雨に沈む
長い長いブラジェナの初恋が終わりを告げたのは、麗らかなーー実際には麗らかとは程遠いどんよりとした天気ではあったが、思い出は美化されるものだーー春の陽気にあふれたとある日のことだった。
家の事情で王都に越していったブラジェナと、唯一連絡を取り続けていた相手でもあった。軍学校に入ることになりますます会えなくなってしまったブラジェナに対して、幼馴染で年上の彼は定期的に連絡を寄越してくれ、ふた月に一度は共に食事に出かけていた。その日もまた彼との食事のために、よほどのことがないと袖を通さないシンプルな橙色のノースリーブワンピースを身につけて、着慣れたジャケットを羽織り、いつもは被る帽子など外してしまって待ち合わせ場所に向かった。親しい友人である巨乳の飲み仲間ことイザベラからの借り物であるショールを首に巻きつけながらたどり着いた先には、彼ともう一人、小柄な女性が立っていた。
ブラジェナはその光景を見たとき、ちりと何かが音を立てたことに気がついた。そのときは確かに嫉妬の音だと確信したのに、今はそれが関係性の崩壊の音だとわかっている。あのときすでにブラジェナは気付いていた。自分の存在が彼にとってどの立場なのかを、理解することを拒絶した。
「ああジェナ、遅かったな。また寝坊か?」
「そんなわけないだろ」
ちらりとブラジェナの視線が彼の横の女性に向いたことに気がついたのか、彼は女性に組まれた腕を示しながら柔らかく笑った。ブラジェナがずっと好きだと思っていた彼だけの笑みを浮かべて、彼は優しく笑った。
「来月の頭に結婚することになったんだ。婚約者だ」
「初めまして、ブラジェナさん。あなたのことは彼からたくさん聞いていたの。今日話せることになってとっても嬉しいわ。彼の昔の話とかお聞きしたいなーって思って」
「ブラジェナは軍学校にいってる俺たちの町のスターだから俺のこっぱずかしい昔話なんてしないよな!な!」
「もう妹自慢も大概にして。このひとったらほとんど話の内容があなたのことばっかりなのよ」
「それでお前がすぐ拗ねるんだよな」
「かわいい妹分の話をされたらやきもきするでしょう。乙女心がわからないんだから。ね?」
にっこりと向けられた女性の笑みにぶちりと胸の中の一本の線が切れたことを知った。知りながらそれでもブラジェナはいつも通りの声音で笑った。
「こいつに乙女心なんてわかったらそれはただの奇跡だよ、姉さん」
姉さんという言葉に安堵したように笑う女性を見ながら泣き出したくなったのは、そのときのブラジェナだけの感情だ。誰にも渡せない渡すつもりのない失恋の優しさは、彼自身の残酷さではなく彼の恋人の笑みによるものだった。
それから三人で食事をし会話も弾んだことを覚えている。三人での食事は事実とても楽しかった。彼の恋人はブラジェナの話にころころと鈴のような笑い声をあげ、心から安堵した温度を身体中から滲ませて、隣に座る彼に身を預けていた。彼は今まで見たことがないほど柔らかな表情で時折恋人の背を撫でていた。今まで見たことがないなんて当たり前だ、ブラジェナは恋人ではないのだから。
しかし卑屈になる暇などなかった。彼らとの会話は心地よかったし、だからこそ二人と別れるまで笑っていられた。軍にある寮に戻って初めて、自分のピエロっぷりに笑った。自室として与えられた部屋の中にはいると、さんざっぱら朝ひっくり返した洋服たちが、ぼんやりした顔で寝転がっていた。ブラジェナの心境によく似合う虚しさがぼんやりと漂っていた。
寮に帰る前に誰にも会わなくてよかった、とぼんやり思う。今たとえば特に親しいイザベラや、スパナを投げ合う仲のロス、それから軍学校時代からの悪友モチヅキに会ったら、醜態を晒してしまっただろう。泣き崩れて縋り付いて喪失を喚いていただろう、どうして気付いてくれないのと嘆きたてたことだろう。そんな姿は見せたくない。
涙は出なかった。母に送るための手紙を確認してからブラジェナはベッドの中に潜り込んだ。
ブラジェナが産まれた日は、近年稀にないほどの豪雨の日のことだった。雷鳴が轟く空の中、前日の夜から降りしきる雨は強さを増して、道を歩くこともままならないほどだったという。今でも記録に残されているその雨は、数十名の命を奪っていった。奪われた命の中には、ブラジェナの父のものも含まれていた。
深夜にまで渡る労働を終え、豪雨ゆえに帰ることもできずにいた父の元に届いたブラジェナの誕生の連絡に、彼は有毒とされる雨の中を駆けることに決めた。兎にも角にも第一子の誕生を楽しみにしていた若い父親なのだから無鉄砲なのは責めることはできないだろう。しかし結果的に彼は、視界の悪い天気と、明け方という時間帯、それから暴走した単車のせいで命を失ってしまった。
父を待ち侘びる母の腕の中で、ブラジェナは大きく泣き喚くこともなく静かに眠っていたのだと母はいう。母はその話をするときはいつも、あまりブラジェナの顔を見ない。柔らかな笑みを窓の向こうへと向けるだけだ。
一家の大黒柱となるはずだった父を失ったことによって、母は働かなければならなくなった。とはいえ母の家系的にはそこそこ裕福な家柄の娘だったのもあり、水商売に身を落とすなどということもなく、母の親族による援助を受けつつふたりっきりの生活を慎ましく営むことになる。小さな町で近隣の子供たちと無邪気に遊び倒していたのはこの時期で、初恋の彼とはここで知り合った。
母は親戚の勧めに従って国立図書館に勤務することになり、ふたりは王都に引っ越すことになった。ブラジェナはときおり母の職場に訪れて黙々と読書をしていた。野山を駆け回っていたときとは打って変わった様子のブラジェナに、母は初めて娘が意外と勉強ができることに気が付いたのだというからお笑いだ。
けれど当時読んでいた絵本や本がどういったものなのかについて、けれどブラジェナは覚えていない。そのあと出会ったもののほうが圧倒的に印象的だったからだ。
親族による勧めによって学習院に入学することになったブラジェナは、いわゆる劣等生として過ごした。勉強はできるのに態度が悪いといわれる小憎たらしいガキだったというのもあるが、なにより校長が使っていた単車を一日がかりで解体してしまったのが原因だと考えられる。ブラジェナがやったと露見したときもちろん学習院を追い出され、けれど母は娘の才能に噴き出しながらこういった。
