欲
ふたりが列車の終点である北の駅に降り立ったのは、とある秋の終わりだった。空は高く、橙色の夕焼けが近づいてくる。太陽は当たり前のような顔をして、空から落ちていく。
案の定澱んだ空気に鼻をつまみ、やや眉をひそめる相方を知りながら、ブラジェナはボストンバックを肩に掛け直してあっち、と笑った。指差した先は、崩れた建物たちが遠くに見える廃墟の平地だ。そこを通って建物の向こう側に行けば、彼女の住んでいた住居が目に入る。
「相当な匂いですね」
歩き出しながら呟いた相方の声にブラジェナは、なんとも言いにくそうに苦笑した。
「まだ駅はマシな方なんだぜ、これでも。アタシの住んでたところのほうがちょっと臭うかも。オイルの匂いとかはまだしも、この生ゴミ腐った系の臭いはやんなるよなー」
「それでも四年近く居続けたんでしょう、貴女って相当な物好きですよね」
うるせーと女はけらけら笑う。ひと月とちょっと前、桜色の髪の機械人形を青のひとつの弾丸に変えて、自作の機械人形を野に放ってから、こんなに早く戻って来るとはブラジェナも思っていなかった。
隣に誰かがいることも、あまり信じてはいなかった。
なんとなくひとりはにかんで、相方ことロスの手を取る。なんですかとそっけなくいう男の声が、好きだ。プライベートのときしか覗かない、意外とゴツゴツとした節と、細い指先を握りしめて、にへらと笑った。
「アタシの住んでた場所の話とかってしたことあったっけ?」
「いえ。ただ雨漏りがひどいとか散々愚痴られた記憶はあります」
「あー愚痴った覚えあるわ」
あははと笑い飛ばし、廃墟と化したビルを通り抜けると、野ざらしにされたままの古ぼけた観覧車が現れた。たった八つしかないゴンドラは、窓が煤けて中をうかがい知ることはできそうにない。
あれ、と呟いた声にロスはどれですかと即座に切り返した。
「だから目の前の観覧車」
「は?」
「住み心地は悪くないんだぜー。一ヶ月経ってるけど動くかな……。ちょっと待っててな」
手を離してボストンバックの中から工具箱を取り出す。そんなもの旅行に必要ないでしょうと言われたのは、三日前のことだ。はい、とバックを押し付けて、観覧車の下へと駆けていく。
何回かゴロツキが漁りに来たのだろう、地下へとつながる扉は殴られたあとのように凹んでいた。機械整備士の元根城を襲おうったって無駄なんだよとにやつき、四角い蓋を開けてひと月前にリセットしたパスコードを打ち込む。
赤い小さな光が点灯し、そのまま真っ暗な地下へと身を滑り込ませた。ほこり臭さと生ゴミ臭さはひと月換気されていなかったせいで、酷さを増したようだ。飛び降りた先で床に触れた手には泥かなにかがへばりつき、きったねと思わずぼやく。
換気装置と間接照明を稼働させて、部屋の惨状に思わず苦笑した。ブラジェナの城は誰にも荒らされなかった代わりに、かなりのほこりと雨と土を溜め込んでいたようだ。床がべたついていたのは、雨がほこりと土を混ぜ合わせて奇妙な湿地を作っていたからだった。
今すぐにでも掃除に取り掛かりたいところだが、ロスにずっと外で待たせるのも悪い。というより掃除くらい手伝ってくれるだろうと目算して、ブラジェナは梯子を上り鉄の扉を押し開けた。
まだ観覧車の外側から複雑そうな顔のまま突っ立っている男に声をかけ、こっちこっちと呼び寄せる。やれやれとでもいいたげな顔をしてこちらへ向かって来たロスに、鞄は外だしといてとりあえず中入れよと促す。
「ダストシュートじゃないでしょうね」
「あ、やっぱわかる? 心配しなくとも改造して梯子つけたから安心しろって」
「………ゴミ箱で生活する妙齢の女性ってどうがんばっても貰い手いませんよ、よかったですね貰ってくれる心優しい男がいて」
ねちねちと嫌味っぽい口調に思わず笑いが吹き出した。降りて来るのを待ちながら、腰に手を当てて小首を傾げる。
「そんな女だって知ってたら、結婚しなかった?」
なんてことのないじゃれあいのように尋ねられたとは、思えなかった。いい終わってからひとり息を飲む。
何を聞いてるんだろう、アタシは。
梯子から降りて汚い床を心の底から不愉快そうに見つめたあと、ふとロスはこちらへと視線を投げた。
青とも緑とも表せない、静かな鏡を思わせる瞳が、平静にこちらを見ていた。感情が漏れるでもなく溢れるでもなく、穏やかに淡々と見つめる眼差しに、胸の中で歪む何かがきゅうと細くなって逃げ出す。この目で見られるのは、嫌いじゃないけど、好きでもない。
ふと、ロスが笑った。口角が上がったのを見た瞬間、ぼっと顔が熱くなる。
「なんて顔をしてるんです」
「うっさい!!! バーカバーカ!! いいから掃除しとけよな!」
「貴女まさか掃除要員で呼んだんですか」
「ゴンドラ動かしてやるんだから文句言うなよな! 黙って働け!」
ふんっと鼻息荒く吐き捨て、ロスを押しのけ梯子を上る。律儀に扉の近くに置かれたふたり分の荷物を見つめ、熱くなった顔をばちんと叩く。
これ以上馬鹿になってどうするんですか、と扉の向こうから聞こえた声に、鉄の扉を蹴り飛ばして閉めることで答えておいた。
「お、ロス、掃除終わった?」
汗を首にかけたタオルで拭きながらブラジェナが振り返った先で、鉄の扉ががこんと開かれた。中から銀に近い色にちょこちょこ紫の混じる頭が現れて、相方は眉を吊り上げた。
「そういう貴女はどうなんですか。とはいっても中から機械音が聞こえていましたが」
「あはは、うるっせえよなこれ。中には響かないようにしてたんだけど、動力源がダストボックスの真横にあったからさ、どうしようもねえんだよ。ほら、こっちきて」
促して観覧車の全容が見える場所にふたりで並んで立つ。ギシギシと軋む音が聞こえるが、三年間慣れ親しんだ音に違和感はない。ゆっくりとまわっていくゴンドラの数は八つだけ。
「ゴンドラ八つあんだろ? アタシがよく寝てたのが赤いやつ。ちょっと拡張してでかくしてあんの。一番汚い!」
「元気のいい主張ですね」
「馬鹿にしてんの? で、オレンジが機械とかいじくってたとこ。あそこも拡張してある。その次の黄色と黄色の次の緑は雨漏りと老朽が激しすぎて使えないから、まぁご覧の通り廃材として引っぺがして再利用してたんだ。
青緑と青は物好きな観覧車の中で寝たいっていう馬鹿のために、綺麗にしてあるつもり。流石に一ヶ月経ってっからもう無理だろうけどさ。何? 普通の家で言うところの客室的な?
あとの紫とピンクは資材入れ。若干行き来が面倒だけど、基本一回止めたらしばらく動かさないし、梯子つけるからそんな危険でもない」
絶句してる理由に何となく思い当たる節があるからだが、ブラジェナはにやにやと笑いながら片方の眉を上げて腰に手を当ててみた。
「どーよ、アタシの城。便利っしょ」
「馬鹿ですね」
さくっと切り返された言葉は予想通りだった。ある意味期待を裏切らない相方のセリフにへんと鼻を鳴らし、うーんと伸びをした。
「空、晴れてからさ」
ロスの顔を見ることができなかった。ゆっくりゆっくり動いて行くゴンドラを目で追いながら、自嘲するかのように口を尖らせる。
「ちょっと硬化したビニール製の天幕、作ってみたんだよ。赤いゴンドラの天井、今までただの合板だったから、綺麗に空見えるんじゃないかって」
ロスは相槌も打たない。こちらを見ることもしない。
こいつらしい。
なんとなく口元が緩むことに気がついていたけれど、今更どうすることもできなくて、そのままブラジェナは話し続けた。 「とっかえてみたんだ。そしたらさぁ、すげえの。北だからもちろん汚い雲がいっぱいあるんだけどさ、星と月が、見えたんだよ。毎晩毎晩、見飽きることなくってさ」
そんでさ、と視線が徐々に落ちていく。唇はいつも通り勝手なことを笑いそうになりながら口走る。
「雨降った日があったんだ、夜中に。眠れなくてずっと空見てたんだけど、雨降り始めて。ほら、あんたも知ってんだろー、アタシ雨嫌いじゃん? うわ、やだなって思ってたんだけど」
馬鹿みたいな喋り方だなとひとり照れながら乱暴に頭を掻いた。
ロスと一緒に暮らすようになってから髪は随分伸びた。北ではずっと肩につくかつかないか程度だったのに、今は少し背中にかかる。
「綺麗だったんだ」
言葉を重ねられなかった。
あのときのぞっとするほど美しい情景が、脳裏に蘇ってきて、息が詰まった。常に恐怖と憎悪の対象だった存在の、畏怖さえ抱きかねない優しさは、見たこともない流星群のように、ブラジェナに降り注いでいた。ブラジェナだけでなく、チェネレーシアというこの世界に、均等に、惜しみなく。
ぎゅっと閉じた瞼を自覚しながらどうしようもなくなってしゃがみ込もうとした左手が、唐突に取られた。へっと間抜けな声を上げると、呆れたため息が耳に届く。なんだよ、悪かったな、こんな泣き虫で。
「それだけですか」
「そーだよ」
つっけんどんに吐き捨てる。指を絡められてその温かさにまた泣きそうになった。座り込めない代わりにぎゅっと握り返すと、ロスは流し目をこちらに向けた。またまたぐぐっと言葉に詰まる。
「なんだよ」
「……泣き虫ですね」
「ほっとけバーカ」
「口も悪い」
むすっと黙りこくってそっぽを向く。赤いゴンドラを目で追っていると、唐突に名前を呼ばれた。夜以外で名前を呼ぶなんて相当珍しい。だからだろうか、なんだよと応える声はブラジェナ自身が思うよりもずっと甘い。
「っ」
深い目の色が、そこにあった。
離れていく唇に顔が熱くなるけれど、相方はいつものように表情をあまり変えず、でも少しだけ優しい眼差しのまま、ブラジェナの手を引いた。
「夕飯、もちろん作ってくれるんでしょうね。さすがに俺も嫌ですよ、掃除で疲れました」
「………っうっせバーカ!! ピーマンいっぱいいれてやる!」
「貴女の思考回路は幼児そのものですねえ」
「作んねーぞ!」
