彼女の見つけた青いそれ

 キロという少女にとって、旅をするということは呼吸をすることと同じくらい日常的なことだった。南で最も領土の広いイルファ・クトゥブサフラの島よりもずっと遠く、外海に近いところに群島として存在するうちのひとつ、「旅する家守りの島」に生まれついた時点で、旅をしないということができないのだ。
 子どもが六歳になると、旅する家守りの一族は――つまりテリョナーダ族は――、両親と子どもの三人でたいてい旅をするようになる。兄弟がいたとしても基本的に三人で南の島々から順繰りに、南が終われば東へと、そうして北へ、さらに西へと旅をする。十になれば今度はひとりで旅をするようになり、旅の足を止めるとしたら必ず決められた年に開かれる「家守りの集まり」に帰って来るか、どこかで新たな家庭を築くときだけだ。例え新しい家族を得たとしても大体はまた旅に出る。テリョナーダ族という家守りたちは守る家が島しかないからこそ、いつまでも辿り着けない。長老であるキロの大大叔父は、それを呪縛だとも定めだともいって笑った。今にも消えてしまいそうな細い声だった。
 しかし呪縛であろうが定めであろうが、キロには関係なかった。彼女にとって旅をすることはやっぱり呼吸をすることのように自然なことで、そしてそれ以上では決してあり得なかったからだ。だから彼女は今日も今日とて北に向けて足を運ぶ。遠目に見える約三年ぶりの北の空は、どんよりと濁って嫌な雲を集めていた。黙って見つめたまま大きなフードを深く頭から被り直し、キロは巨大な荷物を背負ってまるで重さなど感じていないかのようにすたすたと北の廃墟に向けて足を進めた。目指すは三年前に知り合った褐色の女の住む廃れた観覧車だ。
 それを見つめる一対の目があったことを、彼女はまだ知らない。


 三年前、ちょうどひとり旅を始めて三年経ちようやく物事に慣れ始めていたとき、キロは北の職人区と迷宮路の間にあるシェルターの前で途方に暮れていた。
 もちろん彼女は南の離島の出身で、だからこそこのシェルターを挟んだ向かい側に何があるのかも知らないし、また偶然迷い込んでしまったその場所が職人区という場所であることもよく知らなかった。ただゴーストタウンを抜けて黙々と歩いているうちになんとなく綺麗になったなというぐらいしか感慨はなかったのもある。相変わらず少し異臭のする土地ではあったが、ゴーストタウンの腐敗臭に比べればマシだ。元から嗅覚が鋭いほうではなかったからよかったものの、マリー姉さんだったらここはきついだろうなと呑気に姉貴分を思い出す。
 とにかくキロはうっかり迷い込んだ。そして迷宮路の名がつく道に足を踏み出しそうになったとき、ぺたぺたという水気の含んだ音を聞いたのである。いや正確にいうとペチャッペチャッと実にのったりした足音なのだったが。
 なんとなしにその音を聞きつけてキロは顔を右手の古ぼけた商店街のほうへと向けた。誰もいないかと思わせるほど静まり返りほのかな明かりがぽつぽつと落ちている道の中、向こうから深いグレーの奇怪な姿がこちらへと歩いて来る。それは明らかに女性のシルエットをしているものの、本来口のあるべきところにはぼこりとした丸い網、目があるべきところには曇った楕円が浮かんでおり、同色のフードを深く被っていたため、一瞬人間ではないのだろうかと思ってしまうほどだった。キロは思わず息を飲み、彼女だと思われる人物を凍りついたように凝視する。
 ようやく迷宮路へと入り込めるシェルターの区切り部分で奇怪なグレーの生き物は足をとめ、キロに気が付いたのかきょとんという効果音さえつきそうなほどわかりやすく首を傾けた。もごもごとした声が網を通して響く。聞き取り辛い声だった。
「………た、れ? シュッ、こ、あぶ、シュッ、い」
 何をいってるのかわからず今度はキロがきょとんとする。その様子に気がつき自分が今どういう格好だったのかを思い出したのか、彼女はあわててフードを外し、ゴーグルを外し、網のついたマスクを外して、ぷはぁっと大きく息を吐きながら、改めてキロを見た。褐色の肌に黄金色に近い橙色の瞳、身体にぴったりと吸い付くような衣服のせいでスタイルの良さは際立ち、思わずキロは自分の幼い身体を見下ろし小さく頭を振った。まだ十三歳だもの、仕方ない。
