ぷつりと切れたそれ
イカロスの翼の集会所での一件から数日後、ウィサットはキロに連れられて島――南に着くと同時に一度顔を出した彼女の実家のある島――へと戻ってきていた。キロが何回か口にしたマリー姉さんという少女とはつい先日会えたからでもあるのだろう。
毛先だけ黄色い赤髪の中に、ふたつぴょこんと猫のような耳が飛び出す讃える者だった。キロやマリー姉さんことマリーツェ、それから先日会ったトリーという少年もまた「讃える者」という分類に区分されるらしい。キロに教えを乞うと、彼女は慣れた口調で説明した。そのままの情報をデータベースに埋め込んで行く。
「讃える者は動物や翼人を讃えることで、彼らと似たような力や容姿を手にいれられることになったある種の亜人ですね。人間寄りの異形です。南ではわりと讃える者が多いので、誰も気持ち悪がったりはしませんしね」
キロの言葉の節々やブラジェナという女の言葉を復習する上でウィサットが出した結論は、つまるところキロという少女が旅人であるということだった。彼女はこの六年間でチェネレーシアという名の大陸を東西南北に歩き回っていたのだという。だからこそ南の特殊な人間であることの説明に手慣れているのだろう。
島に来るまでに舟を漕いだのだが、キロがひとりでやろうとするのをとめて手伝いを申し出ると、姉は笑いながら教えてくれた。いずれ帰らなければならないという北には海があるらしいが、たぶん君はあまり利用しないと思いますよと姉はいう。
「君は機械ですし水に強い材質で作られたところで海の中には入れませんしね。どうせなら遊んでみましょうか」
こうですよ、と教わる通りに櫂を漕ぐ。ふたりで並んで動かすと舟はゆっくりと水面を滑っていった。水の動きや動力によるものを視覚で確認していると、ふと静かな声が響いた。
「君を早く逃がさなければいけませんね」
ウィサットが顔を上げるとキロの真剣な表情が視界に入った。真剣な表情であるということしかわからないが、彼女は何を案じているのだろう。島に初めて来たときのキロの家族の反応だろうか。
ウィサットは機械人形としてありきたりな様相をしている。やや長身気味だが顔立ちは醜いわけでもなくある程度整っており、身体のバランスもちょうど良い。剃り上がった頭と顔の左側面にできた火傷の痕さえなければ、なかなかの美丈夫といってもおかしくはない。けれどだからこそ、家族を守ろうとしている一族からはキロの裏切りではないかと映ったようだった。
言葉に彼は蓄積記録の中から映像を選び出す。改めて確認すると、確かにウィサットは歓迎されているとはいえないようだ。あのとき感じた悪意ある視線までもリアルに感知するが、しかし今感じている棘のような視線は、過去のものではない。
声がかかるより早くにウィサットはキロの腕をつかんで抱き寄せた。突如放り出された櫂がビシャッと音を立てて海面に叩きつけられる。いつの間に近くまで来ていたのだろう、舟が一艘すぐ右手に来ていた。突き刺さる視線は敵意と悪意のどちらもが織り込まれた毒のようにウィサットと、そしてキロを見ていた。無論ウィサットにとってそれは不快な出来事だ。キロにそんな目を向けるなんてあってはならないことだった。
「ウィサット!? どうしたんですか?」
「キロ!!」
怒声が海面にぶつかって空へ放り出された。ウィサットが見る方へとキロも視線をやって、だからこそあ、と小さな声を上げたのだろう。彼女の婚約者の父親だと教わった男だった。
「おじさん、こんにちは。ウィサット、離してください」
「いつまでそんな人形と遊んでいるんだ! こっちに来なさい!」
「無茶をいわないでくださいおじさん……。このままだと僕もウィサットもぽちゃんしちゃいますよー。とりあえず島に着いてからにしませんか?」
僕はいいので漕いでくださいという言葉を受けて、ウィサットは渋々姉から手を離し櫂を握った。隣に並んだ男の舟など確認もせずに漕ぎ始める。水が舟の中に入ったのだろううわっという声が聞こえたが、キロのくすくすという笑い声を聞くことの方が大事だった。隣でほっとしたように目元を緩ませ腰掛けた少女をちらりと見やると、彼女は柔らかい笑みを浮かべている。心から安堵しているとキロの体温が伝えていた。
だめですよウィサット、そう嗜める声は優しい。
また思考回路に似た回線が熱を持った。今度は無理に温度を下げようとはしなかった。
島に着いてすぐにキロと引き離されウィサットは彼女の家の奥にある部屋に取り残された。やることもなくぼんやりしているうちに空は暮れていく。太陽が望めるわけではない曇天の中ながら、それでも日の夕紅は曇りの向こうから色を指していた。ウィサットには空の美しさなどわかるはずもないが、北と南の空の空気の違いは感覚気管が優秀に受けとめていた。南の空気は人間が暮らすためによりよい値を保っている。汚染は北のほうが深刻なのだろう。姉が南の出身でよかったと彼の思考回路は思った。
そこでふと言葉の分析をしていた機能がおかしな点を指摘した。姉はウィサットを北に連れて帰るといっていた。けれど彼女は「しまわれる」ともいっていた。「しまわれる」の指す言葉の意味をキロとブラジェナの会話を聞いていないウィサットはわかるはずもないのだが、しかしよくないことだということはわかる。なぜならトリーに対してキロは、「最後の旅がしたかったから」といったのだ。彼女は、姉は、ウィサットを北に置いて南へと帰ってしまうのではないだろうか?