「あんたは機械が好きなのね。ならあんな学校やめて正解だったわ。ジェナ、あんたこれからも機械を弄りたい? そういう仕事について見たい?」
なんと答えたのかブラジェナは覚えていない。けれどそう尋ねる母の顔が晴れやかではなかったことは覚えている。どこかに痛みを抱えている顔をしていたということを、ブラジェナは忘れない。おそらく頷いたのだろうが、なら、といって母はブラジェナを軍学校に連れて行った。
もちろんまだ十二歳だった彼女が軍学校に入学することはできなかったのだが、ブラジェナはそこで初めて東方大帝国の軍事に関わる機体こと、「機械仕掛けの翼」を目撃することになった。
どんよりとした曇り空をそのままペンキで塗ったかのように光沢のある機体は、滑らかなフォルムを描いてブラジェナの目に飛び込んできた。ひとが収まるには窮屈そうな搭乗席は、磨かれたガラスの向こうで乗るものを待ち侘びる。何かを設置するくぼみや使い古されたぼろぼろのドリップ部分など、すべてがブラジェナの心を惹いた。すり減った搭乗席は搭乗者の尻の形に変色されていて、恐々と覗き込みながら少し噴き出したことを覚えている。
母が何を考えていたのかはわからない。しかしブラジェナが軍学校に入学すると決意したのはこのときだった。そしてそれよりも前に、失った父の事故原因である可能性の高い単車の欠陥を、なんとしてでも調べると。
結果として、もちろんまだ十二歳の少女が調べ切ることなどできるはずもなかったのだが、しかし成人する十六の 年に彼女は世間に波紋を投じることに成功した。父を轢き殺した単車の致命的欠陥を実験によって証明し、暴走する可能性が多分にある蒸気機関としての回路を利用していたと、単車を売り出していた会社を告訴したのである。もちろんそこに至るまでに母の親戚が手を貸してくれたのだから、ひとりで成し遂げたわけではないのだが、世間を騒がせるにはある程度の力を発揮した。
それによって急成長していた単車などの移動手段の分野が一時的に鎮静化し、ブラジェナの名前だけは世間で一人歩きをすることになった。軍学校に入学していた少女の名前だと判明してしまうのは避けたいということで、新聞や雑誌にも写真を掲載されなかったため、ブラジェナはいつも通り軍学校で学友たちと日常を過ごしていた。
母と久しぶりに会ったときに、ブラジェナの目をまっすぐに見ながら女はいった。
「ありがとう」
それだけだった。その言葉の中に含まれている今までの悔恨を怒りを罪悪を、感謝を、感じながらブラジェナは頷いただけだった。どことなくちぐはぐだった親娘関係が改善されるわけではないが、ブラジェナが機械への執着をひた隠しにする必要もなくなった。ますます前のめりに機械を弄るようになったブラジェナを、学友たちはあまり気にせずに、これほどアルデバラン以外考えられない志願者も珍しいなと笑っただけだった。
「あれジェナ、随分ひどい顔してへんで。寝不足?」
かけられた声にブラジェナが振り返るとモチヅキが柔和な笑みをして立っていた。その横にモチヅキそっくりな青灰色の長い髪をポニーテールに結いた少女が寄り添っていることに気づいて、昨日の初恋の彼のことを思い出してしまった。がしりとモチヅキの両肩を掴んでがくがくと揺さぶる。
「あんたその子が妹でよかったなぁああ………感謝しろよ………」
「また言われもない八つ当たりを受けるとこやったってことでいいんよねこれは」
へらっと笑うモチヅキはそのままブラジェナの手を掴んで何かあったの? と穏やかに尋ねてくるが、隣に立つ少女は兄の袖をぐいと引きながらブラジェナをじろりと睨んだ。そうそう本来なら昨日こういう視線を向けられてしかるべきだったんだアタシは。などと思いながらもますます思い出してしまって泣きたくなってきた。
「あとで自棄酒付き合えよモチヅキィ……。せっかく妹ちゃんがわざわざ来てくれたんだから案内してやれよ」
「平気なん?」
「あとでいう」
ぶすくれた顔で応えればモチヅキは小さく笑ってじゃああとでなと手を振った。モチヅキの妹らしき少女は満足そうな顔で微笑んでからぺこりとブラジェナに会釈をして二人並んで去っていく。自然な動作で腕を絡ませる妹の姿に仲がいいなとぼんやり思いつつ、けれど馬鹿みたいな失恋の痛みはまだじゅくじゅくと熱を持って膿んでいた。
ハァとため息をつきながら仕事場に足を向ける。痛みを訴えたところでどうにもならないことを知っていたし、何より今日はあのモチヅキの乗る機体の整備が待ち構えていた。モチヅキの機体は基本的に常に最高のコンディションが保たれている。だからこそ本当に不備がないのかを確認することが困難で、いっときも集中力を欠くことができない。
ぐっと腕を伸ばし気合をいれる。いつまでも引きずっているわけにはいかないのだ。
そう決断したときのことを、ブラジェナは確かに覚えていた。
結婚式の招待状が届いたのはモチヅキが長期フライトを開始する四日前のことだった。結婚式の日程は二日後。急すぎると呆れながらもずぶりと痛んだ感情を忘れて、急遽有給を取れるか確認していると後ろから声をかけられた。振り返るとそこに立っていたのは白髪に紫色の毛がちらほらと混じるおかしな髪色の男、ことロスだ。
「またサボりですか?」
「サボりじゃねえよ。幼馴染の結婚式」
自然な声音で応えられただろうか。一瞬不安を覚えたことに気がついたのだろう、ロスはちらとブラジェナの目元をみるとかすかに首を傾げる動作をする。何度も酒を飲むたびに愚痴っていたからきっと彼も聞いていたはずだ、ブラジェナの片思い相手は幼馴染だと。
ちらと鈍い沈黙がブラジェナとロスの間に落ちる。先に口を開いたのはブラジェナではなかった。
「辛気臭い顔をしないでください、いらいらします」
ブラジェナは鉄釘の刺さったボールを豪速球で投げられたような気分を味わうことに成功した。いつものことではあるのだが、ロスの言葉は弱っているときにもっとも強く突き刺さる。ついでにぐるぐると回転までかかっているから痛さは倍増だ。うっせーと返す声はどうしても小さくなるし、目線まで下がってしまう。ブラジェナの思う自分らしさとは程遠くて、わずかにいらついた。
