リンゴのカクテルにはご用心
リーゼロッテは困っていた。彼女のチューター(家庭教師)であるアルフレッドがいないのだ。少しだけ抜ける、と彼女に声をかけ、面識のある者でも探しに行ったのだろうと気にせず放置して、早数分。
男爵令嬢であるリーゼロッテだと認識し声をかける者こそ少ないものの、この仮面舞踏会において、心もとないレースのヴェールで顔面を覆い隠すリーゼロッテのやや幼く見える容姿を認め、声をかける者は少なくはない。つまり、どんくさい田舎者のリーゼロッテを笑う者が少なくはないということだ。
もちろんリーゼロッテの穿った見方による卑屈な偏見の可能性もあるが、こんな流行遅れのドレスなんか身につけているのはリーゼロッテだけだ。薄紫色のなめらかなシルクとレースに、灰色の手袋。星が散りばめられてるのよなんて笑う母の表情さえ浮かんできて、はぁ、とため息をつく。リーゼロッテの重い黒髪にこの色はどう考えても浮いている。これならまだしも黒や、目に合わせた赤のドレスのほうが映えたことだろう。
二度目のため息をついてから、気持ちを切り替える。何はともあれまずはアルフレッドを探さねばならない。そもそもリーゼロッテのお目付役のくせに、一体どうしてお目付役本人が行方不明になるというのだ。
これは父にも報告せねばならない案件だ、などと息巻きながら、リーゼロッテは色とりどりなドレスの波の中から、全身黒に染まったチューターを探そうと目をこらす。とはいえ、男性陣こそ思い思いにおしゃれをしていれど、基本の色は女性よりも区別がつきにくく、さらに仮面も相まって誰が誰やらさっぱりだ。
それに、今日はアルフレッドが不慣れなリーゼロッテをとある貴族に紹介してくれるはずだったのだ。まったくもうと憤慨しながら、ダンスホールをぐるりと回る。
今日の仮面舞踏会は軍が主導となって開かれてはいるが、政界や財界の人間も多く参加しているらしい。リーゼロッテのような異例な社交界デビュー組など、そうはいないだろう。こんな田舎くさいドレスを着ているのもリーゼロッテだけなのと同じように!
ぶつくさ文句を垂れながら会場内を見ていると、有名な財界人や政治家たちは、周りの取り巻きからして一目で知れた。仮面舞踏会とは言うが、正体を隠せているとは言い難い。貴族はどうしてこんな無意味なお祭りをしたがるのか、一応中流階級出身者のくせしてリーゼロッテには疑問だった。
母親からのお下がりであるヒールを鳴らしながら、じっくりとダンスホール内を見渡す。始まってからすでに一時間ほどが過ぎていたが、人は増えるばかりでまるで減る気配が見られない。オープニングの挨拶こそあれど、それ以外に何か催し物でもあるのかもしれなかった。
リーゼロッテも踊りたいとは思っていたが、一番初めの相手はチューターのアルフレッドと決めている。ただお世話になった相手に、ここまで踊れるようになったのだと見せつけたかっただけだ。しかしこうなると、もはや踊るどころではなさそうだ。
給仕の人間も皆一様に揃いの仮面をつけており、いつにも増して無機質さが際立つ。生き物というよりも、人形のようだ。あまり好きな雰囲気ではないが、彼らの盆の上に置かれた色とりどりのグラスには、目を惹かれるものがある。そしてそれらを受け取る、白い指先、黒い手袋、赤い爪先……。
漏れ聞こえる言葉の数々は、茶番じみて朗らかで明るく、ただこのお祭りを楽しもうという意思以上の裏側を感じさせる。リーゼロッテの苦手な空気だ。田舎者にこの空気はよくわからない。ただただ澱んで汚れているように感じられて、顔が歪む。どうして母はこの空気の中にリーゼロッテを追いやるのだろう、と、また現実逃避がてら不貞腐れた。
チューターであるアルフレッドは、ダンスホール内に潜む話を、ひっそり耳に入れることが大切だと言っていた。中流階級であるリーゼロッテの生家が、うまく生き残るためには、強者たちの間で綱渡りをしながら生きるしかない。それは、いつか別の家に嫁ぐリーゼロッテだって同じだろう。だから、話を盗み聞きしながら、アルフレッドを目で探す。