途端にウィサットは自身でシミュレーションプログラムを立ち上げると、キロが帰ってしまうという懸念をなくすために様々な条件を付与してシミュレートを始めた。これがウィサット本人の意思なのか否かは誰にもわからない。彼はあくまで機械人形であり決して人間にはなり得ないからだ。だからこそ導き出された幾つかのルートを前にして、ウィサットはもはやキロ専用と成り果てたひとつの回路がショート間際に陥っていることなど気がつきはしなかった。
「ウィサット、お待たせしました……って、どうしたんですか? ぼんやりして」
声がして隣の部屋からこちらへとやってくる通路からキロは現れた。いつもと同じような姿形ではあるが、紺色の靴がないだけで彼女のテリトリーにいるということがはっきりとわかる。立ち尽くしたままだったことを知覚するが体力の上限などないウィサットが辛いというはずもない。ただ自身より背の低い姉を見下ろすだけだ。
「また機械そのものに戻ってしまいましたね。僕と話すのは嫌ですか?」
「そんなことは、ないです」
「なら話しましょう。君を早く連れ帰らないとうるさいですし、日程を組まないと」
すとんと絨毯の敷かれた床に直接腰を下ろし、キロはにこりとウィサットを見上げて笑った。促されるままに腰を下ろすとキロは満足そうに微笑む。こちらに着いてから着せられた民族衣装はいつも分厚いコートを着ていた彼からすると心もとないほど薄い生地なのだが、キロはウィサットの格好を見るたびに満足そうな顔をするのだから、それでも構わないだろう。
「まほろばの島があるってことも、それが南の蒼穹層にあるっていうことも君は知っているんですよね?」
ウィサットはこくりと頷いた。
「今その島を求めて各国が争っているみたいです。南は東とは同盟を結んでいますが北と関わりはありません。北の迷宮船の船長がどのような決断をするのか僕には判断がつきませんが、もしかしたら南との国交を断絶するかもしれません。そうなってしまうと君を故郷に帰すことができなくなってしまいます。それはなんとしてでも避けなければいけないので、早いうちに出ることにしましょう」
「どうしてぼくは、帰らなければ、いけないのですか」
ウィサットが声帯気管を震わせて尋ねると、キロはきょとんと地図に向けていた顔を上げた。ウィサットをまじまじと見つめてからにへらと笑う。
「この島にいてもこの国にいても、君は受け入れられないからです。君のいるべき場所ではないからです。どうしてかわかりますか?」
「ぼくが、機械人形だから、ですか」
「ええそうです。願わくば南に敵対しないでいただきたいところですが、それは君の国のトップが決めることですから僕にはわかりません。それに、僕には婚約者がいるから、君と一緒にいると怒られてしまうんですよー困りますね」
姉弟なのにとキロは笑う。少しだけおかしそうに朱色の目を細めて笑った。
「姉さんは、結婚したいの、ですか」
目が見開かれた。ウィサットを見つけた赤い目が。
先程までの笑みは掻き消えて違う種類の笑顔が浮かぶ。表情解析が追いつくよりも先にウィサットには彼女の笑みの意味がわかった。
「ええ、いつかは。君を送り届けたら僕はきっと結婚しますよ」
「誰とですか」
「君の知らない僕の婚約者たちと」
彼女はもう諦めているのだ。
*
ウィサットは随分と人間らしくなったとキロは思う。たった一週間ちょっとしかそばにいなかったにもかかわらず、機械そのものだったときに比べれば圧倒的に彼は人間らしくなった。キロの言葉に表情こそ変えないが、声の調子に彼の感情――感情というものがあるというのなら――が現れているように思う。
この背の高い突然できた弟を、けれどキロはとても大切に思っていた。それは彼自身が人間ではないからこそ生まれる、他意のない素直な疑問ゆえにだった。これがもし他の友人たちや婚約者たちから発せられたのなら、きっとキロはもう二度とこの島へと帰ってこれなかったに違いない。キロという少女は本人が自覚しているようにとても脆くできていた。
結婚したいのか、とそう問われたときに、決して誰にもいうつもりのない本音が口から零れ落ちそうになった。結婚などしたくない、いつまでも国々をまわって誰のものにもなりたくない、そんな願望が声になって吐き出されそうだった。諦めたくなんてないけれど、受け入れたほうが楽だということもわかっていたからこそ、ウィサットの肩に身を任せたのだ。
「……僕の婚約者の話をしましょうか」
「興味ない、です」
「まあまあそういわずに」
ウィサットのにべもない返事に苦笑しながらひっそりとした声で三人の婚約者のことを話す。ウィサットには興味もない話だろう、姉とはいっても本当の姉ではない赤の他人のことなのだから。それを少しだけさみしいと感じながら、キロは小さく笑みを浮かべる。
「さっきのおじさんの息子さん、ドゥシャンは今年の頭に二十七になったんです。僕の十一こ上ですね。赤い髪はそんなに長くなくてさらさらなんですよ。褐色に近い茶色の目をしていて、僕のことをキロさんと呼んでくれます。穏やかで優しくて、僕と結婚することを一番最初に了承してくれたひとで、僕の初めての婚約者でもあるんです」