「いつもの怒声はどこに置いてきたんです」
「知らねーよ転げ落ちたんじゃねーの」
「気持ち悪いので早く素直になったらどうですか」
「お前がそういうことのほうが怖いっつの」
「失礼ですね、とっとと泣けといってるんです。ちょうど貴女の悪友もいらっしゃったようですしね」
は? と一音を返すよりも早くぽんと肩を叩かれて振り返ると、イザベラが立っていた。眼鏡の下でひそめられた眉と訝しげな声がブラジェナの耳に入ってくる。
「またロスに虐められてたの?」
「貴女も大概失礼ですね」
「毎回アルデバラン入隊者泣かせてるの誰よ」
「貴女がたみたいなお局じゃないんですか?」
「「いやこれよりはまし」」
同時に言い放たれた言葉にブラジェナとイザベラはにこにこと笑い合いながら互いの肩を叩き合った。それをロスは白けた目で見ていたがさらに向こうからやってくる人物をみると、ちらとブラジェナに視線をやった。意味ありげな視線に振り返るとそこにはモチヅキの姿があって、口を半開きにしたままにへらと笑っていた。
「とにかく、そこの操縦者のためにも精々やることはやってください」
「わかってるっつのばーか」
「ガキですか、ああいや貴女はガキでしたね、精神年齢と実年齢とのギャップが酷すぎて勘違いしてしまいました」
「へっ勝手に言ってろ!」
「本当にあなたたちそのやりとり飽きないわよね」
イザベラが呆れたようにコメントすると立ち去り際にロスはブラジェナの頭を一発叩いてから去って行った。いらっとしながら振り向くが逃げ足だけはやたらと早い。今日はスパナではなかったし一応慰めてくれたことだから溜飲を下げてやろうと考えていると、モチヅキが穏やかな声でいった。
「にしてもジェナ、また泣いたんか? 目元腫れとるやん」
ずばり言い当てられてうぐっと言葉を詰まらせる。目が泳いでいることを知りながら話から逃げようとイザベラに視線をやると、彼女は肩を竦めて見せた。失恋直後から数日後ふたりを引きずって城下町の居酒屋で泣いてわめいた記憶はまだまだ新しい。
「まあ失恋したらそないなるんはわかるけど」
「あらオサムにも失恋経験あるの? 似合わないわーあんなかわいい妹にベタ惚れされてるくせにイケズー」
軽い口調でいうイザベラにモチヅキは苦笑した。
「それなりに、やで。で、今度は何があったんや、ジェナ?」
「……結婚式の招待状だよ」
ぶすくれた言葉にイザベラとモチヅキは同時に息を飲んだ。その反応すら痛いと思いながらまたじりじりと涙腺が緩んでくることを自覚して、必死に浅い呼吸を繰り返す。馬鹿野郎、詰りたいのはアタシだよ。
「行くん?」
「お前のフライトの二日前だけど、許せよ」
「構わんで。これで本当に区切りつくとええな、ジェナ」
区切りなんかつけたくない。
わしゃわしゃと頭を撫でるモチヅキの手の大きさを、初恋の彼と比較しながら泣きたくなる。嫁き遅れと揶揄される年齢になりながらそれでも告げなかった自分がいけなかったのだ。どんなタイミングでもいい、諦めるきっかけを思いを告げることで得られたのならブラジェナは新たな恋でもきっと見つけることができただろう。
けれど現実はそうじゃない。ブラジェナだけは痛みを抱えて置いてきぼりだ。不公平だとは言わないが虚しさは泥濘の形をして胸の中に沈み込む。
イザベラに慰められモチヅキに頭を撫でられながら、ブラジェナはもう一度だけ涙を流した。これでもう終わりだという意味で泣いた。
まだ、涙を流すのには早すぎたと知ったのは、彼の結婚式の当日だった。
土砂降りの早朝、軍人女性のために設けられた寮に一本の電話が入った。けたたましく鳴り響くベルの音に寮長が電話を取り、そしてブラジェナの元に連絡がたどり着くまでそこまで時間はかからなかっただろう。彼女の部屋にやってきた寮長は、散乱した洋服といい寝ぼけ眼の部屋の主といい呆れながら、けれど心配そうな声で伝えた。
「今日行くと言っていた結婚式取りやめになったみたいよ。なんでもこの雨でしょ、新郎新婦がスリップした車に巻き込まれて今病院に担ぎ込まれたらしいわ。一応車を回しておいたけど」
言葉の意味が理解できなかった。寝ぼけ眼で寮長を見つめ、それからゆっくりと物事を考えるよりも早く寮長によって着替えさせられて気がつけば病院にひとりたどり着いていた。一体どうやってきたのか記憶にないし、どうして自分がここにいるのかもわからなかった。だって、これからあいつの結婚式があるのに。
救急センターとだけ書かれた看板が青白く発光している。いっそ気味の悪い明るさにブラジェナはくらりと眩暈を覚えた。夢じゃない、アタシが今ここにいることは、夢なんかじゃない。
猛烈な嘔吐感に襲われてブラジェナは床にしゃがみこんだ。わんわんと頭の中が歪み跳ねて狂う。平衡感覚さえも失いそうな状況でかけられた声に応えることはできなかった。
病院のスタッフにロビーの椅子に腰掛けるよう促されよろけた足取りで座り込んでから数分、いや数十分はたまた数時間、治療室らしき扉が大きく開け放たれてひとが数人飛び出してきた。けれどブラジェナはそれをぼんやりした目で見守るだけだ、結末は知っている。
そう、こうなることなんて知っていた。
雨は大切なものを奪うのだ。
けれど世界はブラジェナの精神的苦痛など関係なく回って行く。長期フライトに出るモチヅキのサポートに回れるのは専属で付きっ切りだったブラジェナだけだ。伸ばせるようなら延期するというモチヅキの申し出を断って、ブラジェナは自分のやるべきことを平坦な態度で進めた。作業をする傍ら時折涙ぐんでいる様子を本人はきっと誰にも知られていないと考えていたのだろうが、同じ整備班の人間たちは気がついていた。
いつも通り完璧に整備点検された機体を前に、最終点検を終えたブラジェナは立ち尽くす。これでいいのか本当に万全を尽くしたのか、そう自問する声は低く、どこか空虚に聞こえたとしてもブラジェナにはわかるはずもない。彼女にとって今自身にできることは、モチヅキのフライトの成功を祈るのみだ。長い時間使い続けた機体だからこそ一抹の不安は残るが、優秀な操縦者であるモチヅキの腕を信頼しているからこそ、新たな機体に変更することを勧めたりはしなかった。