子どものようにぎゃんぎゃん吠えながら、手をつないで観覧車の下に向かって歩き出す。こちらを振り返らないのをいいことに、そっと、唇に触れた。
「……これも貴女の自作ですか?」
ふにゃふにゃと曲がりやすい食器をフォークで叩いて、ロスは眉を片方吊り上げた。
本来食器というものは硬質的な音を響かせるものだが、ブラジェナお手製の食器はほぼ音を立てることもない。見た目の色は煤けた灰色で、料理がどれほど美味しそうな匂いをはせていても、皿のせいでなんとも不味そうに映る。
ブラジェナももちろんその欠陥は自覚しているのだろう、スプーンの上のホワイトシチューを口に運びながら唸った。最後の一口はぺろりと消える。
「まぁ、そう。便利だし使い勝手もいいんだけど、如何せん見た目がな……。色さえ変えれば商品化間違いなしだと思うんだよな」
「機械工というより発明家の体ですね」
うぬぬと苦い顔をしながらブラジェナはぱたぱた手を振った。あっけらかんと言い放つ。
「アタシは発明家じゃねーよ。発明家っつうのはもっとクレイジーで馬鹿でくそムカつくやつのことを言う」
「お知り合いにいるんですか?」
「自称発明家がな。まぁどうせ明日会えるだろ」
明日は行きつけの飲み屋な、と途端に相好を崩す。あいつら元気かなーと笑いながら、あんたも付き合えよと付け加えることも忘れない。
何時ものくせで食後の一服をしようと指がズボンのポケットを漁っていた。取り出した煙草を白い目で見たあと、ロスははぁ、とため息をつく。
「外で吸うからそうわかりやすくため息つくなよなー、至福の時なんだからしゃーないだろ」
「やに臭い口とキスはしたくありませんよ」
がたんっとスプーンが卓上に落ちた。こちらを見る相方の目を見返す勇気などないブラジェナは、食器洗っといてといって早々にテーブルを立つ。
「あまり出歩かないように」
「アタシのほうがここは知ってるっつの! あと風呂はないけどシャワーあっから栓捻ってお湯出しておいて。たぶん掃除してない分ほこりたまってお湯になるまで時間かかるから」
はいはいと呆れたように肩を竦める相方をちらっと振り返り、何も言わずに梯子を上る。扉を開けた先で、動きを止めた観覧車がライトアップされることもなく、廃墟の一棟としてただ鎮座していた。時折風に煽られて、上方のゴンドラがギィギィと音を立てる。
空はすっかりと日が暮れて、群青色が澱んだ雲を抱いていた。その隙間から、漏れ出すように淡い光が煌めく。
月というものは恒星ではないのだということを、いつだか学んだ記憶がある。観れやしないものを学んだって仕方ないだろうにといってはいたけれど、思い出したのならやはり印象に残っていたのだろう。
太陽の光を反射する月。反射された太陽光は、さながら月光になって地上に降り注ぐ。
空が晴れたから、思い出したのだろうか。
煙草に火をつけてゆっくりと吸い込んだ。これもまた、ロスと共に暮らすようになってから、変化したもののひとつだ。
端的に言えば、本数が減った。吸う習慣すら段々と失われて行くように思う。北にいたときは食事中でも吸っていたのに、食後にしか吸わなくなった。毎日二本も吸っていたのに、二日に一本になっていた。
もちろん東の煙草のほうが高価だからというのもあるが、不思議と吸う必要性が感じられなくなったのかもしれない。
代用品なんじゃないか、と笑った女の顔を思い浮かべる。艶のある黒髪を無造作に結び、匂い立つような色香とこの土地の者特有の癖のある笑みを浮かべて、いつも通り酒を傾けていた。
『代用品ってなんのだよ』
『愛情、またはそれに類似する、君の欲しいもの』
淡々と言われた言葉の意味がいまいちピンと来ず、しばらくぼけっと酒を喉に垂れ流し続け、咳き込んでようやく理解した。
『それなら悲しすぎるな。アタシの半分の歳で結婚相手が決まってる女のコもいるってのに、おばさんは一人さみしく愛情代わりに喫煙か。染みる話じゃねーの』
『嗜好品の一部は得てしてそういうものだよ、ジェナ。君は別段煙草が好きなわけでもないし、酒だってなければ困るというほどでもないだろう? 必要不可欠ではないけれど、ないとさみしいものだ』
どうだかね、と肩を竦めたはずだ。愛情とやらを向けられる対象の中に、自分が存在するということがわからなかった。いつだってブラジェナは誰かを見つめていて、見つめていた相手は雨に飲まれて死んでいった。
返して欲しいのかもしれないな、と今になって思う。向けた感情は無駄ではないし、個々人に向けた感情はそのときのブラジェナの感情だ。そっくりそのまま送り返されることもない。
ただ、自分に多少なりとも感情を返してくれる存在が欲しかったのだろう。煙草は心地いい。吐き出した煙さえも、全部まるごとすべて、ブラジェナの中に解けていく。
ゆっくりとこちらを振り返る男を思う。全部、まるごとすべて、欲しい、欲しくなる。
気持ち悪いなと自嘲した。何も知らないくせに、ひとりいつも舞い上がらされて、自分だけ浮かれてる。多少屈折していても、きちんと自分と同じくらい感情を返してくれる相手がいる。いや、きっとアタシのほうが多いのだ。
最後の一口を吸い終えて、唇に指が触れた。
「キス、したいな」
「やに臭い口とキスをするのは御免ですよ」
ばっと振り返ると鉄の扉からひょっこりと顔を覗かせて、ロスは呆れたように肩を竦める。煙草を強引に手で消してうわぁああと頭を掻きむしった。
「あんたのそーいうとこほんっとムカつく!!!」
「それはそうと、どこで眠るんですか」
「スルーかよ!!! ほんっとあんたっていろいろ期待を裏切らないよな!! 赤いゴンドラしか今開けらんないの! さっさとクソして寝ろ!」
吸い殻をゲシゲシと足で踏みつけ火種を消しつける。ばっと振り返ってずかずか歩くと、地下から出てきた男は目を細めて微かに笑った。笑ったように見えた。
「へえ」
「どこにへえだよ……。マットレスと毛布さっき干して置いといたから床に敷いといて。先に寝ててもいーよ、アタシこっち閉めなきゃだから」
「わかりました」
「てかその格好すっごい寒そう!! 早くゴンドラ入れ!!」
わかりましたわかりましたと両手を挙げて応える男を後ろから蹴り飛ばしたくなる。もう冬が始まろうという季節なのにシャワーで温まったからだろうか、首元がやけに目に入るシンプルなシャツとズボン一枚だった。
「寒かったら中のストーブつけていいから」
「はいはい」
楽しそうな口調がブラジェナにはいっそ憎たらしい。馬鹿にされてるようにしか思えない。さっさとシャワー浴びようと地下へと向き直ると、後ろからぽんと声が投げかけられた。
「待ってますよ、ブラジェナ」
湿った、吐息混じりの声に、女の身体がきゅうと締まった。きっと振り返って睨んでも、ロスは無表情のまま微かに目尻を緩ませただけだった。
ブラジェナは、シャワーを浴びながらしゃがみこんでいた。滴り落ちる水滴は湿度の高いシャワー室の中で、くぐもって響く。
ブラジェナ、と、ロスが名前を呼ぶのは、夜の行為をするときだけだ。それ以外で彼が名前を呼ぶところなんて、聞いた覚えがない。だから、あの声でその名前を呼ばれると、どうしようもなくなる。
「早く出よう、そんで、早く寝よう」
うんそうだ、決めた。
水滴を跳ね飛ばしながらシャワーをとめて、ようやくブラジェナは立ち上がった。軽く身体についた水滴を飛ばして、シャワー室を出てタオルでぱぱっと拭き、下着姿になってから換気扇を回した。
シャワーを使うと地下室全体が蒸れたように湿度が高くなる。早くもポタポタと汗を掻き始めたことにうんざりしながら、水場にいって浄水器から水を出す。ひと月離れていてもそこそこ動くのだから、やっぱりアタシの腕は悪くないのだと悦に浸った。
タオルを被ったまま、そそくさとボストンバッグの中から寝間着を引っ張り出して、手早く着替えた。この熱を保持したまま観覧車のマットレスにダイブしたい。
タオルは部屋の隅に張ったままの紐に吊るす。紐の意図をすぐに理解したのだろう、ロスが使ったのだと思われる白いタオルがぶら下がっていた。ふたり分の生活が、この部屋で行われているということが、嬉しい。
コンロの様子を確認し水場の生ゴミをまとめて一度地下室を出た。薄手のセーターを纏ってはいるものの、風が冷たく感じられる。ブラジェナの根城から自分で決めたゴミ捨て場まで、大して時間もかからない。
赤いゴンドラの横を通り過ぎようとしたときに、ガタンという音が真横で響いた。ブラジェナがぎょっとして振り向くと、呆れた顔をしたロスが顔を出していた。
「この時間帯に何をしに行くんですか」
「いや見りゃわかるだろ、生ゴミ捨てに。あの部屋すぐ臭いこもるから夜中に全部出すようにしてんだよ」
はぁ、と大げさなほど大きくため息をつかれて、むむっと口を尖らせる。そのままロスはゴンドラから降りてずかずか近づいてきたと思ったら、生ゴミの袋を掻っ攫われた。
「え、あんたじゃ場所わかんねーだろ、いいよ」
「だから貴女も行くんですよ」
ほら、と差し出された手に、ぷっと噴き出した。白い眉が吊り上がるのが可笑しい。
「生ゴミデート」
「ほんっと貴女の頭は残念ですね、脳みその代わりに蟹味噌でも入ってるんじゃないですか」
「あはは、ごめんって」
確かに生ゴミデートはひどい。けらけら笑いながら指を絡ませてみた。一瞬相方の手はぴくりと反応し、そのまま握り締められる。どきりと単純に跳ねた心臓をごまかすために、ガキのようなことを口にして茶化す。
「生ゴミ菌ロスについたー」
声にロスはきょとんとこちらを見やり、心底赤ン坊を見る目をして、ため息をついた。
「思考回路が幼児並み……」
「聞こえてんだよ!」
ぐわっと噛み付くように言い捨てて、握り締められた腕をぶんぶん振り回す。やれやれと呆れた声のわりに、手を放すことはしない。嬉しくて、こそばゆくて、むず痒い。