「あんた誰? ここらから向こう行くと不審者撃退用のプログラミングされた人形がうじゃうじゃいるんだから、中入るのはやめときな。っていうかあんたいくつよ? お母さんとお父さんは?」
 ぽんぽん飛び出して来る声と眉を顰めた女の様子に、キロはあまり慌てることもなくのんびりと答える。
「そうだったんですか、噂の迷宮ってここから先なんですねー。僕はキロ・テリョナーダといいます。南のとある離島の出身で、ひとり旅をしている真っ最中なのです」
「ひとり旅!? そんな格好で!?」
 女はぎょっとしたといわんばかりに目を剥いてキロを上から下まで見回す。キロも同じように自分の姿を上から下まで見下ろして――紺色の民族衣装は旅をしやすいように考えられたものだという――、首を傾げた。
「これは僕の一族の民族衣装なんですよー。着やすくて通気性にも富んでいて汗も吸い取ってくれます。お姉さん、お願いがあるのですが、僕をしばらくお姉さんのお家に住まわせていただけませんか?」
「ちょ、えっ!? はい!? キロ、キロだっけ? あんたなにいってるかわかってんの?」
 大きく目を見開いたかと思うと女は訝しげにキロを見やった。本気ではないと思ったのかもしれないがキロの後ろに背負われたままの巨大な鞄を見て、おろおろと視線があちらこちらへと逃げる。どうして自分より一回り近く年上に見えるこのお姉さんがびっくりするのだろうと思いながら、キロはいつものように呑気な笑みを浮かべた。
「お姉さんの朝昼夜のご飯と、お家のお掃除は僕にお任せください」
「一ヶ月いてくれても構わないよ!!」


 結局あのときは三週間近く居座っただけで、西に向かったんだったっけと振り返りながら、記憶を頼りに観覧車のあるところを探しながら歩き回る。ゴーストタウンの腐敗臭は三年前と対して変わっていないようで、やっぱりキロは苦笑した。
 ようやく着きはしたものの本人の姿はないようだ。観覧車の下から大きなそれを見上げるが、ぱっと見ではわからない。大体彼女が寝泊まりしている赤い観覧車の中を覗こうかと考えて、登れそうな鉄を探す。キロはヤモリを讃える者という些か特殊な生き物であるため、鉄にへばりついて重力を無視することはそんなに大変ではない。
 荷物を背負ったままよいせと足を掛け手を鉄塔に置くと、ぺたりと吸い付くようにくっ付いた。そのまま手慣れた要領で中途半端に高い位置にぶら下がっている赤い観覧車へと向けてするすると身体全体を使って向かい始めた。はたから見たらちびりそうになるほど恐ろしい図なのだが、本人は全く意識をしておらず、ようやく赤い観覧車に辿り着いた。窓にへばりついて中身を見るが、女がよく利用していた不思議な金属類が散らばっていたり下着が干されたままだったりで、ひとの姿はない。時間がないのに寄ったのは無駄足に終わってしまったようだ。
 思わずはぁ、とため息を吐きながら、また慣れたようにするすると鉄を伝ってくだり、降り立ったところでキロはどうしようと首を傾げる。北で出会った人間といえばとりあえず衣食住を世話してもらった――キロが世話をしたといっても過言ではないが――、褐色の女ことブラジェナしかいない。
 さてどうしようかと悩んでいると、当人がちょうど雨を引き連れて帰ってきた。ざぁあっと降り出した雨にとっさに観覧車の下に潜り込むと、向こうからペタペタというあの特有な音が小走りにやってきた。ちらっと下から覗き見ると、まさにキロのいるところへと入り込もうとしていたあの不審な姿が出迎える。キロに気が付くとすぐに雨の中だというのに彼女はがばりとフードを外し、ガスマスクを外して叫んだ。
「キロ!?」
「ジェナ姉さん、こんにちは。三年ぶりですねー」
「えっほんとにキロ!? うわー随分ご無沙汰だったじゃねーの、何してたの?」