これでいいのだ。アタシはモチヅキの腕を信じてる。この偏屈老人を動かしあまつさえ完璧に操縦しうるのはモチヅキただ一人だと信じている。
外から忍び込む雨の匂いに鼻をこすり、ブラジェナは機体を優しく撫でた。頼むよ、小さくつぶやく声の悲痛さを誰が聞けたというのだろう。
土砂降りの日のフライトだった。早朝から最終点検を行ったブラジェナのしょぼしょぼとした目を見ると、モチヅキは苦笑しながら彼女のバンダナごと頭をわしゃわしゃと撫で回す。やめろよという声にいってくるとだけ答えたモチヅキは、いつになくぴしりとした動きで機体へと近づいて行った。
さながら愛馬と挨拶を交わすかのように機体を撫でる姿は、いつ見ても心が安らぐ。モチヅキが癖のある機体ばかり乗り回すのは、機体と心を交わしているからなのだろうか。そんな突拍子もないことを思いながらそれでもブラジェナは何度でもそう思う。彼には、機械の声が聞こえるのだろう。
タラップを上がり操縦席に乗り込んだモチヅキを見守っていると、耳につけた無線がザザーッという砂嵐のような音を立ててモチヅキの声を拾い上げた。
『中まで掃除してくれたん?』
「機体そのものには気ぃ使う癖になんだって操縦席はゴミばっかなんだあんたは」
『ありゃりゃ堪忍なー、ジェナ。ありがとさん。最終確認入るで』
「ああ」
黙って見ているだけだ。ブラジェナの整備の手を離れた機体はモチヅキを包み込み、モチヅキのために起動する。ブラジェナの愛する機械は悪友を空へと放り出す。
しょぼついた目をこすり、つきんと痛む頭に眉間へと手を伸ばした。昨晩の点検終了後から痛む頭はなかなか容易に治りはしないようだ。薄くため息をついているとまたも砂嵐めいた音とともに声が聞こえてきた。
『いつも通り完璧や。ベストコンディションやね、ジェナ』
「そいつはよかった。調子乗って飛び回るなよ?」
『あはは、当たり前やん。いってくるで』
「気を付けてな」
雨の日に限って定例になった会話だ。気をつけろとわざわざブラジェナが口にしたところでモチヅキはからりと笑うだけだ。自身に過信しているわけではない。ブラジェナの父親のことを知っているからこそ、自身は死なないといわんばかりに笑う。
目に透明な膜が張られたような気がした。視界がにじみ、ぐずりとゆがむ。
今にも泣き出しそうになったとき、モチヅキの声が耳にそっと落ちた。
『ブラジェナ、俺は死なへんよ』
モチヅキのフライトを見送ってから数日間、ブラジェナは高熱を出して寝込んでいた。いつもなら貴女でも風邪なんて引くんですねと馬鹿にするロスでさえ、イザベラから聞いた彼女の現状に眉をひそめて早く治しなさいといったのだというのだから、それがどれほどひどかったのかはわかるだろう。熱が治まってから数日後、目を覚ましたブラジェナに、看病してくれた寮長とイザベラがいったのだからきっと本当だ。
そして魘されながら何度も父親と初恋の彼と、それからモチヅキの名前を呼んでいたとも教わった。どうしてその二人とモチヅキの名前を並べたのだろうとぼやけた頭で考えた。
ようやく日常に、悪友がフライトにいっているときどおりの日常に戻り始めたときに、最後の悪夢が姿を表した。
その日も朝から雨が降っていた。どんよりとした空模様を見つめながらブラジェナの胸に瑣末な不安が沸き起こったことは、今もべたりと塗られた明らかに浮いたペンキのように覚えている。今日は東方大帝国が所有する浮島のひとつにたどり着くはずだと聞いていたのに、この雨で彼はたどり着けるのだろうか。
他の機体に手をかけてやりながらもどことなくぼんやりした様子のブラジェナの態度に、イザベラが呆れたように口を挟む。
「ジェナ、あなた少し休んだら? そんなに気になるなら管制塔に行くとかすればいいじゃない、らしくないわよ」
「アタシがこんな反応してる時点でおかしいんだよ。あの機体にミスはない。なのに、なんだ、この気持ち悪いもやもや……」
「雨のせいで頭まで湿気に浸食されたんじゃないんですか」
「うっせーぞ外野!」
途中で首を突っ込んできたロスに暴言を吐いて子どものように舌を出してから、ふとイザベラを見た。彼女はいつも通り艶やかな青い髪をざっくばらんにまとめて、ただ立っているだけだ。眼鏡の下に何を隠しているのかは共に風呂に入る時くらいしかわからない。
にへらと笑ったブラジェナの頬にそっと手を寄せて、イザベラは無理しないのよとだけいった。そこにまだ若い整備士が駆け込んできたかと思えば、ブラジェナを見つけると泣きそうな声で叫んだ。
「ブラジェナ少尉!! モチヅキ中尉が……っ!!! 早く、早く管制塔へ来て下さいお願いします!!!」
血相を変えて飛び出したブラジェナを誰もが見送ることしかできなかった。
どうやって管制塔にたどり着いたのかわからない。オペレーターではないブラジェナはフライト中常時管制塔にいるわけではないが、そこまでの道のりは熟知していた。だからこそ飛び込んだその先でモチヅキの最期の声を聞き届けることができた。
『堪忍な、弘子』
ぞっとするほどの静けさが管制塔の一室を支配した。誰も言葉を発さない。音すらも失われてしまったかのように、奇妙な沈黙がブラジェナの目の前を真っ黒に染め上げた。
雨だけが降り続ける。単調かと思いきや大きな揺らぎを抱えて降り続く。
少女の絶叫だけがブラジェナの頭を木霊する。頭をぶち抜いて霧散させてくれればいいのに。あの少女に殺されてしまえたのなら、きっとアタシは許されたような気がするのだろう。べしゃりと膝が抜けて地面に身体が落ちて行った。ここはどこだろう、どうしてアタシはここにいるのだろう。
目の前には崩れた人間の山が聳え立つ。ここはきっと地獄だ。アタシは死ぬべき場所に辿り着いたのだ。それが機械の山でも知り合いの顔のいる山でもないことに驚きはあるけれど、ブラジェナは絶望的な悦楽を感じていた。
ヘドロのような雨の匂いが、ひどく鼻につく。洋服に雨が染み込んでどろりと重くなって行く不快感が、泥の中に落ちていく心地よさに変わっていく。このまま雨によって沈められて死ぬのだろうか。最期にアタシを殺すのは、雨なのだろうか。
それなら、許してくれるの。