ウィサットは相槌を打つわけでもなくただ黙ってキロの体重を支えている。相槌のないことすら気にせず、キロは続けた。
「それから二人目の婚約者は、三十一か二、でしたか。ドゥシャンよりも年上のツィーリルです。彼は僕らの一族では珍しくきれいな白い髪をしているんですよ。僕とよく似た赤い目をしていますが、ツィーリルと僕はほぼ血縁関係がありません。かなり遠縁なんですね。気難しくて荒っぽいところもありますが、家族のことを大切にする頼りになる男の人です。僕のことをキロと呼びますが、いまだに慣れないのでときどきびっくりしてしまうんですよね。彼はとても声が低いので」
目を閉じる。ウィサットの人に良く似た体温を感じながら、聞こえてくるポンプの音を聞く。ウィサットの心臓はポンプでできている。人間の心臓によく似たポンプは、蒸気を利用した機械だ。難しい仕組みはわからないが、長年放置しているとさびれて動かなくなってしまうのだとブラジェナがいっていた。
「三人目は一番僕と歳が近くて二十三歳のシモンです。薄い橙色の髪にドゥシャンと同じ目の色をしています。ドゥシャンのいとこでもあるんですよ。ふたりはあまり似ていませんが、ドゥシャンのお父さん――さっきのおじさん――とシモンのお母さんは双子なのでとてもよく似ているんです。シモンはだけどドゥシャンにも母親にも似ていなくて、よく僕をからかって遊びます。お兄さんなんだから優しくしてくれたっていいんですけど、ちょっと意地悪なんですよ」
「姉さんを、泣かしますか」
ぽつりと落ちた声にきょとんとしてしまう。ウィサットはキロに対してだけ優しい。それは彼のとらえる姉だからか。もしも「姉」というものではないと知ったとき、彼は今と同じように僕に優しくしてくれるのだろうか。
キロはウィサットの優しさが欲しい。今はそれだけが欲しい。だからこそ彼の勘違いを正せないままなのだ。
「もう僕も子どもじゃないですし、泣きませんよ。三人とも癖が強いですが、大切な僕の未来の旦那さんたちです」
「どうしてぼくに、そんな話を、したんですか」
思わず口をつぐむ。ふと寄りかかっていたウィサットの身体が後ろへと引かれ、予測していなかったことにそのままキロはあぐらをかいた膝の上にぽすんと倒れてしまう。ぽかんと青い瞳を見つめると、ウィサットの硝子玉のような目がキロを見つめていた。透き通るほど青い色は、キロが見たことのない空の色なのかもしれない。
キロは笑う。いつものようにへらへらと笑う。
「大切な弟に、教えておいてあげたかったんです。僕は南で幸せになりますよって」
「ぼくを北に、置いてけぼりに、するのに。姉さんは、ぼくを置いて、幸せになるんですか」
そうですよ、と告げようとした口を何かが覆った。ウィサットの頭がぽろんと落ちるように降ってきた。ウィサット? そう尋ねる唇を彼の手は覆ったままで、人間によく似たはずの体温が熱くなっていることがわかった。もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき、ウィサットは平常時となんら変わらない声でいった。
「姉さん、ぼくと一緒に、逃げましょう」
キロは空を望んだことなどない。
彼女は旅さえできればそれでいいのだ。それだけで幸せだったのだ。だから空になんて対して興味を抱きはしなかった。大地を踏みしめどろどろになりながらも旅をする汚さを愛していた。
けれど、この空を欲しいと、ふと思った、思ってしまった。
幸せになんてなれないと知りながら、思ってしまったのだ。
零れ落ちた水滴を不器用になぞる指を愛しく思いながら、次から次へと流れる涙をどうすることもできなかった。
きっと僕は、馬鹿だったのだ。
島を出たのは婚約者の話をして二日後の早朝のことだった。降りしきる霧雨の中、当然のような顔をして見送りにきた三人の婚約者とそれぞれに抱擁を交わす。気をつけて、早く帰って来いよ、いつまで待たせるんだよ。三者三様の言葉に苦笑して、舟にひとり佇むウィサットのもとへと向かうと彼はどことなくむすっとした顔のままキロを見た。
「どうしました?」
「姉さんは、どうして彼らと、抱き合うのですか」
言葉のチョイスに思わずキロは赤面する。機械人形に常識などないのだから仕方ないといえばそれまでだが、しかし十六歳の少女が聞くには少し恥ずかしい言葉だ。そう考えなければいいだけなのだが、多感なお年頃の少女としては如何せん難しい。
「だ、抱き合うという言葉は少し方向性が違いますよ、ウィサット……。僕らは旅をする前に必ず家族の匂いを纏うんです。そのために一番手っ取り早いのが抱擁なんですよ。さあ、北に向かいましょう。他の家族が起きてくる前に」
キロの言葉に渋々と納得したのかウィサットはゆっくりと舟に腰掛ける。もしかしたらキロ以外には彼の動きも、普通に腰掛けたように見えるのかもしれないなとふと思う。渋々と納得するなんて、機械人形である彼にそんな思考はないはずなのに。不思議だと小さくつぶやいた。
舟はゆっくりと進む。今回はウィサットが漕ぎ手を買って出てくれたため、キロはのんびりと針路を指示すればいいだけだ。ブラジェナにもらったビニールでできた上着を羽織るキロとは対象的に、かすかな雨に濡れながらもウィサットは舟を漕いでいた。