「貴女の照れ隠しはいちいち幼児ですね」
「そーいうこというのまじでムカつく!!」
「ゴミ捨て場はここですか?」
「話聞いてねーし。ここだよ。適当に投げといて大丈夫。ゴミ漁る奴らが勝手に回収しに来るから」
ふうんと興味もなさそうに男はつぶやき、澱んで悪臭を放つゴミ捨て場に、片手でつかんでいたゴミ袋を放り投げた。どしゃりと落ちる音を黙って見守り、なんとなく顔を見合わせる。
どちらからともなく視線が逸れて、早く手を洗いましょうと呟いた声に頷いた。
鉄の扉を閉めてパスコードを打ち込みロックする。扉に内包された鍵がガチャンガチャンと騒々しく音を立てるのを見守って、振り返るとロスがズボンのポケットに手を突っ込んで寒そうに待っていた。それもそうだ、寝間着に利用している服は薄手だし、ひっかけているのはカーディガン一枚。首の後ろから白っぽい髪が跳ねていて、心もとなさそうに風に揺られていた。
ブラジェナが振り返ったことに気がついたのだろう、無言で差し出したロスの手に褐色の手を重ねると、そのままゴンドラへとやや足早に連れて行かれる。
すでに彼がストーブをつけていたからだろう、中はほどよい温かさを保っていた。靴を脱ぎ、ごちゃごちゃと相変わらず資材でとっちらかった座席の上に放り投げる。扉が閉まる音が背後で響き、後ろをうかがうとロスもまた靴を脱ぎ座席の上に置いていた。
ふたりで横になるには狭いマットレスの奥に移動し、座り込むとロスも続いた。こちらを見る瞳は、いつもと違う。いつもよりもずっと雄弁な目だ。
逃げるために視線を逸らしたブラジェナの腕が引かれ、抱き寄せられた。大した抵抗もせずに黙って身を任せると、犬か猫のように鼻が喉元に押し付けられる。くすぐったさよりも先に、ぼっと熱が胸の奥で燃えた。
はむはむと食べ物を口に含むように首を舐められ、意識せずに顔が赤くなる。手を顔に押し当てて必死に目を逸らす。やがて狙いを定めたのか、首に歯が立った。びくりと身を震わせてぎゅっと瞼を閉じる間に、ロスの指が身につけている寝間着を辿っていく。
背中から滑らかに侵入した冷たい指にブラジェナの肩が跳ねた。ぞくりと震えたのは甘い予感があるからで、それがひたすらに恥ずかしい。また熱が増した頬を誤魔化すように自分の指を噛んだ。ちら、とロスの紫の多い後頭部を見やり、ね、ねえ、といつになく弱々しい声を出す。
「ここでするの……?」
声に動きを止めていた指が、返答するよりも先に動き出す。ぐいとシャツが背中側から持ち上げられて、下着のつけていない胸が外気に触れて総毛立つ。少し、寒い。
「いけませんか?」
淡々と尋ね返す声に目が泳ぐ。喉元から離れた顔がこちらを見たことに気がついていても、直視することができない。
「に、荷物、落ちてくるかもよ」
夜の行為をしたのは、両手で数えられるほど少ない。何度しても恥ずかしさはなくならないし、自分の甘い泣き声とかよがる声とか、そういうあれこれが知らない世界のもの過ぎて、怖い。
もちろん自分が結婚するまでは純潔だったということはロスも知っているし、そして純潔だったくせに、すぐにロスの身体を覚えた自分が、ひどく浅ましく感じられて気持ちが悪かった。
「ジェナ」
背けていた耳に声が響く。そんな声は反則だろと思いながらゆっくりと振り向くと、頤に手が伸びて、唇が重なった。きゅっと目を閉じると、唇に触れそうなところで微かにロスが笑う。
唇を舌がぺろりと舐めてびくりと震えた。恐る恐る口を開くと、するりと熱い舌が侵入してくる。歯列をなぞり肉に口付けし、奥へ奥へと逃げるブラジェナの舌にあっという間に到達し、絡め取られた。舌を吸われる蕩けそうなほどの気持ちよさに、微かに声が漏れる。
「――っは」
身体がふるりと震えてロスの片方の手がブラジェナの腰を支えるために伸ばされ、触れられた瞬間きゅんと身体の奥が縮こまる。どこに手を置けばいいのか相変わらずわからなくて、集中できずに手が彷徨う。慣れた指に誘われるがまま、ロスの首に両腕を回した。
ぐっと身体が近くなって相手に剥き出しの胸を押し付けていることを思い出す。かっと顔が羞恥で赤くなったが、それよりも優しく胸を触り始めた手に身体が強張った。舌が離れて唇にキスが落ちる。恐る恐る目を開くと滅多に笑わない口角が上がっていて、恥ずかしさに目を逸らす。
「っや」
褐色の肌の中淡い桃色をした双頭に触れられた瞬間、掠れた声が漏れた。かぁっと熱くなり潤んだ目尻に口付けられ、言葉が逃げていく。
「恥ずかしがり屋ですね」
耳元に吹きかけられる声に当たり前だろと喉の奥で吐き捨てた。こんな姿を見られていることが恥ずかしいのに、与えられるだろう快感が欲しくてたまらない。そう思った刹那、寝間着のズボンの中でとろりと何かが滴った。知られたくなくてぎゅっとロスに抱きつく。
虚をつかれたように動きを止めた男は、どこか笑みを抑えた様子で額に鼻に頬に唇に、ゆったりと口付けながら下っていく。ブラジェナを支えていないほうの手が、当たり前のようにズボンへと伸びてきた。とっさに止めようとした手を捕まえられ、支えを失ったブラジェナはそのまま床に頭を打ち付けた。
「いって!!」
「貴女も大概期待を裏切りませんねえ……」
呆れ声にうるっさいと噛みつきながら頭を抱える。丁度体勢も崩れたしよかったですねと、当たり前のように片手が頭の真横に降りてきて、唇が片方の胸の頂きに噛み付いた。
「あっ」
漏れた声が自分の耳に入ってきてその甘さに首を振り、びくんと伸びた両腕がロスの頭を抱える。左の乳房全体にまるでマーキングするように、ロスは唾液混じりの唇で舐めて、食む。ぴちゃぴちゃと響く音が淫靡で、頭がクラクラした。
ふと腰を這っていた指がズボンのふちに触れる。ブラジェナの右脚の太腿を挟んでいた片足が抜かれ、隣に戻ってくるが、熱が明らかに減って思わず足を絡ませようと動いていた。
「ズボン、脱がせられないですよ」
楽しんでいるとあからさまにわかる声にますます羞恥が煽られる。目を閉じながらもごもごとつぶやいた。
「狭いだろ……」
一瞬動きを止めた男に、ちらりと目を開けると綻んだ口元が見えた気がした。あっと大声を出すはずだった声は甘い嬌声に切り替わる。
「あぁっ、――だめっ!」
唐突になぞられた寝間着越しの秘部に下着の中で液体が滴った音を聞いた気がした。ぎゅっと手の中のロスの頭を抱えて胸を押し付けるが、当人はそれすらも気にせずに胸をぺろりと舐めて、ブラジェナの声を引きずり出す。ぐいっと逃げるために抵抗されて、ゆっくりと手の力を緩めると同時に、ズボンのふちから手が忍び込む。
「ロス……」
「もう濡れちゃったんですか」
鼻歌でも歌い出しそうな声音に瞬時に目まで熱くなる。ぷいっとそっぽを向くと、そのまま指はズボンを膝まで引き摺り下ろした。湿った下着がひやりと外気に触れて中の肉が震える。とっさに足を閉じようとすると、指が籠絡するために這っていき、従順な猫のように肢体が弛緩した。
ロス、とつぶやいた声にはい、と律儀に男が唇のすぐ手前で応える。笑いを抑えた低い声と同じように、節だった無骨な指はブラジェナの身体を生物としての女に作り変えていく。男の指だ、とブラジェナは思う。
秘部を隠す茂みの奥で、とろりとまたも液体が流れた。ぴくりと跳ねた足を押さえつけて、黒いレースのついた質素なショーツが脱がされる。
ぎくりと強張った身体に気がついているのだろう、鼻面に随分とらしくない可愛らしいキスをして、ロスの上体が離れていった。狭いマットレスの上を移動して、ジェナ、と呼びかけられた。
「なに……」
「狭くて悪いんですが、上半身扉に預けてもらえませんか」
扉、とはブラジェナの頭上に当たるゴンドラの壁のことだろうか。こちら側は扉にはなっていないが、同じようなものだろう。外気に触れる金属が冷気を伴っていることは知っていたが、ブラジェナはうんと返答して上体を起こした。
そのまま背中を背後の壁に身を預け、自分の間抜けな姿にようやく気がつく。こちらを見つめる視線は知っていたが、ええいままよとつぶやいて、中途半端に引っかかったままの寝間着のズボンとショーツを足から引き抜く。
「……何かいいたげですが! なに!」
視線に耐えきれずに脱いだ寝間着とショーツを膝の上で抱える。じろ、と睨むと思いの外穏やかな目がこちらを見ていた。
「いえ? ……もう、恥ずかしくはないんですか」
「恥ずかしいに決まってんだろ馬鹿! 聞くなよ!」
「その割りには大胆ですね」
ぐっと言葉に詰まる。かぁああっと火がついたように頭に向かって熱が登っていくから、まっすぐに視線を向けることができなくなって膝に頭を押し付けぼそぼそとつぶやいた。目頭が熱い。快楽が、ロス本人が与えてくれるのが嬉しくて、従順になる自分が、ひどく浅ましく思う。
「……淫乱で悪かったな」
「貴女の処女を穢したのは俺ですよ、淫乱になる隙もなかったくせに」
「でもアタシ、あんたに触られるの、すごい、好き、だし」
言葉がもどかしくなるほど出てこない。ますます膝に頭を埋めながらぼやくようにいう。
「恥ずかしい、けどさ、あんたに触られると、その、なに、気持ちいいの、本当なんだよ……? だから触って欲しいしキスして欲しいしこういうのも嬉しいし、でもなんか、それってすごいビッチみたいだろって思ったの!! そんだけ!!」
もだもだいうのが馬鹿らしくなってきて、寝間着のズボンとショーツを勢い良くロスに向かって投げつける。胸を隠すためにがばっと寝間着の上を着直して、また膝を抱えてじとりと睨む。
男はブラジェナの寝間着とショーツを頭からぶら下げた大層間抜けな姿のまま、ぴくりとも動かなかった。引かれた、とブラジェナは今更気がついた。やっぱり二十八になるまで大事に処女抱えてる方が頭がおかしいんだ、しかもそういうことをなにも知らないなんて、この歳になって!
