蠢動

「……コーヒー淹れようかしら」
(ぽつりと漏らした声は、机の上以外の灯りがすべて落ちている部屋の中、虚無に浮いているようだった。ここにはアドリアナ以外誰もいない)
(特務部と名乗る人間から今回の実験に関する協力要請を受けて、与えられた資料に目を落とす。また、違うかもしれない。今度こそ、彼かもしれない)
「………」
(瞼を閉じて首を振る。考えたって仕方のないことだ。まもなく23時になる。コーヒーを2人分、淹れておこう)
(理由は何であれ医療部のテリトリーに足を運ぶことは今までにも何度かあった。が、記憶の限り、研究室があるこの建物へ立ち入ったことは無く、研究班、と言われても、あまりよく知りもしない。興味が無いと言うよりは関わりが無かったと言うべきだろうが、小さな檻に捕らわれた、小さなターゲットを此処へ持って行けとのご指示である。 情報不足だ、と分かってはいても、104号室、指定されたその場所へ、足を動かす。 殆ど無意識に、足音を立てないまま。)
「……、」
(扉に掲げられた番号を、順に目で追いながら確かめる。 そうして、室内の明かりを、もし外側から見留められるなら、扉の前で目を細めるだろう。そうでないなら、片手に提げた小さな檻を一瞥した後、一方の空いている手で二度、ノックしようか。 静かな廊下に、その音は、やけに大きく、しんと響くか。)
「……ネズミを持ってきた」
(名乗る必要は、まあ、無いだろう。 扉の向こうに居る相手が、誰なのかも分からない。)
(ノックの音に気がつき、入って、と声を上げる。コーヒーは入れたてだからこそ、まだほかほかと湯気がたっていた。中に入ってくる人物に視線をやって、彼の手の中にある小さな檻を見て、笑った)
「ご苦労様。コーヒーあるからよかったら座って飲んでてちょうだい。少しだけ時間もらうわね」
(小さな檻を受け取って、コーヒーの置いてある机とは別の、灯りの消えた卓上に置く。からん、と音が鳴った)
(部屋の中から返った声は。まぎれもなく女性のものだった。 ドアノブを捻ろうとした手が強張ったのは、ほんの一瞬だ。笑みを作ろうとして引き攣りそうになったのを、扉を開くより前に、隠せたといい。)
「なんの。 ……オレにやらせるより、ネコがやった方が上手くいったろうけど」
(等と、つられた──と見せ掛ける──ように、笑って返したまでは、まだよかった。 搗ち合った双眸の青から目を逸らそうとして出来ず、手にしていた檻を手渡せればよかったのだが、この身体は目の前の彼女を勝手に恐れて思うように動かない。 彼女が檻を受け取ろうと自分へ手を伸ばすより先に、コーヒーが置かれた机の上へ、さ、っと檻を置いて、手を引っ込めた。 檻の中から、ちう、と一鳴き。)
「……、」
(彼女の手へ渡った檻を目で追いながら、ポケットへ逃げ込ませた手をコーヒーへ伸ばす。座って、と言われこそすれ、机の傍らに立ったまま。 すぐに動けるように。)
(まるで彼の緊張などに気がつかぬまま、アドリアナは小さいケースの中に閉じ込められた灰色のネズミと顔をあわせる。北から来たネズミのくせに随分丸々と肥えていた)
「猫だとダメよ、擦過傷拵えちゃうもの。うん、綺麗ね」
(満足げに笑って、黒い布をかぶせたあと、卓上の電気をつける。机の下にあったのだろう無骨な箱を取り出して、黙々と中の器具を取り出す)
「特務部のひととはときどき協力要請されてお仕事するけれど、あなたとは初めてね」
(髪を軽く結わき、手袋をする。マスクに手を伸ばしたところで、ふと青年を振り返って笑った)
「初めまして。アドリアナよ」
(囚われの身であることをネズミが理解しているのかは分からないが、布に覆われた後も忙しなく動き回っているんだろう、音だけを聞く。きっと罠が優れものだったのだ。自分はその箱を仕掛けただけで、これといって何をしたわけでは、ないし。 机の明かりが点されたのを見、その様子をぼんやりと眺めつつ、コーヒーを一口。)
「オレは普段、こういうお仕事してないからね」
