聖女の哀願

「ルベーシュ」
 ぽつりと礼拝堂の陳列された椅子に向かって放り出された言葉は、この静かな世界の中で漣を投じたかのように響いた。もし同じ部屋に他の兄弟姉妹たちがいたのならきっと聞こえないだろう声を、けれど鋭敏な耳を持つ少女は確実に聞き届ける。案の定黒い髪を二本のおさげに結わいた少女が、コッコッという音と共に入り口から顔を出す。少女の膝から下は山羊のそれで、歩くたびに蹄が音を立てる。時折わたしが彼女の足を洗ってあげる。そこに意味は、無い。
 ルベーシュは黒のおさげを翻し、堂々たる山羊の角をひょこひょこと動かしながらこちらへとやってきた。わたしやアーサーたちとは大きく違う、白い瞳孔の浮き上がる黒い眼球をわたしに向けた。紺色の修道服の上に巻いた白のエプロンが風に靡く。きょとんとした表情を見つめながら口を開いた。
「そろそろあなたが手塩にかけて育てている果実が採れる頃でしょう。採っておいでなさい。あなたが戻ってきたら食事をして、また兄弟たちにお裾分けに行きましょう」
 はいと声が出る代わりに少女はぱぁっと明るい笑みを顔に浮かべ、こくこくと何度も頷いた。今すぐいってきますとステンドグラスから窺える菜園を指差し、わたしがそうですねと頷けばくるりと背後を振り返って部屋を飛び出していった。産まれてもう十年が経つというのに、あの少女の感情は衰えることは無い。
 当然のことだ。生き物ならば感情がある。欲があるからこそ付随する見えないものは、生き物しか持ち得ない代物だ。
 ならばわたしは?
 わたしは生きていると言えるのだろうか。
 ぶつり。
 思考が脳という器の中で緩慢に働く中、いくつも浮かぶ箱の中のひとつに異変が起きた。ぶちりとさながら糸が引き裂かれたような音を立ててひとつの箱が青く蒼く瑠璃色に染まる。それはまるで感染するかのように次から次へと無数に存在する箱たちを侵食し、赤が、目の覚めるような瑠璃によって噴き出される赤が、脳髄を染め上げた。
 箱の中に少女がひとり立っている。瑞々しい若葉の下へと伸ばされた腕が、流麗な動きでひっそりと秘められた果実をもいだ。腕に抱く大きな籠の中にころりころりと果実を入れて、黒いおさげ髪の少女は微笑む。白い瞳孔が消えて長い鴉の濡れ羽色の睫毛が目を覆い隠す。隠すことのない二本の山羊の角と先の尖った長い耳、そして靡いた風によって翻されたスカートの下、黒い毛に覆われた山羊の足が露出する。少女は微笑む。柔らかく笑う。
 そこに青が指した。
 箱の中に青が増える、増殖し侵食し埋め尽くされる。潰れる、黒、赤、青が潰されて混ざって
「イーシュ!!」
 喉から零れ落ちた悲鳴に似た声は確実に六番目の弟の元へと届いたのだろう、一瞬の沈黙のあと、驚きを持った青年の声が脳裏に反響する。青はそこかしこに広がっていく、天空の島の大半までを映し出すわたしの脳内の箱は、青に染められて姿を変えていく。数を数えることはできない、それほどまでにその青は多かった。これでもしもわたしの感情というものが生きていたのなら怯えていただろうその数に、けれど焦りに似た得体の知れない何かが胸を占めた。
『ミオ姉さん……?』
「イーシュ、わたしの教会だけでなく島のそこかしこに青い異物が紛れ込んでいます。恋人の妹に戦闘可能な翼種を送り込んでもらえるよう伝えてください。できる限り、早く」
『わかった』
 素直な声と共に脳に確かにあった存在が霧散する。目の前にあるのは青く染められていく箱だけだ。人間の常識で言うのならば本来座るべき教皇のための荘厳な椅子から立ち上がると、身につけた装身具がしゃらりと音を立てた。どうしてわたしは今日これを着たのだろうと考える。それはもちろん少女が選んだからだ。
 紺色の裾が床に衣擦れの音を残す。足にぴったりと吸い付くような靴は音も立てずにわたしに従い、少女が出て行った入り口へと向かった。世界の鮮やかな色合いを阻むためかと問われれば否定することもできないヴェールの下から、修理もされないまま開け放たれて放置されている扉を見やった。歩いていくだけだ。ただ歩いて、少女の収穫を手伝ってやるだけだ。
 もちろん、それだけで済むはずがないということを、わたしは知っていた。