足音が遠くからやってくることに気がついても、もう動くことすらしたくなかった。どろりと身体中が溶けて行く感覚に身を任せ、目を閉じた。
家の事情で王都に越していったブラジェナと、唯一連絡を取り続けていた相手でもあった。軍学校に入ることになりますます会えなくなってしまったブラジェナに対して、幼馴染で年上の彼は定期的に連絡を寄越してくれ、ふた月に一度は共に食事に出かけていた。その日もまた彼との食事のために、よほどのことがないと袖を通さないシンプルな橙色のノースリーブワンピースを身につけて、着慣れたジャケットを羽織り、いつもは被る帽子など外してしまって待ち合わせ場所に向かった。親しい友人である巨乳の飲み仲間ことイザベラからの借り物であるショールを首に巻きつけながらたどり着いた先には、彼ともう一人、小柄な女性が立っていた。
ブラジェナはその光景を見たとき、ちりと何かが音を立てたことに気がついた。そのときは確かに嫉妬の音だと確信したのに、今はそれが関係性の崩壊の音だとわかっている。あのときすでにブラジェナは気付いていた。自分の存在が彼にとってどの立場なのかを、理解することを拒絶した。
「ああジェナ、遅かったな。また寝坊か?」
「そんなわけないだろ」
ちらりとブラジェナの視線が彼の横の女性に向いたことに気がついたのか、彼は女性に組まれた腕を示しながら柔らかく笑った。ブラジェナがずっと好きだと思っていた彼だけの笑みを浮かべて、彼は優しく笑った。
「来月の頭に結婚することになったんだ。婚約者だ」
「初めまして、ブラジェナさん。あなたのことは彼からたくさん聞いていたの。今日話せることになってとっても嬉しいわ。彼の昔の話とかお聞きしたいなーって思って」
「ブラジェナは軍学校にいってる俺たちの町のスターだから俺のこっぱずかしい昔話なんてしないよな!な!」
「もう妹自慢も大概にして。このひとったらほとんど話の内容があなたのことばっかりなのよ」
「それでお前がすぐ拗ねるんだよな」
「かわいい妹分の話をされたらやきもきするでしょう。乙女心がわからないんだから。ね?」
にっこりと向けられた女性の笑みにぶちりと胸の中の一本の線が切れたことを知った。知りながらそれでもブラジェナはいつも通りの声音で笑った。
「こいつに乙女心なんてわかったらそれはただの奇跡だよ、姉さん」
姉さんという言葉に安堵したように笑う女性を見ながら泣き出したくなったのは、そのときのブラジェナだけの感情だ。誰にも渡せない渡すつもりのない失恋の優しさは、彼自身の残酷さではなく彼の恋人の笑みによるものだった。
それから三人で食事をし会話も弾んだことを覚えている。三人での食事は事実とても楽しかった。彼の恋人はブラジェナの話にころころと鈴のような笑い声をあげ、心から安堵した温度を身体中から滲ませて、隣に座る彼に身を預けていた。彼は今まで見たことがないほど柔らかな表情で時折恋人の背を撫でていた。今まで見たことがないなんて当たり前だ、ブラジェナは恋人ではないのだから。
しかし卑屈になる暇などなかった。彼らとの会話は心地よかったし、だからこそ二人と別れるまで笑っていられた。軍にある寮に戻って初めて、自分のピエロっぷりに笑った。自室として与えられた部屋の中にはいると、さんざっぱら朝ひっくり返した洋服たちが、ぼんやりした顔で寝転がっていた。ブラジェナの心境によく似合う虚しさがぼんやりと漂っていた。
寮に帰る前に誰にも会わなくてよかった、とぼんやり思う。今たとえば特に親しいイザベラや、スパナを投げ合う仲のロス、それから軍学校時代からの悪友モチヅキに会ったら、醜態を晒してしまっただろう。泣き崩れて縋り付いて喪失を喚いていただろう、どうして気付いてくれないのと嘆きたてたことだろう。そんな姿は見せたくない。
涙は出なかった。母に送るための手紙を確認してからブラジェナはベッドの中に潜り込んだ。
ブラジェナが産まれた日は、近年稀にないほどの豪雨の日のことだった。雷鳴が轟く空の中、前日の夜から降りしきる雨は強さを増して、道を歩くこともままならないほどだったという。今でも記録に残されているその雨は、数十名の命を奪っていった。奪われた命の中には、ブラジェナの父のものも含まれていた。
深夜にまで渡る労働を終え、豪雨ゆえに帰ることもできずにいた父の元に届いたブラジェナの誕生の連絡に、彼は有毒とされる雨の中を駆けることに決めた。兎にも角にも第一子の誕生を楽しみにしていた若い父親なのだから無鉄砲なのは責めることはできないだろう。しかし結果的に彼は、視界の悪い天気と、明け方という時間帯、それから暴走した単車のせいで命を失ってしまった。
父を待ち侘びる母の腕の中で、ブラジェナは大きく泣き喚くこともなく静かに眠っていたのだと母はいう。母はその話をするときはいつも、あまりブラジェナの顔を見ない。柔らかな笑みを窓の向こうへと向けるだけだ。
一家の大黒柱となるはずだった父を失ったことによって、母は働かなければならなくなった。とはいえ母の家系的にはそこそこ裕福な家柄の娘だったのもあり、水商売に身を落とすなどということもなく、母の親族による援助を受けつつふたりっきりの生活を慎ましく営むことになる。小さな町で近隣の子供たちと無邪気に遊び倒していたのはこの時期で、初恋の彼とはここで知り合った。
母は親戚の勧めに従って国立図書館に勤務することになり、ふたりは王都に引っ越すことになった。ブラジェナはときおり母の職場に訪れて黙々と読書をしていた。野山を駆け回っていたときとは打って変わった様子のブラジェナに、母は初めて娘が意外と勉強ができることに気が付いたのだというからお笑いだ。
けれど当時読んでいた絵本や本がどういったものなのかについて、けれどブラジェナは覚えていない。そのあと出会ったもののほうが圧倒的に印象的だったからだ。
親族による勧めによって学習院に入学することになったブラジェナは、いわゆる劣等生として過ごした。勉強はできるのに態度が悪いといわれる小憎たらしいガキだったというのもあるが、なにより校長が使っていた単車を一日がかりで解体してしまったのが原因だと考えられる。ブラジェナがやったと露見したときもちろん学習院を追い出され、けれど母は娘の才能に噴き出しながらこういった。
