狗は馬鹿だと吠えたてる
診察用の薄い青の服の袖に腕を通しながら、ちらりと少し髪の伸びた男を見やれば、その目は珍しく疲れたようにどこか一点を見つめていた。毎度のことながら俺とこいつ以外の研究員は出払っていて、アマリネくらい残しておけばいいのに、律儀にふたりきりになる。昔はもっとたくさん研究員がいたけど、もう俺の診察に研究員を割く必要はなくなったからだと、立花はなんてことのないようにいった。俺はもう研究対象ではなくなったからだと。
研究対象じゃなくなった俺を診察するほど、ほんとうはこいつも暇じゃないはずだ。なのに毎月必ず土曜日のいずれかに、翌日の何時から研究室へ来いと連絡が入る。大抵連絡が来るのは夕夏がいない時間帯だった。今日も夕夏が食い物を買いにいくときに一緒に出て、俺はゆうひを連れてここにいる。当のゆうひは今頃アマリネあたりにかわいがってもらってのんきに尻尾でも振っているのだろう。
研究室に日の光は入らない。無機質な電気は切れているところなど見たことがなかった。白い硬質的な部屋の中、立花は紙のようにうすっぺらに座っている。今までこいつの顔などろくに見たこともなかったが、やはり疲れているという印象は間違ってないような気がした。また寝てねえのか、それとも。
「なあ」
「なんですか」
手前に来た白いボタンをふたつ留める。振り返れば立花がこちらを見ていた。もう何度も行ったこと通りに歩いて立花の前に置いてある椅子に座り、腕を台の上に乗せる。立花もまた慣れた様子でその腕に手を伸ばした。淡々と作業をしていくのをぼんやりと見つめながら、尋ねる。
「夕夏に会ったのかァ」
ぴくりと手が止まった。顔を見やれば常に無表情か呆れ顔の立花のそれは、少し疎んでいるように見えた。俺ではない何かを。俺に刺そうとしている注射針を。
ぷつり、と肌の中に冷たい針が侵入してくるのを感じながら、立花の目を見る。きれいだとアマリネは思うのだろうか、男の目は深い藍色とそして裂傷のせいで濁った眼をしていた。
「何故そう思うのですか」
「なんとなく。あたりか」
立花はそれ以上答えない。長いチューブのついた針を残したまま道具を抜き取り、針を固定するためにテープを貼り付ける。カルテに何かを書き込みながらそれが明らかに俺に対する会話の拒否だということを表していた。
……めんどくせえなア、と思う。立花も夕夏も。
一通りの診察を終えて疲労の色を濃くした立花は、俺を見てちらりと顔色を変えた。一瞬だけのその表情は、おそらくずっとこいつが思っていたことなのだろう。
「バカかよォ、お前までさ」
「……何がです」
再び元の服に着替えながらつぶやいたことを拾い上げた立花は、おそらく俺の顔を見ても何もわからないのだ。だってこいつはアマリネでもねえし俺と似たような犬でもない。こいつは人間でそしてそれ以上に俺の親代わりだった。ヴォルターの馬鹿みてえに動物的でもねえ。
夕夏もこいつも、ときどきアマリネも、似てると思った。
「お前、『申し訳ない』とか、思ってねえよな?」
確認で、同時に断定だった。日の光の入らない部屋で時間がわかるのは時計だけだ。かちかちと音を立てる秒針と、それから機械のヴンヴン唸る音がやたらと耳につくが、その中でも人間の立てる音は際立つ。動物に近くなりすぎた身体には、うるさいくらいだった。
シャツを脱ぐ。目の前にある鏡に映るのは、傷だらけで引き締まった身体だった。もうろくに訓練もしてねえのにまだバランスのいい体型は、ただそれだけだった。後ろから忍び込む刺青の端っこも、散々っぱら見てたからなんとも思わなかった。背中の刺青を忌むように憂うように、けれど如実には伝わらせない一枚の紙越しの視線だけを感じていた。
立花は答えない。やっぱりこいつらは馬鹿ばっかだなァと鼻で笑いながら、さっさと着替えて診察室を出る。返事をし忘れた男のことは頭の隅っこに追いやって、隣の部屋に行けばゆうひがわんと俺を見て吠えた。アマリネの手から飛び出してきた馬鹿犬を抱き上げて、アマリネの顔も見ずにじゃあなといった。家に帰るのも億劫だった。