自分が世間一般の二十八歳とはややずれていることを知っている。そもそも立場的な問題で言うのなら、ブラジェナだって成人する前に婚約者がいたっておかしくないような家柄だった。十六になると同時に結婚してたってそれほどおかしな話ではない家系なのに、実際に今生きているブラジェナ・マールズヴォルトは、二十八になっても男女間の性交渉の知識がこれっぽっちもない。
それをこんなに恥ずかしがって、好いた相手に自分の逃げてきた結果を押し付けることのほうが、よほど恥ずかしい。
ロスが今までどんな恋愛関係を作ってきたのかブラジェナはあまり知らない。いつも彼に向かって吐き出すのは、自分のことばかりだったことを今更思い当たる。
ひたすら頭を抱え始めたブラジェナの前で、ようやく男が動いた。
「貴女がいつも一瞬俺を申し訳なさそうに見ていた理由はそれですか」
低い声。
惹きつけられるように顔を上げて、いつの間にやら近くに来ていたロスの表情に目を見開く。
いつもほぼ無表情な男の口元に、柔らかな笑みが刷けていた。仕方ねえだろと囁く声は勝手に喉から漏れて、また顔が膝のほうへと逃げていく。
「わかんないもん。知らねーもん、怖いし、恥ずかしくて、なんか、こんな歳なのに、アタシ……馬鹿みてーじゃん」
「そうですね、馬鹿です。馬鹿」
伸びてきた手が髪を撫でて、顔を上げるよう促される。どうしようもなくその指に従うと、優しい表情のまま、唇に甘いキスを落とされた。
「俺は貴女がビッチでも淫乱でも構いませんよ、どちらでもないですしね」
おかしそうに掠れた声が笑った。どきりと心臓が高鳴って、ブラジェナはどうしようもなくロスの視線を、唇を追う。
「俺の手に抱かれるのが好きだというなら、おとなしく俺の腕の中で甘えてください、よがってください。経験がないからと逃げられては、なにも変わらない。違いますか」
「違く、ないけど」
「これでも一応自制してたんですけど、自制しない方がいいですか?」
楽し気に男の口角が釣り上がる。
あ、笑った。
そんな当たり前のことにブラジェナはどことなく安堵して、微かに緊張したまま問いかける。
「自制しないとどーなんの」
「さぁ。試したことはないのでわかりませんが、少なくとも貴女は実感できるんじゃないですか、知らないですけど」
「実感? 何を?」
首を傾けて疑問を重ねるが、少しだけロスはなんとも言えない顔を見せた後、唇を重ねながら拗ねたようにつぶやいた。
「貴女の欲しいものを、得ている実感を」
欲しいもの、という言葉に連鎖的に思い出したのは、緑の作業着の女に言われた言葉だ。餓えているからこそ代用品を求めてしまう、なくても構わないが、ないとさみしいもの。
ブラジェナは自分の手がするすると男の首をなぞったことに今更気がついた。あ、と思いながら指は男の首を掻き抱いて、唇を促す。
そうだ、アタシはこの唇が欲しい。この瞳が欲しい。この指が欲しくて、そしてそれは、この人が欲しいということだ。
「ねえ」
「はい?」
「欲しがって、いーの?」
情けなく震えた声にロスは当たり前でしょうと鼻で笑った。
唇が身体中に触れて、触れられたところから熱が灯る。いつも強張った声しか出なかった喉からは、聞いたことのないほど甘い声が漏れるけれど、それを浅ましいとは思わなかった。ただ気持ちが良くて、頭や胸の中に溜め込まれていた罪悪感や嫌悪感が一緒くたに溶けて行く。
さっさと衣服を脱ぎ捨てたロスは、そのままブラジェナを赤子を抱き上げるように軽々と抱え、ゆっくりと固くなった男のそれを挿入する。ブラジェナの声が掠れて、自分がめちゃくちゃに感じていることを知った。痛いのに、その圧迫感が気持ちいい。
ねだるように唇を啄ばむと、ロスは器用に舌を差し入れた。熱い痛みが誤魔化されて必死に舌を飲み込む。男の背中に指を這わせて強く抱き締める。全部、ぜんぶ、欲しい。
「ジェナ」
焦ったような声に潤んだ視線を向けると、ぽたりと男の汗が皮膚に吸い込まれて行く。
ふ、と微かにロスは笑った。今日はよく笑う。それが、ブラジェナには嬉しい。
「ときどき、あんたは俺を煽ってるように思うよ」
あ、とつぶやいた声が跳ねた。余裕のなくなった表情のままロスがブラジェナに身体を打ち付ける。とっくにブラジェナの感じる場所を知っている男は、躊躇いもなくそこばかり突いて頭の中が破裂した。
待ってと声が叫ぶけれどロスはブラジェナの頬を撫でたまま、動きを止めることはしない。ずるりと引き摺り下ろされ、唇を食べられる。唇だけじゃなく喉も、首も、身体中全部。
「食べっ、られちゃう」
ぽろんと落ちた言葉を飲み込むようにキスされて、何度も打ち付けられる熱に頭が浮かされる。噛み付いた唇を奪い合っているうちに、何もかもわからなくなった。炸裂するほど激しい目眩に背中が大袈裟なほど反り返る。
「ロス」
指を絡めて喉にまで入り込みそうな舌を吸い、浮かされたように好きと鳴きながら叫ぶ。繰り返される音は律動によって跳ね返り、甘い悲鳴を飲み込んで、ようやく沈黙が訪れた。
はぁはぁ、という犬のような吐息がふたり分、狭い場所で響く。小休止と言わんばかりに肉からその身を抜いて、ロスはいつの間にやら用意したティッシュで液体がとろける箇所を拭う。全身の筋肉が動くことを怠けていて、ブラジェナはもうされるがままだ。
やがて片付けを終えた男は当たり前のようにブラジェナの額に口付け、マットレスにふたりで横になる。中途半端に着たままの洋服のせいで、だいぶ間抜けに見えるんじゃないだろうかとブラジェナはくすりと笑った。
狭いだろとつぶやいて真っ正面からロスに抱きつくと、彼はブラジェナの髪をすきながら抱きしめ返してくれた。
「気持ちよかったですか」
「そういうこと即座に聞くあたりお前ほんと嫌」
「それはよかった」
「まだ答えてねーだろ!」
「十分答えでしょう?」
鼻面にされる口付けにむすっとしたままそっぽを向く。耳だけでなく頬すら赤くなってることを自覚しながら、指を絡める。
その様子にロスはブラジェナが握りしめた指を見て、持ち上げた。
「貴女は、指を絡めるのが好きですね」
唐突だなとなんとなく苦笑して、なんでだろうなと笑った。指を引き摺り下ろし、掠めるようにキスをして、へらりとする。ようやく相手の顔を、見ることができた。
「好き、かな。なんか、安心する」
瞬間、ロスの表情が硬直し、なにやら目の中に燻っているものが揺れた気がした。はぁ、とため息が漏れたかと思うと視線が逃げる。代わりにいつになくわかりやすく抱き寄せられて、今度はブラジェナがおろおろとし始める番だった。
「なんだよ!?」
「………そろそろ元気も出てきたんじゃないですか? 第二ラウンド行きましょうか」
もはや単音としてすら聞き取れない謎の音声を発したブラジェナの唇に噛み付いて、いそいそとロスは寝間着の中に手を忍ばせる。慌てたように逃げようとするブラジェナが本気で拒んでいるわけではないことを承知しているからだろう、がぶりと喉元に噛み付き、男はいつになく鮮やかに笑った。
「欲しいもの、全部あげますよ。だからおとなしく受け取って、ときどき返してくだされば結構です」
「アタシあんたに返せるのなんて持ってない!」
とっさに切り返した言葉をロスは鼻で笑い、鋼のような瞳がきらめいた。そっと汗の滲んだ額を撫でる指先は熱を持って、ブラジェナをかすかに震わせる。
「貴女を俺にくれるんだから、それでいいんですよ」
痺れるような甘さが目を焼いて、あんたってほんと馬鹿だよと囁いた声が、彼の唇に飲まれて消えた。
案の定澱んだ空気に鼻をつまみ、やや眉をひそめる相方を知りながら、ブラジェナはボストンバックを肩に掛け直してあっち、と笑った。指差した先は、崩れた建物たちが遠くに見える廃墟の平地だ。そこを通って建物の向こう側に行けば、彼女の住んでいた住居が目に入る。
「相当な匂いですね」
歩き出しながら呟いた相方の声にブラジェナは、なんとも言いにくそうに苦笑した。
「まだ駅はマシな方なんだぜ、これでも。アタシの住んでたところのほうがちょっと臭うかも。オイルの匂いとかはまだしも、この生ゴミ腐った系の臭いはやんなるよなー」
「それでも四年近く居続けたんでしょう、貴女って相当な物好きですよね」
うるせーと女はけらけら笑う。ひと月とちょっと前、桜色の髪の機械人形を青のひとつの弾丸に変えて、自作の機械人形を野に放ってから、こんなに早く戻って来るとはブラジェナも思っていなかった。
隣に誰かがいることも、あまり信じてはいなかった。
なんとなくひとりはにかんで、相方ことロスの手を取る。なんですかとそっけなくいう男の声が、好きだ。プライベートのときしか覗かない、意外とゴツゴツとした節と、細い指先を握りしめて、にへらと笑った。
「アタシの住んでた場所の話とかってしたことあったっけ?」
「いえ。ただ雨漏りがひどいとか散々愚痴られた記憶はあります」
「あー愚痴った覚えあるわ」
あははと笑い飛ばし、廃墟と化したビルを通り抜けると、野ざらしにされたままの古ぼけた観覧車が現れた。たった八つしかないゴンドラは、窓が煤けて中をうかがい知ることはできそうにない。
あれ、と呟いた声にロスはどれですかと即座に切り返した。