「あんたは機械が好きなのね。ならあんな学校やめて正解だったわ。ジェナ、あんたこれからも機械を弄りたい? そういう仕事について見たい?」
なんと答えたのかブラジェナは覚えていない。けれどそう尋ねる母の顔が晴れやかではなかったことは覚えている。どこかに痛みを抱えている顔をしていたということを、ブラジェナは忘れない。おそらく頷いたのだろうが、なら、といって母はブラジェナを軍学校に連れて行った。
もちろんまだ十二歳だった彼女が軍学校に入学することはできなかったのだが、ブラジェナはそこで初めて東方大帝国の軍事に関わる機体こと、「機械仕掛けの翼」を目撃することになった。
どんよりとした曇り空をそのままペンキで塗ったかのように光沢のある機体は、滑らかなフォルムを描いてブラジェナの目に飛び込んできた。ひとが収まるには窮屈そうな搭乗席は、磨かれたガラスの向こうで乗るものを待ち侘びる。何かを設置するくぼみや使い古されたぼろぼろのドリップ部分など、すべてがブラジェナの心を惹いた。すり減った搭乗席は搭乗者の尻の形に変色されていて、恐々と覗き込みながら少し噴き出したことを覚えている。
母が何を考えていたのかはわからない。しかしブラジェナが軍学校に入学すると決意したのはこのときだった。そしてそれよりも前に、失った父の事故原因である可能性の高い単車の欠陥を、なんとしてでも調べると。
結果として、もちろんまだ十二歳の少女が調べ切ることなどできるはずもなかったのだが、しかし成人する十六の 年に彼女は世間に波紋を投じることに成功した。父を轢き殺した単車の致命的欠陥を実験によって証明し、暴走する可能性が多分にある蒸気機関としての回路を利用していたと、単車を売り出していた会社を告訴したのである。もちろんそこに至るまでに母の親戚が手を貸してくれたのだから、ひとりで成し遂げたわけではないのだが、世間を騒がせるにはある程度の力を発揮した。
それによって急成長していた単車などの移動手段の分野が一時的に鎮静化し、ブラジェナの名前だけは世間で一人歩きをすることになった。軍学校に入学していた少女の名前だと判明してしまうのは避けたいということで、新聞や雑誌にも写真を掲載されなかったため、ブラジェナはいつも通り軍学校で学友たちと日常を過ごしていた。
母と久しぶりに会ったときに、ブラジェナの目をまっすぐに見ながら女はいった。
「ありがとう」
それだけだった。その言葉の中に含まれている今までの悔恨を怒りを罪悪を、感謝を、感じながらブラジェナは頷いただけだった。どことなくちぐはぐだった親娘関係が改善されるわけではないが、ブラジェナが機械への執着をひた隠しにする必要もなくなった。ますます前のめりに機械を弄るようになったブラジェナを、学友たちはあまり気にせずに、これほどアルデバラン以外考えられない志願者も珍しいなと笑っただけだった。
「あれジェナ、随分ひどい顔してへんで。寝不足?」
かけられた声にブラジェナが振り返るとモチヅキが柔和な笑みをして立っていた。その横にモチヅキそっくりな青灰色の長い髪をポニーテールに結いた少女が寄り添っていることに気づいて、昨日の初恋の彼のことを思い出してしまった。がしりとモチヅキの両肩を掴んでがくがくと揺さぶる。
「あんたその子が妹でよかったなぁああ………感謝しろよ………」
「また言われもない八つ当たりを受けるとこやったってことでいいんよねこれは」
へらっと笑うモチヅキはそのままブラジェナの手を掴んで何かあったの? と穏やかに尋ねてくるが、隣に立つ少女は兄の袖をぐいと引きながらブラジェナをじろりと睨んだ。そうそう本来なら昨日こういう視線を向けられてしかるべきだったんだアタシは。などと思いながらもますます思い出してしまって泣きたくなってきた。
「あとで自棄酒付き合えよモチヅキィ……。せっかく妹ちゃんがわざわざ来てくれたんだから案内してやれよ」
「平気なん?」
「あとでいう」
ぶすくれた顔で応えればモチヅキは小さく笑ってじゃああとでなと手を振った。モチヅキの妹らしき少女は満足そうな顔で微笑んでからぺこりとブラジェナに会釈をして二人並んで去っていく。自然な動作で腕を絡ませる妹の姿に仲がいいなとぼんやり思いつつ、けれど馬鹿みたいな失恋の痛みはまだじゅくじゅくと熱を持って膿んでいた。
ハァとため息をつきながら仕事場に足を向ける。痛みを訴えたところでどうにもならないことを知っていたし、何より今日はあのモチヅキの乗る機体の整備が待ち構えていた。モチヅキの機体は基本的に常に最高のコンディションが保たれている。だからこそ本当に不備がないのかを確認することが困難で、いっときも集中力を欠くことができない。
ぐっと腕を伸ばし気合をいれる。いつまでも引きずっているわけにはいかないのだ。
そう決断したときのことを、ブラジェナは確かに覚えていた。
結婚式の招待状が届いたのはモチヅキが長期フライトを開始する四日前のことだった。結婚式の日程は二日後。急すぎると呆れながらもずぶりと痛んだ感情を忘れて、急遽有給を取れるか確認していると後ろから声をかけられた。振り返るとそこに立っていたのは白髪に紫色の毛がちらほらと混じるおかしな髪色の男、ことロスだ。
「またサボりですか?」
「サボりじゃねえよ。幼馴染の結婚式」
自然な声音で応えられただろうか。一瞬不安を覚えたことに気がついたのだろう、ロスはちらとブラジェナの目元をみるとかすかに首を傾げる動作をする。何度も酒を飲むたびに愚痴っていたからきっと彼も聞いていたはずだ、ブラジェナの片思い相手は幼馴染だと。
ちらと鈍い沈黙がブラジェナとロスの間に落ちる。先に口を開いたのはブラジェナではなかった。
「辛気臭い顔をしないでください、いらいらします」
ブラジェナは鉄釘の刺さったボールを豪速球で投げられたような気分を味わうことに成功した。いつものことではあるのだが、ロスの言葉は弱っているときにもっとも強く突き刺さる。ついでにぐるぐると回転までかかっているから痛さは倍増だ。うっせーと返す声はどうしても小さくなるし、目線まで下がってしまう。ブラジェナの思う自分らしさとは程遠くて、わずかにいらついた。
「いつもの怒声はどこに置いてきたんです」