「めんどくせェなア……あいつらも」
な、とゆうひに鼻面を押し付ける。あったかい温度はすぐにぬるりとした温度になって、鼻の頭を舐められていることを知った。軍の敷地を出てすぐのところで、俺は少し立ち尽くす。ぺろぺろと馬鹿丸出しに舐めまくるゆうひをぎゅっと抱きしめながら、時間が過ぎていくことだけを願ってしまう。もう帰るのもめんどくせえ。
「言い訳くらいは聞いてやるかなァ……」
「ただいま――……って、いないのか?」
夕夏の声にゆっくりと瞼を開く。待っている間に寝ていたらしい。夜勤を免れたことを喜んでいたのを思い出しながら、身を起こせば、カーテンも閉められたままの暗い狭い部屋で夕夏の赤い目がこちらに気づいたようだった。ぱちんとつけられた電気のまぶしさに思いっきり顔をしかめ、少しだけ痛んだ頭に思わず眉間に皺を寄せる。何か買い物をしてきたのだろうか、ビニール袋をテーブルの上に置いて、夕夏はネクタイを緩め、ほっとしたような顔をしていた。最近は、ずっとこうだ。
俺が突然いなくなると、怯えているようだった。
ふつりと胸の中に苛立ちが湧いた。夕夏の愛情も立花の親愛も、今はとにかく憎たらしく思えた。アアやべえなァと思いながらも、むくむくと沸き起こる怒りは揺るがない。これが行き過ぎると獣化しちまうことをわかっていて、だから俺は必死にそれを押しとどめるために、ぎゅうと自分の身体を抱きしめる。
「豚丼っつってたよな、リクエスト。どんくらい食う?」
いつも通りの声音。俺は答えない。指先がむずりとした。
ワイシャツから気軽なTシャツに着替え、エプロンをしながら夕夏はこちらを向いた。苛立ちと憎たらしさと諦めと薄っぺらい愛情が俺を見ているように見えた。なんだかよくわからなかった。
「錦? どうかしたのか?」
「お前さァ」
声が違うと気が付いたのだろうか。腕の中の息は獣臭い。
苛立つ。
「立花に会ったんだろォ。何話したんだァ?」
ぴたりと動きを止めた。顔色は変わらない。表情も変わらない。手の動きだけが止まる。それからふと呼吸をした夕夏は、ほんの少し顔を歪めた。
「……お前の話以外に、何があるんだ?」
「俺の話ってなんだァ? 今更なに聞くってんだよ、もうさんざっぱら聞いてんだろォ? よめーが半年くらいしかないなんてとっくに聞いただろうが。何を聞いたんだよォ夕夏ァ?」
自分の声すらも苛立たしい。喉に手を伸ばして少しだけ掻いた。ぷつ、と小さな音がした。指先に触れたのはおそらく赤い液体だろうが、どうでもいい。それよりも指を覆い始めている毛のほうが、面倒だった。
夕夏は俺を見たまま口ごもる。視線を逃がすようにそらしたあと、それからぽつりといった。
「お前はなんであいつを許せるんだ」
「だからしつっこいっつってんだろオ!? あれは俺が選んだことであいつらが俺に無理やりさせたことじゃねえんだよ!!」
吠える。ゆうひがぱっと飛び上がりついでのようにわんと吠えた。どう聞いたって俺の声のほうが獣っぽい。おいおいついにお犬様を越しちまったのかよォ俺は。馬鹿げたことをいって笑う自分を知りながら、夕夏を睨む。獣めいた匂いは、うんざりだ。
「それはもうわかってる。そうじゃない、違う、言葉を間違えた。許せるじゃない、なんでお前はあんな――っ、あいつなんかを信用できるのかわからねえっていってるんだよ」
「お前に立花の何がわかるってェんだァ? 俺ですらあいつのことなんざろくすっぽ知りもしねえ、なのになんでてめえがそんなこと口走れるんだよ、ナァ?」
ぐっと口ごもり視線が揺れるのを知りながら、俺は意地悪い顔で問う。
「お前の立花に対するそりゃなんだァ? お前の気持ちは俺と無関係なんじゃねえの? お前は、俺がしんじまうことをあいつに押し付けられりゃア満足なんかァ?」
「馬鹿いうなよ」
怒気の含んだ声を鼻で笑う。睨んでくる赤を睨み返す。
「俺は、お前が死ぬのがつらいんだよ、それくらいわかんだろ!? お前は自分のこと馬鹿だって笑うけどそんでもわかんだろうがそんくらい!! それをお前が口に出すな!」
珍しい怒声にだけど俺はにやにやと笑う。なんだよこいつらみィんなおんなじ目ェしていいやがってさァ。
