ひとりで咲けない赤い花

 その騒動は、とある早朝、旅するヤモリの島で巻き起こった。昨晩一緒に布団に入ったはずのキロがいないと婚約者であるドゥシャンが起き上がった。親族揃って利用している屋敷をひっそりと歩き始め、お手洗いにたどり着いた時に彼はぎょっと寝ぼけていた目を見開くことになる。
 彼女のものだとわかる独特な桜色の長い髪が、打ち捨てられたように落ちていた。
 ドゥシャンが動揺しながらお手洗いから出たちょうどそのとき、偶然起きていたもうひとりの婚約者であるシモンは部屋の前を軽い足音が駈けていくのを聞いた。こんな時間に起きているのは誰だよとちらと窓を見て、そして一瞬視界の隅に捉えた桜色に目を見開くことになる。とっさに窓を開けて左右を見渡しても、そこには誰もいなかった。
 ぴしゃりと水が櫂によって叩かれた音を聞いて三人目の婚約者のツィーリルは目を覚ました。島には一族のテリョナーダ族しかいないが、だからこそ数隻の舟を失うわけにはいかず、数人の男たちが舟番を代わる代わる行うことになっている。今日はツィーリルの番だったのだが、いつもなら寝こけることなどあり得ないのによく眠ってしまっていたようだった。頭を掻きつつ立ち上がり、舟頭を数えて眉を顰め、舟番の小屋を飛び出した。
 舟着き場から一艘の舟が去って行く。澄んだ水を器用に絵を描くように撫でながら、彼女は海を渡ろうとしていた。あれほど長く、ふざけて髪留めを外せばふうわりと彼女の小さな膝まで垂れる髪が、今は見る影もなかった。微かに射し込んでくる陽の光を浴びて、短く刈り込まれた癖のある桜色は、波打つ穂のようにきらめく。
「キロ!!」
 叫ぶ声が海の中に吸い込まれるかと思いきや、少女はきちんと聞き届けて振り返った。遠くからでもはっきりとわかる朱色の瞳を婚約者へと向けて、自分勝手な彼女は笑う。
「おはようございます、ツィーリル。勝手なことをしてごめんなさい」
 声は遠い。それでも聞き届けることができるのはツィーリルもキロも海の人間だからだろう。
「戻って来い」
「できません。僕は、諦められない」
 泣き出しそうな笑顔に見えた。婚約者たちがみな彼女との結婚を了承したときに思い出した笑顔とは、違うものだった。
「キロ」
 呟く声までも拾ったように、少女はそっと応える。
「ツィーリル。安心してください。僕は必ず帰ってきます。帰ってきて、幸せな気持ちで君たちと結婚します。信じて」
 愛しています、囁くような声が耳元で響いた気がした。ずっと遠くにいるのに。小さな婚約者はずっと遠くへといってしまうのに。
 ツィーリルが応えないことを知ると、少女は悲しそうに小さく笑って、ひとつだけお辞儀をすると前を向いた。やがて少女の姿は海のさらに先へと消えていく。北へ向かうのか、南の小国へ向かうのか、ツィーリルにもわからない。大切なヤモリの少女は、大海へと姿を消してしまった。


「あーあれトリーっすよね? 隣にいるのって誰だ?」
「噂の新入りちゃんじゃねえの? 随分仲良さそうだなー。髪の短さ的には男子だけど……いや、あれは女の子だな! 女の子の匂いがする!」
「まじかよ!! 先輩の鼻おかしいっすよ!!」
 人の少ない路地に二人の憲兵隊員の声が響く。いつもなら耳がどうにかなってしまいそうなほどの騒音の満ちるその路地は、けれど今二人の少年以外に人の姿は全くない。ずっと先に憲兵隊の紅の衣を纏った二人の人影が見えるだけだ。
 鳥籠の女と呼ばれる西の研究所からやってきたバトルフェザーが、活気溢れるこの国を襲撃してから一週間が経とうとしていた。あろうことか女は領主のいる屋敷を狙い、天使様を襲ったのだというのだから、どれほどイカロスの翼たちが動揺したかなど計り知れない。偶然居合わせた天使様の友人たちによって大事にはならずに済んだが、しかし鳥籠の女は街中に現れ無差別に人を襲うようになった。以来人通りの多かった道という道は、さながら疫病でも蔓延したかのように静まり返るようになる。無論領主は事態を重く見て上空に割拠する女たちを精鋭部隊に、街中を漂う女たちを憲兵隊に排除するよう指示を出した。