と、リーゼロッテのヴェールの下に隠された赤い瞳が、おかしそうに輝いた。その瞬間を見た人間がもしもいたのなら、一瞬の表情の変化を、「おかしい」と感じたかもしれない。しかし、誰もその違和感に気がつく者はなく、リーゼロッテは背の高い黒髪の男の元に足早にかけていく。
「アルフレッド! 探したのよ!」
とんっと背中に駆け寄ってリーゼロッテが振り仰ぐ。黒髪の男は驚いたように振り返り、琥珀色の目が白い仮面の中で見開かれていた。
「おや、あなたは……?」
「あっご、ごめんなさい! わたし、人違いを……!!」
彼の言葉にぱっとリーゼロッテは手を離しきちんと距離を置く。そして改めて彼を見て、ごめんなさいと頭を下げた。
「ごめんなさい、失礼しました!」
「いや、構いませんよ」
温和に笑って首を振る彼の態度にほっとし、リーゼロッテはおずおずと口を開く。
「あ、あの、人違いついでにお願いしても……?」
「どうしました?」
「もしよかったら、わたしのチューターを探すの、手伝ってくださいませんか……?」
それまで耐えていたのかと言わんばかりに、瞬く間にリーゼロッテの目に涙の膜が出来上がる。ヴェールの下からも見えたのだろう、男はぎょっとしたように瞠目し、白いスカーフを取り出すとリーゼロッテの手に握らせる。ありがたく受け取って、リーゼロッテは唇を震わせた。
「ごめんなさい、チューターがいなくなってしまって、このままだとわたし帰れないですし、ご挨拶もできないままで……」
ひどく弱々しく身を震わせるリーゼロッテを前に、男は少しだけ悩んだあと、柔らかく口元を緩ませた。
「お手伝いいたしましょう、ミス……?」
「あっ失礼しました、わたくしリーゼロッテ=フォン・エクシムと申します。あなたは?」
「わたしは、マルフィ・バクレガーと申します。それでは、あなたを置いていった愚かなチューターを探しに参りましょうか」
マルフィは、人探しに最適な相手だった。リーゼロッテの身長もそう低い方ではないのだが、マルフィのほうがやや大きい。そうなると少し高い位置にある男性の顔の見分けもつきやすいらしく、マルフィは丁寧にリーゼロッテにチューターの特徴を聴きこむと、それに当てはまる男を見つけては確認を取ってくれたのだ。アルフレッドには悪いが、彼が迷子になってくれたおかげで素晴らしい出会いがあったことは間違いがない。紳士的なマルフィの態度に、リーゼロッテは安堵していた。
「なかなか見つかりませんねえ……」
「ごめんなさい、長く付き合わせてしまって……。あなたも踊る相手がいらっしゃったのではありませんか?」
休憩がてら、ダンスホールから出られるテラスの近くで、給仕からカクテルをふたつ受け取り、ふたりで軽く音を鳴らして会話をする。ふわりと香るのは甘いリンゴのものだ。このカクテルはリンゴのリキュールでできているのだろう。
こんな田舎者に構ってくれるほど暇ではなさそうな顔立ちだというのに、彼は飄々とした態度のまま、女性たちの声を退けていた。実に紳士的な態度で。
「ああ、いやわたしは今日は特にそういう相手もいませんでしたから。こちらこそ、助かります。こういった場は苦手なので」
「とてもそういう風には思えませんでしたが……」
リーゼロッテの言葉に目を瞬かせ、マルフィは苦い笑いを漏らし、肩をすくめる。その所作ですらひどく手慣れているように見えるのに、どことなく無骨な雰囲気も拭えない。不思議な男だと思いながら、リーゼロッテはぽろりと誘いの言葉を投げていた。
「あの、もしよかったら、一曲だけ踊っていただけませんか?」
「え?」
きょとんと琥珀色の目を見開く男の顔を見ながら、リーゼロッテは自分が口に出した言葉を反芻し、唇を引きつらせた。何を言ってしまっているのだろう、これほど迷惑をかけてしまっているのに!