「立花だって、俺がしんだらつれェよ」
ぽつりとつぶやいた。立った。着替えたまんまの恰好だったから、床でぐるぐる回ってたゆうひを抱き上げた。歩いた。夕夏の横を通り過ぎようとして腕をつかまれた。振り払うついでにキスをした。あっけにとられたような馬鹿の頬を一発ひっぱたいた。玄関に転がったままのサンダルを履いた。扉を開けて、いった。
「しばらく出かけるわァ。じゃあなア」
パタンと扉を閉じた。ゆうひを抱いた指を見れば、人間のそれに戻っていた。
「馬鹿ばっかだなァ……どいつもこいつも」
「……こんな朝っぱらからなんでまた……しかも犬っころまで連れてきて!」
「朝風呂営業してるときもあんだろォけちけちすんなよユンファ」
「わん!」
「わんじゃないってばわんころ! ったく」
早朝、銭湯の戸を叩く音がしばらく街中に響き渡ったかと思えば、女性二人と犬の鳴き声が響く。その騒々しさに自分で眉を顰めながらゆうひの口に手を突っ込む。がう、と吠えているままに噛んでから、ゆうひは驚いたように目をぱちくりさせぺろりと俺の手を舐めた。まあ黙りゃあなんでもいい。
そしてついっと仁王立ちする褐色の肌の女を見やれば、彼女は明らかに寝起きだったようで、見るからにパジャマ姿でしかもそれなりに乱れているようだった。迫力も半減している。まあどうでもいいわなァ。
「一応時間外だから割高にするよ」
「構わねえよオ、対して高くしねェだろォ?」
にひ、と笑ってそういえば、ずり落ちたメガネをかけなおしたユンファは、かっわいくないガキとぶつぶつ文句を言いながら、裏口から銭湯の中へと向かう。なんだかんだこいつ面倒見いいよなァと思いながら、リードもつなげてねえのにちょこまかとついてくるゆうひを見れば、馬鹿はわんと小さく吠えた。
「そういやあんた犬なんか飼ってたの? というかこれあんたの犬?」
ふと思い出したとでもいうかのように問いかけられ、見てないと知りながら肩をすくめて答える。
「アア、俺と夕夏で飼ってんだァ」
「夕夏……? こないだいってたあんたの彼氏だっけ? 苗字は?」
「黒澤」
ぴたりと足を止めたユンファに気づかずにそのまま追突し、よろけながら後ずさると、大女は口元を抑えながらちらりとこちらを振り返った。
「あんだよ?」
「……いや、正直予想外だったわ。この間のあんたの退役軍人ってのもホラにしか思えないけど、そっちも意外かも」
「知ってんのかァ夕夏のこと」
「詳しくは知らないね、見かけたくらい。ふうん……面白いもんだね。わんこの名前は?」
「ゆうひ。ナァ、風呂こいつも入れていいかァ?」
前々からやってやりたいと思っていたことを言えば、目をかっぴらいたユンファが素っ頓狂な声を上げた。当たり前か。
「なに馬鹿なこといってんの!? 犬なんかいれたら人間様に病気移すに決まってんだろうよ、銭湯潰す気!? だめだからな!」
「俺のことは引っ掴んで入れたくせして犬はダメなのかよォ」
「あんたは犬じゃなくて人間でしょうが! ったくしっかたないな、犬用にでっかい桶出してやるからゆっくりつかりな! まったく素っ頓狂なこというんだから……」
ぶつぶつとまた言い出すユンファの声を聴き流し、風呂場に向かう。ユンファが出してくれた桶にお湯を入れてゆうひを入れてやれば、しばらくもがいた後慣れたのだろうかばちゃばちゃと遊び始めた。間抜けな姿に思わず鼻で笑いながら、俺も着替えて風呂に入る。と、何を思ったのか、ユンファもまたパジャマを脱いで一緒になって女湯へとやってきた。でっけえ肉体に男と間違えそうな胸を隠しもしないところは、まあ嫌いじゃない。
「あんたさ、今更だけど随分久しぶりだったね」
「まあなァ。あのゲームの最終戦終わって一か月もねえけどそんくらいぶっ倒れてたし、そのあと引退して引っ越したからなァ」
「痩せたね」
簡潔な言葉にちろりと視線をやれば、橙色の瞳がこちらをゆったりと見ていた。長い飾り気のなく美しい黒髪が白いタオルの間から滑り落ちて、褐色の肌に垂れていた。桃色に色づいた唇はそっけない言葉を落としてから、開かない。