 まだ若い憲兵隊員であるナシャート・アルバハルとアンドリュー・アダムスが、巡回当番として街の西側を回っていたのもそれが理由だった。昼の三時を回りまだまだ空は明るいのにひと気のない通りを歩いているとなると、二人で騒がないとやっていられない。今日はまだ鳥籠の女とも出くわしていないため、精神的余裕と緊張が混ざり合ってやや疲れているのもあった。
 そんな折に、南側を割り振られたトリーことトリトニー・チャルチウィトリクエと最近憲兵隊の中で話題に上っていた新入りらしき姿が見えたのだ。これはもう絡むしかない、そう考えたナシャートはおーいとトリーに声をかけた。
「そっちもう終わったのかー? 随分早いんだな……って、おいお前新入り泣かしたのかよ!!」
 ついさっきまで、確かに二人は親しげな様子で会話をしていたはずなのだ。わりかしツッコミ役に回ることの多いからこそよくむすっとした顔をしているトリーが、穏やかな顔でわずかに笑みさえ浮かべていたのだから。それが今やいつもの表情よりよほど厳しい顔をして、手で顔を覆っている短い髪の少女と向き合っていた。ナシャートは思わずアンドリューを置いて駆け寄ると、少女の桜色めいた髪色と耳から垂れる青いピアス、さらに暗い青のリボンが首裏を落ちており内心首を捻る。見たことがあるような……?
 少女の前に立ってトリーと対面すると、彼はかなりきつい目つきでぎろりとナシャートを睨んだ。どうも未だに彼にとってナシャートは姉に寄り付く虫らしい。
「お前には関係ないだろナシャ!!」
「そりゃ関係ねえけど!! 放っとけないだろ!」
 ナシャートの言葉に返答したのはけれど後ろに立っている少女だった。服の裾を掴まれナシャートが振り向くと、朱色めいた瞳の下に三つの青い三角形を連ねた赤い顔が現れる。泣いていたからこそ鼻面が赤いのだろうが、けれどそれ以上にナシャートはぎょっとした。その少女は知り合いだったからだ。
「キ、キロちゃん!?」
「確か、えっと、ナシャートくん、でしたっけ。違うんです、トリーが僕を泣かしたわけではありません。今ちょっと涙腺が弱くて……」
 くしゃりと顔を歪めてあははと笑うキロは、かつて一度会ったとき腰を越えそうなほど長かったというのに、今はもううなじが見えるほど短く刈り込まれていた。癖のある桜色は短いわりにぴょんぴょんと飛び跳ねているが、そういう問題ではない。思わずナシャートは彼女の肩をガッと掴んで叫んでいた。
「髪切っちゃったの!?!? なんで!?!?」
「ええっいきなりそこ聞きますか……?」
 珍しく狼狽えるキロをトリーはナシャートから引き剥がし、まったく状況を掴めていないらしい後輩をちらっと見てため息をついた。
「まったく状況を知らない奴がいる前でデリケートなこと聞くなよバカナシャ。少しはそのちっこい脳みそで考えて話せば」
「先輩にすごい口聞くよなトリーって……」
「お前の先輩でもあるんだけど、オレ」
 トリーはアンドリューの言葉にぴしゃりと言い放ち、キロにハンカチを押し付けようとしてまだ彼女の目からぽろぽろと涙が零れ続けていることに気がつくと、ますますむっとした顔のままぐいぐいキロの顔面を白いハンカチで拭い出した。されるがままにしている少女とトリーの様子は、信頼し切った相手であるということを伝えていて、だからこそかなり痛そうなキロを見ても、ナシャートとアンドリューは止めることができなかった。
 ある程度拭い終わるとトリーはごつんとキロの額に頭突きをし、ふんと鼻を鳴らす。褐色の肌の中映える水のような瞳をあらぬ方へと向けて、平淡な声で呟いた。
「入るっていって髪まで切ったんだろ。いい加減泣くのも終わりにしなよ」
「うん、ごめんなさい。ありがとう、トリー」
 にこりとキロは笑った。痛そうに額を抑えてはいたけれど十分納得したような笑みだった。その表情に頭突きをしておきながら心配していたのか、トリーはうんと頷いた。
