不幸な少年
黒澤夕紀という少年が、元軍人の母を失ったのは彼が四歳のころだった。二十歳になった今でも「母」といわれると少しだけ言葉を失ってしまう。いつもの馬鹿丁寧な口調は影をひそめ、言葉を口にするのが、かすかに怖くなるのだ。
黒い髪の左端にひと房白髪があって、左耳はない。実働部隊の第一線で働かされていたということもあってだろうか、身体は傷だらけだが欠損はそこだけだったと父はいった。それから、と少し口ごもる父を見ながら夕紀は尋ねた。まだあるの? 父は、視線をゆうひという柴犬に逃しながら、お前も覚えてるだろうといった。沈痛な声だった。
だから夕紀は思い出す。母と一緒に入ったお風呂のことを。銭湯に連れていってくれて、そこのお姉さんとぎゃんぎゃん騒いだ彼女は、夕紀を手早く着替えさせて軽々と抱き上げると風呂場へと足を運んだ。いつも父がつれてきてくれるときとは違って、ひとが少ない早い時間だった。母さん、どうしてこんなにはやいの、と尋ねた声が響く場は、まだ湯気が立ち上りきってはおらず、どことなくいつもと違うように聞こえた。
お前のかあさんの背中は、普通は銭湯なんか来ちゃいけねエんだよォと笑った。見せてもらった背中は、判で押されたような青が唐草模様を描いていた。邪魔をするようにできた傷跡は白く、触れてみればその肌が引きつっていることを知らせていた。
母さん、これはなあに。
父も母も滅多に「いつか大人になったらな」という言葉を使わなかったということを記憶している。夕紀が問えば必ず彼でもわかるような言葉で、穏やかに説明してくれた。いや母は決して穏やかだけだったとは思えないけれど、それでも彼らは夕紀を大人として扱ってくれた。だから、彼女がそのときにいった言葉は、今も夕紀の頭の中に生きているのだろう。
「……いつかお前が大人になってどうしても知りたくなったら、とうちゃんか立花のじじいかアマリネのばあちゃんかに聞きなァ。俺は今は答えられねエんだァ、とうちゃんとの約束でさァ」
振り向いた母は鮫のそれによく似た歯を見せて笑い、夕紀のほうへと向き直った。前から見れば彼女の肌は傷だらけだったのだろうけど、もうそこまでは覚えていなかった。夕紀は黒い目を見つめながら尋ねた。
大人って、いつから?
母は笑う。にやにやと下品に馬鹿みたいに彼女は笑う。
「お前が世の中楽しめるようになったらだよォ、馬鹿息子」
母という名称のひとの記憶は、それくらいしかない。あとは唯一残る、ウエディングドレスを着て父の腕に収まりながら彼に思いっきり口付けている馬鹿丸出しの写真だけだった。父はそれを飾るのも放置しておくのも釈然としないらしく、ファイルの中に入れて常に父が使う机の上にぽつんと置いてあった。
「立花のじじい」と「アマリネのばあちゃん」に初めて会ったのは、夕紀が十二のときだった。前日、夕紀が持つ唯一のスーツを出して干してあるのを見て父に尋ねれば、父は一瞬視線を彷徨わせ、それから夕紀に座るように促した。その頃夕紀は中学に通う傍ら、父の働くマフィアの下っ端として働き始めていた。父子の関係はどちらかが言葉を発さない限り、小さなアパートの一室、会話が広がることはなかった。ときどきゆうひの間の抜けた鳴き声が響くだけだ。
不仲というわけではないのだろう、と椅子に腰掛けながら夕紀は思う。不仲だというのならきっともうここに夕紀はいないだろうが、それでも彼はここにいる。当番制で食事を用意し、洗濯をし、掃除をした。男二人と犬一匹の家だからそこそこ汚いが、それでも俺たちはうまくやってると夕紀は思う。
「お前の母さんが軍にいた話はしたな」
うんと頷く。父は逡巡するそぶりを見せて、それからゆっくりと話した。母である黒澤錦、藤堂錦というひとのちっぽけな一生を。
いつか、といった母の言葉の意味を理解した。まだ三つか四つだったときではきっと夕紀にはわからなかっただろうと思った。ちらりと唯一残るウエディングドレス姿の彼女を見やれば、くすりと笑い出しそうな唐草模様のかけらが、白いドレスの脇から覗いていた。白い花にへばりついた、虫のようだと思った。
話を終えて父はわずかに疲れたように瞼を閉じ、それから目を開けて尋ねた。
「明日、立花修司とアマリネも来る。母さんと母さんの父親代りの男の墓参りだ」
