雨に転ぶ

 また雨だ。畜生背中痛いと呻きつつ起き上がった地下室の中で、ブラジェナはうーんと伸びをした。パイプから伝わる雨の音に耳を傾け、部屋の中で直立不動の置物と化しているウィサットを気にも止めず、さっさと配管工として使う全身スーツを身に纏う。顔面までは被らずに中途半端な格好のまま食事を準備し始めると、じっと見つめる視線に振り返った。
「なんだよ?」
「背中の調子は、どうですか」
「順調。今日は配管作業の助っ人いってくるからあんたは休んでていいぜ」
 わかりましたと返すウィサットに満足気に頷き、ブラジェナは料理をつくる作業に戻る。やがてできた一人分の食事を口にしたあと、諸々の家事を済ませて家を出る。顔面まで引き上げたスーツの上にゴーグルをかける前に、改めて久々に来た電報に目を落とした。
「まぁたあそこが雨漏れか……。パイプ全体を地下に埋め込む都市計画とかやってくんねえかな、船長さん」
 ぽそりと呟いた声は雨に埋れて消えてしまった。


 配管工としての仕事は基本的に依頼を受けてからだ。数十名いる配管工同士は密に連絡を取り合い、小さな組織としてそれぞれの仕事を地域ごとに割り振って分担する。ブラジェナ以外の配管工たちは、仕事がない限りそれぞれの住居でひっそりと生きていた。機械整備士の資格を取ろうとするブラジェナに彼らはみな億劫そうな目を向けてきたのは記憶に新しい。常に汚染された雨と戦う配管工の仕事を好き好んでやるブラジェナは重宝されていたからでもあり、同時にその戦力が欠けることを遠巻きに非難していたからだということもブラジェナは知っている。知っているが、それは彼女には関わりのないことだ。
 今でも雨に押し流されて死にたいと願うことはある。というよりたった一度機械人形を手に入れて整備したからと言って、そんなに簡単にこの甘美な願望が覆るはずがない。けれど、前よりも明確に生きることを意識するようになった。それは、やはりウィサットを手に入れたからだろうか、それともキロが断腸の思いでウィサットを手放したということを察したからだろうか。
 少し鼻を鳴らす。キロは馬鹿だ。人間と同じ姿をしていたところでウィサットはどうあがいても人間ではない。ブラジェナは彼の身体にメスを入れることに躊躇いはないし、彼の身体の中から歯車を取り出すことや彼特有の炉を調べることに何の罪悪感も生まれない。まだ機械整備士として勉強し始めた頃は罪悪感も、人間を扱うような気味の悪さも、すべて持ってぐちゃまぜに悩んでいた。
 けれど一度解体してみればわかる。
 所詮は機械なのだ。鉄の棒と鉄の歯車と、何本もの色とりどりのコードに彫り込まれた製造番号。東時代の友人ロスやイザベラや北で生きるピオ、グロスビー、それからすがねなんかがいつも使うスパナと同じように、それは大量生産されて消費される物質でしかない。スパナやその他の工具とは違って多少面倒な手入れは必要だが、しかし機械は機械だ。東時代あれほど慣れ親しみ愛おしんだ機械仕掛けの翼と何も変わらない。ただその姿が人間を模している、それだけの話である。
 自身の作った彫刻に恋をした哀れな彫刻家の話を思い出す。その彫像だけを愛する彫刻家を美の神は哀れんで、彼女を人間にしてやったという。人の姿を模したものに恋情を持つのはピュグマリオンという立派な性癖だったと、誰かに聞いたことがあった。キロの恋情は、まさにピュグマリオン的感情だ。そしてそれはブラジェナからすればくだらない愛情である。