 あと少しで開け放たれた扉の向こうが見えるというときに、甲高い悲鳴が空気を切り裂いた。喉の奥で何かが産声を上げる。その一言はなんだったのだろう、吐き出されない言葉は誰の名だったのだろう。アルク? アーサー? それとも。
 足は滑らかに進む。少しだけ覚束なくなる足取りを恥じることもなく、わたしの足は早くなることも遅くなることもなくただ進む。仔山羊の少女が青に蹂躙される数の暴力を箱の中で見つめながら、わたしは歩みを止めることもできない。
 かくして少女は横たわる。青の童子たちの足元に打ち捨てられたように崩れ落ち、とさりと果実が散らばった。黒いおさげがほどけて広がって、煌めく白の眼がわたしを射抜く。血が少女の頬を体躯を脚を、怪我していた。わたしと同じ色の衣が、もはや誰とも似つかぬ赤に染め上がり、新緑の若葉の上に落ちていた。
「おにげ ください」
 こぽりと少女の桃色の唇から赤い液体が垂れ流れ、嗚呼それはあなたの体液で翼人と同じ人間と同じ赤い血液で生きるために必要なすべてでわたしが愛していた愛したただ愛していた少女の幼い仔山羊のわたしに愛されていたルベーシュという少女のもので、嗚呼それが流れてしまったのならそれが、それがあなたからなくなってしまったらそれはもうただ、ただ、ただ。
 死んでしまうだけだ。
 青い数人の童子はあどけない顔をしてわたしを見つめる。首を傾げ何かを確かめるように少女とわたしを見比べて、さながらもういいやと言わんばかりに少女に背を向けた。わたしの少女に背を向けた。
 その段階になって初めて少女の全貌がはっきりと視界に収まった。まるで赤いインクをぶちまけたように、いやインクよりももっと粘度の高い液体がぶちまけられたように、少女の体を覆っている。少女の白くたおやかな皮膚は裂けて、生命としての肉を新緑の上に晒していた。紺色のワンピースも白いエプロンもすべてが塗り替えられてわたしを苛む。
 嗚呼、嗚呼。
 これが、これが感情だというのなら、それならばなぜ、
「ルベーシュ」
 つぶやいた声を少女は聞き届けたのか緩慢に視線をこちらへと向ける。しかしその双眸にはもはや生気は灯っておらず、惰性で動いている眼球そのものだった。声が聞こえたわけではないのだろう、ならばそれはルベーシュの従順さ故か。哀れだった、ただひたすらに哀れだった。視界が滲みはらはらと何かが瞳から流れていく。嗚呼涙だ、いつか流した液体を思い浮かべながら、わたしは一歩脚を踏み出した。
 途端に青い童子たちの表情が変わる。新たなおもちゃを見つけたと言わんばかりにぱぁっと顔を輝かせるのは、いつか見た兄弟たちのあどけない表情を思い起こさせて、ますます涙は意味もなく流れていく。なんて不愉快な気分だろう、なんて子供じみた怒りだろう、ぐるぐると感情が焦燥が慟哭が喉の奥の胸の底で渦巻き、手が震えた。
 脚を進める度に身体を何かが切り裂いた。瑠璃色の童子たちはやはり子どもらしき笑みを浮かべてきゃらきゃらと身体を宙に浮かばせる。鮮やかな碧色の翼を羽ばたかせ、彼女たちがくるりと舞うたびにわたしの身体に熱が走る。猫のように気まぐれなのだろう、童子たちは自分より弱い生き物を弄ぶかのように決して倒れない程度の斬撃をわたしに叩きつける。重複すればいずれ死ぬというのに。
 いや、わたしは死なないのか。
 そうだ、わたしは死なない。
 これくらいでは死ぬことはない。治癒が遅れるだけだ、ほら案の定身体は再生されていく。生きるために、生きてなどいないはずなのに、生かすために身体は勝手に再生されていく。少女とは違って。
 それでも足を取られればよろける。不意に足の裏に鋭い電流が走ったかと思ったそのとき、わたしの視界から少女は消えて新緑と土でいっぱいになった。だんっと右腕を地面に叩きつけて顔を上げると、ぽっかりとあいた穴のような少女の瞳孔が目に入った。真っ白い穴。それは空に上るための穴ではなくて、どこか知らないところへと溶けて行く、穴。
「ルベーシュ」
 喉が引きつった。頬にべとりと土がつく。泥が土が、身体中から吐き出された血液に付着して不快だった。ああそうだこれは気持ちが悪い。この感覚は気持ちが悪い。
