亡くなった。マフィアの抗争に巻き込まれて、あっけなく銃弾を胸に受けてしんでしまった。
 しぬんだ、また、そう思った。
 俺を研究対象として身体を弄繰り回してる研究員のやつらも、その中であの野郎とひときわ仲のよかった眼鏡も、そして俺自身も、しぬ。そう思った。
「しにたくねえなァ……」
 殉職したやつらは、よく階級を上げられる。あいつもそうだった。他にも同じタイミングでしんでいったやつらと一緒に、些細な葬式がおこなわれた。何人かは泣いていた。俺は泣かなかった。涙の出し方がわからなかった。
「教えてくれりゃァよかったのに……」
 涙の出し方を、教えてくれればよかったのに。
 ばかやろォ。


 それから三年。
 今年、二十四になった俺が、相も変わらず食堂で飯をかっくらっていると、プツッ――と音がして放送が入る。そういうときはたいてい緊急招集だから面倒だと思いながらも耳を傾けると、元帥を名乗るこの軍の中で一番えらいらしい男の声はいった。
「諸君に知らせねばならぬことがある」
 ピリ、と背中が緊張した。
 いつにない男の高揚した声に、いやがうえにも胸のざわめきが増した。
 楽しくそして怖いことが始まると、頭の中で警鐘が鳴り響く。
「戦争を、始めよう」
▲ Page Top