「知らねーよ転げ落ちたんじゃねーの」
「気持ち悪いので早く素直になったらどうですか」
「お前がそういうことのほうが怖いっつの」
「失礼ですね、とっとと泣けといってるんです。ちょうど貴女の悪友もいらっしゃったようですしね」
は? と一音を返すよりも早くぽんと肩を叩かれて振り返ると、イザベラが立っていた。眼鏡の下でひそめられた眉と訝しげな声がブラジェナの耳に入ってくる。
「またロスに虐められてたの?」
「貴女も大概失礼ですね」
「毎回アルデバラン入隊者泣かせてるの誰よ」
「貴女がたみたいなお局じゃないんですか?」
「「いやこれよりはまし」」
同時に言い放たれた言葉にブラジェナとイザベラはにこにこと笑い合いながら互いの肩を叩き合った。それをロスは白けた目で見ていたがさらに向こうからやってくる人物をみると、ちらとブラジェナに視線をやった。意味ありげな視線に振り返るとそこにはモチヅキの姿があって、口を半開きにしたままにへらと笑っていた。
「とにかく、そこの操縦者のためにも精々やることはやってください」
「わかってるっつのばーか」
「ガキですか、ああいや貴女はガキでしたね、精神年齢と実年齢とのギャップが酷すぎて勘違いしてしまいました」
「へっ勝手に言ってろ!」
「本当にあなたたちそのやりとり飽きないわよね」
イザベラが呆れたようにコメントすると立ち去り際にロスはブラジェナの頭を一発叩いてから去って行った。いらっとしながら振り向くが逃げ足だけはやたらと早い。今日はスパナではなかったし一応慰めてくれたことだから溜飲を下げてやろうと考えていると、モチヅキが穏やかな声でいった。
「にしてもジェナ、また泣いたんか? 目元腫れとるやん」
ずばり言い当てられてうぐっと言葉を詰まらせる。目が泳いでいることを知りながら話から逃げようとイザベラに視線をやると、彼女は肩を竦めて見せた。失恋直後から数日後ふたりを引きずって城下町の居酒屋で泣いてわめいた記憶はまだまだ新しい。
「まあ失恋したらそないなるんはわかるけど」
「あらオサムにも失恋経験あるの? 似合わないわーあんなかわいい妹にベタ惚れされてるくせにイケズー」
軽い口調でいうイザベラにモチヅキは苦笑した。
「それなりに、やで。で、今度は何があったんや、ジェナ?」
「……結婚式の招待状だよ」
ぶすくれた言葉にイザベラとモチヅキは同時に息を飲んだ。その反応すら痛いと思いながらまたじりじりと涙腺が緩んでくることを自覚して、必死に浅い呼吸を繰り返す。馬鹿野郎、詰りたいのはアタシだよ。
「行くん?」
「お前のフライトの二日前だけど、許せよ」
「構わんで。これで本当に区切りつくとええな、ジェナ」
区切りなんかつけたくない。
わしゃわしゃと頭を撫でるモチヅキの手の大きさを、初恋の彼と比較しながら泣きたくなる。嫁き遅れと揶揄される年齢になりながらそれでも告げなかった自分がいけなかったのだ。どんなタイミングでもいい、諦めるきっかけを思いを告げることで得られたのならブラジェナは新たな恋でもきっと見つけることができただろう。
けれど現実はそうじゃない。ブラジェナだけは痛みを抱えて置いてきぼりだ。不公平だとは言わないが虚しさは泥濘の形をして胸の中に沈み込む。
イザベラに慰められモチヅキに頭を撫でられながら、ブラジェナはもう一度だけ涙を流した。これでもう終わりだという意味で泣いた。
まだ、涙を流すのには早すぎたと知ったのは、彼の結婚式の当日だった。
土砂降りの早朝、軍人女性のために設けられた寮に一本の電話が入った。けたたましく鳴り響くベルの音に寮長が電話を取り、そしてブラジェナの元に連絡がたどり着くまでそこまで時間はかからなかっただろう。彼女の部屋にやってきた寮長は、散乱した洋服といい寝ぼけ眼の部屋の主といい呆れながら、けれど心配そうな声で伝えた。
「今日行くと言っていた結婚式取りやめになったみたいよ。なんでもこの雨でしょ、新郎新婦がスリップした車に巻き込まれて今病院に担ぎ込まれたらしいわ。一応車を回しておいたけど」
言葉の意味が理解できなかった。寝ぼけ眼で寮長を見つめ、それからゆっくりと物事を考えるよりも早く寮長によって着替えさせられて気がつけば病院にひとりたどり着いていた。一体どうやってきたのか記憶にないし、どうして自分がここにいるのかもわからなかった。だって、これからあいつの結婚式があるのに。
救急センターとだけ書かれた看板が青白く発光している。いっそ気味の悪い明るさにブラジェナはくらりと眩暈を覚えた。夢じゃない、アタシが今ここにいることは、夢なんかじゃない。
猛烈な嘔吐感に襲われてブラジェナは床にしゃがみこんだ。わんわんと頭の中が歪み跳ねて狂う。平衡感覚さえも失いそうな状況でかけられた声に応えることはできなかった。
病院のスタッフにロビーの椅子に腰掛けるよう促されよろけた足取りで座り込んでから数分、いや数十分はたまた数時間、治療室らしき扉が大きく開け放たれてひとが数人飛び出してきた。けれどブラジェナはそれをぼんやりした目で見守るだけだ、結末は知っている。
そう、こうなることなんて知っていた。
雨は大切なものを奪うのだ。
けれど世界はブラジェナの精神的苦痛など関係なく回って行く。長期フライトに出るモチヅキのサポートに回れるのは専属で付きっ切りだったブラジェナだけだ。伸ばせるようなら延期するというモチヅキの申し出を断って、ブラジェナは自分のやるべきことを平坦な態度で進めた。作業をする傍ら時折涙ぐんでいる様子を本人はきっと誰にも知られていないと考えていたのだろうが、同じ整備班の人間たちは気がついていた。
いつも通り完璧に整備点検された機体を前に、最終点検を終えたブラジェナは立ち尽くす。これでいいのか本当に万全を尽くしたのか、そう自問する声は低く、どこか空虚に聞こえたとしてもブラジェナにはわかるはずもない。彼女にとって今自身にできることは、モチヅキのフライトの成功を祈るのみだ。長い時間使い続けた機体だからこそ一抹の不安は残るが、優秀な操縦者であるモチヅキの腕を信頼しているからこそ、新たな機体に変更することを勧めたりはしなかった。
これでいいのだ。アタシはモチヅキの腕を信じてる。この偏屈老人を動かしあまつさえ完璧に操縦しうるのはモチヅキただ一人だと信じている。