「だから目の前の観覧車」
「は?」
「住み心地は悪くないんだぜー。一ヶ月経ってるけど動くかな……。ちょっと待っててな」
手を離してボストンバックの中から工具箱を取り出す。そんなもの旅行に必要ないでしょうと言われたのは、三日前のことだ。はい、とバックを押し付けて、観覧車の下へと駆けていく。
何回かゴロツキが漁りに来たのだろう、地下へとつながる扉は殴られたあとのように凹んでいた。機械整備士の元根城を襲おうったって無駄なんだよとにやつき、四角い蓋を開けてひと月前にリセットしたパスコードを打ち込む。
赤い小さな光が点灯し、そのまま真っ暗な地下へと身を滑り込ませた。ほこり臭さと生ゴミ臭さはひと月換気されていなかったせいで、酷さを増したようだ。飛び降りた先で床に触れた手には泥かなにかがへばりつき、きったねと思わずぼやく。
換気装置と間接照明を稼働させて、部屋の惨状に思わず苦笑した。ブラジェナの城は誰にも荒らされなかった代わりに、かなりのほこりと雨と土を溜め込んでいたようだ。床がべたついていたのは、雨がほこりと土を混ぜ合わせて奇妙な湿地を作っていたからだった。
今すぐにでも掃除に取り掛かりたいところだが、ロスにずっと外で待たせるのも悪い。というより掃除くらい手伝ってくれるだろうと目算して、ブラジェナは梯子を上り鉄の扉を押し開けた。
まだ観覧車の外側から複雑そうな顔のまま突っ立っている男に声をかけ、こっちこっちと呼び寄せる。やれやれとでもいいたげな顔をしてこちらへ向かって来たロスに、鞄は外だしといてとりあえず中入れよと促す。
「ダストシュートじゃないでしょうね」
「あ、やっぱわかる? 心配しなくとも改造して梯子つけたから安心しろって」
「………ゴミ箱で生活する妙齢の女性ってどうがんばっても貰い手いませんよ、よかったですね貰ってくれる心優しい男がいて」
ねちねちと嫌味っぽい口調に思わず笑いが吹き出した。降りて来るのを待ちながら、腰に手を当てて小首を傾げる。
「そんな女だって知ってたら、結婚しなかった?」
なんてことのないじゃれあいのように尋ねられたとは、思えなかった。いい終わってからひとり息を飲む。
何を聞いてるんだろう、アタシは。
梯子から降りて汚い床を心の底から不愉快そうに見つめたあと、ふとロスはこちらへと視線を投げた。
青とも緑とも表せない、静かな鏡を思わせる瞳が、平静にこちらを見ていた。感情が漏れるでもなく溢れるでもなく、穏やかに淡々と見つめる眼差しに、胸の中で歪む何かがきゅうと細くなって逃げ出す。この目で見られるのは、嫌いじゃないけど、好きでもない。
ふと、ロスが笑った。口角が上がったのを見た瞬間、ぼっと顔が熱くなる。
「なんて顔をしてるんです」
「うっさい!!! バーカバーカ!! いいから掃除しとけよな!」
「貴女まさか掃除要員で呼んだんですか」
「ゴンドラ動かしてやるんだから文句言うなよな! 黙って働け!」
ふんっと鼻息荒く吐き捨て、ロスを押しのけ梯子を上る。律儀に扉の近くに置かれたふたり分の荷物を見つめ、熱くなった顔をばちんと叩く。
これ以上馬鹿になってどうするんですか、と扉の向こうから聞こえた声に、鉄の扉を蹴り飛ばして閉めることで答えておいた。
「お、ロス、掃除終わった?」
汗を首にかけたタオルで拭きながらブラジェナが振り返った先で、鉄の扉ががこんと開かれた。中から銀に近い色にちょこちょこ紫の混じる頭が現れて、相方は眉を吊り上げた。
「そういう貴女はどうなんですか。とはいっても中から機械音が聞こえていましたが」
「あはは、うるっせえよなこれ。中には響かないようにしてたんだけど、動力源がダストボックスの真横にあったからさ、どうしようもねえんだよ。ほら、こっちきて」
促して観覧車の全容が見える場所にふたりで並んで立つ。ギシギシと軋む音が聞こえるが、三年間慣れ親しんだ音に違和感はない。ゆっくりとまわっていくゴンドラの数は八つだけ。
「ゴンドラ八つあんだろ? アタシがよく寝てたのが赤いやつ。ちょっと拡張してでかくしてあんの。一番汚い!」
「元気のいい主張ですね」
「馬鹿にしてんの? で、オレンジが機械とかいじくってたとこ。あそこも拡張してある。その次の黄色と黄色の次の緑は雨漏りと老朽が激しすぎて使えないから、まぁご覧の通り廃材として引っぺがして再利用してたんだ。
青緑と青は物好きな観覧車の中で寝たいっていう馬鹿のために、綺麗にしてあるつもり。流石に一ヶ月経ってっからもう無理だろうけどさ。何? 普通の家で言うところの客室的な?
あとの紫とピンクは資材入れ。若干行き来が面倒だけど、基本一回止めたらしばらく動かさないし、梯子つけるからそんな危険でもない」
絶句してる理由に何となく思い当たる節があるからだが、ブラジェナはにやにやと笑いながら片方の眉を上げて腰に手を当ててみた。
「どーよ、アタシの城。便利っしょ」
「馬鹿ですね」
さくっと切り返された言葉は予想通りだった。ある意味期待を裏切らない相方のセリフにへんと鼻を鳴らし、うーんと伸びをした。
「空、晴れてからさ」
ロスの顔を見ることができなかった。ゆっくりゆっくり動いて行くゴンドラを目で追いながら、自嘲するかのように口を尖らせる。
「ちょっと硬化したビニール製の天幕、作ってみたんだよ。赤いゴンドラの天井、今までただの合板だったから、綺麗に空見えるんじゃないかって」
ロスは相槌も打たない。こちらを見ることもしない。
こいつらしい。
なんとなく口元が緩むことに気がついていたけれど、今更どうすることもできなくて、そのままブラジェナは話し続けた。 「とっかえてみたんだ。そしたらさぁ、すげえの。北だからもちろん汚い雲がいっぱいあるんだけどさ、星と月が、見えたんだよ。毎晩毎晩、見飽きることなくってさ」
そんでさ、と視線が徐々に落ちていく。唇はいつも通り勝手なことを笑いそうになりながら口走る。
「雨降った日があったんだ、夜中に。眠れなくてずっと空見てたんだけど、雨降り始めて。ほら、あんたも知ってんだろー、アタシ雨嫌いじゃん? うわ、やだなって思ってたんだけど」
馬鹿みたいな喋り方だなとひとり照れながら乱暴に頭を掻いた。
ロスと一緒に暮らすようになってから髪は随分伸びた。北ではずっと肩につくかつかないか程度だったのに、今は少し背中にかかる。
「綺麗だったんだ」
言葉を重ねられなかった。
あのときのぞっとするほど美しい情景が、脳裏に蘇ってきて、息が詰まった。常に恐怖と憎悪の対象だった存在の、畏怖さえ抱きかねない優しさは、見たこともない流星群のように、ブラジェナに降り注いでいた。ブラジェナだけでなく、チェネレーシアというこの世界に、均等に、惜しみなく。
ぎゅっと閉じた瞼を自覚しながらどうしようもなくなってしゃがみ込もうとした左手が、唐突に取られた。へっと間抜けな声を上げると、呆れたため息が耳に届く。なんだよ、悪かったな、こんな泣き虫で。
「それだけですか」
「そーだよ」
つっけんどんに吐き捨てる。指を絡められてその温かさにまた泣きそうになった。座り込めない代わりにぎゅっと握り返すと、ロスは流し目をこちらに向けた。またまたぐぐっと言葉に詰まる。
「なんだよ」
「……泣き虫ですね」
「ほっとけバーカ」
「口も悪い」
むすっと黙りこくってそっぽを向く。赤いゴンドラを目で追っていると、唐突に名前を呼ばれた。夜以外で名前を呼ぶなんて相当珍しい。だからだろうか、なんだよと応える声はブラジェナ自身が思うよりもずっと甘い。
「っ」
深い目の色が、そこにあった。
離れていく唇に顔が熱くなるけれど、相方はいつものように表情をあまり変えず、でも少しだけ優しい眼差しのまま、ブラジェナの手を引いた。
「夕飯、もちろん作ってくれるんでしょうね。さすがに俺も嫌ですよ、掃除で疲れました」
「………っうっせバーカ!! ピーマンいっぱいいれてやる!」
「貴女の思考回路は幼児そのものですねえ」
「作んねーぞ!」
子どものようにぎゃんぎゃん吠えながら、手をつないで観覧車の下に向かって歩き出す。こちらを振り返らないのをいいことに、そっと、唇に触れた。
「……これも貴女の自作ですか?」
ふにゃふにゃと曲がりやすい食器をフォークで叩いて、ロスは眉を片方吊り上げた。
本来食器というものは硬質的な音を響かせるものだが、ブラジェナお手製の食器はほぼ音を立てることもない。見た目の色は煤けた灰色で、料理がどれほど美味しそうな匂いをはせていても、皿のせいでなんとも不味そうに映る。
ブラジェナももちろんその欠陥は自覚しているのだろう、スプーンの上のホワイトシチューを口に運びながら唸った。最後の一口はぺろりと消える。
「まぁ、そう。便利だし使い勝手もいいんだけど、如何せん見た目がな……。色さえ変えれば商品化間違いなしだと思うんだよな」
「機械工というより発明家の体ですね」
うぬぬと苦い顔をしながらブラジェナはぱたぱた手を振った。あっけらかんと言い放つ。
「アタシは発明家じゃねーよ。発明家っつうのはもっとクレイジーで馬鹿でくそムカつくやつのことを言う」
「お知り合いにいるんですか?」
「自称発明家がな。まぁどうせ明日会えるだろ」