けれどマルフィは、リーゼロッテからカクテルグラスを受け取り、自分のものと合わせて給仕に手渡すと、自身の手の平をリーゼロッテに差し向ける。
「わたしと踊っていただけませんか、リーゼロッテ様」
「ごめ、ごめんなさい、わたし……あなたに迷惑かけてばかりなのに……」
おろおろと視線を迷わせるリーゼロッテに、マルフィは苦笑しながら、では、といってその手を引いた。
「テラスの下の庭なら、そんなに人もいませんし、あなたも気にならないでしょう?」
言葉にぱっとリーゼロッテの顔が上がる。その頬はヴェールの上からでもわかる通り、ほんのり赤く上気しているようだった。
ふたりがテラスに併設された階段から下る様子を見ている影が、ひとつ。
リーゼロッテの背後に立つ男の姿に、マルフィの表情がこわばる。彼女の腰に回していた手をそのまま、強引に引き寄せ、場を変わろうとした瞬間、彼女の姿が目の前から消えた。即座に足を引き、状況を確認しようとしたときには、ゴキリ、という彼にとっては聞き慣れた音が鳴った。
がくり、と崩れ落ちた男の後ろに立っているのは、リーゼロッテと名乗っていた令嬢だったはずの、女。
暗い色のヴェールに隠されていた、強烈に輝く赤い眼が、マルフィの琥珀の瞳を射抜く。
「ちょうどいいとこいたんで遊んでもらっちゃいましたけど、中尉あたしだって気づいてなかったっしょ? だっせえ」
けろっとした口調で言いながら、ゲラゲラと笑いだしたのは、どこからどう見ても、中尉と呼ばれた男のバディ以外にありえない。そう、バレル・マクガフィ中尉のバディ、ガガリエ=ステラゴ以外には。
呆れて物も言えないと言わんばかりに、バレルはポケットの中に突っ込んだままだったタバコを取り出し、火をつける。それからふと思い出したように、崩れ落ちた男に視線をやった。つられるようにガガリエは男を見てから、なんすか、と口を尖らせる。
「これならそう悪くない死に様でしょーよ。文句言わんでくれます?」
「言ってねぇだろ」
「顔にめっちゃ不満気って書いてありますけどぉ?」
「アァ?」
やはり笑いながら、ガガリエはヴェールを毟り取る。さらに長いドレスの裾の一部を縦に切り裂き、動きやすい長さに整えると、改めて死体となった男を見下ろした。
バレルの仕事内容とは違い、ガガリエは暗殺も受け持つ。だからこそ一瞬の仕事であり、バレルが口出しすべき内容ではない。
たとえそれが、ふたりにとって重大な「死」に纏わる話でも、仕事は仕事だ。それだけは嫌でも割り切っていかなければならない。
ガガリエがどう思っているのかなど、バレルにはこれっぽっちもわからないのだが。
「あのサル真似はなんだよ」
「騙されてたくせに」
るっせ、と吐きすてる言葉にガガリエはくつくつ笑い、死体を転がして衣服を確認する。脱ぎ捨てられたヴェールの下から漏れた紺色の髪は、バレルにとって見慣れた色ではないが、今更このバディの見知らぬ姿に動揺することもないだろう。この女はそういう役割の生き物だ。
「リズは実在するご令嬢っすよ。今日この場にはいるはずがない東方の子なんすけどね。餌代わりに」
「こいつは」
「ダメっすよ、中尉」
幾つかの遺品を回収し、手早くあたりを確認すると、ガガリエはおもむろにバレルの胸ぐらを掴みあげた。いっそ憎悪さえ感じるほどの強烈な赤が、バレルの目に映る。
「あんたは何も見てない。聞いてない。あたしの仕事を手伝っただけ。あんたもアップルパイになるのは嫌っすよねえ」