この程度の雨なら問題ないというウィサットを信じたのだが、もし彼がまた壊れたらキロはブラジェナかグロスビーに修理費を払えるだろうか。ウィサットの修理費をブラジェナからもらうから構わんと笑っていたグロスビーではあるけれど、キロとしてはこれ以上ブラジェナに迷惑をかけるわけにはいかない。すぐに様子がおかしくなったら変わろうと思いつつ、ウィサットの左側面にある傷痕を見つめていた。
パシャンパシャンと櫂が水面を叩く音が響く。群島の人間でなければなかなか本土には辿り着けないだろう。彼らはもう行き来に慣れ切って淡々と櫂を漕ぐ。時折すれ違う舟に互いに挨拶がわりに手を振り合う。手を止めることは極力しない。外海に出なければ海も荒れることはないのだが、そうはいっても誰もが利用する水脈に立ち止まるわけにはいかないのだ。
長い沈黙のあと、ウィサットはキロを振り返ると見えました、とつぶやいた。顔を上げウィサットの指す方向を見やれば確かにそこは本土だ。
「針路を指していないのによく辿り着けましたね」
「以前いった、ところの、座標は、登録して、あります」
「君はとっても優秀なんですね。ありがとう、ウィサット」
どことなく誇らしげな様子のウィサットににこりと笑いかけると、彼は満足そうな顔をした。表情は変わっていないのかもしれないが、喜んだことくらいはキロにもわかる。
舟着き場は予想していたほど混み合ってはいなかった。舟を一族の小屋にしまってからウィサットの手を握って北へと向かう。
静かな旅だと、ふと思った。
ひとりだけの旅は、確かに静かだ。国に知り合いができないままだとなおのこと静かにひとりで巡ることになる。知り合いができてからだと楽しくてそして別れを惜しむことができるようになる。だからこそひとりになったときの静かな旅は、いつも悲しくて心地よい。
けれど、ウィサットといるのにも関わらず、キロはこの旅を静かだと思った。別れがもう目の前に迫っているというのに、不思議なほど心は凪いで、ただ繋いだ指の大きさを思うだけだ。
汽車に乗る。ブラジェナの家まではまだまだ遠い。二人分の切符を購入してウィサットに一枚手渡すと、彼は不思議そうに首を傾げた。人通りの多いホームを歩きながらキロは説明する。この小さな紙切れ一枚で大陸のそれぞれの主要な都市には辿り着けるのだと。南に向かったときと経路が違うのは何故と問われても、旅人は苦笑するしかない。南と北の明確なる線引きなど彼女にはわからないからだ。機械人形が待ち構えていたら、そこから先は確実に北であるということを知っている。
汽車が雑に作られたプラットホームに滑り込んで来て、ウィサットの手を引いたまま車内に入る。後方の車両はひとが少ないことを承知しているキロがすたすたと歩を進めると、ウィサットは言葉を発さないままあとをついてきた。最終車両の二人がけの席にちんまりと収まると、隣に座る男の体躯の大きさに改めて目を見張る。並んで座ってもまだまだウィサットのほうが大きい。
黙りこくりウィサットの手を握ったまま、キロは穏やかに目を閉じた。日帰りのためにブラジェナとグロスビーへのお土産以外に荷物はない。それもウィサットが片手で持ってくれているから、ただ彼の肩に身を任せていればいいだけだ。柔らかな振動に揺られていると、大海の潮に流される弱々しい魚のような気分になる。波に翻弄されて僕はやがてどこかに留まることを覚えるのだろう。留まることの安寧を。
ふと目が覚めるとちょうど汽車の扉が開いたところだった。顔を上げて下車駅であると気がつき、ウィサットを促して降りる。駅を降りてからはまたひたすらに歩くだけだ。グロスビーと名乗った整備士にお願いするのが筋な気もするのだが、キロは生憎彼の家を知らない。結局はブラジェナを頼ることになるのだろう。
会話はない。静かな沈黙が揺蕩うだけだ。北では雨は止んでいた。
ブラジェナの住む廃れた観覧車が見えてきた頃、唐突にキロはぐいと腕を引かれた。もちろん振り向いた先にいるのはウィサットだが、しかしキロの目には別人のように見えた。彼は、とても、いや、まるで人間そのもののような表情をして、キロを見ていた。
「姉さん」
実質どのくらいの時間を共に過ごしたのだろう。三週間もなかったに違いない。それでもキロを呼ぶ声帯の震えは、彼女によく馴染んでいた。
にこりと笑う。自身は絶対なのだと信じるようにキロは笑って、ウィサットの手を両手で包む。青年の姿をした機械人形はけれどきょとんとするでもなく、人間めいた表情を崩すことはなかった。
「ここでお別れにしましょうか、ウィサット。ここからジェナ姉さんの家までは見えていますしたどり着けますよね。よくできた弟がいて、僕はとっても幸せです」
穏やかにそう口にしたキロを見下ろしていたウィサットは、彼女の手をそっと払った。目を見開く姉を抱き寄せて青年は呟く。
「良い旅を、姉さん」
するりと腕が離れた。触れていた温度が去っていく。ウィサットは一度もキロを見ることなく歩いて行った。自身の帰る場所へ、躊躇なく帰って行った。
背の高い影が小さくなっていくのを最後までついに胡麻粒ほど小さくなってしまった影を見送ってから、キロは子どものようにしゃがみ込む。弟を呼んだ声帯を擦らせて、嗚咽を漏らして泣いていた。