明日は行きつけの飲み屋な、と途端に相好を崩す。あいつら元気かなーと笑いながら、あんたも付き合えよと付け加えることも忘れない。
何時ものくせで食後の一服をしようと指がズボンのポケットを漁っていた。取り出した煙草を白い目で見たあと、ロスははぁ、とため息をつく。
「外で吸うからそうわかりやすくため息つくなよなー、至福の時なんだからしゃーないだろ」
「やに臭い口とキスはしたくありませんよ」
がたんっとスプーンが卓上に落ちた。こちらを見る相方の目を見返す勇気などないブラジェナは、食器洗っといてといって早々にテーブルを立つ。
「あまり出歩かないように」
「アタシのほうがここは知ってるっつの! あと風呂はないけどシャワーあっから栓捻ってお湯出しておいて。たぶん掃除してない分ほこりたまってお湯になるまで時間かかるから」
はいはいと呆れたように肩を竦める相方をちらっと振り返り、何も言わずに梯子を上る。扉を開けた先で、動きを止めた観覧車がライトアップされることもなく、廃墟の一棟としてただ鎮座していた。時折風に煽られて、上方のゴンドラがギィギィと音を立てる。
空はすっかりと日が暮れて、群青色が澱んだ雲を抱いていた。その隙間から、漏れ出すように淡い光が煌めく。
月というものは恒星ではないのだということを、いつだか学んだ記憶がある。観れやしないものを学んだって仕方ないだろうにといってはいたけれど、思い出したのならやはり印象に残っていたのだろう。
太陽の光を反射する月。反射された太陽光は、さながら月光になって地上に降り注ぐ。
空が晴れたから、思い出したのだろうか。
煙草に火をつけてゆっくりと吸い込んだ。これもまた、ロスと共に暮らすようになってから、変化したもののひとつだ。
端的に言えば、本数が減った。吸う習慣すら段々と失われて行くように思う。北にいたときは食事中でも吸っていたのに、食後にしか吸わなくなった。毎日二本も吸っていたのに、二日に一本になっていた。
もちろん東の煙草のほうが高価だからというのもあるが、不思議と吸う必要性が感じられなくなったのかもしれない。
代用品なんじゃないか、と笑った女の顔を思い浮かべる。艶のある黒髪を無造作に結び、匂い立つような色香とこの土地の者特有の癖のある笑みを浮かべて、いつも通り酒を傾けていた。
『代用品ってなんのだよ』
『愛情、またはそれに類似する、君の欲しいもの』
淡々と言われた言葉の意味がいまいちピンと来ず、しばらくぼけっと酒を喉に垂れ流し続け、咳き込んでようやく理解した。
『それなら悲しすぎるな。アタシの半分の歳で結婚相手が決まってる女のコもいるってのに、おばさんは一人さみしく愛情代わりに喫煙か。染みる話じゃねーの』
『嗜好品の一部は得てしてそういうものだよ、ジェナ。君は別段煙草が好きなわけでもないし、酒だってなければ困るというほどでもないだろう? 必要不可欠ではないけれど、ないとさみしいものだ』
どうだかね、と肩を竦めたはずだ。愛情とやらを向けられる対象の中に、自分が存在するということがわからなかった。いつだってブラジェナは誰かを見つめていて、見つめていた相手は雨に飲まれて死んでいった。
返して欲しいのかもしれないな、と今になって思う。向けた感情は無駄ではないし、個々人に向けた感情はそのときのブラジェナの感情だ。そっくりそのまま送り返されることもない。
ただ、自分に多少なりとも感情を返してくれる存在が欲しかったのだろう。煙草は心地いい。吐き出した煙さえも、全部まるごとすべて、ブラジェナの中に解けていく。
ゆっくりとこちらを振り返る男を思う。全部、まるごとすべて、欲しい、欲しくなる。
気持ち悪いなと自嘲した。何も知らないくせに、ひとりいつも舞い上がらされて、自分だけ浮かれてる。多少屈折していても、きちんと自分と同じくらい感情を返してくれる相手がいる。いや、きっとアタシのほうが多いのだ。
最後の一口を吸い終えて、唇に指が触れた。
「キス、したいな」
「やに臭い口とキスをするのは御免ですよ」
ばっと振り返ると鉄の扉からひょっこりと顔を覗かせて、ロスは呆れたように肩を竦める。煙草を強引に手で消してうわぁああと頭を掻きむしった。
「あんたのそーいうとこほんっとムカつく!!!」
「それはそうと、どこで眠るんですか」
「スルーかよ!!! ほんっとあんたっていろいろ期待を裏切らないよな!! 赤いゴンドラしか今開けらんないの! さっさとクソして寝ろ!」
吸い殻をゲシゲシと足で踏みつけ火種を消しつける。ばっと振り返ってずかずか歩くと、地下から出てきた男は目を細めて微かに笑った。笑ったように見えた。
「へえ」
「どこにへえだよ……。マットレスと毛布さっき干して置いといたから床に敷いといて。先に寝ててもいーよ、アタシこっち閉めなきゃだから」
「わかりました」
「てかその格好すっごい寒そう!! 早くゴンドラ入れ!!」
わかりましたわかりましたと両手を挙げて応える男を後ろから蹴り飛ばしたくなる。もう冬が始まろうという季節なのにシャワーで温まったからだろうか、首元がやけに目に入るシンプルなシャツとズボン一枚だった。
「寒かったら中のストーブつけていいから」
「はいはい」
楽しそうな口調がブラジェナにはいっそ憎たらしい。馬鹿にされてるようにしか思えない。さっさとシャワー浴びようと地下へと向き直ると、後ろからぽんと声が投げかけられた。
「待ってますよ、ブラジェナ」
湿った、吐息混じりの声に、女の身体がきゅうと締まった。きっと振り返って睨んでも、ロスは無表情のまま微かに目尻を緩ませただけだった。
ブラジェナは、シャワーを浴びながらしゃがみこんでいた。滴り落ちる水滴は湿度の高いシャワー室の中で、くぐもって響く。
ブラジェナ、と、ロスが名前を呼ぶのは、夜の行為をするときだけだ。それ以外で彼が名前を呼ぶところなんて、聞いた覚えがない。だから、あの声でその名前を呼ばれると、どうしようもなくなる。
「早く出よう、そんで、早く寝よう」
うんそうだ、決めた。
水滴を跳ね飛ばしながらシャワーをとめて、ようやくブラジェナは立ち上がった。軽く身体についた水滴を飛ばして、シャワー室を出てタオルでぱぱっと拭き、下着姿になってから換気扇を回した。
シャワーを使うと地下室全体が蒸れたように湿度が高くなる。早くもポタポタと汗を掻き始めたことにうんざりしながら、水場にいって浄水器から水を出す。ひと月離れていてもそこそこ動くのだから、やっぱりアタシの腕は悪くないのだと悦に浸った。
タオルを被ったまま、そそくさとボストンバッグの中から寝間着を引っ張り出して、手早く着替えた。この熱を保持したまま観覧車のマットレスにダイブしたい。
タオルは部屋の隅に張ったままの紐に吊るす。紐の意図をすぐに理解したのだろう、ロスが使ったのだと思われる白いタオルがぶら下がっていた。ふたり分の生活が、この部屋で行われているということが、嬉しい。
コンロの様子を確認し水場の生ゴミをまとめて一度地下室を出た。薄手のセーターを纏ってはいるものの、風が冷たく感じられる。ブラジェナの根城から自分で決めたゴミ捨て場まで、大して時間もかからない。
赤いゴンドラの横を通り過ぎようとしたときに、ガタンという音が真横で響いた。ブラジェナがぎょっとして振り向くと、呆れた顔をしたロスが顔を出していた。
「この時間帯に何をしに行くんですか」
「いや見りゃわかるだろ、生ゴミ捨てに。あの部屋すぐ臭いこもるから夜中に全部出すようにしてんだよ」
はぁ、と大げさなほど大きくため息をつかれて、むむっと口を尖らせる。そのままロスはゴンドラから降りてずかずか近づいてきたと思ったら、生ゴミの袋を掻っ攫われた。
「え、あんたじゃ場所わかんねーだろ、いいよ」
「だから貴女も行くんですよ」
ほら、と差し出された手に、ぷっと噴き出した。白い眉が吊り上がるのが可笑しい。
「生ゴミデート」
「ほんっと貴女の頭は残念ですね、脳みその代わりに蟹味噌でも入ってるんじゃないですか」
「あはは、ごめんって」
確かに生ゴミデートはひどい。けらけら笑いながら指を絡ませてみた。一瞬相方の手はぴくりと反応し、そのまま握り締められる。どきりと単純に跳ねた心臓をごまかすために、ガキのようなことを口にして茶化す。
「生ゴミ菌ロスについたー」
声にロスはきょとんとこちらを見やり、心底赤ン坊を見る目をして、ため息をついた。
「思考回路が幼児並み……」
「聞こえてんだよ!」
ぐわっと噛み付くように言い捨てて、握り締められた腕をぶんぶん振り回す。やれやれと呆れた声のわりに、手を放すことはしない。嬉しくて、こそばゆくて、むず痒い。
「貴女の照れ隠しはいちいち幼児ですね」
「そーいうこというのまじでムカつく!!」
「ゴミ捨て場はここですか?」
「話聞いてねーし。ここだよ。適当に投げといて大丈夫。ゴミ漁る奴らが勝手に回収しに来るから」
ふうんと興味もなさそうに男はつぶやき、澱んで悪臭を放つゴミ捨て場に、片手でつかんでいたゴミ袋を放り投げた。どしゃりと落ちる音を黙って見守り、なんとなく顔を見合わせる。
どちらからともなく視線が逸れて、早く手を洗いましょうと呟いた声に頷いた。
