小さき者よ、共に

 ごすんっと、聞いたことがないような音がした。
 ああ初めて聞く音、そう思いながらわたしの身体は飛んで浮かんでうかんで、そして、どちゃりと叩きつけられる音がした。痛みも何も感じなくて、しいていうなら生理のときに来るような、あの慢性的な怠さが、身体中を包む。嗚呼、怠いわ、そうかすれた声は囁いて、視界はゆっくりと白くなる。霞がかっていく眼球とは別に、わたしの意識はすっきりと冴えていた。白い静かな空間の中に、いつの間にかわたしは立っていた。
 そこがどこだか、本能的にわたしは知っていたのではないかと思う。ふわりと鼻孔をくすぐるのは水飴のように甘くぬるい風、べとりセーラー服にまとわりついて、髪の一本いっぽんまでも舐めとられるように感じる。ぞわりと身の毛がよだつけれど、それでもその匂いは落ち着いた。何かが咲いているのだろうかすっきりとした花の香りが、時折水飴の匂いの群れをぬけて鼻をさし、そのたびに少しだけわたしは呼吸を取り戻す。ぶちゃりと塗りつぶされた絵の具の中で、必死にもがく蟻のように。
 死後の世界の温度は、きっと母の腹の羊水と、同じ温度をしているのだろう。
 足元を見た。白い短い靴下と、それを守る黒い革靴が、まるでなぁにとでもいいたげにこちらを見返していた。幽霊に足がないなんて誰が決めたの、そう鼻で笑うわたしの足をできることなら抱きしめてやりたくなった。だからすとんと座り込んで膝ごと足を抱き寄せる。
 もう、本当の地面を踏みしめることができなくなった、かわいそうな足を憐れんだ。
 足元の地面は人工芝のようにさらついて、しっとりと水けを含んで生きている。いや、生きているように見せて、眠りについているようだった。呼吸することを忘れた深いふかい眠りに。
 ぴとりと瞼を閉じ、ずるりと長いスカートが滑り落ちて現れた膝小僧に押し付ける。ひんやりと冷たいのはどうしてだろう、「わたし」という少女から、もう肉も血も失われてしまったからだろうか。骨すらも残さないまま、ただ冷たくなってしまうのだろうか。
 嗚咽が喉からか細く漏れる。蚊が耳元をかすめたときのような泣き声をあげて、わたしは「わたし」という少女の喪失をおもって泣いていた。「相田真白」の死に気が付いて、泣いていたのだ。
 どこか遠い先のほうで、水が流れるやさしい音を聞きながら泣いていた。

 こつん、と鏡が音を立てる。ふっと顔を上げるとフードを深くかぶった華奢な人物が、本を片手にきれいな指を曲げて鏡をノックしたようだった。見慣れた姿にわたしは小さく笑いをこぼし、彼がフードを下ろして鏡の前に座り込むのを待った。
「こんにちは、真白」
「こんにちは、シェンナ。もうフードを外してしまえばいいのに。そのほうが素敵よ」
 常々思っていたことをそう指摘すると、彼はくしゃりと顔を緩ませて少しだけ困ったように眉をひそめた。その表情をすることを知りながら、そういうわたしはきっとずるい。
「今日はありしま、たけお、の、文庫だよ」
 たどたどしく作者の名前を読み上げるシェンナにわたしは偉そうに胸を張って、有島武郎よといってみる。彼は難しいと小さくこぼしてから、黄ばんだ掌サイズの文庫をぺらり、めくる。
 そのときふとこちらから向こうへ、生ぬるい風が吹いたような気がした。わたしの髪がさらさらと揺れて、そうして伝染したようにシェンナの髪が揺れた。彼の人とは少し違う猫のように愛らしい耳が、ぴくんと動く。シェンナは顔を上げてわたしを見やり、文庫を持たないほうの手で鏡に映るわたしの頬を撫ぜた。感じるはずのない温もりを感じて、わたしは少しほっとする。大丈夫、まだいかない、まだいけない。
「真白」
「平気よ、ありがとうシェンナ」
 ゆっくりと安堵していく感情を知りながらゆるゆると笑みを浮かべれば、シェンナも小さくほほ笑んだ。その幼い少女のようにすら見える彼の顔に、何回安堵を覚えるのだろう。これまでも、これからも。
 シェンナは鏡にもっと近づいて、鏡面に右の頬をぺたりと寄せた。かわいらしいしぐさに思わず笑いそうになることをこらえて、わたしも同じように左の頬を寄せる。鏡の前にぺたんと座り身を寄せるのが好きだった。触れられない代わりに感じる温度が、好き。
「真白は、これ読んだことあるの?」
 ぱらりぱらりと紙をめくるシェンナの指を見つめながら、わたしは小さく笑った。少しふざけたように言えるだろうか。
「ええ、ちょうどあの日に持っていた鞄の中に入っていたわ。『小さき者へ』を読んで泣いたの。学校の放課後、図書室で」