(こうやって他所と協力することだって、あんまりない。と、添える。隣国へ潜入する必要があったからだろう、偶々、自分へ回ってきただけだ。淹れてくれたコーヒーが自分で淹れたものより美味しい気がした──ところで。彼女が振り返るのと、ほぼ同じタイミングで顔を向けるか。 その名を、声を覚える。 何かが脳裏を掠めた気がして、しかし、正体は掴めないまま。)
「……ストレイ。よろしく、おねーさん。 ……あのさ、」
(へら、と笑った。握手を求められなかったことに安堵したのは内心の、教わった名で呼ぶことはせず、名乗って返して。)
「上からは此処へ行くように言われただけで、そのネズミがどうなるとか詳しい話はおねーさんから聞くように言われてるんだけど」
(教えてくれる? と、僅かに首を傾いだりして。)
「特務の仕事にしては地味だものね。たまたま都合がよかったからあなたに頼んだって言ってたみたいだけど」
(そういうものかしら、と独りごちながら、マスクをつけ、注射器を手に取る。軽く黒い布を上げて、中のネズミの位置を確認し、逡巡したのちに用意していたのだろうチーズを檻の中に入れた。ネズミが食いつくのを待ってから、檻の中に指を入れてネズミを抑え、注射を打つ。ネズミは暴れることもなく、しばらく何も気付かなかったようにチーズを貪っていた)
「ストレイくんね。こちらこそよろしく」
(やがて音もなく意識を失ったネズミを確認し、檻から取り出した。明かりをつけ、ガーゼで丁寧にネズミの身体を拭い、薄いガラス板に乗せ、ピンセットで数本の毛を引き抜く。口内を確認し……と幾つかの作業を終えてから、ようやくアドリアナは顔を上げた)
「基本的にはどんなウイルスをシャデリアに持ち込んだのか、溜め込んでいた器官の確認と、媒介するものが糞尿とダニ以外に何かあるのか確認するわ。それとそのウイルスの抗体薬作りね。
悪いけど今後も一緒に経過を診てもらうことになると思うから、次ネズミを連れてくるときはそのつもりで来てちょうだい。確か次は三週間後? だったはずだけど」
「都合、ね。 ……特務部って派手な仕事だと思ってる?」
(お偉様の言い回しに納得がいかないわけでもない。そも、この仕事を断る理由はこれと言って無かったし、向こうの軍服などの用意もある。便利な言葉だなとは内心の、彼女が作業する様子を眺めながら。どうやら殺すわけではないらしい、とか、その程度の知識。)
「成る程な、そいつは研究班のお仕事だ」
(軽く頷いた。作業する間、彼女の背中に極力、声を掛けなかったのは、自分が作業中に同じことをされたら嫌だなと感じたからだ。彼女はどうだか分からないが、気が散るし、無駄吠えはするなと教え込まれている。 コーヒーを啜り、座ってと言われた椅子ではなく机に腰掛けるようにしながら、)
「……診てもらうって言ってもオレ、おねーさんの仕事の分野はよく分かんないけど。 確認しておくよ、」
(彼女から告げられた「次回」に小さく笑う。中央に足を運ぶ理由が仕事として貰えるのは有難い話だった。此処が一応の古巣だ。自分の居場所はもうそこには無いが、地方よりも調べ物が捗る。そっと机を離れ、飲み終えたコーヒーを片そうか、と。)
「派手にやらかしたらそれこそ大目玉じゃないの? 特務部って」
(眠るネズミを確認してからストレイにこちらに近づくよう促す)
「感染してるネズミは特徴として、全体的に毛並みが悪く、髭が縮れてるの。皮膚の一部が青タンのように濃くなってる場合もあるわ。捕まえるときに教えられたかもしれないけど。この子は初期段階ね」
(いいながらいくつかの部位を指し、続ける)
「三週間後にもう一度来てと言ったのは、この子の症状が進むからよ。初期段階からは三週間で進行して死ぬと見られてる。とりあえずこの子は様子見ね。次は3匹くらい連れてきてくれると助かるわ」
(ストレイが見ているかどうかをちらと確認し、檻の中にネズミを入れて、黒い布で再び覆う。いくつかの器具をしまったところで、ようやくマスクと頭巾を外した。そしてストレイを振り向いて明るく笑った)