嘲笑うかのような口調に滲むのは、懇願、だろうか。
目を閉じる。口元にくわえたままだったタバコを片手で抜いて、ぶわりと、ガガリエの顔面に煙を吐き出した。途端に当然噎せた女は、ゲホゲホと咳き込みながらバレルを強く突き飛ばす。ばっとあげられた顔はガキのように幼い表情で、馬鹿馬鹿しくなった。こんなやつの仕事の手伝いをしてしまったこと自体が不愉快極まりない。
「なっうえ、何すんだよ!! クソッ見た目詐欺!!!」
「ハァ? んだそりゃ褒め言葉かよ? あーあ、ったくてめえと踊ったと思ったら寒気するわ」
「そりゃこっちの台詞だっつーのハイエナヤロー」
「アァ? なんか言いましたかァ?」
くだらない言い争いをしながら、その場から離れようと歩き出す。すでに特務部らしき人物が、あたりを警戒しながらこちらに近づいてきていることには気がついていた。
「ステラゴ兵長、あっ、マクガフィ中尉もこちらでしたか」
言葉にじろりと視線をやると、見知らぬ青年が仮面の下から慇懃無礼な目つきでこちらを見ていた。ちらりとガガリエに視線をやり、結局バレルを選んだのか、小さな声で定型文を口にした。
「シータが紛れ込んだようです」
一瞬バレルとガガリエは互いに視線を寄越し、困惑したように再び男を見やった。その作戦に自分たちは参加していない、そう告げるまでもなく、青年もわかっているのだろう。なんと言えばいいのかわからないと言いたげに、へにゃりと眉を下げて続けた。
「シータを、探していただけますか?」
男爵令嬢であるリーゼロッテだと認識し声をかける者こそ少ないものの、この仮面舞踏会において、心もとないレースのヴェールで顔面を覆い隠すリーゼロッテのやや幼く見える容姿を認め、声をかける者は少なくはない。つまり、どんくさい田舎者のリーゼロッテを笑う者が少なくはないということだ。
もちろんリーゼロッテの穿った見方による卑屈な偏見の可能性もあるが、こんな流行遅れのドレスなんか身につけているのはリーゼロッテだけだ。薄紫色のなめらかなシルクとレースに、灰色の手袋。星が散りばめられてるのよなんて笑う母の表情さえ浮かんできて、はぁ、とため息をつく。リーゼロッテの重い黒髪にこの色はどう考えても浮いている。これならまだしも黒や、目に合わせた赤のドレスのほうが映えたことだろう。
二度目のため息をついてから、気持ちを切り替える。何はともあれまずはアルフレッドを探さねばならない。そもそもリーゼロッテのお目付役のくせに、一体どうしてお目付役本人が行方不明になるというのだ。
これは父にも報告せねばならない案件だ、などと息巻きながら、リーゼロッテは色とりどりなドレスの波の中から、全身黒に染まったチューターを探そうと目をこらす。とはいえ、男性陣こそ思い思いにおしゃれをしていれど、基本の色は女性よりも区別がつきにくく、さらに仮面も相まって誰が誰やらさっぱりだ。
それに、今日はアルフレッドが不慣れなリーゼロッテをとある貴族に紹介してくれるはずだったのだ。まったくもうと憤慨しながら、ダンスホールをぐるりと回る。
今日の仮面舞踏会は軍が主導となって開かれてはいるが、政界や財界の人間も多く参加しているらしい。リーゼロッテのような異例な社交界デビュー組など、そうはいないだろう。こんな田舎くさいドレスを着ているのもリーゼロッテだけなのと同じように!