 シェンナは口をつぐむ。少しだけこちらを見る目は優しくて、やっぱりわたしは泣きたくなってしまう。もう十年も前のことなのに、わたしの胸にはまだ死を受け入れるだけの余裕がない。受け入れたくないと喚く子供のままだ。
「素敵な言葉があるの。それはS潮社のものかしら? なら十八頁を開いて。その二段落目、そこを見てわたしはぐっと息が詰まったの」
 シェンナの手がとまり、彼がその頁を斜め読みしている様子を見つめながらわたしはかすかに笑んだ。
「『世の中の人々は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦きはてる程夥しくある事柄の一つに過ぎないからだ』……心理よ、けれど『私』はこうもいう。『お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だからといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちな事柄の中からも人生の淋しさにぶつかってみることが出来る』」
 歌うように記憶からこびりついて離れない言葉を紡ぐ。シェンナは途中でわたしの声に耳を傾けるように、そっと瞼を閉じていた。
「ありがちなことは、生きているものすべてに必ず降り注ぐ。いつかやってくる終わりはとっても簡単で、でもそこから何を得るか。最後に『私』は幼い『お前たち』にいうのよ」
「『小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
 行け。勇んで。小さき者よ』」
 小さく苦笑をしてシェンナを見る。彼はそっと瞼を開けてわたしを見返した。きれいな大きい瞳だった。
「震えたわ。全部を読まなければきっとよくわからないのでしょうけれど、最後の言葉を読んだときに、涙が流れたの。生きなければいけないと、生きて歩まなければいけないと思ったわ。時間が時間だったから、図書室を出てそして家の近くで事故にあってしまったんだけれど、『私』の言葉はわたしの頭の中で木霊した。だから、ここにたどり着けた」
 思い出すのは、今も振り返ればそこにある、静かな野原。誰もいない誰の声もしない、ただの死んだ世界。
 いつかきっと死者がいくところ。

 そこは、吹いてくる風とどこか遠くで流れている川以外、どんな音もしなかった。常に霧がかっていてそれは薄れたり濃くなったりと穏やかにわたしを煙に巻く。どこかへ行こうと足を踏み出して、どこにたどり着くのかもわからぬまま、霧の中を歩いた。時折鼻を刺すように匂う花を探して歩いてはみても、どうしてか何かが喉に引っかかる。わたしが探す花の匂いを、毎年どこかで嗅いではいなかっただろうか。
 強い匂いが香る花じゃなかったような、気がする。
 ときどき叫んだ。
 叫びながらどこにも行けない自分を呪った。どうして今もここにいて、眠りにつけないのかがわからなくて苦しくて叫んだ。いかれた雌犬のような甲高い泣き声は身体中を鳴らして、けれどこの世界は揺らぎもしない。もしも生きて誰かひとがいっぱいいるところだったなら、きっとわたしを狂った女を見るかのようなひとがいただろうに。母がいたなら泣き出しただろうか。
 ときどき走った。
 ひたすら歩いても何も世界は変わらなくて耐えられなくて逃げ出すように駆けた。どのくらい早く走っても沸き起こる焦燥感は消えなくて、靴を脱ぎ散らかして走った。疲れて地面に転がって目をつむり、ふと足元を見れば靴は脱ぎ散らかしたままのようになぜかそこに落ちていた。誰かがいてそうしてくれるような気配を気持ち悪く感じることもない、だってここには誰の気配もないのだから。
 ときどき泣いた。
 泣いても仕方がないと、ありがちな事柄である死に飲まれたことを理解しながら、いまだどちらにもいけていないだろう自身が不安で、唸るように泣いた。座り込んでさめざめと泣いたところで、わたしはたどり着けないとわかっているのに、目を指で必死にこすっても涙はなかなか止まらない。ただひたすらに赤い目になることを知りながらしつこく泣いた。
 感情が爆発し、そして沈下し、また爆発し、そうやってひたすらに時間を過ごした。どこにも行けないことへの恐怖という感情すら薄れてしまって、もう動くのも嫌になっていた。死んでもなお、身体に疲れは訪れるなんて、知りもしなかった。知りたくもなかった。
 花の匂いは水飴のように甘ったるい風の匂いの中で、突き刺すようにわたしに呼吸を取り戻させる。まだ生きているということを教えてくれる。いえ、生きてはいないのだけれど、それでも呼吸めいたものができる生物であることを訴える。だけれど花は見えてこない。その色が何色か、それは頭の片隅でふわりと浮かぶのに、一瞬で無彩色へと化してしまう。