「……ユンファ。俺とこいつ、しばらく泊めてくれねェか」
「金」
「それは知ってるしどうとでもすんよォ。退役軍人様舐めんなよオ、銭湯より儲かるぜェ?」
ぎゃはははと吹き出せば、ユンファは口角を吊り上げただけだった。聞くなという無言の訴えをつつくべきか躊躇っていることが窺えた。でもそんな話はこいつにしたかねえし、だから俺は粗野に笑っていった。
「家出終わったら、ちゃアんと帰るからよォ。な」
「わん!」
よろしくお願いしますよとでもいいたげなゆうひの声に笑いながら、彼女は仕方ないねと肩をすくめた。聞かないでくれるから、こいつは楽だ。
踏み込まないことは、こんなにも楽なのか。
湯船を出て、相変わらずびんびんに冷えたコーヒー牛乳をもらい、毎晩銭湯の掃除をする取決めをして、適当に過ごした。銭湯を閉めてゆっくり酒を飲む段階になってから、俺が、世の中馬鹿と頭でっかちばっかりだとぼやけば、ユンファは馬鹿筆頭がほざくなといった。気が楽で、泣きたくなった。
やっぱり泣けないままだけど、そのとき確かに泣きたいと思ったのだ。
とにかく夕夏にも立花にもついでにアマリネにも会いたくなかった。今はろくにあいつらの顔を見れる気がしなかった。少なくとも俺の中身がどれほどぐちゃぐちゃになってるかを知ってる野郎には。だから異邦人街の夕夏が近寄らないようなところをうろつき、ときには廃墟にまで足を運び、軍人を見かけるたびに避けて過ごした。
夕暮れになったらまたユンファの銭湯にいって掃除をし、銭湯を閉める段になってまた彼女と飲んだ。そんな毎日をただひたすらに過ごす。昔はずっとこうだった。もっと金はなかったが、少なくともやりたいことはあったはずだ。なんだっけなアとゆうひに尋ねながら、今日も、歩く。
ふと足を止めたのは、時折ちょっかいをかけにいっていた女の姿を見かけたからだった。藤色の髪に黒の羽織を身に着け、少し暗い店の中でガキと穏やかに話す、全盲の女。ぼんやりと立ち尽くす俺の視線に気づいたのか、ゆうひはわんと吠えて歩こうよと促す。けど犬の鳴き声に反応したのは俺じゃなくてガキ共だった。寄ってくるガキを噛むなよと注意して、店の中に足を踏み入れれば、包帯を巻いた目がこちらを向いていた。耳を澄ませているのだろうか、少しだけぽかんと口を開けて、それからああ、とふわりと笑った。
「錦ちゃんか。軍靴はどうしたの? 音が違うから間違えてしまったよ」
「今はもう退役軍人だよォ。てめえを追う狗じゃねえ」
俺の言葉に彼女はわずかに口をつぐんだ。驚いたのだろうか。もしも目玉があったなら、揺らいでいたのだろうか。そんな気がした。
「……なぁんだ。つまらないね。でも今君は誰かの狗でしょう?」
断言口調を鼻で笑う。それを肯定と受け取ったのか、唇を指でなぞりながら女はほほ笑む。
「君が軍人をやめてしまったのなら、もしかしたらまた殺人が起こるかもしれないね?」
「退役軍人にその脅しかァ? 何の意味があんだァ?」
「何の意味もないよ。冗談さ、もちろんね。……軍靴じゃなかった時点で、錦ちゃんにはこう聞いておくべきだったのかもしれない。
ねえ、錦ちゃん。君は今しあわせかい?」
答える言葉は、確かにあった。
喉から滑り落ちる前にあいつらの顔が浮かんできて、声が出る代わりに咳が出た。しばらく喉を落ち着けてから、にいと笑っていった。
「アア、幸せだぜエ? 独り身はつらいなァ、姉さんよオ?」
「クルエラ姉ちゃんは独り身じゃねえよ! だって将来俺の嫁になるんだもんな!」
突如割り込んできた声にクルエラと呼ばれた女は、くすりと笑った。早く帰れと促すように手をゆっくりと振られ、ふんと鼻を鳴らして振り返る。生意気なガキを蹴飛ばさないようにしてゆうひのもとに行けば、ゆうひと数人のガキのほかに、大人が立っていた。アアそっかァ、こいつもう、二十二なんだっけなァ。
「錦」
呼びかける声ににいっと笑ってやる。当たり前だがもう頬は赤くもねえし、赤い目はあの痛みを映してはいなかった。ただの安堵と愛情と怒りだけだった。そうだよ、てめえはそんくらいのほうがいいんだよ、と適当なことを思いながら近寄る、――っ。