 機械に恋をしても報われない。そも、ブラジェナが機械に関することのスペシャリストとはいわないまでも専門家になろうとした根本原因が、なんといっても父を死なせた機械への復讐だったからだ。遺された母との関係性がうまくいかなかったことに対する八つ当たりともいうが、どちらにせよブラジェナが機械全般へと向けるものは決して愛ではない。あらゆる好奇心とそして未だに残存する機械への憎悪からくるものを、ひとは愛とは呼ばない。
 こんなことを考えるのは、この間サンディとグロスビーの会話を聞いたからだろうなと苦笑する。東にいたときは何も考えてはいなかった。北の廃墟を警備するという機械人形の話に憧れこそしたものの、人間の姿をした機械など哀れなだけだと思っていた。それは前よりも強くブラジェナの胸にある。
 ふう、とため息をついて汚れを落としていた泥だらけの手を止めた。ブラジェナの目の前にあるのは取り外されたばかりの大きな下水管だ。人間がひとり入るのに実にお手頃なサイズである。汚れが酷すぎて下水道に流れるまでに詰まり、汚染水が溢れ出るという雨の時期に多い例の小さな洪水騒ぎが起きただけだった。ブラジェナじゃなくともできるだろうが、頼まれたからには出ない訳にはいかない。背中の傷が気になるがそれこそなんてこともないだろう。
 何故頼まれたかを深く考えることはしないが、閑散とした広場で作業をしながらなんとなしにその理由は気がついていた。誰もが鳥籠の女の襲撃に怯えており、ろくに仕事もできないのだろう。しかも今回はいつもと違って外での作業だ。狙われる確率は圧倒的に増す。とりあえず屋根のある場所にはいるものの風も冷たく、全身スーツの上につけた手袋からは異臭が漂う。静かに降り続ける雨の音は煩わしく、曇る視界のせいで作業は順調とは言い難い。背中もぴりぴりと痒いし、あまり穏やかな気分で作業をしているわけではなかった。むしろ苛立ちの方が大きい。
 寒い寒いと呻きながらある程度の泥を落とし終わった下水管を見る。これなら詰まりはしないだろう。おかげでブラジェナの身体からは驚くべき腐敗臭が漂うことになったわけだが、この際それは知らないことにした。下水道に戻す作業は男どもがやるといっていたのでさっさと報酬を受け取ろうと、配管工仲間が集まるビルに向かうために足を向けた彼女の後ろで、ばさりと、何かが翼を広げる嫌な音がした。
「いやいやいやいや」
 いや、ねえ、まさか、ないだろう。例えそうだとしても今のブラジェナには戦うだけのものが何もない。清掃作業と聞いて工具を放り出したブラジェナがいけなかった。スパナやドライバーの入ったポーチはビルの中だ、さらに気付いたところでおそらく仕事仲間たちはブラジェナを救いはしない。むしろさっさとトンズラこくだろう、穴倉の住人たちめ。
 とにかく走った。太ももを引き上げ脱兎の如く走る。これでさらに傷でもこさえてみたとしよう、サンディによって殺される。そして例え逃げなかったとしても、殺される。さぁ、っと血の気が引いた。走りながら血の気が引くなんて我ながら器用すぎて惚れそうだ、どうしてくれよう。
 後ろから宙を滑空する音が聞こえてくる。クイーンとやらが一体なんの鳥を元にして作られたのかわからないが、鷹やら鷲やらやたらとスピードのある鳥でないことを祈るしかない。ゼェハァ息咳切って廃墟であるビルの、柱と土砂崩れが起きたかのように床が崩壊した一階へ滑り込むようにして駆け込むと、羽ばたきの音は一瞬速度を落とした。その間に瓦礫の中に紛れ込もうとしたがちょうどブラジェナひとりが隠れられるような、ベストポジションなどそうそう見つかるはずがなかった。ベッチャベッチャと雨を多分に含んだ全身スーツのせいで自分がどこにいるか明白だ。