 といいながらずいずい身を寄せて来る彼女のためにキロはもう少し奥へと詰める。と、ブラジェナに手招きされ近付けば場所を交換して、土に隠れて見えなくなっていた正方形の鉄の扉を開けた。中は排水溝になっているのかブラジェナの身長でも入れるほど広く、雨の音が強く響いているが水らしきものは見当たらない。ブラジェナに視線を走らせると、彼女は手慣れたようにその中へと滑り込み、キロを振り返ってにやっと笑った。
「ちょっと地下を改造してね、雨の日はこっちで寝てんだ。わりと気温もマシだから来なよ。何はともあれゆっくりしようぜ、疲れたわ」
「相変わらず変なことするの好きですね」
「変じゃねーし普通だっつの! 人間として生きやすくするためだっての!」
 子どものように唇を尖らせて抗議するブラジェナにくすくすと笑いながら、キロも荷物を背負ったままあとを追う。つっかえそうになったのは荷物を縦にすることでどうにか防いだ。そのまま滑り落ちた先は、さながら洞窟の中の秘密基地のようだ。
 テーブルがひとつに丸い木の椅子が四つ、大きなタライがふたつ、台所代りにしているのだろう水場にはブラジェナお手製らしきぼこぼこの浄水器がひとつ、少し柔らかいゴムのような材質の食器類がごちゃっと置いてあった。場所こそ変わったが三年前とほぼ変わらないブラジェナという女性のざっくばらんの部屋そのものだ。
 がさがさと音が聞こえると思って振り返るとちょうどブラジェナが着替えをしているところだった。不審者によく間違われるとこぼす仕事着の全身スーツを上半身だけ脱ぎ、小さな部屋中に張り巡らされたワイヤーにぶら下げられたままの布をひっつかんでごしごしと拭う。下着も濡れるのは承知しているのだろう、身体によくはないという雨の中にいたにも関わらず、相変わらず程よい筋肉を持ち合わせているブラジェナは下着すら脱ぎ捨てた。後ろ姿だけでもそのバランスの良さは羨ましくて、キロは荷物の上に座り込みながらじとーっと見てしまう。どうしたらブラジェナのようにきれいなスタイルになれるのだろう。マリー姉さんもそうだしキロの身の回りの人間はスタイルがいい女性がとても多い。
「なぁにじーって見てんの? 変態?」
「ジェナ姉さんスタイルいいなぁって思ってですよー。いき遅れなのにいいなぁ」
「キロあんたなぁ……?」
「冗談ですよー。噂の不思議なカラーの髪のお兄さんとはどうにもなってないんですか?」
「だから三年前もいっただろってば。あいつは東の軍人で、アタシは軍から抜けて来た奴だからもうほぼ絡みなんかないんだって」
「電話来ると喜ぶくせにですかー?」
「うっさい馬鹿。で、なんでまた三年ぶりに北に? それとも順繰りに来てまたここについたって感じ?」
 わずかに耳を赤くしたブラジェナを後ろからにこにこ笑いつつ見守り、そのままのゆるい口調でキロはいう。
「大体そんな感じですね。なんだか最近どこの国も物々しいですし。一族の集まりがあってしばらく南にいなくちゃいけなくなりそうなので、今のうちにお世話になったひとに挨拶巡りをしているんですよー」
 ほぼ裸体になってさっさと下着を身につけていた手を止め、ブラジェナは眉を潜めてキロを振り返った。案の定勘の鋭い彼女は不可解そうに尋ねる。
「挨拶巡りってなんだか不穏じゃん。あんた南にどんくらいいるつもりなのさ?」
「前にも話しましたけど僕は少し特殊な身体をしているので、保護すべき対象らしいんですねー。うちの一族は保守的なので守りの一手なんです」
「質問の答えになってないだろそれ。軟禁されるわけ?」
 極力穏やかな声でいった言葉は鋭い声で転がされる。キロはなんとなくにへらと笑いながら困ったように眉を八の字に動かした。
「そこまでではないんですが、いろいろよくない噂を聞く国もありますし、念には念を入れておきたいんじゃないでしょうか。とはいっても、族長も一族の癖を知っているので無理にはしまわれてしまうこともないはずですねー」
 しまわれる、という言葉にブラジェナの眉がまたきゅっと吊り上った。