「で、なんで髪切っちゃったの? あとこの前一緒にいたでっかいのは?」
「そのでっかいのに失恋したので髪を切ったんですよー」
 にへらと笑ったキロを見た瞬間、ナシャートは途端に厳しい顔をした。トリーの表情の意味も頷ける。ぽんと短い髪の小さな頭に手をおいてくしゃりと撫でると、キロはぱちぱちと瞬きをしてナシャートを見上げた。
「辛かったね、キロちゃん。お疲れ様」
 少女の唇が一瞬震えた。それから柔らかい笑みを浮かべてありがとうと応えた。にへらと笑うキロの笑みにつられるようにナシャートも思わず笑みを浮かべると、トリーが真横ではんと鼻を鳴らし間抜け面とぽそりと呟く。そしてそこまでずっと見てるだけだったアンドリューがはいはいはい! と挙手をした。なんとなくデジャヴを覚えたのは気のせいだと信じたい。
「その子が噂の新入りちゃんなんですか!」
「噂になってるんですか?」
「人数徐々に増えてる最中だから実際大して噂にはなってない! 一部の女好きがぎゃあぎゃあ騒いでるだけだよほんっと最低」
「トリー待てなんで俺を睨むんだやめろ!!!」
 トリーとナシャートの攻防をキロはくすくすと笑いながら見ているが、アンドリューに視線を戻して手を差し出した。
「初めまして。キロ・テリョナーダといいます。トリーくんの幼馴染でヤモリの讃える者です。よろしくお願いしますね、先輩」
「あっいや俺も最近入ったばっかなんだよ。アンドリュー・アダムス十六歳! 一緒にがんばろうぜ! こっちこそよろしく!」
「あ、十六歳なんですか? 僕とトリーと同い年なんですねー。大きいなぁ」
 にこにこと喋るキロにアンドリューも楽しそうに返す。なんとなしにナシャートがじとっとした目を向けていると、トリーが不意に切迫した声を上げた。
「出た!!」
 ナシャートが言葉に振り返りトリーの視線の先へ目を向けると、白い鳥籠の女が六体ほど上空へ浮かんでいた。ぎょっとするほど美しい姿とは裏腹に鳥籠状の鋼鉄が異形に映る。彼女たちは予想以上の速さでこちらへと滑空してくるが、だからこそキロのことが気にかかった。憲兵隊に入隊したといってもつい最近まで一般人だったのだ、戦えるとは思えない。同じことを考えたのかアンドリューもさりげなくキロの前に立っていた。にやりと笑ってお互い親指を立てる。
「キロちゃん任せてろ! 先輩らしいとこ見せちゃうぜ!」
「ヒューヒュー先輩かっこいいー!! 俺もやっちゃうぜ!!」
「なにアホなこといってんだよ! ちょっと黙ってろ!」
 トリーにぴしゃりと吐き捨てられた言葉に二人してうぐっと黙ると、女たちが近寄ってくる空を切る音以外に別の声が聞こえてきた。遠い空の上から響いてくるような静かな歌声。
 ちらと振り返るとキロが口を閉ざしたところだった。にこりと笑ったかと思うと指先が出る黒の手袋をきちんと嵌めて、身を屈める。アンドリューの真横を何かが駆け抜けた、そう思った時には紅の衣が目の前に現れた白を瞬く間に消し去っていた。さらにもう一体襲いかかってくるのを自然な流れで避けて、女の白い首をがっと掴む。ぎょっとする二人の前でごきりという音が響いた瞬間、女の姿が掻き消えた。
「ぼさっとしてる暇あったら戦ったらどうなんだよ、センパイ?」
 トリーの声が耳に入るがナシャートもアンドリューもハハハと引きつった笑みを隠せない。瞳と同色の水色の髪を翻し、トリーは白い女を一体仕留めていた。完璧に出遅れた二人だが即座に戦闘に混ざる。ナシャートが素手で戦っているのを見たキロはにこりと笑いながらいった。
「ナシャート先輩も格闘系なんですね」
「そうそう! 結構強いんだぜ俺!」
「今度教えてくださいー」
 ナシャートとキロは同じ白い女の背と腹に攻撃を加え、霧散した先でにっこりと笑いあった。とその後ろでちっと強い舌打ちが聞こえ、ばっと振り返るとアンドリューが鳥籠から伸びる脚を大剣で防いだところだった。相当重いらしく体勢は低くなるが、眉をひそめて彼はぽそりと呟いた。