 けれど羽ばたきの音は聞こえない。柱の影に隠れてそっと振り返ると鳥籠の女の姿はなかった。そうか、建物の中に入るとなると女は翼が邪魔で入れない、いや、翼で移動していた分高度を必要とするはずで、足で走ったとしたならその速度は翼で飛ぶよりも圧倒的に遅い。よっしゃと小さくガッツポーズをとったブラジェナの目の前の柱が、――陰る。
「っゥガッ!!!」
 吸おうとした息が強引に吐き出され、額がコンクリートの柱に激突する。視界が一瞬にして白くなり光が散った。明滅する灯りに舌打ちしても痛みは消えるはずもない。何よりも、確実に蹴り飛ばされたのだろう背中のほうが圧倒的な痛みを訴える。呼吸が思い切り乱れ、振り返ることがままならない。走ったあとよりもよほど息は荒く、またも蛇のように忍び寄る殺気にブラジェナは振り返らぬまま横へと転がった。トウシューズに包まれた白い脚がブラジェナを隠すはずだった柱に巨大なひびを作る。嘘だろと青ざめながらそれでもブラジェナはまた走り出した。
 太ももを限界まで引き上げて走るからだろうか、背中がビキビキと明らかに人体として聞いてはいけないような音がする。最悪だ確実に雨対策用スーツが破けた、包帯はまだ巻かれているのだろうか、いやそれよりもスーツだ、スーツの繊維はどこにあっただろう、もしなかったらまたあのクソッタレジジイから買い取らなきゃいけない。断続的に浮かぶ思考は死への恐怖からだろうか取り留めもなく、順序など忘れ去られたように熱を放つ。頭が熱を訴えてそれでも脳髄から漏れる熱は発散されることはない。
「ッタァアアアふざけんなよテメエエエエさっきビルの前で中入るのやめたじゃねえかァア!!!」
 二階の床が陥没した瓦礫の中を駆ける駆ける駆ける。二階の窓から入って上から狙ってきたのだろうということは理解できたが、侵入経路より生き延びる道の方が知りたい。
 ちらと頭の片隅を掠めたのは二階にいたはずの配管工仲間たちのことだった。あの連中は逃げ切ったのだろうか。東で軍人としてある程度しごかれていたブラジェナとは違い、彼らは体力こそあるものの北に蔓延るチンピラと大差ない。そもそも面倒臭がって戦闘を避ける人間ばかりだ。
 自分を見捨てるだろうことは知っていたが、だからと言って心配しないという理由もない。少なくともあのうちの誰か一人でも死んだら、配管工としての仕事が減る、または馬鹿にしたくなるほど増えるのは必須だ。死ぬなよあとサンディの迷惑にはなるなよと胸の内で呟きながら、息が切れてくる。速度が落ちる。足がもつれる。シャレにならない。
 階段が目に入る。登るだけの体力はないし上階はむしろ鳥籠の女の領地だ、天井は一階よりも高くできている。後ろでバサリと翼が上下される音がして、ブラジェナは階段の裏側へと周り込み、そして、
「は――ッウギャァアアアアア!!!?!?」
 奇声を上げながら、落ちた。
 瓦礫の中を転がり落ちる落ちる落ちる。すごい勢いで上下が逆さまになり全身をコンクリートの塊に打ち付け、最後はものすごい臭気を放つ泥の中にべしゃりと身体中をしたたかに打ち付けた。ぐわんと歪んだ視界の中で、鳥籠の女は憂いを帯びた例の瞳をこちらに向けて、やがて興味が削がれたようにふいっと消えていくところだった。後ろ姿はさながら拘束された天使のように美しいのに。
 はは、かっわいそーな話だ。


 その日帰ってこなかったブラジェナをウィサットが見つけ出したのは、一日と半日が過ぎた夕方のことだった。今にも死にそうなほど脈が薄い整備士を抱え上げて、ピオのビルにたどり着いたウィサットを出迎えたサンディは、ブラジェナの酷い有様に絶句したのだった。
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