 そのたびに、わたしはまだ受け入れていないことを思い知る。
 本当は頭の片隅で、聞こえてくる川の音がなんなのか、思い出そうとしても思い出しきれない花がなんなのか、わかっているのだろう。わたしはわかっている、わかっている、わかりきっているほどにわかっている。
 それを受け入れないで、望むのは。
「誰でもいい、から、誰か……誰かの声が、聞きたい。わたしを笑う声でもなんでもいい、わたしがひとりじゃないって、誰か……!!」
 触れたい、語りたい。
 まだわたしは終わってはいないのだと、これからも恐れずに歩いていくのだと、誰かに教えて欲しい。
「……助けて……」
 かすれた声は霧に飲まれて、わたしはまた泣くのだと顔をゆがめた、そのときこつんという音がするまでは。
 こつん、と、何かが、鏡か硝子、いやそれらに似たような板を、叩いている音に、聞こえた。
 ばっと顔を上げる。縋りつくように音のしたほうに目線を向け、もう一度聞こえた音の響くほうへと向かって走り出そうと身体を起こし、怠慢な肉体を恨みながら人工芝のような草を蹴って走り出した。もう革靴が汚れてもかまわないのだ、とそんなことを考えながら、また一度聞こえた音を追う。
 こつんと響く音がするところは、白い靄があふれていた。霧がひとつの円を作るようにして渦巻いて鏡のように硬質的なものへと姿を変えていく。ぞくりと、興奮か、恐怖か、言い知れない感情が胸の中で産声を上げる。然し恐れてはならぬ。
 ぱっと、脳内に『私』の言葉がよみがえる。今まで忘れていたことがまるで嘘のように。
 恐れない者の前に道は開ける。
「『行け。勇んで。小さき者よ』」
 わたしはいてもたってもいられずにその鏡へ体当たりをするかのように、飛び込んだ。
 ばっとジャンプした足元で、夏の終わりに赤く色づくあの花を見たのは、きっと気のせいではないのだろう。
 飛び込んだ先は丸い枠組みのある窓のようだった。そこから先には行けないし、それ以上どこにも行けるわけでもない。ただ今まで見ていたひどく音の少ない世界とは違って、巨大な本棚が林立し淡い夕陽が差し込んでいた。目に刺さる優しくはない朱色は、色さえも乏しいあちらとは違って、何も考えられなくなる。呼吸をすることができなくて零れ落ちたぬくい涙を必死にこすり、久々に見た光を植え付けようと瞼を瞬かせる。嗚呼、わたしはまだ、夕陽を見つめることができるのだ。
「……あな、た、は……?」
 ふと聞こえた声に誰かがいることに気が付いた。鏡の前、わたしの前で、白い指をノックの形に曲げてフードの中から見上げる瞳は、少女のように愛らしい。泣き出してみっともない顔をしながらわたしは笑った。誰かの声と出会えたこと、誰かと会話を交わらせることに、身体中が震えた。雷がわたしの身体を駆け抜けたようだった。
「わたしは、真白。相田真白。……幽霊よ、君は?」
「僕は、シェシェンナ=ケット・シー。妖精、だよ。……ようこそ、図書館へ、真白」

「……『行け。勇んで。小さき者よ』か。なんだか真白がその言葉を好きな理由がわかったような気がする」
 やわらかく笑うシェンナの表情に、苦しかった感情が薄れていくのがわかる。結局後ろを振り返って歩き出してしまえば、わたしはまたあの淋しい世界へ帰るということも慣れた。昔はそれを絶望したものだけれど、さすがに十年も経てば、向こうの静けさもまた、死者を還すにはふさわしいのかもしれないと思えるようになった。
 それは、きっとシェンナがわたしの話を聞いてくれたから。わたしと一緒にいてくれるから。言葉を交わらせてくれた、最初のひとだから。わたしの声を、聞き届けてくれた君だから。
 死んでしまった絶望はもうどこかに行ってしまった。今もときどき鏡や窓硝子から出ていくことができないことや、ひとに触れられないことを恨んだりはするけれど、苦しくはない。止まっていた鼓動はもう一度動き出し、今度こそ本当にわたしは呼吸をするのだろう。いつになるかなんてわからないけれど、その日がやってくるまでは。
「きっと君ならわかってくれると思っていたわ」
 しらっとした顔で、好き、と付け足せば彼は穏やかに笑った。
 シェンナといると、わたしは生きている。そう実感できる。だから、それでいい。
 終わりがやってくるまでは、わたしは君と鏡越しに生きていく。
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