「あれ、なんか予想以上に打撃こないな……」
「キロのおかげだよ」
 トリーがアンドリューの横から跳躍し白い女の首筋を片足で蹴り飛ばした。ぶわりと消え去った白の残滓を睨んでトリーは流れるようにキロを見る。キロはにっこり笑っただけで説明はせず、残りの二体に向かって駆けていった。
「どういうことなんだよ? 今の」
 アンドリューがトリーに尋ねると彼は面倒臭そうに肩を竦め、答えないままキロの後を追う。白い女は腕をさながらのたうちまわる蛇のようにしならせて、トリーへと襲いかかった。下腹部を的確に狙われ確かに女の腕がぶつかったはずなのに、彼は余裕綽々の表情のまま女の顔面を槍で薙ぐ。霧散する白の中、キロがお見事と笑顔で叫ぶ。
 ナシャートがどうなってるんだよ! そう叫び彼の真後ろから突然現れた白い女の攻撃を背中で受けるが、明らかに呼吸困難になるだろう勢いだというのに少しの風圧を感じただけだ。ますます狐につつまれたような顔をするナシャートは、さらに女を背後から弾き飛ばしたキロを見て驚愕する。まるでボールを蹴飛ばすように女の姿を吹き飛ばしたのだ。
 あっという間に六体すべて消え去って、また静けさが道路を支配した。小さな呼吸音がいくつか響くだけだ。ナシャートとアンドリューはがばっとキロを見る。彼女はにっこりと笑った。
「翼人様のおかげですね」


「キロ! その髪……」
 トリーと姉であるイフティニアことイフティの暮らす小さな家に、桜色の髪の来訪者がやってきたのは、彼女が紅の衣を着る三日前のことだった。夕暮れにひとりで現れた彼女は顔面を涙でびしょびしょにしながら、ひどく痛そうな声で応対に出たトリーの腕を掴む。いつもしっとりとしている手は微かに震えていた。
「トリー、僕は諦められなかったんです。諦めが悪いんです。引き際だって知りたくないし往生際の悪さはピカイチです。僕は、どうしても彼にまた会いたい。しまわれたくない、もう一度会って、きちんとお別れしたい」
 力のこもっていない弱い声がぽろぽろとトリーの胸元へと落ちていく。けれど彼は彼女の言葉に思わず肩を掴んで叫んでいた。
「そんな理由で飛び出したのかよ! 結婚式がもうすぐだって「トリー、だめよ」ねぇちゃん!」
 今度はトリーの右肩を声を聞きつけたらしい姉が掴み、振り返った弟の目を見て首を振った。結婚式の連絡を受け取ったのは、だって昨日のことだというのに。
 彼女はイフティに気がつくと朱色のいつもならおっとりとした眼差しを雨に似た涙で歪ませて、姉の腕を掴んだ。
「姉さん、僕はだって謝ってもいないんです、好きだとも告げてない! 感謝すらなにもかも言いたいことをいえないままで、僕はしまわれたくなんかない!!」
 姉は彼女の言葉ひとつひとつゆっくりと頷いて、嗚咽を漏らしながら激しく泣きはじめた彼女をそっと抱き締めた。背中を穏やかなリズムで叩きながら姉は自分より少しだけ大きな妹分を抱き締めた。
 本当にそうして抱き締めて欲しい人のことを、彼女は何度思ったのだろう。トリーにもイフティにもそれはわからない。ただ話を聞いてやることしかできない。それがひどくもどかしくてトリーはわずかに苛立った。
「トリーくん、ねえ、僕を僕のために、僕の願いのためだけに、僕の願いを守るためだけに、イカロスの翼へ連れて行ってください」
 泣き止んでから彼女はそういった。トリーがまた激昂しそうになるのを押しとどめて姉は穏やかに彼女に問うた。
「キロちゃん。ねえキロちゃん。あなたはそれで本当にあなたの願いが守られると思っているの? あなたの赤は花開くのかしら?」
 言葉の真意を取り損ねたのか、彼女は姉を見た。姉は柔らかいいつもの笑みを浮かべてもう一度尋ねる。
「あなたの花は、開くのかしら?」
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