「馬鹿野郎」
ひゅーひゅーとはやし立てるガキ共を身もせずに、夕夏は赤い目を怒らせて俺にキスをした。馬鹿なのはどっちだと鼻で笑いながら、それでもごめんとつぶやいた。
研究対象じゃなくなった俺を診察するほど、ほんとうはこいつも暇じゃないはずだ。なのに毎月必ず土曜日のいずれかに、翌日の何時から研究室へ来いと連絡が入る。大抵連絡が来るのは夕夏がいない時間帯だった。今日も夕夏が食い物を買いにいくときに一緒に出て、俺はゆうひを連れてここにいる。当のゆうひは今頃アマリネあたりにかわいがってもらってのんきに尻尾でも振っているのだろう。
研究室に日の光は入らない。無機質な電気は切れているところなど見たことがなかった。白い硬質的な部屋の中、立花は紙のようにうすっぺらに座っている。今までこいつの顔などろくに見たこともなかったが、やはり疲れているという印象は間違ってないような気がした。また寝てねえのか、それとも。
「なあ」
「なんですか」
手前に来た白いボタンをふたつ留める。振り返れば立花がこちらを見ていた。もう何度も行ったこと通りに歩いて立花の前に置いてある椅子に座り、腕を台の上に乗せる。立花もまた慣れた様子でその腕に手を伸ばした。淡々と作業をしていくのをぼんやりと見つめながら、尋ねる。
「夕夏に会ったのかァ」
ぴくりと手が止まった。顔を見やれば常に無表情か呆れ顔の立花のそれは、少し疎んでいるように見えた。俺ではない何かを。俺に刺そうとしている注射針を。
ぷつり、と肌の中に冷たい針が侵入してくるのを感じながら、立花の目を見る。きれいだとアマリネは思うのだろうか、男の目は深い藍色とそして裂傷のせいで濁った眼をしていた。
「何故そう思うのですか」
「なんとなく。あたりか」
立花はそれ以上答えない。長いチューブのついた針を残したまま道具を抜き取り、針を固定するためにテープを貼り付ける。カルテに何かを書き込みながらそれが明らかに俺に対する会話の拒否だということを表していた。
……めんどくせえなア、と思う。立花も夕夏も。
一通りの診察を終えて疲労の色を濃くした立花は、俺を見てちらりと顔色を変えた。一瞬だけのその表情は、おそらくずっとこいつが思っていたことなのだろう。
「バカかよォ、お前までさ」
「……何がです」
再び元の服に着替えながらつぶやいたことを拾い上げた立花は、おそらく俺の顔を見ても何もわからないのだ。だってこいつはアマリネでもねえし俺と似たような犬でもない。こいつは人間でそしてそれ以上に俺の親代わりだった。ヴォルターの馬鹿みてえに動物的でもねえ。
夕夏もこいつも、ときどきアマリネも、似てると思った。
「お前、『申し訳ない』とか、思ってねえよな?」
確認で、同時に断定だった。日の光の入らない部屋で時間がわかるのは時計だけだ。かちかちと音を立てる秒針と、それから機械のヴンヴン唸る音がやたらと耳につくが、その中でも人間の立てる音は際立つ。動物に近くなりすぎた身体には、うるさいくらいだった。
シャツを脱ぐ。目の前にある鏡に映るのは、傷だらけで引き締まった身体だった。もうろくに訓練もしてねえのにまだバランスのいい体型は、ただそれだけだった。後ろから忍び込む刺青の端っこも、散々っぱら見てたからなんとも思わなかった。背中の刺青を忌むように憂うように、けれど如実には伝わらせない一枚の紙越しの視線だけを感じていた。
立花は答えない。やっぱりこいつらは馬鹿ばっかだなァと鼻で笑いながら、さっさと着替えて診察室を出る。返事をし忘れた男のことは頭の隅っこに追いやって、隣の部屋に行けばゆうひがわんと俺を見て吠えた。アマリネの手から飛び出してきた馬鹿犬を抱き上げて、アマリネの顔も見ずにじゃあなといった。家に帰るのも億劫だった。
「めんどくせェなア……あいつらも」
な、とゆうひに鼻面を押し付ける。あったかい温度はすぐにぬるりとした温度になって、鼻の頭を舐められていることを知った。軍の敷地を出てすぐのところで、俺は少し立ち尽くす。ぺろぺろと馬鹿丸出しに舐めまくるゆうひをぎゅっと抱きしめながら、時間が過ぎていくことだけを願ってしまう。もう帰るのもめんどくせえ。