ただ、泣いていた。
毛先だけ黄色い赤髪の中に、ふたつぴょこんと猫のような耳が飛び出す讃える者だった。キロやマリー姉さんことマリーツェ、それから先日会ったトリーという少年もまた「讃える者」という分類に区分されるらしい。キロに教えを乞うと、彼女は慣れた口調で説明した。そのままの情報をデータベースに埋め込んで行く。
「讃える者は動物や翼人を讃えることで、彼らと似たような力や容姿を手にいれられることになったある種の亜人ですね。人間寄りの異形です。南ではわりと讃える者が多いので、誰も気持ち悪がったりはしませんしね」
キロの言葉の節々やブラジェナという女の言葉を復習する上でウィサットが出した結論は、つまるところキロという少女が旅人であるということだった。彼女はこの六年間でチェネレーシアという名の大陸を東西南北に歩き回っていたのだという。だからこそ南の特殊な人間であることの説明に手慣れているのだろう。
島に来るまでに舟を漕いだのだが、キロがひとりでやろうとするのをとめて手伝いを申し出ると、姉は笑いながら教えてくれた。いずれ帰らなければならないという北には海があるらしいが、たぶん君はあまり利用しないと思いますよと姉はいう。
「君は機械ですし水に強い材質で作られたところで海の中には入れませんしね。どうせなら遊んでみましょうか」
こうですよ、と教わる通りに櫂を漕ぐ。ふたりで並んで動かすと舟はゆっくりと水面を滑っていった。水の動きや動力によるものを視覚で確認していると、ふと静かな声が響いた。
「君を早く逃がさなければいけませんね」
ウィサットが顔を上げるとキロの真剣な表情が視界に入った。真剣な表情であるということしかわからないが、彼女は何を案じているのだろう。島に初めて来たときのキロの家族の反応だろうか。
ウィサットは機械人形としてありきたりな様相をしている。やや長身気味だが顔立ちは醜いわけでもなくある程度整っており、身体のバランスもちょうど良い。剃り上がった頭と顔の左側面にできた火傷の痕さえなければ、なかなかの美丈夫といってもおかしくはない。けれどだからこそ、家族を守ろうとしている一族からはキロの裏切りではないかと映ったようだった。
言葉に彼は蓄積記録の中から映像を選び出す。改めて確認すると、確かにウィサットは歓迎されているとはいえないようだ。あのとき感じた悪意ある視線までもリアルに感知するが、しかし今感じている棘のような視線は、過去のものではない。
声がかかるより早くにウィサットはキロの腕をつかんで抱き寄せた。突如放り出された櫂がビシャッと音を立てて海面に叩きつけられる。いつの間に近くまで来ていたのだろう、舟が一艘すぐ右手に来ていた。突き刺さる視線は敵意と悪意のどちらもが織り込まれた毒のようにウィサットと、そしてキロを見ていた。無論ウィサットにとってそれは不快な出来事だ。キロにそんな目を向けるなんてあってはならないことだった。
「ウィサット!? どうしたんですか?」
「キロ!!」
怒声が海面にぶつかって空へ放り出された。ウィサットが見る方へとキロも視線をやって、だからこそあ、と小さな声を上げたのだろう。彼女の婚約者の父親だと教わった男だった。
「おじさん、こんにちは。ウィサット、離してください」
「いつまでそんな人形と遊んでいるんだ! こっちに来なさい!」
「無茶をいわないでくださいおじさん……。このままだと僕もウィサットもぽちゃんしちゃいますよー。とりあえず島に着いてからにしませんか?」
僕はいいので漕いでくださいという言葉を受けて、ウィサットは渋々姉から手を離し櫂を握った。隣に並んだ男の舟など確認もせずに漕ぎ始める。水が舟の中に入ったのだろううわっという声が聞こえたが、キロのくすくすという笑い声を聞くことの方が大事だった。隣でほっとしたように目元を緩ませ腰掛けた少女をちらりと見やると、彼女は柔らかい笑みを浮かべている。心から安堵しているとキロの体温が伝えていた。
だめですよウィサット、そう嗜める声は優しい。
また思考回路に似た回線が熱を持った。今度は無理に温度を下げようとはしなかった。
島に着いてすぐにキロと引き離されウィサットは彼女の家の奥にある部屋に取り残された。やることもなくぼんやりしているうちに空は暮れていく。太陽が望めるわけではない曇天の中ながら、それでも日の夕紅は曇りの向こうから色を指していた。ウィサットには空の美しさなどわかるはずもないが、北と南の空の空気の違いは感覚気管が優秀に受けとめていた。南の空気は人間が暮らすためによりよい値を保っている。汚染は北のほうが深刻なのだろう。姉が南の出身でよかったと彼の思考回路は思った。
そこでふと言葉の分析をしていた機能がおかしな点を指摘した。姉はウィサットを北に連れて帰るといっていた。けれど彼女は「しまわれる」ともいっていた。「しまわれる」の指す言葉の意味をキロとブラジェナの会話を聞いていないウィサットはわかるはずもないのだが、しかしよくないことだということはわかる。なぜならトリーに対してキロは、「最後の旅がしたかったから」といったのだ。彼女は、姉は、ウィサットを北に置いて南へと帰ってしまうのではないだろうか?