「ところであなた、特務部に入って何年くらい経つの?」
「陽の目を見ないのが普通だけど、態と派手にやらかす時もあるって話」
(オレはやらないけど、と続けたところで促され、ごく軽く目を瞠ったろうか。拒否、してしまうのは簡単だが、不自然だろう。隠す必要は無いのかも知れないが、弱みを晒す、というのは。どうにも。 机を離れ、それでも彼女のやや斜め後ろから覗き込むように。不自然過ぎない程度には、空白を作って。)
「……特徴があって、見れば分かるだろってさ。こうやって教えて貰わなきゃ、多分ちゃんとは分からなかったと思うけど」
(検体に過ぎないその小さな命を「この子」と呼ぶくらいには、彼女は心優しいのだろうと思うだけだ。彼女の説明と次回の仕事内容を覚えながら、後片付けを始めたのに合わせて半歩下がる。 振り返った青と搗ち合った金が、ぱち、と瞬いてから、)
「特務部に訊く? ……18からずっと。5年以上。……おねーさんは?」
(と、笑んで訊き返してみたり。)
「陽動とかミスリードを誘うためにかしら? 頭も必要ね」
(姉にそんなものがあったとは思えないが。などと故人を思い浮かべながら、ストレイが作った空間にはまるで気づかぬまま)
「仕方ないわよね。特務にしては珍しい案件だろうし。開発部からも資金援助がきてるからたんまり使えるわ」
(ラッキーね、と笑い、18からという数字に簡単に驚きをあらわにした)
「あらじゃああなた、わたしよりずっとずっと先輩なのね。ごめんなさい。わたしは2年前に入隊したばかりだから、どうにもまだ慣れなくて」
(苦笑ひとつ、漏らして肩をすくめる。くるりとストレイに向き直り、にっこり笑って指を立てて振った)
「三週間後、ネズミを受け取って、その後抗体薬と並行して進行または激化するウイルスを作ることになるわ。次の次からはマスクと頭巾と研究服の着用、よろしくね?
最終的にはこのウイルスで亡くなった遺体の回収もお願いすることになると思うから、遺体に触れたものは逐一消毒と焼却を忘れずに。しつこいかもしれないけどその都度忠告させてもらうわ。あなたが感染したら元も子もないですし」
「スパイ活動とかしている人はマズいだろうけど、撹乱とかは目立ってなんぼみたいなところ、あるし」
(暗殺なんてものに特化してしまうと、日の目が届く場所で一暴れするなんて真似はとてもじゃないが出来そうにない。 頭も、と言う彼女へ軽く首肯し、此方も、彼女が思い浮かべた誰かのことになんて気付けやしない。)
「物知りの多い部署だとは思うけどね、オレはあんまり賢い方じゃない。 ……へえ? そりゃ意外。と言うか、それだけ期待されてるってことか」
(資金援助がある。それも、たんまり使えるほどの。彼女がそう言って笑うのに対し、意外だ、と言ったのは本音に等しかった。実際にどれほどの額がこの任務に投資されているのかは分からないが、それこそ地味なところに流れているのだなと思う。 回せるほどの余裕がある、ということなのだろうが。 続く言には、ああ、と、何か、腑に落ちた、ような。)
「どうりで。 軍人らしくないなと思ったんだ、……何となくだけど。 先輩とかそういうの気にしないでいいから。おねーさんの喋りやすいようにしてくれれば、それで」
(らしくない、なんて言いこそすれ、良くも悪くも、と思う。軍という組織に組み込まれた歯車であることに受け容れてしまうよりは、不慣れなままで居た方が、と、思わなくもない。 向き直った際、ひらと揺れた白衣の裾を一瞥しては。 笑みを深めて言う彼女へ、数度頷きつつ。)
「……了解、了解。 用意してもらうように伝える。変な顔されそうだけど仕事だって言えば出るだろうし、おねーさんが忠告してくれるんなら感染も、きっとしない」
(言いつけはちゃんと守ります。なんて。)
(それはそうね、などとシンプルに応え、軽やかに笑う)
「自分を賢いなんていうのは愚か者よ、ワカモノ」
(ポケットに手をやって、手持ち無沙汰に中のクリップをカチカチと鳴らす。資金援助が潤沢ならば、アドリアナは迷わず豪快に使い切らんばかりに、どしどし使う。その結果がどうなるかは、自明の理だ)