ぶつくさ文句を垂れながら会場内を見ていると、有名な財界人や政治家たちは、周りの取り巻きからして一目で知れた。仮面舞踏会とは言うが、正体を隠せているとは言い難い。貴族はどうしてこんな無意味なお祭りをしたがるのか、一応中流階級出身者のくせしてリーゼロッテには疑問だった。
母親からのお下がりであるヒールを鳴らしながら、じっくりとダンスホール内を見渡す。始まってからすでに一時間ほどが過ぎていたが、人は増えるばかりでまるで減る気配が見られない。オープニングの挨拶こそあれど、それ以外に何か催し物でもあるのかもしれなかった。
リーゼロッテも踊りたいとは思っていたが、一番初めの相手はチューターのアルフレッドと決めている。ただお世話になった相手に、ここまで踊れるようになったのだと見せつけたかっただけだ。しかしこうなると、もはや踊るどころではなさそうだ。
給仕の人間も皆一様に揃いの仮面をつけており、いつにも増して無機質さが際立つ。生き物というよりも、人形のようだ。あまり好きな雰囲気ではないが、彼らの盆の上に置かれた色とりどりのグラスには、目を惹かれるものがある。そしてそれらを受け取る、白い指先、黒い手袋、赤い爪先……。
漏れ聞こえる言葉の数々は、茶番じみて朗らかで明るく、ただこのお祭りを楽しもうという意思以上の裏側を感じさせる。リーゼロッテの苦手な空気だ。田舎者にこの空気はよくわからない。ただただ澱んで汚れているように感じられて、顔が歪む。どうして母はこの空気の中にリーゼロッテを追いやるのだろう、と、また現実逃避がてら不貞腐れた。
チューターであるアルフレッドは、ダンスホール内に潜む話を、ひっそり耳に入れることが大切だと言っていた。中流階級であるリーゼロッテの生家が、うまく生き残るためには、強者たちの間で綱渡りをしながら生きるしかない。それは、いつか別の家に嫁ぐリーゼロッテだって同じだろう。だから、話を盗み聞きしながら、アルフレッドを目で探す。
と、リーゼロッテのヴェールの下に隠された赤い瞳が、おかしそうに輝いた。その瞬間を見た人間がもしもいたのなら、一瞬の表情の変化を、「おかしい」と感じたかもしれない。しかし、誰もその違和感に気がつく者はなく、リーゼロッテは背の高い黒髪の男の元に足早にかけていく。
「アルフレッド! 探したのよ!」
とんっと背中に駆け寄ってリーゼロッテが振り仰ぐ。黒髪の男は驚いたように振り返り、琥珀色の目が白い仮面の中で見開かれていた。
「おや、あなたは……?」
「あっご、ごめんなさい! わたし、人違いを……!!」
彼の言葉にぱっとリーゼロッテは手を離しきちんと距離を置く。そして改めて彼を見て、ごめんなさいと頭を下げた。
「ごめんなさい、失礼しました!」
「いや、構いませんよ」
温和に笑って首を振る彼の態度にほっとし、リーゼロッテはおずおずと口を開く。
「あ、あの、人違いついでにお願いしても……?」
「どうしました?」
「もしよかったら、わたしのチューターを探すの、手伝ってくださいませんか……?」
それまで耐えていたのかと言わんばかりに、瞬く間にリーゼロッテの目に涙の膜が出来上がる。ヴェールの下からも見えたのだろう、男はぎょっとしたように瞠目し、白いスカーフを取り出すとリーゼロッテの手に握らせる。ありがたく受け取って、リーゼロッテは唇を震わせた。
「ごめんなさい、チューターがいなくなってしまって、このままだとわたし帰れないですし、ご挨拶もできないままで……」
ひどく弱々しく身を震わせるリーゼロッテを前に、男は少しだけ悩んだあと、柔らかく口元を緩ませた。