 しかしキロからすればその表現が一番近い。
 箱の中に隠されるようにしまわれる。家守りは家を守る。しいては家族を守る。特にヤモリの特徴を体現しているキロは、人間よりもヤモリに近く、最も子どもを授かりやすい身体だ。もうしばらくしたら同じ一族の年上の男たち数人と結婚するのだろう。そういうものだ。
 すでにそんなに多くはなくなってしまった一族は、家族を守りたいがためにキロに救いを求める。これから先テリョナーダという家族があったことを伝えることができるとするならば、キロだからだろう。
 キロにとってそれは理にかなった話だ。未来の家族のことを考えるならキロの身体は失いたくない、だからこそしまっておきたい。守る家のない家守りたちは旅をしながらも一族を愛する。
「……あんた、それでいいわけ?」
 ブラジェナのことは、わりと好きだ。軍人だったというのにとてもそうは見えないだらしないところも、なんだかんだ心配して助けてくれるその優しさも。
 だがキロとは分かり合えない。それをやはり拭うこともできぬまま、キロとブラジェナは違うところで暮らすのだ。
「はい。僕にとって家族は拠り所なんです。いつかそれ以上の拠り所を見つけるまでは、守れるなら守らないと。バチが当たってしまいますからね」
 穏やかに笑うキロを、ブラジェナはもの言いたげな瞳で見つめていた。そこに映る言葉がなんなのか、キロにはわからない。これから先わかるときが来たとしても、それはずっと遠い未来のことだろう。


 ブラジェナはキロをあっちこっちへと引きずり回し、彼女の友人だという人物たちに紹介してくれた。三年間の間でこれほど友人ができたことを誇るようでもあり、そしてどことなく諦念に似た匂いを抱くキロをどうにかしたいと思ってのことなのかもしれない。
 最初はサンディという女性のところだった。変わった家は家というより診療所のようだ。キロの考えたことがわかったのか、ブラジェナは笑いながら補足する。
「一応こいつ医者なんだよ。飲んだくれなんだけどさ。あれ、今日はいねーのかな?」
 どんどんどんっと乱暴に扉を叩くが中から誰かがでてくる様子はない。こういうときに限っていねえんだからとブラジェナは舌打ちし、キロを振り返って次だといった。
 その日は雨は降っていなかった。どんよりとした雲が空を覆い、どことなく鈍い空気の中、ブラジェナは迷う様子もなく歩く。しばらくしてからついた家の扉をノックして、おーいピオーいねえのーとのんきに声を上げるブラジェナ。
「ジェナ姉さん、どうして僕を紹介するんですか?」
 返事が帰って来るのを待つ女にキロが心底不思議そうに尋ねる。ブラジェナは一瞬ぞっとしたような恐ろしいものを見るような目でキロを振り返り、ぎこちなく笑った。
「なにいってんだよ、あんたがアタシに頼んだんだろ? いろんなひとと親しくしておくといいことがあるので、お知り合いができたら紹介してくださいねって。忘れちまったのか?」
 ああ、とキロは笑う。その笑みは確かに三年前の彼女の笑顔とは似ているが、ブラジェナには違うように映った。その変わりように怯えているなんて知らないキロはぼんやりとした声で微笑む。
「そうでしたね。ジェナ姉さんにもいっぱい友達できたんですねー」
「おかげさまで。あ、ピオ?」
 扉の取っ手がかちゃりと音を立てて、中から褐色の肌の青年が現れた。それぞれ違う色の目をした穏やかそうな顔つきは、どことなく眠そうにも見える。実際眠いのか彼はごしごしと目をこすりながら、あれ、ジェナさんだとつぶやいた。
「悪いな徹夜明けか?」
「うん、まぁそんなところ。どうかした? ねーちゃんならまだ寝てるけど」
「ほんとあいつどうしようもねえなー。いや大した用事じゃないんだけど、ちょっと紹介したいやつがいてさ」
 ブラジェナに手招きされてキロは青年の前に立った。随分と背の高いひとだ。紫と金色のように光る虹彩が美しい。
「初めまして、キロ・テリョナーダといいます」
「こちらこそ初めまして、ピオです。あ、もしかして三年前にジェナさんの生活支えてくれた子って君?」
