メデューサのたわごと
ざり、と砂まで踏む特徴的な足音に、ゆらりと振り返る。夕日が目を覆い隠す包帯を焼いて、もう存在しない眼球がじりと傷んだような気がした。
「ああ、こんにちは、錦ちゃん。今日の仕事はもう終わり?」
にこやかに笑いかけるそこに、名前の主がいると信じて疑わぬまま問い掛ければ、私より小さな体躯の彼女は近くの荷物に腰掛けた。かたん、と彼女が腰掛けた音や他人が行き交う音が耳に響く。店主に渡された駄菓子のケースの中で、ころころと飴やらガムやらが騒々しく音色を奏でていた。
「……お前さァ、夜間外出禁止令守ってねェだろ」
ぽつりと呟かれた言葉を的確に耳が拾い上げる。思わずにこやかに笑いながら、ケースを指定の場所に置く。
「ふふ、どうしてそう思うのかな?」
「刀どーした」
鋭い問い掛けににこにこと敢えて笑みを深めながら、いう。彼女のきつい眼差しが、一際抉るように強くなった気がした。
「今日は、持ち歩く気分じゃなかったんだ」
「よくいうぜェ。てめえが刀を持ち歩かない日なんてねーだろォ」
「決めつけはよくないよ、錦ちゃん。私はやりたいようにやるだけだもの」
「また殺人(しゅみ)に目覚めたかァ?」
ふふ、と笑みが漏れる。意図しない笑いだった。彼女のこういう鋭さは嫌いじゃない。本来私を捕らえなければいけない立場でありながら、それを放棄し自分の楽しみにさえしているところなんか、まさに私好みの性格だった。
「趣味、じゃあないわ。自主的に夜間外出禁止令を守らない人を探してるだけさ。もしかしたら、その子が私を探してるかもしれない」
「てめえを殺すためにかァ」
「そうだと、いいね」
にっこりと、擬音さえつきそうな笑みを浮かべれば、彼女はちっと舌打ちをした。人通りの多いとはいえない駄菓子屋の路地裏で、にこやかにかわす会話。その内容の不穏さと唇に浮かぶ笑みとがぐちゃまぜで、それが存外嫌ではない。
思えばこの子とももう一年になる。最初彼女はヴェラドニア軍の追手として私を追ってきたようだけども、初めて会ったその日に手加減なしで私にぶちのめされて以来、自分の訓練の成果を確かめるためにちょくちょく喧嘩をふっかけてくるようになった。無論喧嘩といってもそれは本物で、彼女は毎度本気で私を殺しにやってきた。それ自体、なまった体には丁度いい。そう利用されてることもわかっているのだろうが、彼女自身軍に私の生存を報告していない時点で同類だ。
「……復讐に、全部を注ぎ込む野郎なんていねえと思うぜェ、俺は」
ぽつりと落ちる言葉は心地好い。子どもじみた体躯を中性的な服に包み、軍靴を履いて闊歩する彼女。もしこの子の大切な人を私が殺したとして、彼女は私を狙って復讐鬼と化すのだろうか。
少なくとも、彼女が復讐鬼になったのなら、確実に私の息の根を止めるだろうと、思った。
その華奢な体躯を黒毛に包んで、鋭利な爪で巨大な腕で私をねじ伏せ、原型を留めないほど破壊し尽くすのだろうと、思った。
そして同時にそうならないことも知っていた。私は彼女を殊の外気に入っているし、彼女もまた私を気に入っているらしい。上司が彼女に本気で命令しない限り、彼女はきっと私を殺さない。
それに彼女は意外と用心深い。自身のあとはつけさせないし、無用心な話題を出さない。自らの守るべきものとそうでないものの区別が、恐るべき野生の勘で備わっているらしい。うらやましいことだ。
「……別に私のために全部捨てろ、だなんていうつもりはないよ。それは大した傲慢だ、不愉快千万、一笑にふすべきものだわ。でも、錦ちゃん。私は私を殺すほど憎んでいる感情に出会いたい。それさえ見れたら、もういらないの」
「それが、他者を傷つけるもんであってもかァ?」
「当たり前だろう? そうでなければ、憎しみは生まれない。私の愛する憎悪は、存在しない」
軽やかに言い切った言葉に、彼女が苦々しげに口を尖らせたのが気配で伝わった。それでもそれを知りながら私は何もしない。
「世の中弱肉強食なんだよ、錦ちゃん。私を殺したいなら、強くならなければいけない。弱者は須らく淘汰されるべきで、そして強者はためらいなく弱者の首を狩るべきだ。自身が生き残るために」
「違えだろォ。てめえのは生き残るためじゃなくて、てめえの望みを叶えるためだ」
吐き捨てた凛とした言葉を受けて、私は彼女がいるだろう方向を向いて、微笑んだ。
「そうだよ。それが私。クロエ=バルニエの本質だ」
夕日に照りかえる藤色の髪は、彼女からはどのように見えたのだろう。ないはずの黄金の目が、琥珀の瞳が、彼女には見えたのだろうか。
ち、と薄い舌打ちがもれて、ばさりと何かがかけられる。あわてて掴んだそれは、薄い羽織のように思った。私がさっき店先に置き忘れたものだ。このさわり心地は間違いない。彼女を見ようと顔を上げれば、とんと軽い足音がして、軍人らしくない軍人はもう私に背を向けているようだった。
「ありがとう、錦ちゃん。またおいで」
「夜間外出禁止令、次破ったらバラすぞ」
「ふふ、了解。ありがとう」
歩き出す足音。軍靴の音。
以前、私が殺したそれ。