「言い訳くらいは聞いてやるかなァ……」
「ただいま――……って、いないのか?」
夕夏の声にゆっくりと瞼を開く。待っている間に寝ていたらしい。夜勤を免れたことを喜んでいたのを思い出しながら、身を起こせば、カーテンも閉められたままの暗い狭い部屋で夕夏の赤い目がこちらに気づいたようだった。ぱちんとつけられた電気のまぶしさに思いっきり顔をしかめ、少しだけ痛んだ頭に思わず眉間に皺を寄せる。何か買い物をしてきたのだろうか、ビニール袋をテーブルの上に置いて、夕夏はネクタイを緩め、ほっとしたような顔をしていた。最近は、ずっとこうだ。
俺が突然いなくなると、怯えているようだった。
ふつりと胸の中に苛立ちが湧いた。夕夏の愛情も立花の親愛も、今はとにかく憎たらしく思えた。アアやべえなァと思いながらも、むくむくと沸き起こる怒りは揺るがない。これが行き過ぎると獣化しちまうことをわかっていて、だから俺は必死にそれを押しとどめるために、ぎゅうと自分の身体を抱きしめる。
「豚丼っつってたよな、リクエスト。どんくらい食う?」
いつも通りの声音。俺は答えない。指先がむずりとした。
ワイシャツから気軽なTシャツに着替え、エプロンをしながら夕夏はこちらを向いた。苛立ちと憎たらしさと諦めと薄っぺらい愛情が俺を見ているように見えた。なんだかよくわからなかった。
「錦? どうかしたのか?」
「お前さァ」
声が違うと気が付いたのだろうか。腕の中の息は獣臭い。
苛立つ。
「立花に会ったんだろォ。何話したんだァ?」
ぴたりと動きを止めた。顔色は変わらない。表情も変わらない。手の動きだけが止まる。それからふと呼吸をした夕夏は、ほんの少し顔を歪めた。
「……お前の話以外に、何があるんだ?」
「俺の話ってなんだァ? 今更なに聞くってんだよ、もうさんざっぱら聞いてんだろォ? よめーが半年くらいしかないなんてとっくに聞いただろうが。何を聞いたんだよォ夕夏ァ?」
自分の声すらも苛立たしい。喉に手を伸ばして少しだけ掻いた。ぷつ、と小さな音がした。指先に触れたのはおそらく赤い液体だろうが、どうでもいい。それよりも指を覆い始めている毛のほうが、面倒だった。
夕夏は俺を見たまま口ごもる。視線を逃がすようにそらしたあと、それからぽつりといった。
「お前はなんであいつを許せるんだ」
「だからしつっこいっつってんだろオ!? あれは俺が選んだことであいつらが俺に無理やりさせたことじゃねえんだよ!!」
吠える。ゆうひがぱっと飛び上がりついでのようにわんと吠えた。どう聞いたって俺の声のほうが獣っぽい。おいおいついにお犬様を越しちまったのかよォ俺は。馬鹿げたことをいって笑う自分を知りながら、夕夏を睨む。獣めいた匂いは、うんざりだ。
「それはもうわかってる。そうじゃない、違う、言葉を間違えた。許せるじゃない、なんでお前はあんな――っ、あいつなんかを信用できるのかわからねえっていってるんだよ」
「お前に立花の何がわかるってェんだァ? 俺ですらあいつのことなんざろくすっぽ知りもしねえ、なのになんでてめえがそんなこと口走れるんだよ、ナァ?」
ぐっと口ごもり視線が揺れるのを知りながら、俺は意地悪い顔で問う。
「お前の立花に対するそりゃなんだァ? お前の気持ちは俺と無関係なんじゃねえの? お前は、俺がしんじまうことをあいつに押し付けられりゃア満足なんかァ?」
「馬鹿いうなよ」
怒気の含んだ声を鼻で笑う。睨んでくる赤を睨み返す。
「俺は、お前が死ぬのがつらいんだよ、それくらいわかんだろ!? お前は自分のこと馬鹿だって笑うけどそんでもわかんだろうがそんくらい!! それをお前が口に出すな!」
珍しい怒声にだけど俺はにやにやと笑う。なんだよこいつらみィんなおんなじ目ェしていいやがってさァ。
「立花だって、俺がしんだらつれェよ」