来るか、と問われた。その声には連れて行きたくないという感情が滲み出ているようで、同時に母への恋慕が垣間見得た。父はまだ、母を忘れられないのだろう。
「今までの墓参りには、いなかっただろ? 何で今回は会おうとしてるんだよ」
気になった言葉を発すれば父はやはり顔を歪めた。眉間にできた皺を揉んで、わずかに鬱陶しげな顔をしながら呻いた。
「お前に会わせたくなかったからだよ。会わせろといっても会わせなかった」
「俺のじいちゃんばあちゃんみたいなもんなんじゃないのかよ」
ますます父の顔は歪む。少し意外に思ったのは、彼の顔から滲むのは嫌悪の感情だったからだ。父が誰かを嫌うのは珍しいような気がした。敵対者へは、容赦がないのも知ってはいたが。
「……そうだ、お前の祖父母みたいなもんだ。俺はでもそう言いたくはない」
「母さんが死んだのはそのひとたちのせいじゃないだろ。俺は祖父母がいるなら会いたい。俺がそういうのは変?」
会いたいといった瞬間父は眉間にやっていた手を止めて、指の隙間からこちらを見た。赤にも見える独特の目を窄めて、それから重いため息を吐くと立ち上がった。
「連れて行くと約束させられたんだ、連れて行くさ。アマリネは、特にお前に会いたがってた。あのひとはどうなのか知らねえけどな」
翌日、連れて行かれた母の墓の前に立っていたのは、シンプルな喪服を身につけた男女だった。夕紀を見ると唇を震わせて、女は微笑んだ。寂しい笑みだと思った。男は表情を全く変えないまま、父と会話をした。ぼそぼそと低い声で話すのは、夕紀に聞かれたくないからなのだろう。
墓石になってしまった母を見やり、毎年隣にある祖父の墓を見る。母に本当の家族はいなかったというが、父がこの墓の下に眠る男を祖父だというのなら、彼が祖父なのだ。後ろで父と話す男もまた。
置かれたビールと花束を見つめていると、全部が嫌になった。学校に行くことが疎ましかった。学校帰りにマフィアの根城に帰る自身が疎ましかった。父しかいない家が疎ましかった。人間が疎ましかった。ゆうひすらも疎ましかった。
上手くいかない生に、飽いた。
十二歳なんて人生の六分の一も生きていないうちにそれに気が付いてしまった夕紀は、表面上変わることなく淡々と日々を過ごす。それは父である夕夏からしたら変わらないように、だけれど夕紀の級友や同僚たちからすれば彼は確かに変わった。今でも彼らに問いかければ、彼らはきっとこういうだろう。
「あいつは変わった」
銃を撃つ手に躊躇いがなくなった。射撃の精度は上がり、冷徹さが増した。父に倣って自身の異能のコントロールを完璧にした。
学校に行くことが少なくなった。いったとしても勉強をしないでひたすらに読書をしていた。同じ年頃の少女たちと盛んに遊んだ。他人を見下しそして自身を見下すことが増えた。ニヒルな笑みを浮かべる顔と、胡散臭い笑みがへばりつく顔と、ふたつの顔ができていった。
自分自身のそんな状態を嘆きながら、それでもわかってしまった事実にうんざりとしていた。自分のわかっていると思っているその浅はかさすらやるせなかった。
その日は、暑い夏の日だった。最初に立花修司とアマリネ・リリーザに会ってから六年が経っていた。前日も墓参りをして、彼らはあまり変わらない姿で夕紀と話した。元気そうね、ああ、勉強はしている?、まあまあ、最近読書量増えたんだよな、うるさいよ父さん。相変わらず立花修司はあまり言葉を口にはしないが、常に穏やかな会話が行われた。その中で暑さに対抗するようにしゃんなりと身を晒す花は、鮮やかな白だった。母には似合わないと、思った。
ゆらりと蜃気楼が立ち上る街中を歩きながら、夕紀は図書館へと足を進める。もとより読書を好む彼は、最近になって図書館の利用価値に気が付き足繁く通うようになっていた。昨日の中身のないワンパターンと化した会話を思い出しながら、本を突っ込んだ鞄の熱にすら苛立つ。どことなく苛立って、どことなく不幸なこの感覚はなんだろう。どうして俺は幸せではないんだろう。
図書館の扉を開ける。冷たい空気が火照った身体をべろりと舐め、そのまとわりつくような冷気に少しだけ不快感を覚える。世界が一瞬暗転し、また明るくなったことに気が付いて目を開けると、なぜか目の前に広がるのは見慣れた図書館ではなかった。広いエントランスには白い似たような服を着た人間らしき人物が立っていて、夕紀を見かけるとふわりと笑った。