途端にウィサットは自身でシミュレーションプログラムを立ち上げると、キロが帰ってしまうという懸念をなくすために様々な条件を付与してシミュレートを始めた。これがウィサット本人の意思なのか否かは誰にもわからない。彼はあくまで機械人形であり決して人間にはなり得ないからだ。だからこそ導き出された幾つかのルートを前にして、ウィサットはもはやキロ専用と成り果てたひとつの回路がショート間際に陥っていることなど気がつきはしなかった。
「ウィサット、お待たせしました……って、どうしたんですか? ぼんやりして」
声がして隣の部屋からこちらへとやってくる通路からキロは現れた。いつもと同じような姿形ではあるが、紺色の靴がないだけで彼女のテリトリーにいるということがはっきりとわかる。立ち尽くしたままだったことを知覚するが体力の上限などないウィサットが辛いというはずもない。ただ自身より背の低い姉を見下ろすだけだ。
「また機械そのものに戻ってしまいましたね。僕と話すのは嫌ですか?」
「そんなことは、ないです」
「なら話しましょう。君を早く連れ帰らないとうるさいですし、日程を組まないと」
すとんと絨毯の敷かれた床に直接腰を下ろし、キロはにこりとウィサットを見上げて笑った。促されるままに腰を下ろすとキロは満足そうに微笑む。こちらに着いてから着せられた民族衣装はいつも分厚いコートを着ていた彼からすると心もとないほど薄い生地なのだが、キロはウィサットの格好を見るたびに満足そうな顔をするのだから、それでも構わないだろう。
「まほろばの島があるってことも、それが南の蒼穹層にあるっていうことも君は知っているんですよね?」
ウィサットはこくりと頷いた。
「今その島を求めて各国が争っているみたいです。南は東とは同盟を結んでいますが北と関わりはありません。北の迷宮船の船長がどのような決断をするのか僕には判断がつきませんが、もしかしたら南との国交を断絶するかもしれません。そうなってしまうと君を故郷に帰すことができなくなってしまいます。それはなんとしてでも避けなければいけないので、早いうちに出ることにしましょう」
「どうしてぼくは、帰らなければ、いけないのですか」
ウィサットが声帯気管を震わせて尋ねると、キロはきょとんと地図に向けていた顔を上げた。ウィサットをまじまじと見つめてからにへらと笑う。
「この島にいてもこの国にいても、君は受け入れられないからです。君のいるべき場所ではないからです。どうしてかわかりますか?」
「ぼくが、機械人形だから、ですか」
「ええそうです。願わくば南に敵対しないでいただきたいところですが、それは君の国のトップが決めることですから僕にはわかりません。それに、僕には婚約者がいるから、君と一緒にいると怒られてしまうんですよー困りますね」
姉弟なのにとキロは笑う。少しだけおかしそうに朱色の目を細めて笑った。
「姉さんは、結婚したいの、ですか」
目が見開かれた。ウィサットを見つけた赤い目が。
先程までの笑みは掻き消えて違う種類の笑顔が浮かぶ。表情解析が追いつくよりも先にウィサットには彼女の笑みの意味がわかった。
「ええ、いつかは。君を送り届けたら僕はきっと結婚しますよ」
「誰とですか」
「君の知らない僕の婚約者たちと」
彼女はもう諦めているのだ。
*
ウィサットは随分と人間らしくなったとキロは思う。たった一週間ちょっとしかそばにいなかったにもかかわらず、機械そのものだったときに比べれば圧倒的に彼は人間らしくなった。キロの言葉に表情こそ変えないが、声の調子に彼の感情――感情というものがあるというのなら――が現れているように思う。
この背の高い突然できた弟を、けれどキロはとても大切に思っていた。それは彼自身が人間ではないからこそ生まれる、他意のない素直な疑問ゆえにだった。これがもし他の友人たちや婚約者たちから発せられたのなら、きっとキロはもう二度とこの島へと帰ってこれなかったに違いない。キロという少女は本人が自覚しているようにとても脆くできていた。
結婚したいのか、とそう問われたときに、決して誰にもいうつもりのない本音が口から零れ落ちそうになった。結婚などしたくない、いつまでも国々をまわって誰のものにもなりたくない、そんな願望が声になって吐き出されそうだった。諦めたくなんてないけれど、受け入れたほうが楽だということもわかっていたからこそ、ウィサットの肩に身を任せたのだ。
「……僕の婚約者の話をしましょうか」
「興味ない、です」
「まあまあそういわずに」
ウィサットのにべもない返事に苦笑しながらひっそりとした声で三人の婚約者のことを話す。ウィサットには興味もない話だろう、姉とはいっても本当の姉ではない赤の他人のことなのだから。それを少しだけさみしいと感じながら、キロは小さく笑みを浮かべる。
「さっきのおじさんの息子さん、ドゥシャンは今年の頭に二十七になったんです。僕の十一こ上ですね。赤い髪はそんなに長くなくてさらさらなんですよ。褐色に近い茶色の目をしていて、僕のことをキロさんと呼んでくれます。穏やかで優しくて、僕と結婚することを一番最初に了承してくれたひとで、僕の初めての婚約者でもあるんです」