「このウイルスがうまく激化したら、立派な生体兵器ですもの。開発部だって余念がないわ」
(らしくないの言葉に肩をすくめ、好きでなったんじゃないわと心の中でつぶやく。声はきっと漏れてはいないだろう)
「偉いわ。頼みにしてるわよ、ストレイ青年」
(茶目っ気たっぷりにウインクし、自身のコーヒーカップを手に取り一息ついてから、彼の手の中のものに気がついて、受け取ろうと空いている手を差し出した)
「っはは、覚えておきます」
(いくつ年上かは分からないし、訊かないが、彼女の方が恐らく自分よりいくつか年上だろうと思うだけに留まる。能ある鷹は何とやらと言うが、知恵にしろ何にしろ、ひけらかすものではないだろうし、自信があるのは悪いことでは、ないだろうけれども。)
「ネズミなんか捕まえて何にするのかと思えば、思ったより責任は重大らしい」
(等と、態とらしく小さな溜息とともに。重大ではない責任なんてそう無いだろうけれども。彼女の心の声が、此方の耳に届くなんてこともなく、ウィンクにつられるようにして、へら、と笑って見せた。までは、よかったのだが、)
「──、」
(ほんの数秒、差し出されたその手の意味に気付き、軽く瞠目する。片付数に持ったままのカップを、だろうと分かる、分かるのだが、こんなことにさえ得体の知れない恐れと緊張に、一瞬、強張った。 ここで彼女の厚意を無下にしてしまうのは逆に不自然だろう、どうか触れるなとは内心の、差し出したカップに引っ掛けた指の震えにすら気付けない。)
「そうよ、重要なのよ? だから自分の身体の異変にも気を使ってちょうだいね。冬になるとシャデリアもかなり気温が落ち込むって聞くし。温かいものいっぱい食べてね」
(朗らかに笑う。差し出されたカップを持つ手が震えていることには、気がつかないようで、触れることなくカップを受け取った)
「あとは片付けておくから大丈夫よ。夜遅くにお疲れ様。またよろしくね、ストレイくん」
(カップをふたつ手に持ったまま、にっこりとストレイを見ている。彼が立ち去るまでそこから動くことはないのだろうと、明らかな意思を感じるかもしれない。そこに、違和感を覚えるかどうかは、彼次第)
「身体は丈夫なつもりだけどね、気ぃ抜かずに頑張ります。 ……冬のシャデリアには何度か行ったことあるし、一応慣れてるよ」
(確かに温かいものが食べたくなる寒さだったと思い出す。何より吐く息が白くなるのが嫌だった。気配を殺しながら行動しても、自分がそこに居るのだと教えるようなもので。 気遣ってくれる優しい言葉に母親めいたものを感じたか、どうか。触れることなく、気付かれることなくカップが彼女の手に渡ったことに、今日一番の緊張を解く。その手はすぐにポケットへ引っ込んだ。)
「おねーさんこそ。 三週間後に、また」
(ごく軽い会釈と笑みで返した、直後。 ふ、と、表情には出さなかったが、問う、にしても彼女には後片付けをするという理由がある。あるのだが、気の所為にしてしまうには明らかな、違和。)
「……ちょっと楽しみにしてる」
(得体の知れないそれに手を伸ばすことは出来ても、後先考えずに触れることも、ましてや自分にとっては触れること自体が困難である。 感じた違和が相手に伝わらないうちに踵を返し、何でも無いように扉から部屋を出ていくだろう。扉を閉め切るより前に、)
「コーヒー、ごちそうさま。……美味しかったよ」
(扉から腕だけを覗かせ、ひらひらと。そうして扉は音もなく閉まり、向こう側から遠ざかる足音も無く、一人彼女だけを残して。)
(青年が立ち去った部屋、コーヒーカップをふたつ机の上に置いて、必死に堪えていた大きなため息を吐く。苦々しい顔で笑って、一言)
「ストレイ、ね」
(姉さん、あなたの相棒の名前は?)
「………」
(心の声に誰も応えるはずもなく、アドリアナは再びカップを手に取ると、その部屋を立ち去った。静まり返った部屋の片隅、黒い布の下、ネズミの吐息だけが残されていた)