「図書館へ、ようこそ」
黒い髪の左端にひと房白髪があって、左耳はない。実働部隊の第一線で働かされていたということもあってだろうか、身体は傷だらけだが欠損はそこだけだったと父はいった。それから、と少し口ごもる父を見ながら夕紀は尋ねた。まだあるの? 父は、視線をゆうひという柴犬に逃しながら、お前も覚えてるだろうといった。沈痛な声だった。
だから夕紀は思い出す。母と一緒に入ったお風呂のことを。銭湯に連れていってくれて、そこのお姉さんとぎゃんぎゃん騒いだ彼女は、夕紀を手早く着替えさせて軽々と抱き上げると風呂場へと足を運んだ。いつも父がつれてきてくれるときとは違って、ひとが少ない早い時間だった。母さん、どうしてこんなにはやいの、と尋ねた声が響く場は、まだ湯気が立ち上りきってはおらず、どことなくいつもと違うように聞こえた。
お前のかあさんの背中は、普通は銭湯なんか来ちゃいけねエんだよォと笑った。見せてもらった背中は、判で押されたような青が唐草模様を描いていた。邪魔をするようにできた傷跡は白く、触れてみればその肌が引きつっていることを知らせていた。
母さん、これはなあに。
父も母も滅多に「いつか大人になったらな」という言葉を使わなかったということを記憶している。夕紀が問えば必ず彼でもわかるような言葉で、穏やかに説明してくれた。いや母は決して穏やかだけだったとは思えないけれど、それでも彼らは夕紀を大人として扱ってくれた。だから、彼女がそのときにいった言葉は、今も夕紀の頭の中に生きているのだろう。
「……いつかお前が大人になってどうしても知りたくなったら、とうちゃんか立花のじじいかアマリネのばあちゃんかに聞きなァ。俺は今は答えられねエんだァ、とうちゃんとの約束でさァ」
振り向いた母は鮫のそれによく似た歯を見せて笑い、夕紀のほうへと向き直った。前から見れば彼女の肌は傷だらけだったのだろうけど、もうそこまでは覚えていなかった。夕紀は黒い目を見つめながら尋ねた。
大人って、いつから?
母は笑う。にやにやと下品に馬鹿みたいに彼女は笑う。
「お前が世の中楽しめるようになったらだよォ、馬鹿息子」
母という名称のひとの記憶は、それくらいしかない。あとは唯一残る、ウエディングドレスを着て父の腕に収まりながら彼に思いっきり口付けている馬鹿丸出しの写真だけだった。父はそれを飾るのも放置しておくのも釈然としないらしく、ファイルの中に入れて常に父が使う机の上にぽつんと置いてあった。
「立花のじじい」と「アマリネのばあちゃん」に初めて会ったのは、夕紀が十二のときだった。前日、夕紀が持つ唯一のスーツを出して干してあるのを見て父に尋ねれば、父は一瞬視線を彷徨わせ、それから夕紀に座るように促した。その頃夕紀は中学に通う傍ら、父の働くマフィアの下っ端として働き始めていた。父子の関係はどちらかが言葉を発さない限り、小さなアパートの一室、会話が広がることはなかった。ときどきゆうひの間の抜けた鳴き声が響くだけだ。
不仲というわけではないのだろう、と椅子に腰掛けながら夕紀は思う。不仲だというのならきっともうここに夕紀はいないだろうが、それでも彼はここにいる。当番制で食事を用意し、洗濯をし、掃除をした。男二人と犬一匹の家だからそこそこ汚いが、それでも俺たちはうまくやってると夕紀は思う。
「お前の母さんが軍にいた話はしたな」
うんと頷く。父は逡巡するそぶりを見せて、それからゆっくりと話した。母である黒澤錦、藤堂錦というひとのちっぽけな一生を。
いつか、といった母の言葉の意味を理解した。まだ三つか四つだったときではきっと夕紀にはわからなかっただろうと思った。ちらりと唯一残るウエディングドレス姿の彼女を見やれば、くすりと笑い出しそうな唐草模様のかけらが、白いドレスの脇から覗いていた。白い花にへばりついた、虫のようだと思った。
話を終えて父はわずかに疲れたように瞼を閉じ、それから目を開けて尋ねた。
「明日、立花修司とアマリネも来る。母さんと母さんの父親代りの男の墓参りだ」
来るか、と問われた。その声には連れて行きたくないという感情が滲み出ているようで、同時に母への恋慕が垣間見得た。父はまだ、母を忘れられないのだろう。