ぽつりとつぶやいた。立った。着替えたまんまの恰好だったから、床でぐるぐる回ってたゆうひを抱き上げた。歩いた。夕夏の横を通り過ぎようとして腕をつかまれた。振り払うついでにキスをした。あっけにとられたような馬鹿の頬を一発ひっぱたいた。玄関に転がったままのサンダルを履いた。扉を開けて、いった。
「しばらく出かけるわァ。じゃあなア」
パタンと扉を閉じた。ゆうひを抱いた指を見れば、人間のそれに戻っていた。
「馬鹿ばっかだなァ……どいつもこいつも」
「……こんな朝っぱらからなんでまた……しかも犬っころまで連れてきて!」
「朝風呂営業してるときもあんだろォけちけちすんなよユンファ」
「わん!」
「わんじゃないってばわんころ! ったく」
早朝、銭湯の戸を叩く音がしばらく街中に響き渡ったかと思えば、女性二人と犬の鳴き声が響く。その騒々しさに自分で眉を顰めながらゆうひの口に手を突っ込む。がう、と吠えているままに噛んでから、ゆうひは驚いたように目をぱちくりさせぺろりと俺の手を舐めた。まあ黙りゃあなんでもいい。
そしてついっと仁王立ちする褐色の肌の女を見やれば、彼女は明らかに寝起きだったようで、見るからにパジャマ姿でしかもそれなりに乱れているようだった。迫力も半減している。まあどうでもいいわなァ。
「一応時間外だから割高にするよ」
「構わねえよオ、対して高くしねェだろォ?」
にひ、と笑ってそういえば、ずり落ちたメガネをかけなおしたユンファは、かっわいくないガキとぶつぶつ文句を言いながら、裏口から銭湯の中へと向かう。なんだかんだこいつ面倒見いいよなァと思いながら、リードもつなげてねえのにちょこまかとついてくるゆうひを見れば、馬鹿はわんと小さく吠えた。
「そういやあんた犬なんか飼ってたの? というかこれあんたの犬?」
ふと思い出したとでもいうかのように問いかけられ、見てないと知りながら肩をすくめて答える。
「アア、俺と夕夏で飼ってんだァ」
「夕夏……? こないだいってたあんたの彼氏だっけ? 苗字は?」
「黒澤」
ぴたりと足を止めたユンファに気づかずにそのまま追突し、よろけながら後ずさると、大女は口元を抑えながらちらりとこちらを振り返った。
「あんだよ?」
「……いや、正直予想外だったわ。この間のあんたの退役軍人ってのもホラにしか思えないけど、そっちも意外かも」
「知ってんのかァ夕夏のこと」
「詳しくは知らないね、見かけたくらい。ふうん……面白いもんだね。わんこの名前は?」
「ゆうひ。ナァ、風呂こいつも入れていいかァ?」
前々からやってやりたいと思っていたことを言えば、目をかっぴらいたユンファが素っ頓狂な声を上げた。当たり前か。
「なに馬鹿なこといってんの!? 犬なんかいれたら人間様に病気移すに決まってんだろうよ、銭湯潰す気!? だめだからな!」
「俺のことは引っ掴んで入れたくせして犬はダメなのかよォ」
「あんたは犬じゃなくて人間でしょうが! ったくしっかたないな、犬用にでっかい桶出してやるからゆっくりつかりな! まったく素っ頓狂なこというんだから……」
ぶつぶつとまた言い出すユンファの声を聴き流し、風呂場に向かう。ユンファが出してくれた桶にお湯を入れてゆうひを入れてやれば、しばらくもがいた後慣れたのだろうかばちゃばちゃと遊び始めた。間抜けな姿に思わず鼻で笑いながら、俺も着替えて風呂に入る。と、何を思ったのか、ユンファもまたパジャマを脱いで一緒になって女湯へとやってきた。でっけえ肉体に男と間違えそうな胸を隠しもしないところは、まあ嫌いじゃない。
「あんたさ、今更だけど随分久しぶりだったね」
「まあなァ。あのゲームの最終戦終わって一か月もねえけどそんくらいぶっ倒れてたし、そのあと引退して引っ越したからなァ」
「痩せたね」
簡潔な言葉にちろりと視線をやれば、橙色の瞳がこちらをゆったりと見ていた。長い飾り気のなく美しい黒髪が白いタオルの間から滑り落ちて、褐色の肌に垂れていた。桃色に色づいた唇はそっけない言葉を落としてから、開かない。
「……ユンファ。俺とこいつ、しばらく泊めてくれねェか」
「金」
「それは知ってるしどうとでもすんよォ。退役軍人様舐めんなよオ、銭湯より儲かるぜェ?」