「軍人は、弱者に含まれるのかな?」
ぽつり呟いたたわごとは、ふわりと浮かんで消えていく。
「ああ、こんにちは、錦ちゃん。今日の仕事はもう終わり?」
にこやかに笑いかけるそこに、名前の主がいると信じて疑わぬまま問い掛ければ、私より小さな体躯の彼女は近くの荷物に腰掛けた。かたん、と彼女が腰掛けた音や他人が行き交う音が耳に響く。店主に渡された駄菓子のケースの中で、ころころと飴やらガムやらが騒々しく音色を奏でていた。
「……お前さァ、夜間外出禁止令守ってねェだろ」
ぽつりと呟かれた言葉を的確に耳が拾い上げる。思わずにこやかに笑いながら、ケースを指定の場所に置く。
「ふふ、どうしてそう思うのかな?」
「刀どーした」
鋭い問い掛けににこにこと敢えて笑みを深めながら、いう。彼女のきつい眼差しが、一際抉るように強くなった気がした。
「今日は、持ち歩く気分じゃなかったんだ」
「よくいうぜェ。てめえが刀を持ち歩かない日なんてねーだろォ」
「決めつけはよくないよ、錦ちゃん。私はやりたいようにやるだけだもの」
「また殺人(しゅみ)に目覚めたかァ?」
ふふ、と笑みが漏れる。意図しない笑いだった。彼女のこういう鋭さは嫌いじゃない。本来私を捕らえなければいけない立場でありながら、それを放棄し自分の楽しみにさえしているところなんか、まさに私好みの性格だった。
「趣味、じゃあないわ。自主的に夜間外出禁止令を守らない人を探してるだけさ。もしかしたら、その子が私を探してるかもしれない」
「てめえを殺すためにかァ」
「そうだと、いいね」
にっこりと、擬音さえつきそうな笑みを浮かべれば、彼女はちっと舌打ちをした。人通りの多いとはいえない駄菓子屋の路地裏で、にこやかにかわす会話。その内容の不穏さと唇に浮かぶ笑みとがぐちゃまぜで、それが存外嫌ではない。
思えばこの子とももう一年になる。最初彼女はヴェラドニア軍の追手として私を追ってきたようだけども、初めて会ったその日に手加減なしで私にぶちのめされて以来、自分の訓練の成果を確かめるためにちょくちょく喧嘩をふっかけてくるようになった。無論喧嘩といってもそれは本物で、彼女は毎度本気で私を殺しにやってきた。それ自体、なまった体には丁度いい。そう利用されてることもわかっているのだろうが、彼女自身軍に私の生存を報告していない時点で同類だ。
「……復讐に、全部を注ぎ込む野郎なんていねえと思うぜェ、俺は」
ぽつりと落ちる言葉は心地好い。子どもじみた体躯を中性的な服に包み、軍靴を履いて闊歩する彼女。もしこの子の大切な人を私が殺したとして、彼女は私を狙って復讐鬼と化すのだろうか。
少なくとも、彼女が復讐鬼になったのなら、確実に私の息の根を止めるだろうと、思った。
その華奢な体躯を黒毛に包んで、鋭利な爪で巨大な腕で私をねじ伏せ、原型を留めないほど破壊し尽くすのだろうと、思った。
そして同時にそうならないことも知っていた。私は彼女を殊の外気に入っているし、彼女もまた私を気に入っているらしい。上司が彼女に本気で命令しない限り、彼女はきっと私を殺さない。
それに彼女は意外と用心深い。自身のあとはつけさせないし、無用心な話題を出さない。自らの守るべきものとそうでないものの区別が、恐るべき野生の勘で備わっているらしい。うらやましいことだ。
「……別に私のために全部捨てろ、だなんていうつもりはないよ。それは大した傲慢だ、不愉快千万、一笑にふすべきものだわ。でも、錦ちゃん。私は私を殺すほど憎んでいる感情に出会いたい。それさえ見れたら、もういらないの」
「それが、他者を傷つけるもんであってもかァ?」
「当たり前だろう? そうでなければ、憎しみは生まれない。私の愛する憎悪は、存在しない」
軽やかに言い切った言葉に、彼女が苦々しげに口を尖らせたのが気配で伝わった。それでもそれを知りながら私は何もしない。
「世の中弱肉強食なんだよ、錦ちゃん。私を殺したいなら、強くならなければいけない。弱者は須らく淘汰されるべきで、そして強者はためらいなく弱者の首を狩るべきだ。自身が生き残るために」
「違えだろォ。てめえのは生き残るためじゃなくて、てめえの望みを叶えるためだ」
吐き捨てた凛とした言葉を受けて、私は彼女がいるだろう方向を向いて、微笑んだ。
「そうだよ。それが私。クロエ=バルニエの本質だ」
夕日に照りかえる藤色の髪は、彼女からはどのように見えたのだろう。ないはずの黄金の目が、琥珀の瞳が、彼女には見えたのだろうか。
ち、と薄い舌打ちがもれて、ばさりと何かがかけられる。あわてて掴んだそれは、薄い羽織のように思った。私がさっき店先に置き忘れたものだ。このさわり心地は間違いない。彼女を見ようと顔を上げれば、とんと軽い足音がして、軍人らしくない軍人はもう私に背を向けているようだった。
「ありがとう、錦ちゃん。またおいで」
「夜間外出禁止令、次破ったらバラすぞ」
「ふふ、了解。ありがとう」
歩き出す足音。軍靴の音。
以前、私が殺したそれ。
「軍人は、弱者に含まれるのかな?」
ぽつり呟いたたわごとは、ふわりと浮かんで消えていく。