ウィサットは相槌を打つわけでもなくただ黙ってキロの体重を支えている。相槌のないことすら気にせず、キロは続けた。
「それから二人目の婚約者は、三十一か二、でしたか。ドゥシャンよりも年上のツィーリルです。彼は僕らの一族では珍しくきれいな白い髪をしているんですよ。僕とよく似た赤い目をしていますが、ツィーリルと僕はほぼ血縁関係がありません。かなり遠縁なんですね。気難しくて荒っぽいところもありますが、家族のことを大切にする頼りになる男の人です。僕のことをキロと呼びますが、いまだに慣れないのでときどきびっくりしてしまうんですよね。彼はとても声が低いので」
目を閉じる。ウィサットの人に良く似た体温を感じながら、聞こえてくるポンプの音を聞く。ウィサットの心臓はポンプでできている。人間の心臓によく似たポンプは、蒸気を利用した機械だ。難しい仕組みはわからないが、長年放置しているとさびれて動かなくなってしまうのだとブラジェナがいっていた。
「三人目は一番僕と歳が近くて二十三歳のシモンです。薄い橙色の髪にドゥシャンと同じ目の色をしています。ドゥシャンのいとこでもあるんですよ。ふたりはあまり似ていませんが、ドゥシャンのお父さん――さっきのおじさん――とシモンのお母さんは双子なのでとてもよく似ているんです。シモンはだけどドゥシャンにも母親にも似ていなくて、よく僕をからかって遊びます。お兄さんなんだから優しくしてくれたっていいんですけど、ちょっと意地悪なんですよ」
「姉さんを、泣かしますか」
ぽつりと落ちた声にきょとんとしてしまう。ウィサットはキロに対してだけ優しい。それは彼のとらえる姉だからか。もしも「姉」というものではないと知ったとき、彼は今と同じように僕に優しくしてくれるのだろうか。
キロはウィサットの優しさが欲しい。今はそれだけが欲しい。だからこそ彼の勘違いを正せないままなのだ。
「もう僕も子どもじゃないですし、泣きませんよ。三人とも癖が強いですが、大切な僕の未来の旦那さんたちです」
「どうしてぼくに、そんな話を、したんですか」
思わず口をつぐむ。ふと寄りかかっていたウィサットの身体が後ろへと引かれ、予測していなかったことにそのままキロはあぐらをかいた膝の上にぽすんと倒れてしまう。ぽかんと青い瞳を見つめると、ウィサットの硝子玉のような目がキロを見つめていた。透き通るほど青い色は、キロが見たことのない空の色なのかもしれない。
キロは笑う。いつものようにへらへらと笑う。
「大切な弟に、教えておいてあげたかったんです。僕は南で幸せになりますよって」
「ぼくを北に、置いてけぼりに、するのに。姉さんは、ぼくを置いて、幸せになるんですか」
そうですよ、と告げようとした口を何かが覆った。ウィサットの頭がぽろんと落ちるように降ってきた。ウィサット? そう尋ねる唇を彼の手は覆ったままで、人間によく似たはずの体温が熱くなっていることがわかった。もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき、ウィサットは平常時となんら変わらない声でいった。
「姉さん、ぼくと一緒に、逃げましょう」
キロは空を望んだことなどない。
彼女は旅さえできればそれでいいのだ。それだけで幸せだったのだ。だから空になんて対して興味を抱きはしなかった。大地を踏みしめどろどろになりながらも旅をする汚さを愛していた。
けれど、この空を欲しいと、ふと思った、思ってしまった。
幸せになんてなれないと知りながら、思ってしまったのだ。
零れ落ちた水滴を不器用になぞる指を愛しく思いながら、次から次へと流れる涙をどうすることもできなかった。
きっと僕は、馬鹿だったのだ。
島を出たのは婚約者の話をして二日後の早朝のことだった。降りしきる霧雨の中、当然のような顔をして見送りにきた三人の婚約者とそれぞれに抱擁を交わす。気をつけて、早く帰って来いよ、いつまで待たせるんだよ。三者三様の言葉に苦笑して、舟にひとり佇むウィサットのもとへと向かうと彼はどことなくむすっとした顔のままキロを見た。
「どうしました?」
「姉さんは、どうして彼らと、抱き合うのですか」
言葉のチョイスに思わずキロは赤面する。機械人形に常識などないのだから仕方ないといえばそれまでだが、しかし十六歳の少女が聞くには少し恥ずかしい言葉だ。そう考えなければいいだけなのだが、多感なお年頃の少女としては如何せん難しい。
「だ、抱き合うという言葉は少し方向性が違いますよ、ウィサット……。僕らは旅をする前に必ず家族の匂いを纏うんです。そのために一番手っ取り早いのが抱擁なんですよ。さあ、北に向かいましょう。他の家族が起きてくる前に」
キロの言葉に渋々と納得したのかウィサットはゆっくりと舟に腰掛ける。もしかしたらキロ以外には彼の動きも、普通に腰掛けたように見えるのかもしれないなとふと思う。渋々と納得するなんて、機械人形である彼にそんな思考はないはずなのに。不思議だと小さくつぶやいた。
舟はゆっくりと進む。今回はウィサットが漕ぎ手を買って出てくれたため、キロはのんびりと針路を指示すればいいだけだ。ブラジェナにもらったビニールでできた上着を羽織るキロとは対象的に、かすかな雨に濡れながらもウィサットは舟を漕いでいた。