ぎゃはははと吹き出せば、ユンファは口角を吊り上げただけだった。聞くなという無言の訴えをつつくべきか躊躇っていることが窺えた。でもそんな話はこいつにしたかねえし、だから俺は粗野に笑っていった。
「家出終わったら、ちゃアんと帰るからよォ。な」
「わん!」
よろしくお願いしますよとでもいいたげなゆうひの声に笑いながら、彼女は仕方ないねと肩をすくめた。聞かないでくれるから、こいつは楽だ。
踏み込まないことは、こんなにも楽なのか。
湯船を出て、相変わらずびんびんに冷えたコーヒー牛乳をもらい、毎晩銭湯の掃除をする取決めをして、適当に過ごした。銭湯を閉めてゆっくり酒を飲む段階になってから、俺が、世の中馬鹿と頭でっかちばっかりだとぼやけば、ユンファは馬鹿筆頭がほざくなといった。気が楽で、泣きたくなった。
やっぱり泣けないままだけど、そのとき確かに泣きたいと思ったのだ。
とにかく夕夏にも立花にもついでにアマリネにも会いたくなかった。今はろくにあいつらの顔を見れる気がしなかった。少なくとも俺の中身がどれほどぐちゃぐちゃになってるかを知ってる野郎には。だから異邦人街の夕夏が近寄らないようなところをうろつき、ときには廃墟にまで足を運び、軍人を見かけるたびに避けて過ごした。
夕暮れになったらまたユンファの銭湯にいって掃除をし、銭湯を閉める段になってまた彼女と飲んだ。そんな毎日をただひたすらに過ごす。昔はずっとこうだった。もっと金はなかったが、少なくともやりたいことはあったはずだ。なんだっけなアとゆうひに尋ねながら、今日も、歩く。
ふと足を止めたのは、時折ちょっかいをかけにいっていた女の姿を見かけたからだった。藤色の髪に黒の羽織を身に着け、少し暗い店の中でガキと穏やかに話す、全盲の女。ぼんやりと立ち尽くす俺の視線に気づいたのか、ゆうひはわんと吠えて歩こうよと促す。けど犬の鳴き声に反応したのは俺じゃなくてガキ共だった。寄ってくるガキを噛むなよと注意して、店の中に足を踏み入れれば、包帯を巻いた目がこちらを向いていた。耳を澄ませているのだろうか、少しだけぽかんと口を開けて、それからああ、とふわりと笑った。
「錦ちゃんか。軍靴はどうしたの? 音が違うから間違えてしまったよ」
「今はもう退役軍人だよォ。てめえを追う狗じゃねえ」
俺の言葉に彼女はわずかに口をつぐんだ。驚いたのだろうか。もしも目玉があったなら、揺らいでいたのだろうか。そんな気がした。
「……なぁんだ。つまらないね。でも今君は誰かの狗でしょう?」
断言口調を鼻で笑う。それを肯定と受け取ったのか、唇を指でなぞりながら女はほほ笑む。
「君が軍人をやめてしまったのなら、もしかしたらまた殺人が起こるかもしれないね?」
「退役軍人にその脅しかァ? 何の意味があんだァ?」
「何の意味もないよ。冗談さ、もちろんね。……軍靴じゃなかった時点で、錦ちゃんにはこう聞いておくべきだったのかもしれない。
ねえ、錦ちゃん。君は今しあわせかい?」
答える言葉は、確かにあった。
喉から滑り落ちる前にあいつらの顔が浮かんできて、声が出る代わりに咳が出た。しばらく喉を落ち着けてから、にいと笑っていった。
「アア、幸せだぜエ? 独り身はつらいなァ、姉さんよオ?」
「クルエラ姉ちゃんは独り身じゃねえよ! だって将来俺の嫁になるんだもんな!」
突如割り込んできた声にクルエラと呼ばれた女は、くすりと笑った。早く帰れと促すように手をゆっくりと振られ、ふんと鼻を鳴らして振り返る。生意気なガキを蹴飛ばさないようにしてゆうひのもとに行けば、ゆうひと数人のガキのほかに、大人が立っていた。アアそっかァ、こいつもう、二十二なんだっけなァ。
「錦」
呼びかける声ににいっと笑ってやる。当たり前だがもう頬は赤くもねえし、赤い目はあの痛みを映してはいなかった。ただの安堵と愛情と怒りだけだった。そうだよ、てめえはそんくらいのほうがいいんだよ、と適当なことを思いながら近寄る、――っ。
「馬鹿野郎」
ひゅーひゅーとはやし立てるガキ共を身もせずに、夕夏は赤い目を怒らせて俺にキスをした。馬鹿なのはどっちだと鼻で笑いながら、それでもごめんとつぶやいた。