「お手伝いいたしましょう、ミス……?」
「あっ失礼しました、わたくしリーゼロッテ=フォン・エクシムと申します。あなたは?」
「わたしは、マルフィ・バクレガーと申します。それでは、あなたを置いていった愚かなチューターを探しに参りましょうか」
マルフィは、人探しに最適な相手だった。リーゼロッテの身長もそう低い方ではないのだが、マルフィのほうがやや大きい。そうなると少し高い位置にある男性の顔の見分けもつきやすいらしく、マルフィは丁寧にリーゼロッテにチューターの特徴を聴きこむと、それに当てはまる男を見つけては確認を取ってくれたのだ。アルフレッドには悪いが、彼が迷子になってくれたおかげで素晴らしい出会いがあったことは間違いがない。紳士的なマルフィの態度に、リーゼロッテは安堵していた。
「なかなか見つかりませんねえ……」
「ごめんなさい、長く付き合わせてしまって……。あなたも踊る相手がいらっしゃったのではありませんか?」
休憩がてら、ダンスホールから出られるテラスの近くで、給仕からカクテルをふたつ受け取り、ふたりで軽く音を鳴らして会話をする。ふわりと香るのは甘いリンゴのものだ。このカクテルはリンゴのリキュールでできているのだろう。
こんな田舎者に構ってくれるほど暇ではなさそうな顔立ちだというのに、彼は飄々とした態度のまま、女性たちの声を退けていた。実に紳士的な態度で。
「ああ、いやわたしは今日は特にそういう相手もいませんでしたから。こちらこそ、助かります。こういった場は苦手なので」
「とてもそういう風には思えませんでしたが……」
リーゼロッテの言葉に目を瞬かせ、マルフィは苦い笑いを漏らし、肩をすくめる。その所作ですらひどく手慣れているように見えるのに、どことなく無骨な雰囲気も拭えない。不思議な男だと思いながら、リーゼロッテはぽろりと誘いの言葉を投げていた。
「あの、もしよかったら、一曲だけ踊っていただけませんか?」
「え?」
きょとんと琥珀色の目を見開く男の顔を見ながら、リーゼロッテは自分が口に出した言葉を反芻し、唇を引きつらせた。何を言ってしまっているのだろう、これほど迷惑をかけてしまっているのに!
けれどマルフィは、リーゼロッテからカクテルグラスを受け取り、自分のものと合わせて給仕に手渡すと、自身の手の平をリーゼロッテに差し向ける。
「わたしと踊っていただけませんか、リーゼロッテ様」
「ごめ、ごめんなさい、わたし……あなたに迷惑かけてばかりなのに……」
おろおろと視線を迷わせるリーゼロッテに、マルフィは苦笑しながら、では、といってその手を引いた。
「テラスの下の庭なら、そんなに人もいませんし、あなたも気にならないでしょう?」
言葉にぱっとリーゼロッテの顔が上がる。その頬はヴェールの上からでもわかる通り、ほんのり赤く上気しているようだった。
ふたりがテラスに併設された階段から下る様子を見ている影が、ひとつ。
リーゼロッテの背後に立つ男の姿に、マルフィの表情がこわばる。彼女の腰に回していた手をそのまま、強引に引き寄せ、場を変わろうとした瞬間、彼女の姿が目の前から消えた。即座に足を引き、状況を確認しようとしたときには、ゴキリ、という彼にとっては聞き慣れた音が鳴った。
がくり、と崩れ落ちた男の後ろに立っているのは、リーゼロッテと名乗っていた令嬢だったはずの、女。
暗い色のヴェールに隠されていた、強烈に輝く赤い眼が、マルフィの琥珀の瞳を射抜く。
「ちょうどいいとこいたんで遊んでもらっちゃいましたけど、中尉あたしだって気づいてなかったっしょ? だっせえ」