外から忍び込む雨の匂いに鼻をこすり、ブラジェナは機体を優しく撫でた。頼むよ、小さくつぶやく声の悲痛さを誰が聞けたというのだろう。
土砂降りの日のフライトだった。早朝から最終点検を行ったブラジェナのしょぼしょぼとした目を見ると、モチヅキは苦笑しながら彼女のバンダナごと頭をわしゃわしゃと撫で回す。やめろよという声にいってくるとだけ答えたモチヅキは、いつになくぴしりとした動きで機体へと近づいて行った。
さながら愛馬と挨拶を交わすかのように機体を撫でる姿は、いつ見ても心が安らぐ。モチヅキが癖のある機体ばかり乗り回すのは、機体と心を交わしているからなのだろうか。そんな突拍子もないことを思いながらそれでもブラジェナは何度でもそう思う。彼には、機械の声が聞こえるのだろう。
タラップを上がり操縦席に乗り込んだモチヅキを見守っていると、耳につけた無線がザザーッという砂嵐のような音を立ててモチヅキの声を拾い上げた。
『中まで掃除してくれたん?』
「機体そのものには気ぃ使う癖になんだって操縦席はゴミばっかなんだあんたは」
『ありゃりゃ堪忍なー、ジェナ。ありがとさん。最終確認入るで』
「ああ」
黙って見ているだけだ。ブラジェナの整備の手を離れた機体はモチヅキを包み込み、モチヅキのために起動する。ブラジェナの愛する機械は悪友を空へと放り出す。
しょぼついた目をこすり、つきんと痛む頭に眉間へと手を伸ばした。昨晩の点検終了後から痛む頭はなかなか容易に治りはしないようだ。薄くため息をついているとまたも砂嵐めいた音とともに声が聞こえてきた。
『いつも通り完璧や。ベストコンディションやね、ジェナ』
「そいつはよかった。調子乗って飛び回るなよ?」
『あはは、当たり前やん。いってくるで』
「気を付けてな」
雨の日に限って定例になった会話だ。気をつけろとわざわざブラジェナが口にしたところでモチヅキはからりと笑うだけだ。自身に過信しているわけではない。ブラジェナの父親のことを知っているからこそ、自身は死なないといわんばかりに笑う。
目に透明な膜が張られたような気がした。視界がにじみ、ぐずりとゆがむ。
今にも泣き出しそうになったとき、モチヅキの声が耳にそっと落ちた。
『ブラジェナ、俺は死なへんよ』
モチヅキのフライトを見送ってから数日間、ブラジェナは高熱を出して寝込んでいた。いつもなら貴女でも風邪なんて引くんですねと馬鹿にするロスでさえ、イザベラから聞いた彼女の現状に眉をひそめて早く治しなさいといったのだというのだから、それがどれほどひどかったのかはわかるだろう。熱が治まってから数日後、目を覚ましたブラジェナに、看病してくれた寮長とイザベラがいったのだからきっと本当だ。
そして魘されながら何度も父親と初恋の彼と、それからモチヅキの名前を呼んでいたとも教わった。どうしてその二人とモチヅキの名前を並べたのだろうとぼやけた頭で考えた。
ようやく日常に、悪友がフライトにいっているときどおりの日常に戻り始めたときに、最後の悪夢が姿を表した。
その日も朝から雨が降っていた。どんよりとした空模様を見つめながらブラジェナの胸に瑣末な不安が沸き起こったことは、今もべたりと塗られた明らかに浮いたペンキのように覚えている。今日は東方大帝国が所有する浮島のひとつにたどり着くはずだと聞いていたのに、この雨で彼はたどり着けるのだろうか。
他の機体に手をかけてやりながらもどことなくぼんやりした様子のブラジェナの態度に、イザベラが呆れたように口を挟む。
「ジェナ、あなた少し休んだら? そんなに気になるなら管制塔に行くとかすればいいじゃない、らしくないわよ」
「アタシがこんな反応してる時点でおかしいんだよ。あの機体にミスはない。なのに、なんだ、この気持ち悪いもやもや……」
「雨のせいで頭まで湿気に浸食されたんじゃないんですか」
「うっせーぞ外野!」
途中で首を突っ込んできたロスに暴言を吐いて子どものように舌を出してから、ふとイザベラを見た。彼女はいつも通り艶やかな青い髪をざっくばらんにまとめて、ただ立っているだけだ。眼鏡の下に何を隠しているのかは共に風呂に入る時くらいしかわからない。
にへらと笑ったブラジェナの頬にそっと手を寄せて、イザベラは無理しないのよとだけいった。そこにまだ若い整備士が駆け込んできたかと思えば、ブラジェナを見つけると泣きそうな声で叫んだ。
「ブラジェナ少尉!! モチヅキ中尉が……っ!!! 早く、早く管制塔へ来て下さいお願いします!!!」
血相を変えて飛び出したブラジェナを誰もが見送ることしかできなかった。
どうやって管制塔にたどり着いたのかわからない。オペレーターではないブラジェナはフライト中常時管制塔にいるわけではないが、そこまでの道のりは熟知していた。だからこそ飛び込んだその先でモチヅキの最期の声を聞き届けることができた。
『堪忍な、弘子』
ぞっとするほどの静けさが管制塔の一室を支配した。誰も言葉を発さない。音すらも失われてしまったかのように、奇妙な沈黙がブラジェナの目の前を真っ黒に染め上げた。
雨だけが降り続ける。単調かと思いきや大きな揺らぎを抱えて降り続く。
少女の絶叫だけがブラジェナの頭を木霊する。頭をぶち抜いて霧散させてくれればいいのに。あの少女に殺されてしまえたのなら、きっとアタシは許されたような気がするのだろう。べしゃりと膝が抜けて地面に身体が落ちて行った。ここはどこだろう、どうしてアタシはここにいるのだろう。
目の前には崩れた人間の山が聳え立つ。ここはきっと地獄だ。アタシは死ぬべき場所に辿り着いたのだ。それが機械の山でも知り合いの顔のいる山でもないことに驚きはあるけれど、ブラジェナは絶望的な悦楽を感じていた。
ヘドロのような雨の匂いが、ひどく鼻につく。洋服に雨が染み込んでどろりと重くなって行く不快感が、泥の中に落ちていく心地よさに変わっていく。このまま雨によって沈められて死ぬのだろうか。最期にアタシを殺すのは、雨なのだろうか。
それなら、許してくれるの。
足音が遠くからやってくることに気がついても、もう動くことすらしたくなかった。どろりと身体中が溶けて行く感覚に身を任せ、目を閉じた。