「ルベーシュ! ルベーシュ、ルベーシュ!!」
 地面に向かって叫んだ。何度も何度も少女の名前を呼んだ。なにも見ていたくない、なにも、知りたくない、もう、なにも感じたくない。
 感じたくなんかない。

 遠くからわたしのいる箱の中に大きな翼がやってきたことに、すぐに気がついた。身を起こすことすら億劫で、それでも確かめるために顔をあげれば案の定そこにはセオリスがよこしてくれたのだろう、翼種の中ではトップクラスの戦闘力を誇る生き物が立っていた。すらりと背の高い美しい女が空をまるで踊るように歩いてくる。実際女は踊っているのかもしれない、絹のような長い髪はくるくると広がって青い空に模様を描く。一糸纏わぬ完全なる裸体を惜しげも無く晒し、女は瑠璃色の童子たちの輪の中に降り立った。金の髪が蔦のように根を伸ばして行くのを見つめながらその一本が横たわる少女に触れたとき、わたしは自身の元へと伸びてきた金糸を鷲掴んだ。
「瑠璃色だけ狙いなさい」
 掠れた声を聞いたのだろうかふわりとこちらを振り返った女は、やわやわと笑む。決して柔らかいとは言えない奇妙な笑みを浮かべてから、小首をかしげるようにして頷いた。同時にごきゅりという奇妙な音がそこかしこから響く。本当はこの翼種を連れ出す必要などなかったのだろう、例えばわたしがスインジェイルやグロブスだったのなら。だけれどわたしはわたしだ、力のない非力なミオーレ。
 ひとりの翼種すら守ることのできないミオーレ。
 顔を上げると女の四肢の背後から赤黒く堂々とした足が生えていた。彼女の本体は捕食することができなかったことが煩わしいとでもいいたげにぐにゃりと身を震わせる。歯列など存在しない無数の歯の間からてろてろと液体が流れて落ちた。無感動にそれを見やり、地面に手をついて身を起こす。そこには横たわった少女と、不服そうな翼種、それからわたししかいなかった。圧倒的なまでに、そのふたつの生命しか残されていなかった。
 この翼種の名は何だったか、思い出せない。ゆっくり彼女へと手を伸ばせば、疑似餌の女はやはり首を傾げながらわたしに手を差し出した。女の手を片手で握りしめる。
「ありがとう。セオリスからも言われたでしょうけれど、あの瑠璃色は見つけ次第殺しても構いません。間違えて他の翼種を殺さないであげてくださいね」
 理解をしているのかしていないのか、甚だわからない奇妙な表情のまま女はゆらりと微笑む。わたしの手をそっと振りほどくとばさりと大きな翼の音が響いた。目を閉じそしてまぶたを開けると、もうそこに美しい女の姿はない。箱の中から翼は飛び立ち、残されたのはわたしだけ。生きているものはわたしだけ。
「ルベーシュ」
 吐息のように漏れ出した少女の名前に返事は無い。そも、彼女は返事をすることはない。もうずっと、少女の声を聞いていない。
 わたしが望んだから。
 立ち上がる。自分の身体も少女のように八つ裂きにされていた。赤い血が花よりも赤い血が、身体中から流れ落ちて泥に跡を残す。せっかく綺麗に咲いたのに、ね、ルベーシュ。あなたが愛した花たちは、すべて蹂躙されてしまいました。
 あなたのように、蹂躙されてしまいました。
 横たわる少女の頬を撫でる。膝をついた地からべちゃりと湿度の高い音がした。虚ろになった白い瞳孔には光を灯すことはない。山羊によく似た角も生命を感じさせることはなく、かさついていた。身をかがめて額にそっと口付ける。
 お兄様たちを助けてあげてくださいと祈ったあの日、わたしの祈りを神様は聞いてはくれなかった。それなのにどうして少女の魂の幸福をその神に願えるのだろう。違う神でも構わない。どうか、どうか。
 視界が滲む。手が震え、少女の身体を掻き抱く。愛していた、愛していた愛していた。
「ルベーシュ」
 濁流が心を飲み込む。息をすることすら苦しい。嗚咽を堪えられなくなった喉からは、哀願めいた叫びが破裂した。名前を呼ぶことしか脳のない愚かな鳥のように、わたしはただ少女の名を叫ぶ。
「ルベーシュ」

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