鉄の扉を閉めてパスコードを打ち込みロックする。扉に内包された鍵がガチャンガチャンと騒々しく音を立てるのを見守って、振り返るとロスがズボンのポケットに手を突っ込んで寒そうに待っていた。それもそうだ、寝間着に利用している服は薄手だし、ひっかけているのはカーディガン一枚。首の後ろから白っぽい髪が跳ねていて、心もとなさそうに風に揺られていた。
ブラジェナが振り返ったことに気がついたのだろう、無言で差し出したロスの手に褐色の手を重ねると、そのままゴンドラへとやや足早に連れて行かれる。
すでに彼がストーブをつけていたからだろう、中はほどよい温かさを保っていた。靴を脱ぎ、ごちゃごちゃと相変わらず資材でとっちらかった座席の上に放り投げる。扉が閉まる音が背後で響き、後ろをうかがうとロスもまた靴を脱ぎ座席の上に置いていた。
ふたりで横になるには狭いマットレスの奥に移動し、座り込むとロスも続いた。こちらを見る瞳は、いつもと違う。いつもよりもずっと雄弁な目だ。
逃げるために視線を逸らしたブラジェナの腕が引かれ、抱き寄せられた。大した抵抗もせずに黙って身を任せると、犬か猫のように鼻が喉元に押し付けられる。くすぐったさよりも先に、ぼっと熱が胸の奥で燃えた。
はむはむと食べ物を口に含むように首を舐められ、意識せずに顔が赤くなる。手を顔に押し当てて必死に目を逸らす。やがて狙いを定めたのか、首に歯が立った。びくりと身を震わせてぎゅっと瞼を閉じる間に、ロスの指が身につけている寝間着を辿っていく。
背中から滑らかに侵入した冷たい指にブラジェナの肩が跳ねた。ぞくりと震えたのは甘い予感があるからで、それがひたすらに恥ずかしい。また熱が増した頬を誤魔化すように自分の指を噛んだ。ちら、とロスの紫の多い後頭部を見やり、ね、ねえ、といつになく弱々しい声を出す。
「ここでするの……?」
声に動きを止めていた指が、返答するよりも先に動き出す。ぐいとシャツが背中側から持ち上げられて、下着のつけていない胸が外気に触れて総毛立つ。少し、寒い。
「いけませんか?」
淡々と尋ね返す声に目が泳ぐ。喉元から離れた顔がこちらを見たことに気がついていても、直視することができない。
「に、荷物、落ちてくるかもよ」
夜の行為をしたのは、両手で数えられるほど少ない。何度しても恥ずかしさはなくならないし、自分の甘い泣き声とかよがる声とか、そういうあれこれが知らない世界のもの過ぎて、怖い。
もちろん自分が結婚するまでは純潔だったということはロスも知っているし、そして純潔だったくせに、すぐにロスの身体を覚えた自分が、ひどく浅ましく感じられて気持ちが悪かった。
「ジェナ」
背けていた耳に声が響く。そんな声は反則だろと思いながらゆっくりと振り向くと、頤に手が伸びて、唇が重なった。きゅっと目を閉じると、唇に触れそうなところで微かにロスが笑う。
唇を舌がぺろりと舐めてびくりと震えた。恐る恐る口を開くと、するりと熱い舌が侵入してくる。歯列をなぞり肉に口付けし、奥へ奥へと逃げるブラジェナの舌にあっという間に到達し、絡め取られた。舌を吸われる蕩けそうなほどの気持ちよさに、微かに声が漏れる。
「――っは」
身体がふるりと震えてロスの片方の手がブラジェナの腰を支えるために伸ばされ、触れられた瞬間きゅんと身体の奥が縮こまる。どこに手を置けばいいのか相変わらずわからなくて、集中できずに手が彷徨う。慣れた指に誘われるがまま、ロスの首に両腕を回した。
ぐっと身体が近くなって相手に剥き出しの胸を押し付けていることを思い出す。かっと顔が羞恥で赤くなったが、それよりも優しく胸を触り始めた手に身体が強張った。舌が離れて唇にキスが落ちる。恐る恐る目を開くと滅多に笑わない口角が上がっていて、恥ずかしさに目を逸らす。
「っや」
褐色の肌の中淡い桃色をした双頭に触れられた瞬間、掠れた声が漏れた。かぁっと熱くなり潤んだ目尻に口付けられ、言葉が逃げていく。
「恥ずかしがり屋ですね」
耳元に吹きかけられる声に当たり前だろと喉の奥で吐き捨てた。こんな姿を見られていることが恥ずかしいのに、与えられるだろう快感が欲しくてたまらない。そう思った刹那、寝間着のズボンの中でとろりと何かが滴った。知られたくなくてぎゅっとロスに抱きつく。
虚をつかれたように動きを止めた男は、どこか笑みを抑えた様子で額に鼻に頬に唇に、ゆったりと口付けながら下っていく。ブラジェナを支えていないほうの手が、当たり前のようにズボンへと伸びてきた。とっさに止めようとした手を捕まえられ、支えを失ったブラジェナはそのまま床に頭を打ち付けた。
「いって!!」
「貴女も大概期待を裏切りませんねえ……」
呆れ声にうるっさいと噛みつきながら頭を抱える。丁度体勢も崩れたしよかったですねと、当たり前のように片手が頭の真横に降りてきて、唇が片方の胸の頂きに噛み付いた。
「あっ」
漏れた声が自分の耳に入ってきてその甘さに首を振り、びくんと伸びた両腕がロスの頭を抱える。左の乳房全体にまるでマーキングするように、ロスは唾液混じりの唇で舐めて、食む。ぴちゃぴちゃと響く音が淫靡で、頭がクラクラした。
ふと腰を這っていた指がズボンのふちに触れる。ブラジェナの右脚の太腿を挟んでいた片足が抜かれ、隣に戻ってくるが、熱が明らかに減って思わず足を絡ませようと動いていた。
「ズボン、脱がせられないですよ」
楽しんでいるとあからさまにわかる声にますます羞恥が煽られる。目を閉じながらもごもごとつぶやいた。
「狭いだろ……」
一瞬動きを止めた男に、ちらりと目を開けると綻んだ口元が見えた気がした。あっと大声を出すはずだった声は甘い嬌声に切り替わる。
「あぁっ、――だめっ!」
唐突になぞられた寝間着越しの秘部に下着の中で液体が滴った音を聞いた気がした。ぎゅっと手の中のロスの頭を抱えて胸を押し付けるが、当人はそれすらも気にせずに胸をぺろりと舐めて、ブラジェナの声を引きずり出す。ぐいっと逃げるために抵抗されて、ゆっくりと手の力を緩めると同時に、ズボンのふちから手が忍び込む。
「ロス……」
「もう濡れちゃったんですか」
鼻歌でも歌い出しそうな声音に瞬時に目まで熱くなる。ぷいっとそっぽを向くと、そのまま指はズボンを膝まで引き摺り下ろした。湿った下着がひやりと外気に触れて中の肉が震える。とっさに足を閉じようとすると、指が籠絡するために這っていき、従順な猫のように肢体が弛緩した。
ロス、とつぶやいた声にはい、と律儀に男が唇のすぐ手前で応える。笑いを抑えた低い声と同じように、節だった無骨な指はブラジェナの身体を生物としての女に作り変えていく。男の指だ、とブラジェナは思う。
秘部を隠す茂みの奥で、とろりとまたも液体が流れた。ぴくりと跳ねた足を押さえつけて、黒いレースのついた質素なショーツが脱がされる。
ぎくりと強張った身体に気がついているのだろう、鼻面に随分とらしくない可愛らしいキスをして、ロスの上体が離れていった。狭いマットレスの上を移動して、ジェナ、と呼びかけられた。
「なに……」
「狭くて悪いんですが、上半身扉に預けてもらえませんか」
扉、とはブラジェナの頭上に当たるゴンドラの壁のことだろうか。こちら側は扉にはなっていないが、同じようなものだろう。外気に触れる金属が冷気を伴っていることは知っていたが、ブラジェナはうんと返答して上体を起こした。
そのまま背中を背後の壁に身を預け、自分の間抜けな姿にようやく気がつく。こちらを見つめる視線は知っていたが、ええいままよとつぶやいて、中途半端に引っかかったままの寝間着のズボンとショーツを足から引き抜く。
「……何かいいたげですが! なに!」
視線に耐えきれずに脱いだ寝間着とショーツを膝の上で抱える。じろ、と睨むと思いの外穏やかな目がこちらを見ていた。
「いえ? ……もう、恥ずかしくはないんですか」
「恥ずかしいに決まってんだろ馬鹿! 聞くなよ!」
「その割りには大胆ですね」
ぐっと言葉に詰まる。かぁああっと火がついたように頭に向かって熱が登っていくから、まっすぐに視線を向けることができなくなって膝に頭を押し付けぼそぼそとつぶやいた。目頭が熱い。快楽が、ロス本人が与えてくれるのが嬉しくて、従順になる自分が、ひどく浅ましく思う。
「……淫乱で悪かったな」
「貴女の処女を穢したのは俺ですよ、淫乱になる隙もなかったくせに」
「でもアタシ、あんたに触られるの、すごい、好き、だし」
言葉がもどかしくなるほど出てこない。ますます膝に頭を埋めながらぼやくようにいう。
「恥ずかしい、けどさ、あんたに触られると、その、なに、気持ちいいの、本当なんだよ……? だから触って欲しいしキスして欲しいしこういうのも嬉しいし、でもなんか、それってすごいビッチみたいだろって思ったの!! そんだけ!!」
もだもだいうのが馬鹿らしくなってきて、寝間着のズボンとショーツを勢い良くロスに向かって投げつける。胸を隠すためにがばっと寝間着の上を着直して、また膝を抱えてじとりと睨む。
男はブラジェナの寝間着とショーツを頭からぶら下げた大層間抜けな姿のまま、ぴくりとも動かなかった。引かれた、とブラジェナは今更気がついた。やっぱり二十八になるまで大事に処女抱えてる方が頭がおかしいんだ、しかもそういうことをなにも知らないなんて、この歳になって!