この程度の雨なら問題ないというウィサットを信じたのだが、もし彼がまた壊れたらキロはブラジェナかグロスビーに修理費を払えるだろうか。ウィサットの修理費をブラジェナからもらうから構わんと笑っていたグロスビーではあるけれど、キロとしてはこれ以上ブラジェナに迷惑をかけるわけにはいかない。すぐに様子がおかしくなったら変わろうと思いつつ、ウィサットの左側面にある傷痕を見つめていた。
パシャンパシャンと櫂が水面を叩く音が響く。群島の人間でなければなかなか本土には辿り着けないだろう。彼らはもう行き来に慣れ切って淡々と櫂を漕ぐ。時折すれ違う舟に互いに挨拶がわりに手を振り合う。手を止めることは極力しない。外海に出なければ海も荒れることはないのだが、そうはいっても誰もが利用する水脈に立ち止まるわけにはいかないのだ。
長い沈黙のあと、ウィサットはキロを振り返ると見えました、とつぶやいた。顔を上げウィサットの指す方向を見やれば確かにそこは本土だ。
「針路を指していないのによく辿り着けましたね」
「以前いった、ところの、座標は、登録して、あります」
「君はとっても優秀なんですね。ありがとう、ウィサット」
どことなく誇らしげな様子のウィサットににこりと笑いかけると、彼は満足そうな顔をした。表情は変わっていないのかもしれないが、喜んだことくらいはキロにもわかる。
舟着き場は予想していたほど混み合ってはいなかった。舟を一族の小屋にしまってからウィサットの手を握って北へと向かう。
静かな旅だと、ふと思った。
ひとりだけの旅は、確かに静かだ。国に知り合いができないままだとなおのこと静かにひとりで巡ることになる。知り合いができてからだと楽しくてそして別れを惜しむことができるようになる。だからこそひとりになったときの静かな旅は、いつも悲しくて心地よい。
けれど、ウィサットといるのにも関わらず、キロはこの旅を静かだと思った。別れがもう目の前に迫っているというのに、不思議なほど心は凪いで、ただ繋いだ指の大きさを思うだけだ。
汽車に乗る。ブラジェナの家まではまだまだ遠い。二人分の切符を購入してウィサットに一枚手渡すと、彼は不思議そうに首を傾げた。人通りの多いホームを歩きながらキロは説明する。この小さな紙切れ一枚で大陸のそれぞれの主要な都市には辿り着けるのだと。南に向かったときと経路が違うのは何故と問われても、旅人は苦笑するしかない。南と北の明確なる線引きなど彼女にはわからないからだ。機械人形が待ち構えていたら、そこから先は確実に北であるということを知っている。
汽車が雑に作られたプラットホームに滑り込んで来て、ウィサットの手を引いたまま車内に入る。後方の車両はひとが少ないことを承知しているキロがすたすたと歩を進めると、ウィサットは言葉を発さないままあとをついてきた。最終車両の二人がけの席にちんまりと収まると、隣に座る男の体躯の大きさに改めて目を見張る。並んで座ってもまだまだウィサットのほうが大きい。
黙りこくりウィサットの手を握ったまま、キロは穏やかに目を閉じた。日帰りのためにブラジェナとグロスビーへのお土産以外に荷物はない。それもウィサットが片手で持ってくれているから、ただ彼の肩に身を任せていればいいだけだ。柔らかな振動に揺られていると、大海の潮に流される弱々しい魚のような気分になる。波に翻弄されて僕はやがてどこかに留まることを覚えるのだろう。留まることの安寧を。
ふと目が覚めるとちょうど汽車の扉が開いたところだった。顔を上げて下車駅であると気がつき、ウィサットを促して降りる。駅を降りてからはまたひたすらに歩くだけだ。グロスビーと名乗った整備士にお願いするのが筋な気もするのだが、キロは生憎彼の家を知らない。結局はブラジェナを頼ることになるのだろう。
会話はない。静かな沈黙が揺蕩うだけだ。北では雨は止んでいた。
ブラジェナの住む廃れた観覧車が見えてきた頃、唐突にキロはぐいと腕を引かれた。もちろん振り向いた先にいるのはウィサットだが、しかしキロの目には別人のように見えた。彼は、とても、いや、まるで人間そのもののような表情をして、キロを見ていた。
「姉さん」
実質どのくらいの時間を共に過ごしたのだろう。三週間もなかったに違いない。それでもキロを呼ぶ声帯の震えは、彼女によく馴染んでいた。
にこりと笑う。自身は絶対なのだと信じるようにキロは笑って、ウィサットの手を両手で包む。青年の姿をした機械人形はけれどきょとんとするでもなく、人間めいた表情を崩すことはなかった。
「ここでお別れにしましょうか、ウィサット。ここからジェナ姉さんの家までは見えていますしたどり着けますよね。よくできた弟がいて、僕はとっても幸せです」
穏やかにそう口にしたキロを見下ろしていたウィサットは、彼女の手をそっと払った。目を見開く姉を抱き寄せて青年は呟く。
「良い旅を、姉さん」
するりと腕が離れた。触れていた温度が去っていく。ウィサットは一度もキロを見ることなく歩いて行った。自身の帰る場所へ、躊躇なく帰って行った。
背の高い影が小さくなっていくのを最後までついに胡麻粒ほど小さくなってしまった影を見送ってから、キロは子どものようにしゃがみ込む。弟を呼んだ声帯を擦らせて、嗚咽を漏らして泣いていた。
ただ、泣いていた。