けろっとした口調で言いながら、ゲラゲラと笑いだしたのは、どこからどう見ても、中尉と呼ばれた男のバディ以外にありえない。そう、バレル・マクガフィ中尉のバディ、ガガリエ=ステラゴ以外には。
呆れて物も言えないと言わんばかりに、バレルはポケットの中に突っ込んだままだったタバコを取り出し、火をつける。それからふと思い出したように、崩れ落ちた男に視線をやった。つられるようにガガリエは男を見てから、なんすか、と口を尖らせる。
「これならそう悪くない死に様でしょーよ。文句言わんでくれます?」
「言ってねぇだろ」
「顔にめっちゃ不満気って書いてありますけどぉ?」
「アァ?」
やはり笑いながら、ガガリエはヴェールを毟り取る。さらに長いドレスの裾の一部を縦に切り裂き、動きやすい長さに整えると、改めて死体となった男を見下ろした。
バレルの仕事内容とは違い、ガガリエは暗殺も受け持つ。だからこそ一瞬の仕事であり、バレルが口出しすべき内容ではない。
たとえそれが、ふたりにとって重大な「死」に纏わる話でも、仕事は仕事だ。それだけは嫌でも割り切っていかなければならない。
ガガリエがどう思っているのかなど、バレルにはこれっぽっちもわからないのだが。
「あのサル真似はなんだよ」
「騙されてたくせに」
るっせ、と吐きすてる言葉にガガリエはくつくつ笑い、死体を転がして衣服を確認する。脱ぎ捨てられたヴェールの下から漏れた紺色の髪は、バレルにとって見慣れた色ではないが、今更このバディの見知らぬ姿に動揺することもないだろう。この女はそういう役割の生き物だ。
「リズは実在するご令嬢っすよ。今日この場にはいるはずがない東方の子なんすけどね。餌代わりに」
「こいつは」
「ダメっすよ、中尉」
幾つかの遺品を回収し、手早くあたりを確認すると、ガガリエはおもむろにバレルの胸ぐらを掴みあげた。いっそ憎悪さえ感じるほどの強烈な赤が、バレルの目に映る。
「あんたは何も見てない。聞いてない。あたしの仕事を手伝っただけ。あんたもアップルパイになるのは嫌っすよねえ」
嘲笑うかのような口調に滲むのは、懇願、だろうか。
目を閉じる。口元にくわえたままだったタバコを片手で抜いて、ぶわりと、ガガリエの顔面に煙を吐き出した。途端に当然噎せた女は、ゲホゲホと咳き込みながらバレルを強く突き飛ばす。ばっとあげられた顔はガキのように幼い表情で、馬鹿馬鹿しくなった。こんなやつの仕事の手伝いをしてしまったこと自体が不愉快極まりない。
「なっうえ、何すんだよ!! クソッ見た目詐欺!!!」
「ハァ? んだそりゃ褒め言葉かよ? あーあ、ったくてめえと踊ったと思ったら寒気するわ」
「そりゃこっちの台詞だっつーのハイエナヤロー」
「アァ? なんか言いましたかァ?」
くだらない言い争いをしながら、その場から離れようと歩き出す。すでに特務部らしき人物が、あたりを警戒しながらこちらに近づいてきていることには気がついていた。
「ステラゴ兵長、あっ、マクガフィ中尉もこちらでしたか」
言葉にじろりと視線をやると、見知らぬ青年が仮面の下から慇懃無礼な目つきでこちらを見ていた。ちらりとガガリエに視線をやり、結局バレルを選んだのか、小さな声で定型文を口にした。
「シータが紛れ込んだようです」
一瞬バレルとガガリエは互いに視線を寄越し、困惑したように再び男を見やった。その作戦に自分たちは参加していない、そう告げるまでもなく、青年もわかっているのだろう。なんと言えばいいのかわからないと言いたげに、へにゃりと眉を下げて続けた。
「シータを、探していただけますか?」