「おいおいやめろよ語弊が生じるようなこというのはよー。キロは南の国のほうの出身で大陸のあちこち旅する一族の子なんだけど、アタシが面倒見れないときとかよかったら相手してやってくんないかなーっていうお願い」
 ブラジェナは明瞭な声で口にして、ピオ青年はふと眦を下げた。優しげな表情の中にはブラジェナに対する親愛――というには少しばかり呆れ気味の――が滲んでいるように見える。彼もまた、真近で彼女の能天気なところを見たことがあるのだろうかとふと思う。それはきっとそうだろう、キロよりも近い距離に居続けているのだから。
「ジェナさんって、お人好しだよね。僕は平気だよ。キロちゃんよろしく」
 差し出された手に自身のものを重ねると、彼はわずかに目を見開いた。手が離れてから首を傾げていることを知りながら、ブラジェナはにやにやと笑うだけで答えを教えはしない。キロもまたどうしようもなく微笑んでいると、三人が揃ってへらへらしているところに、呑気な声が響いた。
「ピオー……朝ご飯食べよう。何をしてるんだいこんな朝っぱらから……ってあれ、ジェナじゃないか。ん?」
 濡れるような肩まである黒髪を垂らした理知的な顔立ちの女が扉の裏からひょこりと顔を出した。ブラジェナを認めたあと自然と視線が横に向けられ、キロの姿を視界にいれると不思議そうに目を瞬かせた。
「ジェナ、その子君の妹さんかい?」
「肌の色どう見たってちげえだろうが馬鹿。ちょうどよかった、お前にも紹介したかったんだ。キロ、こいつはサンディ。ピオとは幼馴染でふたりとも機械整備士なんだよ一応な。サンディは医者も兼任してるしむしろメインはそっちらしい」
「なんか説明雑過ぎやしないかジェナ!?」
「うっせ。ちなみに酒飲み仲間な。で、こっちはキロ・テリョナーダ。南のある一族の生まれでひとり旅何年目だっけ?」
「今年で十年目くらいですね確か」
「らしい。アタシもアタシで何かと用事あるからこいつの面倒だけ見てるわけにもいかねえし、悪いんだけど見かけたら声かけて欲しいんだわ。頼めるか?」
 何気無い口調にサンディと紹介された女はうっそりと笑った。どことなく謎めいた笑みだ。キロはすん、と小さく鼻を鳴らしながらぺこりとお辞儀をする。この女は、大陸で消毒液としてよく利用されるアルコールの匂いがした。ブラジェナとは違う清潔感のある匂い。
「構わないよ、かわいい女の子と話せるのなら万々歳だしね」
「姉さん誤解されるよ……」
 ピオが呆れたように口にするがサンディは聞いちゃいない。しげしげとキロを眺めてからおもむろに手を伸ばした。するりとなぜか撫ぜられる頬にぽかんと口を開けていると、ブラジェナがサンディの腕をつかむ。ざらりと感じた手のひらは、生きた人間のものだ。
「なにやってんだあんたは!!!! セクハラか!! 初対面の女の子にセクハラか!!!」
「やだなぁセクハラなんかしてないよ、まさか頬を触っただけでセクハラになるのかい? なら診療もできないじゃないか」
「診療してたのかよ」
「いやしてないけど」
「サンディ?」
 呆れたようにピオは笑いを漏らしている。このふたりの女はいつもこんなものなのだろう。
 それからピオとサンディと別れ、ブラジェナはまたすたすたと歩いていく。雨がぱらぱらと降り始めたのにも関わらず、あまり気にしてはいないようだったがさすがにそういうわけにもいかないだろう。キロの言葉にじゃあ仕方ないかとつぶやいて彼女は爪先の向きを変えた。
 どこに向かうのだろうとあとを追っていくと、ブラジェナが立ち止まったのは職人区の中の商店街からひとつ奥の通りに雑然と並ぶなかにあるひとつのバーの前だった。
「あんた今年で十六だろ? ちょうどいいや、成人祝いしようぜ」
 からりと笑ったブラジェナの言葉にキロはふと口を噤んだ。ぷつりとまるで息をすることをやめたように、呼吸をやめて、笑った。
「……ありがとうございます、ジェナ姉さん」