「今までの墓参りには、いなかっただろ? 何で今回は会おうとしてるんだよ」
気になった言葉を発すれば父はやはり顔を歪めた。眉間にできた皺を揉んで、わずかに鬱陶しげな顔をしながら呻いた。
「お前に会わせたくなかったからだよ。会わせろといっても会わせなかった」
「俺のじいちゃんばあちゃんみたいなもんなんじゃないのかよ」
ますます父の顔は歪む。少し意外に思ったのは、彼の顔から滲むのは嫌悪の感情だったからだ。父が誰かを嫌うのは珍しいような気がした。敵対者へは、容赦がないのも知ってはいたが。
「……そうだ、お前の祖父母みたいなもんだ。俺はでもそう言いたくはない」
「母さんが死んだのはそのひとたちのせいじゃないだろ。俺は祖父母がいるなら会いたい。俺がそういうのは変?」
会いたいといった瞬間父は眉間にやっていた手を止めて、指の隙間からこちらを見た。赤にも見える独特の目を窄めて、それから重いため息を吐くと立ち上がった。
「連れて行くと約束させられたんだ、連れて行くさ。アマリネは、特にお前に会いたがってた。あのひとはどうなのか知らねえけどな」
翌日、連れて行かれた母の墓の前に立っていたのは、シンプルな喪服を身につけた男女だった。夕紀を見ると唇を震わせて、女は微笑んだ。寂しい笑みだと思った。男は表情を全く変えないまま、父と会話をした。ぼそぼそと低い声で話すのは、夕紀に聞かれたくないからなのだろう。
墓石になってしまった母を見やり、毎年隣にある祖父の墓を見る。母に本当の家族はいなかったというが、父がこの墓の下に眠る男を祖父だというのなら、彼が祖父なのだ。後ろで父と話す男もまた。
置かれたビールと花束を見つめていると、全部が嫌になった。学校に行くことが疎ましかった。学校帰りにマフィアの根城に帰る自身が疎ましかった。父しかいない家が疎ましかった。人間が疎ましかった。ゆうひすらも疎ましかった。
上手くいかない生に、飽いた。
十二歳なんて人生の六分の一も生きていないうちにそれに気が付いてしまった夕紀は、表面上変わることなく淡々と日々を過ごす。それは父である夕夏からしたら変わらないように、だけれど夕紀の級友や同僚たちからすれば彼は確かに変わった。今でも彼らに問いかければ、彼らはきっとこういうだろう。
「あいつは変わった」
銃を撃つ手に躊躇いがなくなった。射撃の精度は上がり、冷徹さが増した。父に倣って自身の異能のコントロールを完璧にした。
学校に行くことが少なくなった。いったとしても勉強をしないでひたすらに読書をしていた。同じ年頃の少女たちと盛んに遊んだ。他人を見下しそして自身を見下すことが増えた。ニヒルな笑みを浮かべる顔と、胡散臭い笑みがへばりつく顔と、ふたつの顔ができていった。
自分自身のそんな状態を嘆きながら、それでもわかってしまった事実にうんざりとしていた。自分のわかっていると思っているその浅はかさすらやるせなかった。
その日は、暑い夏の日だった。最初に立花修司とアマリネ・リリーザに会ってから六年が経っていた。前日も墓参りをして、彼らはあまり変わらない姿で夕紀と話した。元気そうね、ああ、勉強はしている?、まあまあ、最近読書量増えたんだよな、うるさいよ父さん。相変わらず立花修司はあまり言葉を口にはしないが、常に穏やかな会話が行われた。その中で暑さに対抗するようにしゃんなりと身を晒す花は、鮮やかな白だった。母には似合わないと、思った。
ゆらりと蜃気楼が立ち上る街中を歩きながら、夕紀は図書館へと足を進める。もとより読書を好む彼は、最近になって図書館の利用価値に気が付き足繁く通うようになっていた。昨日の中身のないワンパターンと化した会話を思い出しながら、本を突っ込んだ鞄の熱にすら苛立つ。どことなく苛立って、どことなく不幸なこの感覚はなんだろう。どうして俺は幸せではないんだろう。
図書館の扉を開ける。冷たい空気が火照った身体をべろりと舐め、そのまとわりつくような冷気に少しだけ不快感を覚える。世界が一瞬暗転し、また明るくなったことに気が付いて目を開けると、なぜか目の前に広がるのは見慣れた図書館ではなかった。広いエントランスには白い似たような服を着た人間らしき人物が立っていて、夕紀を見かけるとふわりと笑った。
「図書館へ、ようこそ」