自分が世間一般の二十八歳とはややずれていることを知っている。そもそも立場的な問題で言うのなら、ブラジェナだって成人する前に婚約者がいたっておかしくないような家柄だった。十六になると同時に結婚してたってそれほどおかしな話ではない家系なのに、実際に今生きているブラジェナ・マールズヴォルトは、二十八になっても男女間の性交渉の知識がこれっぽっちもない。
それをこんなに恥ずかしがって、好いた相手に自分の逃げてきた結果を押し付けることのほうが、よほど恥ずかしい。
ロスが今までどんな恋愛関係を作ってきたのかブラジェナはあまり知らない。いつも彼に向かって吐き出すのは、自分のことばかりだったことを今更思い当たる。
ひたすら頭を抱え始めたブラジェナの前で、ようやく男が動いた。
「貴女がいつも一瞬俺を申し訳なさそうに見ていた理由はそれですか」
低い声。
惹きつけられるように顔を上げて、いつの間にやら近くに来ていたロスの表情に目を見開く。
いつもほぼ無表情な男の口元に、柔らかな笑みが刷けていた。仕方ねえだろと囁く声は勝手に喉から漏れて、また顔が膝のほうへと逃げていく。
「わかんないもん。知らねーもん、怖いし、恥ずかしくて、なんか、こんな歳なのに、アタシ……馬鹿みてーじゃん」
「そうですね、馬鹿です。馬鹿」
伸びてきた手が髪を撫でて、顔を上げるよう促される。どうしようもなくその指に従うと、優しい表情のまま、唇に甘いキスを落とされた。
「俺は貴女がビッチでも淫乱でも構いませんよ、どちらでもないですしね」
おかしそうに掠れた声が笑った。どきりと心臓が高鳴って、ブラジェナはどうしようもなくロスの視線を、唇を追う。
「俺の手に抱かれるのが好きだというなら、おとなしく俺の腕の中で甘えてください、よがってください。経験がないからと逃げられては、なにも変わらない。違いますか」
「違く、ないけど」
「これでも一応自制してたんですけど、自制しない方がいいですか?」
楽し気に男の口角が釣り上がる。
あ、笑った。
そんな当たり前のことにブラジェナはどことなく安堵して、微かに緊張したまま問いかける。
「自制しないとどーなんの」
「さぁ。試したことはないのでわかりませんが、少なくとも貴女は実感できるんじゃないですか、知らないですけど」
「実感? 何を?」
首を傾けて疑問を重ねるが、少しだけロスはなんとも言えない顔を見せた後、唇を重ねながら拗ねたようにつぶやいた。
「貴女の欲しいものを、得ている実感を」
欲しいもの、という言葉に連鎖的に思い出したのは、緑の作業着の女に言われた言葉だ。餓えているからこそ代用品を求めてしまう、なくても構わないが、ないとさみしいもの。
ブラジェナは自分の手がするすると男の首をなぞったことに今更気がついた。あ、と思いながら指は男の首を掻き抱いて、唇を促す。
そうだ、アタシはこの唇が欲しい。この瞳が欲しい。この指が欲しくて、そしてそれは、この人が欲しいということだ。
「ねえ」
「はい?」
「欲しがって、いーの?」
情けなく震えた声にロスは当たり前でしょうと鼻で笑った。
唇が身体中に触れて、触れられたところから熱が灯る。いつも強張った声しか出なかった喉からは、聞いたことのないほど甘い声が漏れるけれど、それを浅ましいとは思わなかった。ただ気持ちが良くて、頭や胸の中に溜め込まれていた罪悪感や嫌悪感が一緒くたに溶けて行く。
さっさと衣服を脱ぎ捨てたロスは、そのままブラジェナを赤子を抱き上げるように軽々と抱え、ゆっくりと固くなった男のそれを挿入する。ブラジェナの声が掠れて、自分がめちゃくちゃに感じていることを知った。痛いのに、その圧迫感が気持ちいい。
ねだるように唇を啄ばむと、ロスは器用に舌を差し入れた。熱い痛みが誤魔化されて必死に舌を飲み込む。男の背中に指を這わせて強く抱き締める。全部、ぜんぶ、欲しい。
「ジェナ」
焦ったような声に潤んだ視線を向けると、ぽたりと男の汗が皮膚に吸い込まれて行く。
ふ、と微かにロスは笑った。今日はよく笑う。それが、ブラジェナには嬉しい。
「ときどき、あんたは俺を煽ってるように思うよ」
あ、とつぶやいた声が跳ねた。余裕のなくなった表情のままロスがブラジェナに身体を打ち付ける。とっくにブラジェナの感じる場所を知っている男は、躊躇いもなくそこばかり突いて頭の中が破裂した。
待ってと声が叫ぶけれどロスはブラジェナの頬を撫でたまま、動きを止めることはしない。ずるりと引き摺り下ろされ、唇を食べられる。唇だけじゃなく喉も、首も、身体中全部。
「食べっ、られちゃう」
ぽろんと落ちた言葉を飲み込むようにキスされて、何度も打ち付けられる熱に頭が浮かされる。噛み付いた唇を奪い合っているうちに、何もかもわからなくなった。炸裂するほど激しい目眩に背中が大袈裟なほど反り返る。
「ロス」
指を絡めて喉にまで入り込みそうな舌を吸い、浮かされたように好きと鳴きながら叫ぶ。繰り返される音は律動によって跳ね返り、甘い悲鳴を飲み込んで、ようやく沈黙が訪れた。
はぁはぁ、という犬のような吐息がふたり分、狭い場所で響く。小休止と言わんばかりに肉からその身を抜いて、ロスはいつの間にやら用意したティッシュで液体がとろける箇所を拭う。全身の筋肉が動くことを怠けていて、ブラジェナはもうされるがままだ。
やがて片付けを終えた男は当たり前のようにブラジェナの額に口付け、マットレスにふたりで横になる。中途半端に着たままの洋服のせいで、だいぶ間抜けに見えるんじゃないだろうかとブラジェナはくすりと笑った。
狭いだろとつぶやいて真っ正面からロスに抱きつくと、彼はブラジェナの髪をすきながら抱きしめ返してくれた。
「気持ちよかったですか」
「そういうこと即座に聞くあたりお前ほんと嫌」
「それはよかった」
「まだ答えてねーだろ!」
「十分答えでしょう?」
鼻面にされる口付けにむすっとしたままそっぽを向く。耳だけでなく頬すら赤くなってることを自覚しながら、指を絡める。
その様子にロスはブラジェナが握りしめた指を見て、持ち上げた。
「貴女は、指を絡めるのが好きですね」
唐突だなとなんとなく苦笑して、なんでだろうなと笑った。指を引き摺り下ろし、掠めるようにキスをして、へらりとする。ようやく相手の顔を、見ることができた。
「好き、かな。なんか、安心する」
瞬間、ロスの表情が硬直し、なにやら目の中に燻っているものが揺れた気がした。はぁ、とため息が漏れたかと思うと視線が逃げる。代わりにいつになくわかりやすく抱き寄せられて、今度はブラジェナがおろおろとし始める番だった。
「なんだよ!?」
「………そろそろ元気も出てきたんじゃないですか? 第二ラウンド行きましょうか」
もはや単音としてすら聞き取れない謎の音声を発したブラジェナの唇に噛み付いて、いそいそとロスは寝間着の中に手を忍ばせる。慌てたように逃げようとするブラジェナが本気で拒んでいるわけではないことを承知しているからだろう、がぶりと喉元に噛み付き、男はいつになく鮮やかに笑った。
「欲しいもの、全部あげますよ。だからおとなしく受け取って、ときどき返してくだされば結構です」
「アタシあんたに返せるのなんて持ってない!」
とっさに切り返した言葉をロスは鼻で笑い、鋼のような瞳がきらめいた。そっと汗の滲んだ額を撫でる指先は熱を持って、ブラジェナをかすかに震わせる。
「貴女を俺にくれるんだから、それでいいんですよ」
痺れるような甘さが目を焼いて、あんたってほんと馬鹿だよと囁いた声が、彼の唇に飲まれて消えた。