 ブラジェナに連れていかれたバーエレキテルのなかで、なかなか独特な趣向をしているマスターに挨拶をしたり、美しい声で歌う女性に呆然としながらキロはお酒をたんたんと干していった。ブラジェナは心地よさそうに酒を飲んでマスターと談笑をしているが、キロはぼんやりそれを見ているだけだ。それにしても昼間っからお酒を飲むなんて相当ブラジェナは暇なのだろう。わざわざ店を開けてくれたマスターにも驚きだ。
 ふたりの会話の中で「まほろばの島」が見つかったとか、それが南の蒼穹層にあるということもわかったが、彼女にとって関係のない話だ。そもそも南に帰ること自体実に六年ぶりなのである。国がどうなっているかも知らないし、そもそもキロの一族の人間が生きているのかすら定かではない。南という単語を聞いて懐かしいなとふと笑ってしまった。
 ぼけっとしていると突然ぴしりと首の裏が引きつった。同時に顔が強張る。ブラジェナもマスターも歌手も誰も気づいてはいないようだが、キロの顔は静かに青ざめていった。嫌な感覚は拭えない。ブラジェナに少し外を歩いてきますねと告げてから席を立ち、バーを出た。首の裏は未だに引きつったままだ。振り返らないまま足を運びふと気がつけば袋小路に立っていた。どうもここらへんは迷子になりやすいようだ。首を捻りながらようやく振り向くと、そこに男は立っていた。
 見上げるほど高い背に鋭い目付き、剃り上がった形のいい頭には大きな焼け跡があり、それは今尚ブシュブシュと嫌な臭いと共に煙を立てていた。黒いシンプルな身体に密着する洋服を身につけていながらどことなく不自然なのは、彼の右手首から先が、本人の左手によって持たれているからだろうか。つまり男は自分の右手を持っているということである。血が流れている様子もなく、男はキロを見たままぴたりと止まっていた。硝子玉のような青の眼光は美しく鋭い。
「僕に何か用事ですか?」
 キロの言葉に男はゆっくりと手のない右腕を上げ、さながら拳銃を構えるかのようにキロの頭へと向けられる腕。腕の中にあるべきはずの骨の代わりにあるのは、黒く輝く鉄。
 ガゥンッ――!
 撃たれたのだと、すぐに悟った。北は廃墟だといいながらこれだけの技術を兼ね備えているのだから、廃墟とはいいにくくはないだろうか。ぼんやりとそんなことを思いながら、腕をさする。たらりと垂れた赤を撫でると自分のぺとりとした指にねっとりとしたものが付着した。ヤモリだって、人間のような血は出るのだ。
「お前、どこから、来た」
 片言のような言葉が耳にはいる。いつの間にか視線は落ちていたようで、キロはもう一度男を見上げた。青く美しい目がキロだけを見つめて、右腕を突き付けている。ブラジェナが教えてくれた機械人形とかいうものだろう、きっと。
 特例を除いて感情などないのだというブラジェナの言葉を思い出しつつ、キロは黙って笑った。キロにできることといえば黙っていることか笑うことくらいだ。いざ反撃をするとしてもまだ構わない。
 けれどその余裕は即座に崩された。黙って微笑むキロに向けてもう一度男は撃つための動作をし、キロはまるで脊髄反射で動いてしまったとでもいうように上体を下方に捻った状態で足を動かした。銃声は重なり薄い桜色の髪が飛び跳ねる。
 数分間銃声は止まないままだった。ようやく止んだ頃、男の右腕の先からは硝煙が立ち上り、そしてキロも汗をかいてはいるもののけろりとした顔で立っていた。先ほどとほぼ場所は変わらない。男はかすかに首を捻りもう一度腕を持ち上げようとするのを見て、キロは滑るように男のもとへと近づいた。そのあまりに何気無い様子に男は動くことも撃つこともできないまま接近を許してしまう。
 ガションと、人体が立てるには明らかにおかしな音がした。
「ジェナ姉さんにどうにかしてもらいますか……。機械人形って、本当にいたんですね」
 キロの言葉を聞けるはずの唯一の男は地面に倒れ伏し、きれいな青い眼球だけが彼女の言葉に瞬いた。
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